2.ウノハ・ウツギロインはとても気の弱い少女のはずだった。
この世界には黒の力と白の力があって、人はどちらの素質を持つかによって魔法の使い方がまったく異なるのである――とは、学校に通い始めた子どもが最初に教わることだ。――言い方として黒が先か白が先かという不毛な論争があることは、ここでは一言書き記すだけにとどめる――
黒の力、白の力とは、この世界を作り出したと言われる二人の魔法使いに端を発するもので、『直黒の力』が黒の力に、『真白の力』が白の力に対応するのは言うまでもない。二人の魔法使いがその力でこの世界に人間をも作り出したから、人間にはこうした力が宿っているのだ、というのは冒頭の文に続いて教わることだ。
そう教わった子どもは7歳から始まり15歳までの学校生活で自らの持つ素質がどちらかを見出していくことになる。そしていよいよ16歳になると、黒の力を持つ生徒と白の力を持つ生徒に分けられるのだ。
その理由は冒頭に述べたように、両者の魔法の使い方がまったく異なるという点にある。
黒の力は理論タイプとも呼ばれ、物質に文字を書くことで魔法を使うことが出来る。一方で白の力は感覚タイプとも呼ばれ、己の集中によって魔法を使うのだ。例えば何もないところから火や水を出すにしても、黒の力は物質に書いた文字列によってそれらを作り出し、白の力は集中し自然の力を感じることでそれらを生み出す。
使い方が異なれば、学ぶべき事柄も異なる。それでも大抵の学校ならば授業を行う教室が分けられたり制服の一部が違ったりという区別程度で、黒と白の生徒は同じ校舎で過ごすということが一般的である。
しかしこの学園において黒と白は授業だけではなく、制服、宿舎、校舎においても分けられるのだ。
広大な敷地に宿舎まで備えたこの学園は、その周囲に広がる学園都市のシンボルとも言える存在である。学園都市の様々な場所に初等部から大学部の校舎を持ち、ラカリスの通うこの場所は高等部の校舎だった。
敷地内に左右対称に建つ校舎はそれぞれ黒の校舎、白の校舎と呼ばれる。それぞれに黒の力を持つ生徒、白の力を持つ生徒が通い、学ぶ場所だ。
二つの校舎は渡り廊下でつながってはいるものの、それは両方の校舎で授業を行う教師のために設置されたものであり黒と白の交流を図るものではなかった。ゆえに、両者の交流というものは極端に少ない。それはほとんど意図的と言っても過言ではなく、両者の間にはどこか互いに互いを忌避するような雰囲気が流れているのだった。それは黒と白、それぞれに生徒会が存在するという形にも表れている。――見目の良い白の生徒会長においては黒白問わず熱をあげられているようだが、それはこの場合例外扱いである――
ラカリスは黒の生徒だ。生粋の、と言ってもいい。
物心がついてからずっと自分は黒の力を持っていると自覚してきたし、周囲もそれを認めていた。だからラカリスは自分とは違う白の力の気配というものが苦手で、そういう人間が傍にいると居心地が悪い。――まあ大抵のそういう人間はラカリスの目の鋭さに向こうの方から遠ざかっていくのだが――
そういうラカリスなので、16歳から始まった高等部の学園生活は快適と呼べるものだった。全くストレスが無いというわけではないが、少なくともストレスの一因は取り除くことが出来ていたからだ。
もっとも、それは昨日までの話になってしまったというのが現状である。
薄日に顔を照らされて、ラカリスはその意識をゆっくりと覚醒させていく。そして目に入った見慣れない風景に、起きた傍から深いため息をついた。
一夜が明けたが、入れ替わった体が元に戻るなんて都合のいいことは起きなかったのだ。予想していたとはいえラカリスはその結果に落胆を隠しきれず、どうにも体を起こす気にならない。それでもこの小さな体が可愛らしい音で空腹を訴えるので、ラカリスは仕方なく体を起こして真っ白なベッドから降りることにするのだった。
ラカリスが目を覚ましたこの場所は今のラカリスの体――ウノハ・ウツギロインの寮の部屋である。
一人部屋らしく、ロクロイというルームメイトと二人部屋のラカリスにとっては多少狭く感じる部屋だった。それはつまり居心地が悪いということにもつながるのだが、ラカリスがこの部屋を居心地悪く感じる最大の要因は狭さではない。それは、部屋の装飾が白に統一されている点にあるのだ。黒い装飾に統一されたラカリスの寮の部屋とはまるで正反対のそれは最高に居心地が悪い。
