2-3
まるで雲の上にいるようにふわふわとするまどろみの中、頬に何かが優しく触れた感覚にラカリスは薄目を開けた。
次いで襲った頬の痛みにラカリスの口から思わず「いだっ」と声が出て、ばちりと目が開かれれる。そうしてラカリスがばっちりと開いたその目で見たのは、ベッドの縁に座ってこちらを見下ろすルグレイだった。
「よう、起きたか」
カーテンの隙間から差す薄日を受けてルグレイの濃灰色の髪はやわらかく光り、いたずら気に笑った墨色の瞳がラカリスを見下ろしている。口元には柔らかな笑みを携えたその表情はまるで愛しいパートナーを見下ろすそれで、その瞳に見つめられてラカリスはとくんと胸を鳴らす――
「……出てけよ、殺すぞ」
ことはやはり、まったく無く。ベッドに横たわったまま思い切り顔をしかめると、言葉通りの殺意を込めた視線でこちらを見下ろすルグレイをじろりと睨んだ。
だいぶ過激な朝の挨拶だが、決してやり過ぎだとは思うまい。なにせ愉快そうにこちらを見下ろすこの男は、心地よいまどろみの中にいたラカリスの頬をぐにいとつねって乱暴に雲の上から引きずり落とした犯人なのだ。いたずら気な瞳も口元の笑みも、こちらの様子を面白がっているのが明らかである。だいたい部屋にはきちんと内側から鍵をかけていたはず。なにを涼しい顔でベッドの縁からこちらを見下ろしていやがるのか……。
ラカリスが忌々しげに睨む一方でその犯人……ルグレイはいきなりの過激な暴言にも動じた様子は無く、むしろははと軽やかな笑い声まで飛び出す始末。その反応を予想していたのか、ラカリスはこれ以上は疲れるだけだとばかりにはあと息をついて目をそらすと、のたりのたりとベッドの上で体を起こした。ルグレイがそれを待ってから口を開く。
「第一声がそれか、やっぱりどうしようもないなお前は」
「……出てけっつってんだろ」
「用も無いのに来たりはしない、ハクジの代わりにお前を朝食に誘ってやろうと思ってな」
「いらんわ、着替えんだから出てけよ」
「お前の体じゃないんだから気にすることないだろう」
「そういう問題じゃねえよ出てけ殺すぞ」
ラカリスがベッドから降りて洗面所との間を往復する間にも三度の「出てけ」が飛び出し二度目の「殺すぞ」が飛び出る。それに対してルグレイもやはり動じることなく、それどころかたまりかねて再びルグレイを睨み付けたラカリスの顔を見て「ぶふっ」と噴き出した。
「くく、ひでえ顔」
その一言についに我慢の限界を迎えたラカリスが盛大に舌打ちをして「いいから出てけ!」と吠えたことで、ルグレイはくつくつと笑いながらもようやく重い腰を上げて部屋を出ていくのだった。
そうして扉の閉まる音を聞き、やっと出ていった……と息をついたのも束の間、直後にドアノブを回す音がしたと思うとわずかに開いた隙間からルグレイが顔を出していて
「その寝癖、しっかり直しておけよ。隣を歩く俺が恥ずかしいからな」
と言うので、ラカリスは瞬時に枕を掴むとその顔に向かって思い切り投げつけてやる。しかしその動きを覚ったルグレイが即座に扉を閉めたので、枕はバンと扉にぶつかって落ちただけだった。
ひしゃげた枕を忌々しげに睨み付けるラカリスの頭には、直したはずの寝癖がぴょんと跳ねていた。
最悪の始まりをした日は何をしても最悪で、午前の授業を終えたその足でラカリスが向かっていたのは黒と白の校舎を結ぶ場所にある保健室だった。
「こういうことは先に言っておけよ」
ノックも無しに扉を開き、ソファに寝転び本を読んでくつろいでいたネブドロに詰め寄るやいなやラカリスはそう吐き捨てた。
