1.ラカリス・バレーヌはとても気の強い女の子のはずだった。
ラカリス・バレーヌはとても気の強い女の子だ。
その切れ長の瞳は鋭く、獲物を狙うカラスのようだと言ったのは誰だっただろうか。強い意志を宿したその瞳で睨めば、並の人間ならたちまち竦み上がってしまうことだろう。気の強い彼女は、年上にも年下にも、異性にも同性にもけして媚びたりはせず言いたいことがあればはっきりと言うし、じろりと睨まれたならそれ以上の敵意を持って睨み返す。――もっとも彼女は安い喧嘩を買う趣味は無いし、彼女から喧嘩を売るような血の気の多い性格でもなければ喧嘩を売られる隙を見せることも無い――
彼女が歩けばその長く黒い髪が風に揺れ、まるで艶のあるカラスの羽が彼女の背中で羽ばたいているかのようである。すらりとした手足を見せつけるように腰に手を当てたその堂々たる立ち姿は巷に出回る美人画にも引けをとらず、それでいてそれとは違い一目見た人間をほのかに畏怖させる。
ラカリス・バレーヌは確かにそういう少女だった。
ウノハ・ウツギロインはとても気の弱い女の子だ。
その大きな山吹色の瞳は怯えたように揺れていて、瞳の黄色いウサギのようだと言ったのは彼女の保護者だっただろうか。怯えた瞳は相手の庇護欲をかきたてもするが、時には相手の癇に障ることもある。気の弱い彼女は常に相手の様子をうかがって言いたいことは言えないし、その煮え切らない態度に相手が睨めばじっと俯いてその時を耐えることしかできない。
彼女がその小さい体でゆっくりと歩けば雪のように白い髪が肩の上でふわりと揺れて、まさに瞳の黄色いウサギが歩いているかのようである。周囲を警戒して息をひそめて生きているはずなのに、その必要以上に怯えた姿は時に人をほのかに苛立たせてしまう。
ウノハ・ウツギロインは確かにそういう少女だった。
間もなく放課後を迎えようとしている学園の片隅、保健室にて。
「ほ、本当に、わたしのせいで、ごめんなさい……」
とは、眉を八の字にして至極申し訳ないといった表情のラカリス。
「……いや、謝られても体が元に戻るわけじゃないし、とりあえずあんた黙ってろ」
とは、そんなラカリスに視線も合わせようとせず眉間にグッとしわを寄せていかにも不機嫌といった表情のウノハ。
その膝の上にはサンドイッチの詰められた籠。ウノハはそこからサンドイッチを一つ取り出し、がぶりとかぶりついた。その乱暴な仕草もまったくウノハらしくないもので、対して黙ってろと威圧されて縮こまるラカリスというのもまったくラカリスらしくない。彼女を良く知る人間が見たならば気持ち悪いとすら感じる光景だろう。
そんな両者が同じベッドの縁に並んで座っている光景の奇妙さと言ったらウノハの隣に座るラカリスのルームメイトが思わず「うわなんか気持ち悪っ」と呟くほどである。
「ははは、こうして並べてみると違いがよくわかっておもしれーな」
とは、そんな二人の前で丸椅子に座った白衣の男。この保健室の主でありウノハを『瞳の黄色いウサギ』と言った男でもある。ウノハに視線で笑ってんじゃねえぞと凄まれてもその笑みが崩れないあたりクセのある人物であることが伺える。
いったいどうしてこんなことになってしまったのか……。
事の発端はラカリスが授業中に居眠りをしたことにさかのぼる。
授業中の居眠りの懲罰に雑用を申し渡されたラカリスは――懲罰を申し渡したベテラン女教師にくそばばあと悪態をつきつつ――そのために旧校舎の階段を上っていた。
ラカリスは普段から授業中に居眠りをするような生徒ではない。今回は夢見が悪く寝不足だったせいでどうしようもない睡魔が襲ってきただけだ。だというのに人の失敗をあげつらうかのように懲罰を申し渡されて、どうしてくそばばあと悪態をつかずにいられるというのか。――そりゃあ授業が始まってから終わるまで寝通してりゃあね、と言うルームメイトの声が聞こえた気がするが、ラカリスはそれをため息で一蹴する――
