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桜沢さんのお嬢さま  作者: 松山みきら
第3章 秘める想い -桜沢文音-
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8


 翌朝、母は機嫌を戻していた。結婚式の話には触れず、昨日私が吐き散らした話についても触れなかった。食パン一枚とコーヒー一杯だけの朝食をとって、身支度を済ませるとさっさと家を出発した。

 昨夜は死にそうなほど棘科のことを想いながら眠ったのに、夢の中には出てきてくれなかった。図書館には嫌でも顔を出すくせに、私が望んだら顔を見せないなんて、あまのじゃくなやつだ。放課後会ったら何をしてやろう。

 そんな理不尽なわがままを思いながら駅へ向かう。途中、登校中の小学生の姿を何人か見かけた。その中で、姉と弟だろうか、近い距離に肩を並べて歩く二人がいた。背が高い女の子が横断歩道の前で弟の手を引き、近くのポールに結び付けられた筒から黄色い旗を取って掲げた。走って来る自動車が黄色い旗を見てゆっくり停まる。安全を確認したら、小走りに横断歩道を渡って、停まった自動車に向かって二人で頭を下げた。

 旗を筒に戻して、幼い姉弟が歩道を歩いていく。東から差す朝陽が、二人の笑顔を輝かしいものに彩っていた。

『二人とも大きくなったんだし、仲良くできるでしょう』

 昨日、母親に言われた言葉を思い出した。

 私と姉はあの幼い二人のようにはできない。幼い頃、姉は登校中でも構わず、周囲の友人たちから注目を集めようと私に手を上げ、罵倒し、強さを示そうとした。姉にとって私は、言うことを聞かない生意気な妹であり、自分が優れた存在であることを確認するサンドバッグに過ぎないのだ。

 南へ歩いて駅にたどり着く。駅の前に、見慣れたワンサイドアップが見えた。

「ふーみん! おはよ!」

 朝から元気だ。余計な心配をさせないためにも、昨日の出来事は全力で隠そう。

「……おはよ。雪、話がある」

「おおっ? 珍しいね、ふーみんからなんて!」

 話しながら駅に入って、改札を抜ける。ホームには電車を待つ学生とスーツ姿が何人かいた。私たちの前には皺のよった深緑色のコートを着た背の高い女性が立っている。彼女からは強いお酒の臭いがして、少し気分が悪くなった。

「それでそれで? あっ、こ、告白だったらその、もっと、静かな場所が……」

 ワンサイドアップの先端を指先でくるくる。童顔が赤くなるのは可愛いかったけど、雪の期待はまったくの外れだ。雪の熱い妄想には触れず、用件だけ告げることにした。

「六月半ばの土日、棘科神社の例大祭なんだって」

「ぐはっ。突っ込んでくれないとか悲しみ!」

 顔を赤くしたまま噛みついてきた。

 昨日の出来事が頭をよぎり、救いを求めるように棘科を想う今、雪のやかましいくらいの明るさがちょうどよかった。

「その祭りで棘科が棘の巫女として舞うらしいから、一緒にどうかと思って」

「おおっ。ふーみんから誘ってくれるなんて! しかもあっきーの舞を見に行くとか! よっしゃあ!」

 右拳を握りしめてガッツポーズ。雪のやかましさが辺りに響き、ホームで待つ何人かの人の視線がこちらを向いた。正面にいる女性も振り返っている。三十代くらいのきれいな人だった。切れ長の目がうっとうしそうに歪められていて、目が合ったら反射的に頭を下げてしまった。

 あれ?

 この人、どこかで見たような――。

「ついにあっきーを友達として認めてあげたんだね! この日を待ってたよ!」

 雪は相変わらず、周囲を気にせず明るさを振りまいていた。今日は不思議と『やかましい』を言う気にはなれなかった。

「……違う。友達って感覚じゃ、ない」

 苛まれるほどに棘科を想った昨日。それは朝起きてもなかなか消えず、今も私の身体に微かな熱を残している。棘科に会いたい。今すぐ会って、彼女に触れられたい。放課後のわずかな時間しか会えないなんて、耐えられないくらい。