突然のラカリスの訪問に驚いた様子は無く、むしろ笑いをこらえている様なネブドロは恐らく”こういうこと”の中身を察しているのだろう、相変わらず腹の立つ……。更には「何がだ?」ととぼけてみせてくるのだから尚更である。しかしこの男のそういうところにいちいち苛立っていてはキリが無い。ここ数日でそう思い知っているラカリスはふうと息をつくと努めて冷静に口を開いた。
「こいつの力はいったい何なの、コントロール出来なくてとんだ大恥かいたんだけど」
「……は?」
ラカリスがそう言った途端、ネブドロの顔からたちまち笑みが無くなった。目を見開き口まで開けて間抜けな声を出したそれは、驚きの表情だ。この期に及んでとぼけようとしているのかとラカリスが眉をひそめるが、よく見るとどうやら違うらしい。間抜けな顔を晒して、本気で驚いているようだ。
「……コントロール云々ってのは、つまり、魔法が使えるってことか?」
次いでいつになく真剣味を帯びた声でそう問われると、ラカリスも思わずネブドロの顔に見入って「そうだけど……」と返すことしかできない。ネブドロは体を起こしつつ何かを考えるように唸ると、やはり笑みの無いまま「とりあえずそっち座れ」とラカリスに向かいのソファに座るよう促した。そんなネブドロを不審がりつつも、ラカリスは何も言わずにその通りにする。それを見届け、ネブドロは少しの間考え込むように目を伏せるとやがて静かにその口を開いた。
「少なくとも俺のところに来てから、ウノハは一度も魔法を使えたことはない」
ネブドロの言葉にラカリスはわずかに目を見開いた。それは、今自分の言った文句とは明らかに矛盾している。しかもネブドロの言うことには単に使おうとしなかったわけではなく、使おうとはしたのだが使えなかったということらしい。なるほどそれがネブドロが間抜けな顔で驚いた理由かと理解すれば、すぐさま納得が出来た。
「だから俺は、お前がウノハが魔法を使えないなんて聞いてないって文句を言いに来たと思ったんだ」
「……どっちにしろ、そういうことは先に言っておけよ」
とはいえまったくいつもの様子とは違う調子で話すネブドロに返す言葉が見つからず、苦し紛れにそう言えばネブドロは小さく「悪かったな」と言うのだった。
「で、具体的にどうコントロール出来なかったんだ?」
次いでそう聞くネブドロに、ラカリスは授業での出来事をかいつまんで話して聞かせた。
午前の最後の授業は、いよいよと言おうか、魔法の実践だった。課題は、重たい陶器の花瓶を風で浮かせること。次々と生徒が重たい陶器の花瓶をわずかに浮かせていく中、ラカリスの番が回ってきた。
教科書で読んだ通りに、空気の流れを感じ取るために意識を集中させる。実践するのは初めてだったが周囲の空気が渦を巻くように動いているのが感じ取れた。そこから更に集中を深め、生み出したい力をイメージしていく。
「その瞬間、教室中に暴風が吹き荒れて大騒ぎ。ついでに花瓶が天井まで吹き上げられたと思えば風がやんで、教室の床にまっさかさま」
女どもはきゃあきゃあうるさいし教師からも変な目で見られるし最悪、とラカリスが愚痴をこぼせばネブドロはふむと考え込む仕草を見せ、
「ちょっと見せてみろよ、そうだなあ、授業と同じ風でいいか、この本を浮かせるイメージで」
と言って机に置いた本をぺしぺしと叩く。ラカリスは何言ってんだコントロール出来ないっつっただろ話聞いてたのかてめえとばかりに睨み付けるが、ネブドロが「実際見てみないことにはどうとも言えねえからな」と催促するので仕方なく言うとおりにするのだった。
机の上の本に目標を定めると、意識を集中させる。空気が渦を巻き、そうして風の力をイメージする……。
「わっ!」
「おわ!」
ぶわり、と下から巻き上げるような突風が吹いてラカリスとネブドロを襲った。思わず悲鳴を上げて顔を腕で覆った二人の目の前で、机の上にあった本が高く舞い上がり頭上を飛んだ。ベッドのカーテンが激しくはためき、薬棚のガラスがガタガタと揺れる。
