4-3
翌日、食堂で鉢合わせたルグレイはラカリスの手に巻かれた包帯を見つけて眉をひそめた。ラカリスを隅の方へ追いやり「どうしたんだ」と聞くその表情は険しく、心配をしているといった風ではない。むしろ何をやっているんだお前はと責め立てるようなそれに、ラカリスはじろりと睨んで返した。
「ちょっと、転んだだけ」
隅の方とはいえ一応人目のある場所なので、言葉は選ぶ。ルグレイもまたこの場所では追及出来ないと思ったのか、あるいは追及する気は無いのかそれ以上問い詰めることはしない。しかし変わらず険しい表情でラカリスを見下ろすと不機嫌そうに口を開いた。
「俺のいないところで、勝手に転ぶな」
その言葉にラカリスが思わず「は?」と言うと、包帯の巻かれた方の手を掴まれぐいと引き寄せられる。ラカリスが小さく呻いて痛みを訴え、次いで何しやがると睨み付けたルグレイの瞳は獰猛な光を放ち、ラカリスの目をじっと見据えていた。
「そういう顔は、俺の前でだけしていればいい」
高圧的に言われラカリスはその目を睨み返し、そしてあることが頭をよぎるとわずかに表情を変えた。この男の目が見ているのもまた、ウノハなのだ。自分ではない。ハクジはこいつが楽しんでいると言ったが、この可憐な見た目の少女が抵抗するから面白いのだろう。”そういう顔”だって、この体のそれで……。
そう思えばなぜだかいつもより腹立たしく感じる気がして、ラカリスはルグレイの足を思い切り踏みつけた。ルグレイから「だっ」と声が漏れ、次いで何しやがると睨み付けてきたその顔に向ってラカリスはふんと鼻を鳴らしてやるのだった。
今となってはこの見た目であっても自分を自分と認識しているのはルームメイトであるロクロイと、たった今目の前でこちらに書類を差し出しているこの双子の弟だけだな……。
そんな考えが頭をよぎるのを自覚しつつ、ラカリスはグラアスの手から書類をぶんどるように受け取った。こちらを見るグラアスの表情は相変わらず怯えたようで、しかしそれが今は有難いことのように思えるのだから皮肉なものである。そう思ってラカリスがはあとついたため息をどう思ったのか、グラアスはぴくりと肩を震わせるとそそくさと生徒会室を出ていくのだった。
ラカリスの向かいでその背中を見送ったルグレイがつぶやく。
「グラアスは相変わらずだな」
ラカリスとウノハが入れ替わって数日が経つが、未だラカリスを前にしたグラアスの挙動不審は治らない。もちろんたった数日で心もちが変わるはずもないのだが、今のラカリスは見た目がウノハなのである。この弱弱しく可憐な少女を前にして何が怖いものか。
いや、それほどグラアスのラカリスへの恐怖は根が深いものなのだろう。始めこそからかって遊んでしまったが、そう推し量ればルグレイはグラアスに同情した。今もルグレイの言葉にまったく関心を示そうとしないラカリスを見れば、その同情は尚更深くなるというものだ。
「グラアスの何をそんなに嫌ってるっていうんだ」
「あんたには関係……」
言いかけて、ラカリスは言葉を止めた。ルグレイが不審そうに眉をひそめると、ラカリスはその目をじろりと睨む。
「同じ嫌われ者同士、あいつに同情してるってわけ?」
その言葉にルグレイはわずかに目を見開いた。しかしすぐに察したような様子を見せると小さく息をつく。
「ハクジが喋ったか?」
「本人に会った」
そう言えばルグレイはそれが想定外の答えだったようで、驚いたような顔を見せる。その顔は多少愉快で、ラカリスは畳み掛けるように言葉を続けた。
「弟のことが嫌いだって、すぐにわかる顔してた」
「……似た者同士、分かるってわけか」
そう言い返すルグレイの言葉にはいつものような覇気や自信はない。ルグレイは大きくため息をつくと、ソファにもたれかかった。ラカリスからは目をそらし、その表情は弱弱しい。