 こんな感覚は初めてだ。誰にも感じたことがないものだった。

「まだ友達とは思えない、ってこと?」

 私の顔を覗き込みながら聞いてきた。答えられず、黙って首を横に振る。

 友達ではない。私と棘科は先輩と後輩の関係に過ぎない。不愛想でひねくれた私でも、友情の判別くらいはつく。私が棘科に感じているのは友情ではない。友情のような温かみを感じる繋がりではなく、切なくて熱い、満たされないのに心地いい、奇妙な矛盾を孕んだ想い。私には理解できない、受け止めきれない感情の数々。初めて棘科に会ったとき以上に私の全身を敏感にさせて、狂わせていた。

「すぐそこにあるのに、形がぼやけて見えない。私にも分かんない」

「うぅん……。ボク以外の誰かと仲良くするのが久しぶりだから、友情回路が混乱してるのかな」

 友情回路。その表現はちょっと面白いと思った。

 ホームにアナウンスが鳴り響く。私たちを運ぶ電車が間もなく到着するらしい。

「とりあえずさ、あっきーのことは嫌いじゃないんだよね?」

「……まあ、一応」

 小賢しくて生意気だからちょっとムカつくと思うくらい。嫌いではない。ムカつくと感じているのに、昨日の夜は棘科のことばかり考えて、触られたい、会いたいと願っていた。ムカつくのに気になる。気になるけど面倒くさい。どうしようもなくわがままな感情だった。

 私のわがままや矛盾は、私自身を混乱させて翻弄する。

「嫌いじゃないなら、前向きに考えてオッケーだと思うよ! 幼馴染の勘では、あっきーのこと、受け入れ始めてると予想するっ」

 受け入れ始めている、か。

 雪に叱られて、棘科が歩み寄ってくれたことを考え直した。そして、棘科が心に秘めていた守護者の一族としての『内面』を聞き、彼女に私が憧れる英雄の心意気を見た。冷酷で嫌な態度をぶつけても退かず、私を笑顔にするんだと向かってくる。私が部長に絡まれたときも、自分より背が高くて体格の大きい相手にも怯まず助けに来てくれた。あいつは、姉や両親と違う形で私の手を引こうとする。切なさやつらさ、胸の中をかき回す変な感覚もあるけど、徐々に、棘科と共にいる時間が色づいてきたように思えた。

 電車が入ってきた。窓から見える電車内は、通勤や通学の人々で溢れていて座れそうもない。

「ほら、考えすぎないであっきーと向き合ってみよ。ふーみんが疑問に感じてること、あっきーに解き明かしてもらうんでしょ?」

「……そうだね」

 コートの女性に続いて電車に乗り込む。私と雪はドアのすぐ近くに立った。

 今日も一日が始まる。

 止まっていた私の時間が、動き出した。


 授業を受けて休み時間、また授業を受けて休み時間。何度か繰り返して、ようやく放課後を迎えた。今日はどの授業中も、意識の半分は授業に向けて、残りの半分は放課後のことを考えていた。別に棘科と改めて話し合うつもりはない。ただいつも通りにして、そのときに感じたこと、思ったことを自分なりに分析する。そうすることで、目の前でぼやける気持ちの正体に近づけるのではないかと考えた。

 清掃が終わったら、クラスメイトたちも荷物をまとめてそれぞれの放課後へ向かっていった。鞄の中に問題集やプリントを詰めていたら、読み進められていない白い背表紙の本が目に入った。図書館で借りたものではなく、お小遣いで買った幻想世界の物語。返却期限もなく、私のペースで自由に読めるとはいえ、このままではただの荷物だ。いつになったらまともに読めるようになるのだろう。

「ふーみん。ボク、今日も部活見学に行くよ。父さんも母さんも『正しいと思うことをしろ。尻拭いはいくらでもしてやる!』って言ってくれるからさ!」

 鞄の中に視線を落としていたら、先に帰り支度を済ませた雪がやってきた。図書館でぼんやりしている私と違って、何か活動できないかと新しい部活を探し続けている。そして、そんな娘の選択を応援する両親。親子揃って立派なものだ。

