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桜沢さんのお嬢さま  作者: 松山みきら
第3章 秘める想い -桜沢文音-
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 帰り道、私の少し前を棘科が歩いていた。小さな後輩は紳士のように私をエスコートしながら、向かってくる人波を裂いて歩く道を作ってくれる。堂々と歩く後ろ姿、腰まで伸びた黒髪がきれい。見とれて、胸が心地よさで気持ちよくなった。私が突き放していた後輩は、こんなにも優しい気持ちを私に咲かせてくれる。愛しさを理解して認めたら、棘科のいいところがくっきりと目に留まるようになった。

 私の抱いている感情が周囲に理解されるかなんてどうでもよかった。もはや性別は問題にはなっていない。彼女の魅力的な部分をもっともっと見つけて、夢中になって溺れてしまいたい。たった一人、心を寄せて愛することができた人にめちゃくちゃにされたいと願った。

 喰われたい。

 昨日の夜に感じたそれに近い欲求だった。

「そうだ、文音先輩って呼んでいい?」

 夕方なのに白昼同様に輝く商店街。アーケードの途中で突然、棘科が足を止めて振り返った。断る理由は何もない。いっそ、先輩なんて取り払って呼び捨ててほしいくらいだった。

「構いません。呼び捨てでもいいです」

「呼び捨てでもいいの?」

「はい」

 返事をしたら、可愛い後輩の笑顔が輝いた。

「それなら『ふみ』って呼びたいな。いい?」

「はい」

「ふみ、ふみ」

「はい。ここにいます」

 繰り返し発せられる私の新しい呼び方。その美しい声で呼ばれるだけで清められている気さえする。私を妖しく惑わせる顔もできて、聖女さながらの清らかさも感じさせる。

 棘の、巫女。なるほど、と奇妙な理解が胸に落ちた。

「私は、どうしたら」

 敬語を使い、必要以上に畏まっている。それは棘科に離れてほしくないから。見捨ててほしくないからだった。決して私たちの距離が離れたわけではない。私の言動が不自然だとしても、棘科は私を責めないし、ありのままを受け止めてくれる。

 彼女は私を見上げたまま、迷うことなく答えた。

「あきちゃん、って呼んで?」

「あき、ちゃん」

 口にしたら、彼女に相応しく、私の舌にもなじむ気がした。

 そう呼ぶことが決まっていたかのようだった。

「憧れの先輩が、そう呼んでくれたの。ふみにも呼んでほしい」

「……え?」

 顔が強張った。声色も気持ち、低くなった気がする。

 棘科――あきちゃんが憧れる先輩。そんな存在がいたなんて初めて聞いた。考えてみれば、彼女の交友関係は全然知らなかった。今まで私に関わろうとした人はとことん排除してきたわけで、それはあきちゃんも例外ではなかった。すぐそばにいた人のことを全然知らなかったことは妙に悔しい。それが愛しい人なら更に、しかも憧れの先輩などと聞けば、嫉妬しか浮かばない。

 私たち、そんな関係じゃないのに。

 あきちゃんが悪魔みたいに目を細めて、唇の端をゆっくりと持ち上げた。

 いじわる、だった。

「ヤキモチ?」

「…………」

 直視できなくて目を逸らした。

 いじわるな笑い方ですら、快感にすら思えてしまって。

「ふふ。歩きながら話そっか。行こう、ふみ」

 長い黒髪がひるがえって、甘い匂いが舞った。踵を返すだけでこの存在感。

「……いじわるな人」

 聴こえなかったみたいで、あきちゃんは振り返らなかった。

 図書館であきちゃんを抱きしめて、膝枕をした。私の一部をさらけ出したことで、心の距離は明らかに縮まっている。でも、物理的な距離はまだ離れたままだった。手も繋がずに、肩も寄せない。私もあきちゃんも口にはしないだけで、どうして距離を取るのかは分かっていた。

 ここまで縮められた距離だからこそ、慎重になっているのだ。

「去年、紅羽が――姉が、学校で進路指導の講演会をしたんだ。私は中学生だったからまだいなかったけど、ふみはいたよね」

「はい。覚えています」

 去年。私が一年生のときに進路指導教育の特別講演会というのが開かれた。その際、講師として登壇したのがあきちゃんの姉、棘科紅羽だった。世界的な活躍をする棘科グループ代表、棘科家当主が地元の学生のために講演をするという貴重な機会で、先生も生徒も色めき立っていたのをよく覚えている。あのときの私は周りがやかましいとか、めでたい連中だとか、話を真剣に聞かずにただ呆れているだけだった。