それでも昼休みに『旧校舎から指定の書類を持って来い』という懲罰を昼食をとる前に確かに実行しようとしているラカリスは目つきの悪い顔に似合わず、至って真面目な人間だった。
そうして重たい足を上げつつ上っていると、階段の上からなにか揉めているような声が聞こえてくる。いや、揉めているというよりは、誰かを責め立てる女子生徒の声が、三つ。ついで聞こえた弱弱しい声に、ラカリスは状況を推測して小さくため息をついた。
この旧校舎は物置として利用されているものの、ほぼ廃屋のような見た目に近づく人は少ない。この人気のない場所をそういうことに利用する人間もいるのか、と思いつつラカリスは己が取るべき行動を考える。
あれを追い払うのは簡単だ。しかしそれでそっちを庇っただの助けてくれただのと面倒に巻き込まれたら……いや、だが、目的の場所へ行くにはこの道しか無い。引き返してほとぼりが冷めるのを待つ方が面倒だ。なにより昼休みという時間は有限である、あとラカリスの腹部はだいぶ空腹を訴えている。
よし、追い払おう。
そう決めたラカリスが踊り場に姿を見せ、階段を見上げて文句を言おうと口を開いたその途端。
ばしん、と音がしたと思うと階段の上から真っ白な何かが落ちてきて避ける間もなくラカリスの体を押し潰し――ラカリスの意識は、そこで途切れた。
目を覚ましたラカリスの目に見えたのは、見慣れない天井だった。
ここはどこだ、それよりもよく寝た気がする、とぼんやり考えながらラカリスは二、三度まばたきをする。数秒天井を見つめた後、視線をさまよわせてみると、見えたのは自分の体にかけられている白い毛布と周りを覆う白いカーテン。少なくとも寮の自分の部屋、という可能性はゼロのようだった。
それからラカリスは自分の身に起きたことを考え――思い出した。
そうだ、階段から落ちてきた誰かに押しつぶされて頭を打ったのだ。
しかしそれにしては頭には痛みがない。それと、なんだろうかこの全身を襲う違和感は。ラカリスはそれを確かめるために毛布の中の手を動かしてみた。手は自分の思った通りには動くのだが、やはり何とも言えない違和感がある。これだけではわからない、とラカリスはゆっくりと体を起こしてみることにした。
「……え?」
それは体にかかった毛布が落ちていざ視界に入った腕がまとっている、白い、見慣れないデザインの服に驚いて出た声のはずだった。しかしラカリスはその瞬間、思わず出たその声に驚くことになる。なぜならそれはまったく、ラカリスの生まれ持った声ではなかったからだ。
例えるならば、美しい声を持った小鳥がさえずるような、春のせせらぎを感じさせる声。ラカリスが物心ついてから早々に捨て去ることを決断した、かわいらしさというものを集めて音にしたような、そんな声。それが今この口から出たのである。信じられない、と思うのと同時にラカリスは意識が遠いていくのを感じた。
「よう、目が覚めたか」
そのとき、誰かの声と共にカーテンが開かれる軽快な音がしてラカリスは、はっと意識を取り戻した。それからゆっくりと、音と声のした方へとその顔を向ける。
そうしてラカリスの視界に入り込んできたのは見覚えのある顔で。
「ラカリス!」
その名を口にする前に、ラカリスの耳に聞き慣れた声が飛び込んできた。と思うと同時にその声は男の体を押しのけてラカリスの胸に飛び込んでくるのだった。ほぼタックルに等しいそれを受け止めたラカリスの喉からは、ぐえという声が飛び出る。――それすらも小鳥のさえずりによく似た声であるからたまらない――
「ろ、ロクロイ?」
「……!ラカリス!ラカリスなんだね~!」
ラカリスが名前を呼ぶと、ラカリスにタックルを決めたその正体は一瞬だけ体をはなしてラカリスの顔を見つめた後、感動したように叫びながら再びきつくラカリスの体を抱きしめる。よかったよかったとしきりに叫ぶ彼女は、ラカリスのルームメイトだった。しかしラカリスにはなぜルームメイトがこんなにも感極まっているのかわからない。