それもそのはず、ラカリスと入れ替わってしまったこのウノハ・ウツギロインは白の力を持つ白の生徒であり、この場所は白の生徒のための寮なのである。ウノハの部屋が特別ではなく、全ての部屋が同じように白い装飾に統一されているのだ。だから特にラカリスの気に障る真っ白な天使のレリーフや、さり気無く飾られた白バラの造花も、決してウノハの趣味ではない。
洗面台の前に立つと、鏡に映る姿がラカリスの目に入った。
肩に着く程度の長さの髪は白く輝き、山吹色の大きな目がこちらを覗き込んでいる。可愛らしい小動物にも似たその姿に、ラカリスは小さく舌打ちをした。しかし悲しいことにこれが今の自分の体なのである。鏡の中の姿が同じように顔を歪めたのを見て、ラカリスは朝っぱらから二度目の深いため息をつくハメになるのだった。
そうして身支度を済ませた後――いつもと勝手の違うそれに時間をかけはしたが――さてそろそろ朝食に行くかと思ったその時、扉がノックされたと思うと返事も待たずにばたんと開かれ……。
「おはよ~先輩! 一緒にご飯いこう~!」
ハクジ・グレイズが満面の笑みを湛えて飛び込んでくると、ラカリスは思い切り顔をしかめた。
ハクジは明らかに拒絶を示すラカリスの反応をまるで気に留めず、飛び跳ねるようにラカリスに近づくとするりとその腕を絡め取る。ラカリスの腕を絡め取った腕の力は存外に強く、拒絶しようがなんだろうが逃がさないぞと脅しをかけているようにも感じられて、ラカリスは己と同じ目線程の高さにあるハクジの顔をじろりと睨んだ。……にぱ、と笑顔を向けられた。
やはりこの可愛らしい顔をした白の一年生は腹に何か黒いものを隠しているらしい。いや、明らかに隠しきれていないし、そもそも隠す気が無いようだ。だからこそ「やだあそんな怖い顔で睨まないで~」と笑う顔にはあざとさを感じるし、苛立ちしか覚えないのである。その顔で「まあウノハちゃんのそんな顔はあんまり怖くないけどね」とまで言って寄越すのだから尚更だ。
元の体ならば威圧感たっぷりに見下ろせたものを……。そんなもどかしさにも苛立ちを覚えつつ、ラカリスはハクジに引っ張られるままに歩き出す。
「ところでここ、女子寮なんだけど?」
「生徒会は特別に女子寮に入れるんだよ~、まあさすがに夜は寮監さんの許可がいるんだけどね」
つまり朝の強襲は続くのか、と理解したラカリスはもはや苛立ちや絶望を通り越して呆れたようにはあと軽いため息をつくのだった。
朝食を終えたラカリスはやっとハクジから解放され、午前の初めの授業が行われる教室へ向かっていた。
黒の生徒であるラカリスが白の生徒の授業を受けるというのは中々に苦痛なところがあるのだが、この体である以上は仕方がない。まあ、あのあざとい小悪魔と学年が違うことがせめてもの救いかと思って乗り切るしかないのだ。あとついでにあの生徒会長とも、だ。
ちなみにハクジとの朝食は、端的に言って最悪だった。「ウノハちゃんのご飯は僕が選んであげるね」と言われ抵抗する間も無くメニューを選ばれることに始まり、いざ席に着いて食べようとするとちらちらと感じる複数の視線。気にしていなければ何ということのないものだったが、今朝のラカリスは気が立っている分ちらつくその気配がやけに気になる。おかげでハクジが選んだライ麦パンのサンドイッチの味はほとんど覚えていない。
重たい足を引きずってようやくたどり着いた教室は、白の制服を着た白の生徒ばかりが集まっていた。
それは当然と言えば当然すぎる光景である。なぜならこの場所は白の校舎であり、この校舎に居るのは白の力を持った、白の生徒だけなのだから。そう分かっていても、ラカリスの口からは思わずため息が出てしまう。――ため息をつくことで心の均衡を保とうとしているのだから大目に見てほしい――
ラカリスが白の力に対して持つ苦手意識は実のところ思い込みによるところが大きい。しかしあえてそれらしい理由をつけるならば、黒と白それぞれが持つ雰囲気の差というものが挙げられるだろう。