「お前の言うとおりだ、……俺も兄さんに嫌われてる、だからグラアスに同情してるってわけだ。まあ、俺は兄さんに怯えたりはしないが……」
ラカリスはそんなルグレイの表情を目の前にして、少しだけ戸惑っていた。そのすましたツラに一泡吹かせてやろうと、そういう気持ちで言った一言だったのだがいざそうしてみるとルグレイは思っていた以上の反応を見せる。そしてそれは、思っていたよりも愉快なものではなかった。
「俺は兄さんに嫌われているが、兄さんが嫌いなわけじゃない。グラアスも、お前に嫌われててもお前の事が嫌いなわけじゃないんだろう。だから怯えるだけで何も言わない、いや、言えないか」
いや、愁い顔でそう言うその姿は愉快ではないどころではない。むしろはっきりと不愉快と言えるもので、それはラカリスにとって見覚えのあるものだった。
「なにせ、自分は嫌われて当然のことをしてると思ってるんだ。そう思えば俺に兄さんを責める資格は無い」
その言葉にラカリスはああとその既視感を理解して、表情を変えた。
「……一つ、忠告してやろうか」
ラカリスがそう言った声にルグレイが顔を上げると、ラカリスはいつもに増して不快感を露わにした表情をしていた。
「そういうのがむかつくんだよ!」
その表情に戸惑う間もなくそう怒鳴りつけられ、ルグレイは目を見開いた。ついでに口も少し開いたその顔は「間抜け」と言って鼻で笑うのにふさわしい表情だが、険しい顔でルグレイを睨み付けるラカリスにそれを愉快だと思う気持ちは無い。あるのは過去の苦い思い出、それから、憎悪。
「嫌われて当然だとか、兄さんを責める資格は無いとか、あんた何いい子ぶってんの? それとも同情してるつもり? 何をしたって認められなくて、ただの結婚の道具としか思われてない、可哀そうで、惨めな存在だって。ふざけんなよ、自分が惨めかどうかは自分で決める、そっちが勝手に決めてんじゃねえよ!」
勢いよく言い放った言葉は生徒会室に響き渡って反響した。
目の前には目を丸くしてこちらを見ているルグレイ。ラカリスはやはりその表情を笑い飛ばすことも無くしばし睨み付け、やがて勢いよく立ち上がると生徒会室を出ていく。ルグレイはその背中を引き留めることも追うことも無く、ただ声も出せずに見送ることしか出来なかった。
ぎゅるぎゅると音を立てた腹部に手を当てて、ラカリスはため息をついた。
あの後寮の部屋に戻りベッドに横たわったラカリスは、自己嫌悪に陥っていた。自分を見失って、言わなくてもいいことまで言ってしまったのだ。しかもそれは自分の弱み。
いや、あいつが悪い。いい子ぶったことを言いやがるから。……それも幼いころのグラアスを思い出す顔で。そう思うと、自分でも止められなかったのだ。
惨めだと思われるのは、何よりも屈辱だった。
だから周囲を睨み付けて虚勢を張るように生きてきたのだ。それなのにあの忌々しい弟はラカリスを憐み、慈悲の言葉までかけてきた。
ラカリスは俺を嫌いでも、俺はラカリスを嫌いじゃない。だって俺はラカリスに嫌われて当然のことをしてるから。俺にはラカリスを責める資格は、無いから。
嫌っている弟からそう言われる、それ以上の屈辱は無い。言われたラカリスは感情のままにグラアスを怒鳴りつけ、その結果があの怯えた態度だ。本当に、あの愚かな弟はどうしようもない。ああ違う、どうしてあの弟のことでこうも思い悩まなければいけないというのか。そうだ、それもこれもグラアスと同じ顔で、同じことを言ったあの野郎のせいだ……。
そうしてどうしようもない感情に苦しんでいるうちに、ラカリスは夕食を食べ損ねてしまったのだった。
