5-2
昔から、見た夢はすべて忘れてしまう方だった。
夢を見ている時にはこれは夢だと言う自覚は全くなくて、すべてが現実のように思えるのだ。そうして見た夢も目が覚める頃にはすっかり忘れてしまっているので、ラカリスは夢を見たことがないと思っていた。
しかし今ラカリスには、夢を見ているという自覚があった。
見渡す限り真っ白な空間、その中に自分は浮いている。液体のような、でも息苦しさは全くない。その真っ白な空間になびく自分の黒い髪が見える。ぼうっとそれを眺めていると、ふと真っ白な空間に黒いもやが見えた。それは、自分の黒い髪が白い空間に溶けていく様子だった。不思議とその光景に恐怖を感じることは無く、しかし少し気持悪いような違和感。それから、既視感を感じた。ああ、この夢は確か、二度目だった。前に見たのはいつだったか……ああ、そうだ、授業中に居眠りをしたあの日だ。見た夢を覚えてもいないのに、やけに夢見が悪いと感じていた。こんな気持ち悪い夢を見ていたのなら、確かに夢見が悪いはずだ……。
ゆっくりと意識が覚醒しする。
今の光景を、ラカリスはしっかり覚えていた。夢だ、という自覚をしっかり持って。しかしそれに戸惑うよりも先に全身をだるさが包み込む。どうやら椅子に座っているようだが体は動きそうにない。ラカリスは覚醒したばかりの頭で、意識を失う直前の出来事を思い出していた。
ウキズミに、魔法を使われたのだ。
そのせいで意識を失い、その間に連れ去られどこかわからない場所に監禁されてしまったのだろう。この体に真白の力が秘められていると知っている彼はそんなことをして、いったい何を企んでいるのか。ようやく頭がすっきりとしはじめたころ、ラカリスは両腕の自由が利かないことに気が付いた。どうやら、両手を後ろで縛られているらしい。
「良かった、目が覚めたんだね」
頭の上から声がしたと思うと、いつの間にか目の前に誰かが立っているようだった。聞き覚えのあるその声にラカリスは正体を確信して顔を上げる。
「ミス・ウツギロイン……いいや、ミス・バレーヌと呼ぼうか?」
丸メガネの奥からこちらを見下ろす瞳にも、その声にも、以前のような親しげな様子は無い。それでもジャケットだけは相変わらずよれたものを着た男性教師を目の前にして、ラカリスは確信していた。この男がネブドロの言っていた、ウノハの真白の力を暴走させた張本人なのだと。
やっぱり、と思ったわけではない。むしろここでこの男が出て来るとは予想外である。しかしラカリスは素直にそれを顔に出すなどとうかつなことはしない。その顔をぎろりと睨み付けてやれば男性教師は一瞬驚いたような顔を見せたものの、すぐにふっと笑った。
「驚いたよ、突然別人のような反応をされてしまうんだものなあ。けれど君が何者かは関係が無い、いや、むしろ、好都合だ」
笑ったその目は、三日月形に歪んで見えた。
「ミス・バレーヌ、君は世界をリセットしたいと思わないかい?」
その問いにラカリスは強く睨む視線で応える。
「男だからという理由だけで、優秀な姉ではなくて愚鈍な弟が優遇される。そんな世界は嫌だろう? 憎いだろ?」
同意を求めるような問い方に、ラカリスはやはり睨むだけで応えた。それをどうとったのか、男性教師は肩をすくめてみせるとふうと息をつく。それにどんな感情がのせられていたのか測ることはできない。
「僕はずっと世界が憎かった」
しかし直後、先ほどまでの笑顔を無くしてそう言った姿は確かに言葉の通りの感情が感じ取れるものだった。
「生まれてすぐに親に捨てられて、孤児院に拾われたよ。まともな場所ではなかったけれど、生きるためにはそこに居るしかなかった。幸いだったのは僕に勉強の才能があったことだけだ、そのおかげで、子どものいない夫婦にもらわれることになったから」
男性教師は、けれど、と吐き捨てる。
「実の子供が生まれたら、他人だった子供なんてどうでも良くなる、それが普通の事だ。それが普通の世界、この世界の、普通……。生まれ持った力だけで優遇される方が選ばれるのも、性別だけで選ばれるのも、この世界の普通だ」
前者が誰の事を言っているのか、ラカリスには理解できた。そして後者も。
前者はウキズミのことだ。なるほど、それでこの男に協力をして自分を連れ去ったのだということも理解出来た。そのくせ自分はこの場にいないのかとラカリスは心の中で舌打ちをする。