「暑苦しい親子。私はいつも通りだから」

「図書館だね。楽しそうな部活見つけたら教えるから、待ってなよ~!」

 無邪気でまぶしい笑顔だった。私にも部活を薦めてくれるのは、雪の友情として感謝できることだ。しかし、私は図書館で棘科と向き合いたい。部活に所属してしまえば、棘科と過ごす時間がなくなってしまう。

 鞄の口を閉じて、雪に向き直った。

「……雪。私、部活は遠慮しておくよ」

「えっ! どうして!?」

「棘科」

 短く簡潔に言うと、察したように雪が「あっ」と声を漏らした。放課後に図書館で過ごす時間は、棘科と向き合い、私自身を解き明かすためのわずかなチャンスなのだ。

「散々冷たくしてきたし、今更だとは思う。でも、私はあいつに解き明かしてもらいたいことがある。あいつが私を見限らないのなら、信用を取り戻したい。だから、時間がほしい」

 私がひねくれた人間になったのは私自身にも原因がある。たった一度の失敗、たった一度の恐怖、たった一度の間違い。人はあらゆる形で周囲からの信用を失って、どこかでまた取り戻す。私もたくさんの失敗と間違いを犯してきた。もはや満点の信用を取り戻すことはできないことも分かっている。

 それでも、ほんの少しだけでも取り戻さなくてはいけない。

 たった一人、決して私を見捨てようとしない愚かな後輩に、私自身を解き明かしてもらうために。

 童顔が申し訳なさそうに頭をかいて顔をしかめた。

「そっか、そうだよね……。変わってみようよって言ったの、ボクだもんね。ごめんよ」

「謝らなきゃいけないのは私の方。あんたにも散々、迷惑かけたし」

「何言ってるの! これからもずっと、迷惑かけてくれていいんだよ!」

 パッと笑って親指を立てる。この即答ぶり、昔の私なら笑顔を返せていただろう。今の私には、肩をすくめて呆れるくらいしかできなかった。

「小さい頃、お姉さんにいじめられてたふーみんを助けてから、ボクたちの関係が始まったよね。仲良くしてくれて、信じてくれて、ボクはすごく嬉しいよ」

 それは私だって同じだ。私の手を取ってくれたのは、今も昔も雪だけだった。私が周囲を疑い、突き放して嫌われるようになっても、決して私を見捨てなかった。親友だと、胸を張って言える人だ。

「でも、ボクはそばで支えることはできても、根本的にふーみんを助けられなかった。ふーみんの両親やお姉さんは、ボク一人じゃ敵わない大きな壁だったんだ……」

「いいんだよ。ウチの家族に噛みついて、あんたまで追い詰められるなんて考えたくない」

「……心配してもらえるって、嬉しいなぁ」

 表情が崩れて頬が染まる。鼻頭をかきながら、雪が話を続けた。

「他力本願で情けないんだけど、ボクはいつもお願いしてたんだ。ふーみんの壁を何とかしてくれるヒーローが来てくれますようにって、ずっと。……そしたらさ、今年、本当に来てくれたんだよ。ヒロイン、だったけどね」

 華奢な後輩の姿が瞬いた。

 部長に絡まれていた私を救いに来た、あの動き。あの目つき。

『貴様こそ何者だ。嫌がる彼女に何をするつもりだった!』

 今まで見てきた棘科輝羽とは思えないほど勇敢で力強い存在感。あれこそが彼女の本当の姿。現代に生きる棘の巫女。

 華奢で小さな後輩が、上級生の男子生徒から私を守ってくれた――。

 胸が鳴って、ほんの少しだけ息苦しくなった。

「あっきーは棘科一族で、守護者の末裔。ボクなんかよりもずっと、大きな信頼を持ってる人なんだ。そんな人がふーみんを解き明かしたいって、歩み寄ってくれた。あっきーは絶対にふーみんを裏切ったりしない。ボクを親友として信じてくれてるなら、ボクが信じる英雄も信じて、向かい合ってほしいんだ」

「雪……」

 雪は棘科輝羽を信じている。親友の悩みを打ち明けるに相応しく、解決に導いてくれる存在だと信じているのだ。自分の無力を知り、親友を救う力を持った英雄を待ち続け、ついに出会えた本物の英雄。決して、有名人だからと舞い上がっていたわけではない。棘科と知り合えたことは、雪にとって悲願だった。