ラカリスが手を当てた腹部がまたぎゅるると鳴った。そういえばこの体はやけに腹が減る。しかしいまいち食欲が湧かない。あの店の特別なコーヒーすら飲む気がしない……とラカリスがごろりと寝返りを打ったその時、コンコンと扉を叩く音がした。その音にラカリスが扉を見やると、扉は返事を待たずして開かれる。そんなことをする訪問者は二人しかいない。そして今、殊勝にも扉をノックするのは一人しかいないだろう。
ラカリスは扉を開いて入ってきた不躾な訪問者に背を向けるように再びベッドの上で寝返りを打つ。それは「お前と話すことは何もない」という無言の訴えにもとれた。
「パンツが見えてるぞ」
しかし直後に聞こえたルグレイの言葉に、ラカリスは素早く上半身を起こすと同時にスカートを両手で叩き込んだ。ばふ、と空気の音がしてスカートのすそが膨らむ。ラカリスがじろりと睨むと、ルグレイはうつむいて肩を震わせていた。どうしたと聞くまでも無い、この野郎、笑っているのだ。チッと大きな舌打ちを鳴らして抗議するとルグレイは顔を上げ、喉の奥をくつくつと鳴らして笑いながら近寄ってきてベッドの縁にぼふと腰掛けた。ラカリスが迷惑そうな視線を向けるが、無視だ。
「ほらこれ、夕飯食ってないんだろ」
そう言ってルグレイが差し出したのは手に持っていた大き目のバスケット。ふわりとパンの匂いがして、それだけで中身は容易に推測できた。ラカリスは始めためらうが、その匂いを嗅いだ途端に湧いてきた食欲には勝てない。ルグレイの手からバスケットを受け取ると、中身のサンドイッチをひとつつまんでかぶりつく。
何をしにきたとは聞いてやるまい、なにせこちらは話すことなど何も無いのだ。しかしルグレイはラカリスのそんな態度を気にしたようでも無くサンドイッチを飲み下す横顔を一瞥すると、口を開いた。
「今から話すのは、でかい独り言だと思って聞き流してくれていい」
ルグレイがそう言ったのを、ラカリスは視線すら寄越さずに聞いていた。
「俺と兄さんは双子だが、家を継ぐのはどちらか一人で、それは、生まれた時から決まってる。チャコールの当主は代々白の力を持つ人間だ……祖父や父の常套句だ」
ルグレイはつまり家を継ぐのは自分だとは言わなかったが、ラカリスは聞いた言葉でそれを理解した。
「それでも幼いころはお互い家を継ぐなんてどういうことかわかっていないから、俺は無邪気に兄さんを頼ったし、兄さんもそういう俺の世話を焼いてくれていた。だが次第にお互い周囲の態度の差に気が付き始めると、そんな関係は続かない」
聞きながら、ラカリスの脳裏にはグラアスの姿がよぎる。幼いころの、自分を追いかけてくる必死な顔。無邪気な、顔。そしてラカリスが怒鳴りつけた時の、怯えた顔。
「ないがしろにされる兄さんを目の前にしていながら、俺は何もしなかった。……俺に、祖父や父に反抗する勇気は無い、兄さんに嫌われて、当然だ」
ふうと息をつく音が聞こえ、それきりルグレイの声が途絶えてしまう。不審に思いラカリスがちらりとその横顔を見やると、ルグレイは項垂れていた。ラカリスが何も言わずにいると、やがてぽつりとつぶやく声が聞こえる。
「……でも、本当は、俺だって兄さんが嫌いだ」
絞り出すような声で言ったそれは確かに言葉通りの感情が込められているのが分かり、ラカリスはわずかに目を見開いた。ルグレイはそれには気が付かないのか、項垂れたまま己の兄への恨み辛みを続ける。
「褒められるのも俺だけなら、叱られるのも俺だけだ。兄さんは何も言われないくせに、兄さんは、俺と違って自由なくせに。……俺の気持ちなんか、兄さんは、知らないくせに、俺を嫌う兄さんが、俺だって嫌いだ」