後者は、他でもないラカリス自身のことである。どこからそういうことを仕入れてきたのかは知らないが、この男はラカリスとグラアスの関係性を知っているらしい。だからこそ好都合と言い、同意を求めるように語りかけてきたのである。まるで、当然お前もそう思うだろうと言うように。
「それでもやっぱり幸いだったのは、僕に勉強の才能があったことだ。真白の力、直黒の力……これらは伝説のものではなくて実在する、そう突き止め、この憎い世界をリセットする方法を探すことが僕の生きる目的だった。……ウノハに出会ったのは、僕の人生で唯一の幸福だったかもしれない」
男性教師が目を伏せ、幸福と言ったその表情に笑みは無い。
「ウノハもまた、世界の普通に苦しめられた子だったよ。だから僕の研究には喜んで協力してくれた。……協力、してくれていたのにね、ウノハは突然嫌だと言い出したんだ。そうして口論しているうちに、ウノハは真白の力を暴走させてしまった」
ふうとついたため息は己の失態に対するものか、あるいはウノハに対するものなのか。その表情から推し量ることは出来ない。
「巻き込まれたらひとたまりもないからね、万一に備えていた転送魔法で脱出したはいいけれど、戻ってくる間にウノハはどこかへ消えてしまっていたし、見つけたと思えば記憶を無くしているなんて本当に驚いたよ。でも、再び準備を整える間傍にいられたのは記憶を無くしていたおかげだと思えば幸いだったかもしれないな。それに何より、君とウノハが入れ替わったことも、ね」
言いながら、男性教師はラカリスに手を伸ばすとぽふと頭を撫で、それから雪のような、ふわふわの白い髪を撫でる。そうして次第に手を下ろしていくと、その柔らかな頬をするりと撫でた。
「ミス・バレーヌ、君なら、わかってくれるだろう?」
山吹色の瞳をじっと見つめ、優しい声色でそう語りかける。ラカリスは丸メガネの奥で揺れるその瞳をじっと見つめ返し、やがて、ゆっくりとその口を開いた。
小部屋に続く扉に寄りかかり、ウキズミは片膝を抱えて座り込んでいた。
旧校舎の片隅に存在するこの場所は男性教師が人払いの魔法をかけた云わば隠れ家であり、今は自らの理想を実現させるための場所でもある。扉の向こうでは男性教師が自らの過去を語っていた。薄い扉越しに聞こえるそれは、ウキズミも聞いた話だった。辛く、悲しく、そして自らを重ねてしまうようなその過去に、ウキズミは「君ならわかってくれるだろう」という彼の問いに頷いたのだ。
後悔を、しているわけではない。しかし迷いが無いかと言えば、理想の実現を前にしてウキズミは答えを出せずにいた。そしてその理由を、ウキズミはわかっている。
ラカリス・バレーヌだ。
ウキズミはウノハの体の中にいるのが別人であることも、それがラカリス・バレーヌという黒の二年生であることも男性教師から聞いて知っている。しかし、初めて会ったときは知っていても驚いた。
頃合いを見て助けに入ろうと思っていたのだが、そのラカリスは腕を掴まれた瞬間チンピラを怒鳴りつけその足を思い切り蹴りつけたではないか。その行動に驚き呆気にとられている間に、襲い掛かってきたもう一方のチンピラの攻撃を避けるとその顎を下からえぐるように殴りつける。かと思えば諸刃の剣だったのかラカリスは殴った拳を庇い、身動きが取れなくなってしまったようだった。慌てて間に入ったが、ウキズミが少し遅れていたらラカリスはチンピラの反撃を避けられなかっただろう。
後先を考えないただのバカなのか、と思った。それを口にするとその可憐な見た目で「は?」と睨まれてしまう。しかしすぐに殴った手の痛みを思い出したらしく顔を歪ませたので、ウキズミが仕方なく魔法で冷やしたハンカチをその手に巻いてやると途端にしおらしい態度を取る。その様子にはたと、そういえば人にこんなことをしてやるのは久しぶりだったと思えば、ウキズミは帰るなら学園まで送ってやると提案していた。その提案に小さく「お願いします」と返したラカリスの様子は、やはりしおらしいものだった。
しかし二度目に会ったとき、それはつい先ほどの事だ。ハンカチを押し付けてきたその手を強く掴めばラカリスは怯えることなくぎろりと睨み付けてきた。以前のようなしおらしさなどまるで無い、真っ直ぐにこちらを睨むその瞳はまるで自分の迷いや弱さを見透かされているようで、今もウキズミの頭から離れない。
ラカリスだって自分と同じ境遇の人間のはずだ。弟が嫌いで、自分を取り巻く環境が憎いはず。自分と同じように、あの教師の問いに頷くだろう。
……いや、果たしてそうだろうか?