 親友の思いやりが胸に染み込んで、涙がにじみそうになった。

「お願いだよ、ふーみん。親友が信じる英雄を、信じてほしい」

 雪の眼差しが硬く、真剣なものになっていた。童顔が深い決意を湛えると、こんなにも気高い美しさを放つものになるのか。心から信頼する親友を見つめ返して、静かにうなずいた。

「信じるよ。私たちは今までもこれからも、死ぬまでずっと、親友だから」

「……うんっ!」

 雪との話を終えた後、私は一人で図書館へ向かった。教室を出て階段を下りる。昇降口を横切って、渡り廊下へ。一歩、また一歩図書館が近づくにつれて、いつか感じた寒気や寂しさ、切なさが強くなっていく。胸の鼓動も緩やかに速度を上げていき、棘科と会うことに対して明確な期待を寄せているのだと実感した。

 昨日の出来事は、後輩に慰めを求めるほど私の心に傷を残しているらしい。

 情けない。

 図書館に到着したら、女子の図書委員が二人、仲良くカウンターに座っていた。目は合わせずに素通りして、まっすぐ私の指定席に向かった。

「……いないか」

 期待していた小さな背中はいなかった。残念がる自分の心に気恥ずかしさを感じながらライトスタンドのスイッチに触れた。いつも通り、二度瞬いた後に白い光が指定席の机を照らす。鞄を置いて椅子に座ると、深い、深いため息が漏れた。

 指定席は薄暗くて静かだった。静かになればなるほど、昨日の夜に私を苛んだあの感覚が戻ってくる。

 触れたい、触れられたい。

 声が聴きたい。

 冷たく突き放していた後輩に会いたくて焦がれている。

 両手で顔を押さえてうつむいた。

 雪には偉そうに言ったけど、本当は棘科に会って、この意味不明な切なさを慰めてほしいだけだ。解き明かしてほしいとか向き合いたいとか、そんなのは二の次。華奢で儚い後輩の存在を近くに感じていなければ、私が壊れてしまう。棘科に対する欲求ばかりが浮かんで余計に切なくなる。ただの後輩なのに、それ以上を彼女に求めている。

 突き放していたくせに、自分が沈んだときには慰めを欲して。

「みじめ……」

 今まで突き放してきた存在たちが頭に浮かんだ。

 私に歩み寄った生徒、先生はいた。でも、向けられた優しさや言葉を信じられなかった私は、そのすべてを突き放して自ら離れ、彼らにも遠ざかってもらった。雪以外の人間を信用することが、どうしてもできなかった。姉から救ってくれなかった両親、姉に虐げられている私を笑って見ていた人たち。彼らは私が泣いても叫んでも、見向きもせず、手を取ってくれなかった。涙を流して訴え続けても、私を笑うだけだった。

 結局、泥にまみれた私の手を取り、涙を拭ってくれたのは雪だけだった。

 人は簡単に裏切る。姉のように裏表があっても、美しければ、力があれば、みんなそちらへなびいていった。だったら、最初から信頼なんて築かなければいい。簡単に裏返るような信頼を大切にする必要なんてないと思った。そうすれば私も、いちいち悲しむことも、怒ることもなくなる。そう考えた私は、鈍い色をした重厚な鉄の塊に温もりを閉じ込めた。鎖を何重にも巻いて、鍵をいくつもかけて、胸の中にある黒い海の中に沈めた。二度と浮かび上がらないように、誰にも見つからないように。私の手を取って救ってくれた雪への微かな情だけを残して、桜沢文音の色彩は墨汁の海底に沈んで消えた。

 光の届かない、深い闇の中へ。

「あっ。こんにちは、桜沢せん――。先輩!? 先輩、どうしたんですか!?」

 私が顔を押さえてうつむいていたのを見たのか、後ろから駆け寄って来る後輩の音と声が聞こえて、甘い匂いが鼻に触れた。手を離して顔を上げたら、棘科の白い顔がすぐ隣にあった。白粉をしたように白くて、ライトスタンドの光で輝く赤い瞳の海。小さな鼻と、桃色の唇。