数秒してようやく風がやんだと思うと、ばさりと音がした。顔を覆っていた腕をゆっくり下げ、音のした方を見ればついさっきまで机の上にあったはずの本が床に落ちている。そして保健室を見回すように視線を巡らせれば、そこは嵐の後だった。
「こりゃ、まあ、派手にやってくれたなあ」
「……あんたがやれって言ったんだろ」
ラカリスが言い返すと、ネブドロは「違いない」と言って笑う。久しぶりに聞いたその笑い声はいつもの調子を取り戻しているように聞こえて、ラカリスは遠慮なくじろりと睨み付けた。ネブドロはその視線をははっと笑い飛ばして、ソファから立ち上がると床に散らかった毛布を掴んで持ち上げる。
「まあ人格が入れ替わるなんてとんでもないことが起きてるんだ、魔法が使えなかったウノハが魔法を使えるようになったって不思議じゃないのかもな」
それからラカリスの方を振り返り「片付けるのは手伝ってくれよ」と言うネブドロに、ラカリスはふんと鼻を鳴らして答えてやってからゆっくりとソファから立ち上がるのだった。
学年の違うルグレイとラカリスが顔を合わせる危険性のある時間と言えば朝食や昼食の時間帯ぐらいであろう。ルグレイはそのどちらをも平然と侵してきた。ついでに言えば寮から校舎へと向かう登校の時間帯も、だ。
誰もが振り返る美貌を持つ男の隣を歩くことが出来て何が最悪かと人は言うかもしれないが、ラカリスにとっては誰もが振り返るから最悪なのである。振り返る人間の全てが一度ルグレイに恍惚と見惚れた後、じろりとラカリスの方を睨むのだ。その視線にはなぜお前が……という嫉妬の意志が込められていて、その煩わしさといったら強気なラカリスでも気が滅入ってしまう程である。更には睨まれるこの体は自分の体ではないのだから尚更というもの。
それもこれも涼しい顔して隣を歩くこの男のせいだ……と、放課後になった今、その時間をも平然と侵してくるルグレイの隣を歩きながらその顔をじろりと睨めば、ふんという笑い声が返ってきた。ラカリスは小さく舌打ちをすると、ふらついた風を装ってルグレイの足を思い切り踏んづけてやる。「あっ」とわざとらしい一声も忘れない。
ルグレイの顔が一瞬痛みに歪み、忌々しげにラカリスを睨む。その顔にラカリスは満足げにほくそ笑むのだった。
そうして今日もたどり着いた生徒会室でラカリスが取り掛かったのは、上質なテーブルに散らばる書類の後片付けだった。なぜだか日付も種類もバラバラで散らばっているそれを、もともと入っていたらしいファイルにそれぞれ分けていく。
「つーかあんたさあ、どうやったらこうも書類を散らかせるわけ?」
「……うるさいな、黙って手を動かせ」
「誰が散らかしたの片付けてやってると思ってんだよ」
「半分はウノハが何もないところで転んでぶちまけたものだ」
「半分は、ね」
「……黙って手を動かせと言ってるだろ」
ルグレイの半分は確かに自分が散らかしたものだと暴露しているそれにラカリスがひそかに優越感に浸っていると、ノックも無しに扉が開かれた。
その瞬間、生徒会室の空気がピリと引き締まる。
「……失礼します」
「ああ、グラアスか」
扉を開けて入ってきたグラアスにルグレイが一声かけるが、空気をピリつかせた元凶であるラカリスはそちらを見ようともしない。グラアスはちらりとラカリスの方を見やるのだがすぐに目をそらし、ルグレイの方へと歩いていく。そうしてルグレイに手に持った書類を渡そうとするが、このピリついた空気を無視したルグレイの言葉によってそれは未遂に終わってしまう。
「とりあえず、そっちに渡しておいてくれ」
「……そっち、すか」