ラカリスは男性教師の過去を、辛く、悲しいものだと受け止めるだろうか。その過去に、自分を重ねるだろうか?いや、もしかすると。あれだけ強い瞳をする彼女なら、もしかすると。
『バッカじゃないの!?』
扉の中から聞こえてきたその怒声に、ウキズミは思わずはっと顔を上げた。聞こえたそれは、ラカリスのものだ。その声にウキズミの心臓は早鐘を打つように鼓動した。
ああ、やっぱり。
ウキズミがそう思う間にも扉の向こうではラカリスが目を丸くしている男性教師を睨み付け、尚もなじるのだった。
「何を勘違いしてんのか知らないけど、わたしが嫌いなのは弟であって世界じゃない。世界が憎い? ふざけたこと言ってんなよ、あんたは人を嫌う覚悟が無いからそんなこと言ってるだけだろ。自分で自分を惨めだと思ってる、臆病者の気持ちなんかわかるわけない。 人を本気で嫌う覚悟も無いくせに、憎いなんて言ってんじゃねえよ!」
小部屋の中にラカリスの怒声が響き渡ると男性教師は立ち尽くしたままで小さく息をのみ……ぎりと唇をかんだ。
「ウノハじゃないくせに、ウノハのようなことを言う……」
彼がそうつぶやいた声は食いしばった歯の中に飲み込まれて、ラカリスには聞こえなかった。
ラカリスの言葉を扉越しに聞いたウキズミは、動揺していた。
嫌いなのは弟であって、世界じゃない。人を嫌う覚悟が無いから、世界が憎いなんてことを言う。自分で、自分を、惨めだと思っている……。ラカリスの言葉がウキズミの頭の中で駆け巡り、脳を、心臓を、激しく揺さぶった。
ああ、そうだ、自分を惨めにしたのは、他ならぬ自分自身だった。
だから弟に同情の眼差し向けられて、酷く嫌悪した。まるで、自分を惨めだと思うその心が見透かされているようで。それでも嫌悪のままに弟をなじらなかったのは、自分はどこかで、弟に同情してしまっていたからだ。幼いころは誰よりも自分を頼ってきた弟、いつも後を追ってきては自分の真似ばかりしていた。しかし当主になる未来が約束されている弟とのそんな関係がいつまでも続くはずは無く、やがて引き離されるように弟との距離は大きくなる。
家の外では強がっていても、あの厳しい祖父や父には反抗する勇気の無い弱い弟だ。当主などというプレッシャーに打ち勝てるはずもない。けれど、その未来は変えられはしないのだ。そんな弟は、可哀そうで、惨めで。
ああそうだ、自分も、同じ目で弟を見ていた。そして厳しく叱られる弟に、自分は、何もしてやらなかった。何も、してやっていない。本当は弟に嫌われて当然で、弟を、嫌う資格など無い。心のどこかでそう思っていて、本当に弟を嫌う覚悟が無かった。だから、世界が憎いなどと曖昧な思想に逃げたのだ。自分も、そしてあの男も。
そう気付いたとき、ウキズミは立ち上がり強く扉を叩きつけていた。
あの男の理想を実現させてはいけない。真白の力を、使わせてはいけない。この世界をリセットするなどとバカバカしいことは止めなくてはいけない。
その為にはこの扉を破壊しなければいけないと、ウキズミが理解するのは一瞬のことだった。懐からペンを取り出すと扉に術式を書きなぐる。強力な爆発を生む魔法だ。書き終えると術式が発動し、爆風が巻き起こる。ウキズミがそれに目を閉じ、再び開くと、扉は無傷のままだった。どうやらこの薄い扉は魔法によって強化されているらしい。ウキズミは大きく舌打ちをした。
扉の向こうではふうと息をついた男性教師がラカリスを見下ろし、こちらをぎろりと睨む山吹色の目を静かに見つめていた。
「……君ならわかってくれると思ったけれど、そう言うなら仕方ない。当初の予定通りに、少しばかり手荒にやるしかないな」
男性教師はそう言うと、胸元から何かを取り出す。それが魔法を書いた紙だと気が付いたのは、一瞬でウキズミの記憶が蘇ったからだった。しかしあの時とは違って体は動かず、予測は出来ても逃げる術は無い。それでも悪あがきとばかりに体をよじるが空しくも無駄な抵抗に終わり、ラカリスの胸元にそれが押し当てられた。
途端に心臓がどくんと大きく飛び跳ねる。激しい鼓動が耳の奥まで響くほどにうるさい。体中を駆け巡る血がみるみる温度を上げていくようだ。ラカリスは襲い来る熱の塊に耐えるように、ぎゅうと強く目を閉じた。
まぶたの裏に浮かんだのは、あの憎い男の、こちらを見上げて笑う顔だった。