困惑していると、再び頭上から声が降ってくる。
「……ま、予想通りと言うべきか、おい、おい心配してたのはわかるが話がしたいからとりあえずはなれろ」
声にそう言われ、ルームメイトは渋々といった感じにラカリスから体をはなす。
声はそのままラカリスを見下ろし
「気分はどうだ?」
と問いかける。
そう問われたラカリスは男の銀縁のメガネの奥にある瞳を睨み返して一言
「……最悪」
と、その可愛らしい声でなんとも苦々しげに言って返した。
不愉快な笑みを浮かべてラカリスを見下ろすこの男は、ネブドロ・マドウィズという名の保険医である。
このネブドロはもとは研究機関にいた男で、そのせいか不穏な噂が絶えない人間だ。禁忌の研究をしていたのだとか、保険医は世を忍ぶ仮の姿で実は夜な夜な研究を行い、昼間は実験に使う生徒を品定めしているのだとか……。常にうさんくさい笑みを浮かべるネブドロの姿も手伝って噂の信憑性は増していき、更には尾ひれがどんどん付いて噂のレパートリーは日に日に増える一方だ。
そうした噂の真偽は定かではないが、この男のせいで保健室に近づく生徒が少なくなったことだけは事実である。
「お前、自分の名前を言えるか」
「……ラカリス・バレーヌ」
問われて名前を言ったその声はやはり自分のものではなかったが、ラカリスは確かに自分の名前を答えた。ついで学年を問われたので二年だと返す。――やはり、小鳥のさえずりのような声で――
「目が覚める前のことは覚えてるか?」
「階段から何かが落ちてきて、頭打って、その後は覚えてない……」
「なるほどなあ、まあ口で言うよりも見た方が早いだろ、おいお前、そっちのカーテン開けろ」
ネブドロが弧を描いたその口で命令したのはルームメイトに対してだった。命令を受けたルームメイトが不満げに口を尖らせながらも隣との間を仕切るカーテンの方へ向かうのをラカリスが目で追い、軽快な音を立ててカーテンが開けられる。
ラカリスは一瞬、目の前に鏡があるのかと思った。
「あ、あの、あの、ごめんなさいいいいいい!」
しかしその姿が雄たけびを上げたのを聞いて、無情にも違うのだということを思い知らされてしまう。
吊り上ることしか知らなかった眉がみっともなく垂れ下がり、獲物を狙うカラスと評された瞳には鋭さの欠片も無い。それどころかその瞳にはうっすらと涙まで見えるではないか。その姿にラカリスは、今度こそ意識を手放してしまいそうになる。
ラカリスの目の前に現れたのは自分の――威圧感が皆無になってしまった、ラカリス・バレーヌの体だった。
「まあつまり、お前ら二人の体と中身が入れ替わっちまったっつーことだな」
とはラカリスとウノハをベッドの縁に隣り合って座らせたネブドロの言ったことだ。
曰く、ラカリスの言う”階段から落ちてきた何か”の正体はウノハ・ウツギロインという白の二年生で、ぶつかった拍子に理由はわからないが魂が入れ替わってしまったのだろう、ということだった。
それが昼休みの事だ。先ほど午後の授業の終了を告げるチャイムが鳴ったのが聞こえたので、ラカリスは昼から今までずっと眠っていたということになる。ラカリスの膝にあるサンドイッチの詰まった籠はネブドロが「腹減ってるだろ」と言って寄越したもので、なるほど通りで腹が減るわけだと思いつつラカリスが五個目のサンドイッチに手を伸ばしたところで冒頭に戻る……。
いきなり現実を突きつけられて、正直まだ受け止めきれていないというのがラカリスの本音だった。しかしどんなに信じられない出来事だったとしてもどうやらこれが現実のようだ。「腹減ってるだろ」と言われて空腹を訴える腹が何よりの証拠だった。