そう言ったグラアスの言葉には何かためらいが含まれていた。しかしルグレイが撤回する様子は無さそうだと見るやグラアスは言われた通りにするため、ラカリスの方へと向きを変えて歩き出す。そうして座るラカリスを見下ろす位置に立った時、ようやくこちらを見た山吹色の瞳に、じろり、と睨まれた。
「……怯えた顔しやがって」
ラカリスがグラアスに聞こえる声でそう吐き捨てる。はたから見ればまったく無表情のグラアスのそれが、血を分けた双子の姉にはそう見えるらしい。そして、気まずそうに眼を伏せるグラアスの様子からそれは事実のようだ。
ラカリスはそんな弟の手から書類を乱暴にぶんどると、ふんと鼻を鳴らして目の前にある書類の束へと視線を戻してしまう。グラアスは少しの間その場に立ち尽くしていたが、やがてゆっくり背を向けると生徒会室を出ていくのだった。
「あまりグラアスを怯えさせるなよ」
そんなグラアスの背中を見送ったルグレイがラカリスにそう苦言を呈すと、ラカリスがちっと舌打ちをする。
「あいつが勝手に怯えてるだけでしょ、つーか、怯えてんのがわかってんならあんたが書類受け取ってやれよ」
「ああ、グラアスに悪いことをしたな」
そう言うものの、愉快そうに口の端を釣り上げるルグレイに悪びれた様子は見受けられない。
「だいたい、何であいつがここに来るわけ」
そもそもグラアスはラカリスと同じ、黒の生徒である。白の校舎に、それも白の生徒会の本拠地にどうして来る必要があるのか。そう疑問を投げつければ、ルグレイの答えは
「互いの生徒会の情報交換ってやつだ。グラアスはいわば伝令役だな」
というものだった。要するに使い走りか、とラカリスは心中で吐き捨てる。次いであの弟にお似合いだと思えば少しだけ気が晴れる気がした。そうしてラカリスはグラアスから受け取った書類を机の右に置くと中断していた作業を再開するのだが、ルグレイの邪魔が入る。
「グラアスとは、仲が悪いのか」
「……関係ないでしょ」
途端に目を伏せたラカリスの様子は、ルグレイにそれが肯定の態度であることを理解させるのに十分だった。
「仲が悪いのは結構だが、外にいる場合は人目を気にしろよ」
「だから、それはあいつに言えって」
「双子とはいえ姉だろ、少しは弟の……」
言いかけて、バン!という音がルグレイの言葉を遮った。ラカリスが手に持ったファイルを机に叩きつけたのだった。
「好きであいつの姉になったんじゃない」
静かな生徒会室に、ラカリスのその声はやけに大きく響いた。
思いがけず感情的に聞こえたそれに、ルグレイはわずかに目を見開いて驚いた表情をした。ラカリスはただ忌々しげに叩きつけたファイルを睨み付けるだけで、ルグレイの方を睨んでくる様子は無い。その表情は忌々しげな中に何か苦しさが見えるようで、しかし、それはなぜだかルグレイの加虐心をざわつかせるものではなかった。
「……悪かったな」
ぽつりと聞こえたそれにラカリスが驚いて顔を上げると、それに気づいたルグレイは気まずそうに視線をそらした。
「何だよ、俺だって悪いと思えば謝りもする。……お前を泣かしたいとは思ってるが、そんな顔をさせたいわけじゃない」
その言葉にラカリスは思わず自分の頬に手を当てる。そんな顔とは、自分はいったいどんな顔をしてしまっていたのか。いや、この男の表情から察するに情けない顔を晒してしまったのに違いない。
そんな気まずさをごまかすように「泣かしたいって何だよ」と睨んでみればそれを勘付かれたのか、ルグレイは先ほどまでの表情を一変させると喉の奥をくつくつと鳴らして笑い始めた。
「言葉の通りだ、その気の強いツラそのうち泣かしてやるからな」
「……悪趣味」
「何とでも言え」
口の端を釣り上げて笑うルグレイに、ラカリスは小さく舌打ちをすると今度は一切の躊躇なく、思い切りぎろりと睨み付けるのだった。――当然といおうか、ルグレイがそれに怯むことは無かった――