 あきちゃんと近い距離になった今、思い出したらひどい罪悪感に襲われた。

「講演が終わった後の質問時間で、姉が一人、生徒を指名した。講演中、姉に熱心な視線を向けていた女子生徒。彼女は棘科グループに就職するという夢を持って、この土地へ一人で引っ越してきたんだって、姉から聞かされた」

 覚えている。棘科家の当主自らが一人指名して、講演の感想を求めた。

 その人は、文芸部の問題にも関わっていた人だった。

「講演会がきっかけになって、彼女は姉と親しくなった。そして、私も」

 短い黒髪の、大人っぽい後ろ姿が浮かんで消える。

 針ノ木蓮華。先輩に当たる女子生徒だ。

 去年まで所属していた文芸部の先輩とトラブルになった人で、吹奏楽部員の楽器が壊された事件の関係者。楽器を壊された部員のそばに寄り添い、支え続けた人。もちろん、おおよその原因は文芸部の先輩にあって、針ノ木先輩は被害者側だ。

「真面目で、誠実で、一直線。外見はクールなのに、心の中じゃとても熱血してるような人でね。素敵だった。憧れちゃったんだ」

 あきちゃんが商店街の向こう、もっと遠いところに目を投げていた。憂うような、切なそうな横顔をして、あの人を考えているというの。あきちゃんにこんな顔をさせるほど、あの人は魅力的だというの。

 よりにもよって、文芸部と因縁がある人が、愛しい人の憧れだなんて。

「その人が呼んでくれた?」

「うん。友達認定した日に、あきちゃん、って呼んでくれた」

 嬉しかったな。

 そう語るあきちゃんの横顔はまるで、映画で観た恋をする少女のようで。

 針ノ木先輩に明確な嫉妬と、大きな羨望を覚えた。


 夜になっても駅前は明るい。整然と並ぶビルが掲げる企業や商品の看板、店頭を彩る極彩色の電飾たち。道路を走っていく多くの自動車、行き交う人々。私が知っている狭い世界の中だけでも、これだけ多くの人、物が存在している。可愛い後輩は、少ない家族と一緒にそれらを守り続けているのだ。そう考えると、ますます愛しさが込み上げてくる。抱き寄せて、礼を伝えて、労をねぎらって、愛を注ぎたい。あきちゃんはやっぱり、私をおかしくする。

 愛しくて、愛しくて。

 駅前のロータリーに着いた。ここで私とあきちゃんの帰り道が終わる。足を止めて駐車場を見たら、漆黒の翼を広げた車が電灯の下で佇んでいた。車の隣にはいつも通り、たばこではない何かをくわえた執事が立っている。

「着いちゃったか。せっかくふみに近づけたのに、短い帰り道だ」

 足を止めた可愛い後輩が、私を見上げてほんの少し首を傾げる。

 私もあきちゃんと距離を縮められて嬉しい。あなたの前だったら、昔の自分を少しずつ取り戻せそうな気もしてきた。

 でも。帰る前に言っておきたいことがある。

「帰る前に一言言わせてください」

「どうぞ」

 笑顔でうなずく。私の言おうとしていることが分かっているようだった。

「妬ましいです」

 嫌だと思うことをはっきり口にする。あきちゃんを突き放していたときと同じように、我慢せずに伝えた。そもそも、突き放していたときの方がもっとひどいことを言っていたから、このくらいの本音は問題ないだろう。

 てっきり「むーっ!」と怒るかと思ったら、彼女は首を傾げたまま、あの妖しい微笑みを見せた。目を細めて、ゆっくりと唇の端を持ち上げる。出来上がった笑顔は、大人の女みたいに艶めかしく、誘惑してきた。

「私に『あきちゃん』と呼ばせるのは、憧れる人の代わりにしたいからですか?」

 おかしい。やっぱり私はおかしくなっている。

 あきちゃんと距離は近づいたとはいえ、私たちは友人同士に過ぎない。たとえあきちゃんがたまらなく愛しくても、その気持ちは秘めたままだ。それなのに、恋人が他の人に気を取られている感覚がして焦り、許せなかった。