 もう二度と、新しい誰かを信じることはないと思っていたのに。

 もう二度と、新しい誰かに心を傾けることはないと思っていたのに。

 どうして。

 どうしてそんなに、可愛いの。

「後ろから見たら泣いているようだったので、びっくりしました」

「泣いてなんかないよ。考えごとしてただけ」

 棘科が椅子を持ってきて、いつものように私の隣に座る。顔を覗き込んだまま、心配そうに眉を寄せていた。

 不思議。今日の棘科は、すごく色鮮やかに見える。艶やかな長い髪の黒、傷一つない肌の白、釣り目がちな瞳の赤。そのどれもが色濃く、私の瞳に焼きついた。

「話してみてください。解決できるよう――」

「いい」

 言葉を遮って首を横に振った。

 棘科の声も聴きたいけど、今の私が欲しているのは会話じゃない。相談なんて二の次でいい。きょとんとしている棘科から視線を外して、またうつむいた。

「……もう少し、近くにきてよ」

「えっ?」

「何も聞かないで」

「…………」

 恥ずかしくて、棘科をまともに見られない。言葉も続かなかった。

 これでは、また突き放しているように思われるかもしれない。

 そんなのは嫌だ。近くにいてほしいのに、離れてほしくないのに。

 だめ。声が、出ない――。

「分かりました」

 棘科がはっきりと返事をして立ち上がり、椅子をぴったりとくっつけた。もう一度椅子に座ったら、私の脚に棘科の脚が触れた。触れた瞬間、あの切なさが一瞬で全身を走り抜けて声が漏れた。

「うあっ」

 まただ。昨日の夜と同じ、甘い声。慌てて口を押さえた。

 恥ずかしい。

 なのに、気持ちいい。

 嬉しい。

 意味、分かんない。

「これでいいですか」

 頬に後輩の視線が突き刺さるのが分かった。今、棘科はどんな顔で私を見ているのか。私を軽蔑しているだろうか。返事もできず、うなずくこともできなかった。

「私はこれから宿題をしますが、考えごとや悩みごとで話せるものがありそうなら、遠慮なく話してください。先輩のことを知りたいです」

「は、早く、宿題、しなよ」

 いちいち声が詰まってしまう。もう、私がいつもと違うことは、棘科にも伝わってしまっただろう。棘科は私にしつこく聞いて迫るようなことはしなかった。いつでも聞く用意があると姿勢を見せて、私から話すのを待っているようだった。

「はい。すぐに終わらせます」

 棘科が鞄から取り出したのは数学の問題集と、英語のプリントだった。

 小さな後輩が宿題をしている間、黙って目を閉じていた。触れ合う肩と脚の感触に意識を傾ける。薄暗くて、静かで狭い私の楽園。可愛い後輩の存在、漂う甘い香り。切なさと喜びが背中を妖しく撫でて、身体の芯に微かな熱が宿っていく。

 後ろめたい欲求。誰にも感じたことのない、何か。

「もうすぐ終わりますよ」

 後輩の明るい声を聞いて、ゆっくり瞼を開いた。机の上に広げられているのは数学の問題集だった。ウサギの耳みたいな形をした付箋が問題集に貼ってあって、そこに『宿題!』ときれいな文字で書いてあった。棘科はいつもウサ耳の付箋を貼って、宿題を忘れないようにしている。彼女ほど頭がいいなら、宿題のページくらい付箋を貼らずとも覚えていそうなものだけど。

「終わったら、どうするの」

 棘科の持つ緑色のシャーペンが踊る。まるで英語の筆記体を書くように流れて、みるみる数字が描かれていく。今まで私が隣で見てきた限り、彼女が宿題の中で最も速く終わらせていたのは数学だった。この宿題が終われば、棘科はまた私に注意を向けることになる。私に、何を向けるだろう。どんな視線を、どんな顔を見せるのだろう。