黒と白は魔法の使い方が全く異なるのである、とは冒頭で述べたことであるが、この違いのために両者にはそれぞれの性格にある傾向が見えると言う。理論タイプとも呼ばれる黒の生徒は常に文字列と向き合うために、どこか理屈が好きで神経質な性格の生徒が多いと言われている。一方で感覚タイプと呼ばれる白の生徒は常に自然の力を感じるために、どこかおおらかで能天気な性格の生徒が多いと言われているのだ。
それがラカリスが幼いころから今まで持ち続けている、白の力に対する苦手意識の一因かもしれなかった。もちろん全ての人間がこの枠にはまるはずもなく、ラカリスの身近な例だけでも多くの例外を挙げることが出来る。
そして何より教室に入った途端にラカリスが感じた視線は、到底おおらかとも能天気とも言えないものであった。
睨まれているな、と思ったラカリスは教室内を移動する間になるべく目だけを動かして視線の出所を探り……見つけた。敵は複数だ、そして女子。向けられているのはあからさまな敵意というわけではないが、良い感情でないことは確かである。その視線にラカリスは食堂での視線を思い出し、つまりこいつは嫌われているのか、ということを確信した。
その事実に傷つくほどラカリスは繊細な心の持ち主ではない。むしろ気が楽になる思いだった。ラカリスに視線を向けている彼女らはちらちらと見てくるだけで、何かを言って絡んでくる様子はない。そのあたりはやはり白の生徒といったところか、おおらかで能天気な彼女らは表だって喧嘩を売るということは苦手なようだ。絡まれなければ、ウノハらしい口を利く必要が無い。それに親しい友人もいないというのはむしろ好都合で、やはり無駄にウノハらしく取り繕う必要もないのだ。
ただ黙っているというのもそれはそれで苦痛だが、この可愛らしい外見に似合うそれを演技するよりはマシだ……と、最後尾の目立たない席に座ったラカリスはひそひそと聞こえる陰口を振り払うように息をついて、そっと目を閉じた。
ただ黙っているだけでいい……、ラカリスはそう思っていた。
しかし現実はラカリスに甘くは無く、それは午前の最後の授業に向かう道中だった。
「ミス・ウツギロイン」
背後から肩を叩かれてようやく、ラカリスはそれが自分を呼んでいるのだと理解して振り返る。
そこに居たのは丸いメガネをかけた、人の良さそうな顔をした男性。白いシャツに少しよれたジャケットを着た彼は恐らく教師だろう。「呼んでも気が付いてもらえないから少し焦ったよ」と言いながら親しげな笑顔を向けてくるから、ウノハとは親しかったようだ。
ラカリスは、まずいな、と思う。
下手なことは言えないが、黙っているだけというのも不審だ。何か言葉を返さなければ、とは思うがラカリスはこの教師の名前を知らないし、ウノハとどういう関係なのかも知らない。
とりあえずラカリスは目を伏せ、呼びかけに気が付かなかったことに対して小さく「すみません」とだけ言っておくことにした。この際棒読みなのは仕方あるまい。すると少し焦ったような声で「ああ、いいんだよ」と聞こえる。
「聞いたよ、階段から落ちたって。きっとまだ無理をしているんだね」
次いでウノハの体調を案じる言葉。どうやら不審がられてはいないようだなと判断して、ラカリスは伏せていた目を上げた。やはり変わらず親しげな笑顔を向けている姿。それに心の中でほっと息をついて、ラカリスはなるべく申し訳ないといった風に聞こえるように「あの、次の授業があるので」と言う。
「ああ……そっか、引き留めてしまってごめんよ」
その言葉に、ああこれで解放されるな……とラカリスが今度は心の中ではなく実際にふうと小さく息をつき、軽く頭を下げてこの場を去ろうとしたその時。
下げた頭にぽん、と何かが乗せられた。
「それじゃあ無理はしないで、何かあれば、またいつでも頼ってね」
そう言われ頭をわしゃとされたことでラカリスは頭に乗せられたそれが手で、頭を撫でられたのだということを理解した。ラカリスは一瞬何かを考え……はっと顔を上げた時には既に頭を撫でていた手は離されていて、名前も知らない男性教師はにこりと微笑んで立ち去っていくのだった。
ラカリスはその場に立ちつくし、おもむろに撫でられた頭に手をやるとぐしゃりと髪を掴んだ。
――頭を撫でられたのなんて、いつ以来だっけ……。
そして先ほど一瞬頭をよぎった言葉を心の中で繰り返し、はっと我に返るとそれを振り払うように頭をぶんぶんと横に振った。