 恋人なんかじゃないのに。

「代わりじゃないよ」

 妖艶な微笑みは浮かべたまま、少し強い口調で否定された。

「私は憧れの人を『先輩』と呼び、敬語で会話をしている。そして、同じ先輩なのに、ふみのことは『ふみ』と呼んで、敬語はやめた。さて、これはどういう意味だろうね?」

「私が下に見られているからでしょう。あるいは価値のない女だとか」

「違う。私がさっき図書館で言ったこと、思い出して」

 たしなめられた感じがした。言われた通り、あきちゃんの言葉をさかのぼる。

 図書館で私が問いかけたときにはっきり言ってくれたことがあった。

「軽蔑しない、ですか?」

「そう。絶対に軽蔑しない。ふみを下に見たり、価値のない女だなんて思わない。憧れる人の代わりするつもりもない。私はふみにも『あきちゃん』って呼ばれたいだけだよ」

 そう言って、白い電灯の下で静かに帰りを待つ漆黒の翼へ顔を向ける。隣に立つ執事が私たちに気づいて、軽い挨拶をするように顎を引いてうなずいた。棘科家の執事、あきちゃんと共に過ごす家族。そう思ったら、自然と頭を下げていた。

「そろそろ行くね」

 おやすみなさい。

 そう言って小さく手を振り、背中を向けて歩き出す愛しい人。

 ああ、待って。

 まだ帰ってほしくない。帰りたくない。

 私にはまだ、あなたに聞きたいこと、交わしたい言葉がたくさんある。

「あきちゃん!」

 離れた華奢な背中を呼び止めた。

 長い黒髪を揺らして、愛しい人がこちらを振り返ってくれた。

「本当に。本当に私を軽蔑しませんか? あなたは、私の手を取ってくれますか?」

 過去に私の手を引いてくれなかった人たちがいた。幼くて無力だった私を、土や泥の中に沈めて笑う人たちがいた。棘科輝羽が誇り高い守護者一族の末裔だということを知っていても、聞いておきたいことだった。今ここで、直接、あなたのきれいな声と共に本心を教えてほしい。

「嘘はつかないでください。本当の言葉を聞かせてください」

 あなたは、私の手を、取ってくれますか?

 彼女は一度目を閉じると、私に向き直って、硬い表情で見つめてきた。

「――嘘じゃない。本心だ」

 声色が、違う。

 気圧されて身を引いた。

 真剣という言葉が安っぽい。揺るがない志が、彼女の赤い瞳に宿っていた。ある日の放課後、図書館で悪漢を退けたときと同じ。英雄の気配が彼女を包んでいた。

「君が暗い森に迷ったなら、私は君の手を引き、太陽の下へ連れて行く。棘科一族の誇りと、棘科輝羽の正義を信じて、必ず、君を守る」

 出会ってから間もない日々。その中で、あきちゃんはたくさんの表情を見せてくれた。

 可愛らしい後輩の顔。私を誘惑する妖しい顔。

 そして、英雄の顔。

 かつて読めていた本の中にいる英雄。私が夢に描いた幻と重なる、凛々しい佇まい。そよ風が彼女の長い黒髪とスカートを揺らして、気高い容姿をより一層鋭く、色鮮やかに彩った。

 夢に描いた英雄の幻影が、目の前に。

 どうして、そんなに。

 これじゃあ、あなたがいないと、生きられなくなってしまう。

「今まで突き放してしまって、ごめんなさい。あなたの思いも知らずに……」

「いいの。私だってふみを戸惑わせたんだから、お互い様だよ」

 英雄の顔が崩れて、見慣れた可愛い後輩の微笑みになった。

「もう気にしちゃだめだよ? おやすみなさい、ふみ」

 振り返って、小さな背中が漆黒の翼へ歩いていく。

 遠くで執事がドアを開けて、あきちゃんが車に吸い込まれた。どう見ても執事とは思えない女性は、ドアを閉めて反対側へ向かう途中、片手を上げて笑顔を投げてきた。ずいぶんとフランクな執事だと思いつつ、もう一度頭を下げた。

 低い唸り声を響かせながら漆黒の翼が道路に出る。赤いテールランプが、私からどんどん遠ざかり、消えていった。

「おやすみなさい、あきちゃん……」

 微かなつぶやきがそよ風と雑踏に紛れて消える。

 私はその場を動けず、翼が飛び去った道路をいつまでも見つめ続けていた。

 どれだけ冷たく、ひどい言葉をあなたにぶつけただろう。それなのに、私を決して軽蔑せず、嘲笑せず、まっすぐ向かってきて手を取ってくれた。あなたが言葉にした志は、今まで人を疑い続けた私にはまぶしすぎる。あまりにもまぶしすぎて見つめることができない。

 それでも。

 あなたを、信じてもいいですか。

 秘めた恋心と一緒に、棘科輝羽という人間を、信じてもいいですか。

 右手で胸のリボンを握り締める。

 あきちゃんの匂いが、微かに香った。

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