そう吐き捨てるとルグレイは大きく息を吐きながら体を後ろへ倒し、そのままベッドに倒れこんだ。ぼふんとベッドが揺れてラカリスの体が上下した。倒れこんだルグレイの顔を見下ろすと、驚いたことに笑っている。いつもの人を馬鹿にした笑い方ではない。毒の抜けたような顔で天井を仰ぎ、ははと声を上げて笑っているのだ。
「ふ、はは……はあ、……ああ、なんだか、すっきりした」
そうしてひとしきり笑い終えたルグレイのそう言った表情はやはりいつもの人を馬鹿にしたようなそれでも、先ほどまでのグラアスに似たそれでもない。言葉通りの感情が見えるその表情を、ラカリスは黙って見下ろしていた。と思うとルグレイが顔を傾けてこちらを見上げ、その瞳と目が合う。
「ラカリス」
目をそらす間も無く名前を呼ばれて、ラカリスは小さく息をのんだ。ルグレイはラカリスの反応をからかうでもなくただじっとその目を見つめて、小さく口を開いた。
「お前のおかげだ」
短いそれは感謝の言葉で、一拍遅れてそれを理解したラカリスはこみあげる恥ずかしさに気が付いて唇を噛んだ。
「グラアスも、本当はお前が嫌いなんだろうな」
次いで慰めるような言葉までかけられ、ラカリスはたまりかねて「うっさい」と言い返すとルグレイの無防備な腹部をべしと叩いた。
「あいつにそんな度胸無い」
「いいや、あるだろ。他でもないお前の双子だぞ」
「……それ喧嘩売ってる?」
「さあな」
いつの間にやらいつもの調子を取り戻しくつくつと笑うルグレイをじろりと見下ろし、ラカリスはもう一度無防備な腹部目がけて手を振り下ろした。べちんと無様な音を立てたそれは実のところ恥ずかしさをごまかすための八つ当たりだ。
名前を呼ばれ、感謝の言葉まで述べられて思わずドキとしたなどと認めてたまるか……。
唇を噛みしめ再度じろりと睨み付ければ、それがばれているのかルグレイはやはりくつくつと笑うだけなのだった。
「じゃ、そろそろ帰るか」
「え、帰るの?」
言ってからしまったと思うが、遅かった。ベッドから立ち上がったルグレイはラカリスを振り返り、にんまりと口角を上げる。その顔のなんと不快な事か。ラカリスが思い切り顔をしかめるが相変わらずそれを楽しんでいるかのようにルグレイはにまにまと笑ったままだった。
「帰って欲しくないのか?」
「図々しいあんたがあっさり帰るとか言うから、驚いただけ」
「まあ俺も帰りたくないのは山々なんだがな、生徒会長と言えども女子寮に泊まることは許可されていないから仕方ない」
「聞いてんのか」
ラカリスの渾身の睨みも全く気にせずにそう言ったルグレイはラカリスの方へ体を向けると、その顔を見下ろした。相変わらずじろりと睨んでくるその顔には愛想一つない。それなのにそれが癇に障ることはもう無かった。――相変わらず、泣かしてやりたいとは思う顔だが――
ルグレイはゆっくりと手を伸ばすと、その雪のように白い髪をくしゃりと掴んだ。ウノハの白い髪はふわふわとしていて触った心地がいい。しかしルグレイが考えていたのはそんなことでも、触った心地がハクジのものに似ているなということでもなかった。
保健室で一度見ただけのラカリスを思い出して、あの黒い髪の触った心地はどんなものかと考えていたのだ。鴉の羽のように艶のある黒い髪。これとは違ってクセのない真っ直ぐな髪だった。もっと指通りが良くて、指の間をサラサラの髪が通り抜けるのは心地良いだろう……。
「ちょっと!」
と、手を弾かれた。
「さっさと帰れよ」
そう見上げるのはウノハの顔。現実に引き戻されたような気がして、ルグレイは小さくため息をついた。ラカリスがぐっと眉間のしわを増やして「何」と言うが、ルグレイは「なんでもない」とごまかして背を向けるとそのまま部屋を出ていくのだった。
……まあ、わずかに頬を赤らめていたのを見られたからいいか、とルグレイが内心でつぶやいていたことをラカリスは知る由も無い。