それにいつまでもため息をついて弱った姿ばかりさらしてもいられない。ラカリスは一度俯いて気持ちを切り替えるように息を吐くと、顔を上げてネブドロの顔を見た。相変わらず愉快そうに不愉快な笑い方をしているが、それにイラッとすることで自分を取り戻した気がして少しばかり冷静になれた気がする。
「まあ当然出てくる疑問はなぜそんなことが起きたか、っつーことだが……それよりも今考えるべきことは、お前らが入れ替わった状態で、これからどうするか、だ」
「……つまり、今すぐ元に戻る手立ては無いってこと」
今考えるべきことが『どうやって元に戻るか』ではなく『入れ替わった状態でどうするか』と提案したということはつまりそういうことなのだろう。ラカリスが苦々しげに言えばネブドロは「察しがいいと助かるな」と笑って返す。
それはラカリスの両脇で仲良くぽかんとしている二人に向けた皮肉でもあるかもしれなかった。どうやら察しの悪い二人はラカリスの言葉でようやく理解したらしい。「マジか」とはラカリスのルームメイト。しかし伝わらない皮肉に意味は無く、言ったネブドロが苦笑するのだから皮肉の通じない相手と言うのは厄介である。
「それでだ、バレーヌ、お前には一つ知っておいてもらいたいことがある」
「は?」
「真白の力は知ってるな」
「……そりゃ、知ってるけど」
ネブドロの口から出たその言葉に、ラカリスは訝しげに眉根を寄せてそう答えた。
真白の力は、この世界を作ったとされる力の一つである。
この世界は二人の魔法使いによって作られた。一人は世界を作り出し、一人はその世界に摂理を描いた。そうして生まれた世界に二人の魔法使いは海を、陸を、植物を作りそして生き物を作り、やがてヒトを生み出し、この世界が生まれたのだ――とはこの世界に伝わる伝説である。
伝説に出てくる二人の魔法使いが持つ力を人はそれぞれに『真白の力』『直黒の力』と名付け、それらは失われた力だと言い伝えてきた。
この伝説は誰でも幼いころに必ず親や祖父母から聞かされるもので、当然ラカリスも知ることである。しかし伝説は所詮伝説であり、この伝説をラカリスはあまり信じてはいなかった。だからこんな状況で伝説の力を引き合いに出すネブドロが、ラカリスの目には不審に映るのだ。――そうでなくともネブドロは不審の権化のような男だが――
「こいつの内には……まあ今の状況で言うとお前がいるその体には、真白の力が秘められている」
「……は?」
ラカリスは、言われた言葉を一瞬理解出来なかった。それは隣に座るルームメイトも同じだったようで、彼女もラカリスと同じような反応を示す。
数秒してようやく理解が反応に追いついてくる。ネブドロは伝説の力が、さも存在しているかのように言った。しかも、ラカリスが今いるこの体の中に、と。しかしそう理解してもなお、ネブドロの言葉は理解し難いものだった。
「いや、真白の力って、ただの伝説でしょ?」
「ま、信じる信じないはお前に任せるさ、何らかの封印がかかってるから今のところは発動もしねえみたいだしな」
「今のところ、って……」
不安をあおるその言葉を繰り返したラカリスの表情は苦々しげで、対してネブドロはそんなラカリスを見てニヤリと口角を上げる。
この男の話を信じる根拠も義理も無い。しかしネブドロは入れ替わった事実を告げる際、ウノハの『保護者』を自称した。頷くウノハの――見た目はラカリスだが――態度にも不審な様子は無かったのできっとそれは確かなのだろう。だとするとこの体のことをよく知っているのはネブドロの方だということになる。わざわざそんな途方もない嘘をつく必要があるだろうか?
ラカリスの答えは、とりあえずは保留だった。
ネブドロも信じる信じないは任せると言ったし、別にそんなことは今すぐ答えを出す必要のあることではないと判断したのだ。
「で、次の問題はあの二人が来てから……」
ネブドロがそう言った瞬間、保健室の扉が叩かれる音がした。