 早く宿題を終わらせて、私を見てほしい。でも、だめ、まだ終わっちゃだめ。心の準備ができていない。棘科と向き合う準備が全然できていない。

 また、気持ちが矛盾した。

「そうですね……。先輩も宿題しますか?」

「家でやる」

 私の答えと同時に棘科の手が止まった。シャーペンの芯を引っ込めて、最後に解答した問題を指先で見直す。小さくうなずいて、問題集が閉じられた。

「それなら、久しぶりに読書とか」

「やだ」

 英語のプリントと数学の問題集が鞄にしまわれる。棘科の宿題は、あっという間に終わってしまった。机の上で両手を組んで、私を横から見上げる。

「では、何をお望みですか?」

 息を呑んだ。

 妖しくて艶やかな、微笑み。首を傾げたら、さらさらと長い黒髪が流れ落ち、ライトスタンドの光を受けて星空のように瞬いた。棘科に望むものはたくさんあるのに、それを口にすることができない。素直になれない。先輩としてのプライド、人間としての理性が私の欲求を抑え込んで、どんどん切なくなる。棘科の眼差しから逃げて、机に視線を落とした。

 だめだ。逃げてはいけない。

 英雄を願った雪のためにも、親友のためにも、向き合わなくちゃ。

「あんたこそ、何が、したいの」

 雪からもらった思いを励みに、何とか絞り出した。

「何が、望みなの。私を、解き明かしたいとか、笑顔にしたいとか言って、さ」

「…………」

「あんたの……っ、あんたのせいで、こんな……!」

 声が震えて、寒気と切なさで身体もびくびくと震えていた。

 この後輩が守護者の一族として誇り高く生きてきたことはよく分かった。姉妹揃って地域の人々から大きな信頼も寄せられているのも知っている。疑っているわけではない。ただ、おかしくなった自分を処理しきれなくて、棘科に八つ当たりしていた。初めて会ったときから感じ続ける切なさが、昨日の出来事でもっと鋭く、際立つようになって。

 どうしたらいいのか、分からなかった。

「私が近くにいると、先輩がおかしくなってしまうということでしたね。目の当たりにして、どんな様子なのかよく分かりました」

 私は何も答えなかった。しゃべろうとすると声が震えてしまう。震えた自分の声を聞いたら、恥ずかしくてもっとおかしくなりそうだった。

「小学生の頃、中学生の頃と、棘科一族としていくつも問題を解決しました。私はまだ幼かったので、姉が主導となって解決してきたものばかりですが」

 彼女の過去。クラスメイトの靴や筆箱の盗難、いたずら電話、いさかいの仲裁と経過の対処など、幼い頃から様々な問題を見つけては解決してきたという。棘科一族として周囲から厚い信頼を寄せられる彼女は、理不尽に虐げられた存在にとって、まさに英雄だったのだろう。

「そこで『何が望みか』という質問に戻ります。私の望みは、棘科一族を信じてくれる人々の平穏です。だからこそ、様々な問題を解決してきた。信じてくれる人々が平穏に暮らせるように」

 何一つ迷いのない答えだった。

「先輩に対しても同じです。先輩は私と連絡先を交換してくださいました。それは私に対する信頼だと受け取っています。だから、私はあなたの平穏を望みます」

 そこまで言って、棘科がゆっくりと席を立った。まさか、と思って顔を上げた。見上げた後輩の瞳は悲しげに細められ、私を見下ろしていた。

「今日の先輩はとてもつらそうに見えます。気が利かなくて申し訳ありません。電話でも結構ですから、話せそうだったらいつでも連絡してください」

 細い指先が鞄に伸びる。

「本当にごめんなさい、桜沢先輩。こんなつもりはなかったんです」

 帰る気だ。

 嫌だ。今日は隣にいてほしいのに、近くにいてほしいのに。

 行かないで。あなたがいなくなったら、私は余計におかしくなる。

「では、今日はお先に失礼します」

 吸った空気が冷たくて、喉から胸の中心まで真っ白に凍りついた。暖かい春なのに、冷房を直に受け止めた後みたいに身体の表面が冷たく痺れる。それでも自分の目元だけは熱く燃えていて、私の前から立ち去ろうとする可愛い後輩を見失うものかと血が通っていた。

 行かないで。行かないで。

 胸から上がってきた言葉は、冷え切った喉で凍りつき、止まった。

 代わりに動いたのは熱を失って震える私の手だった。

 踵を返した棘科の細い腕をつかんで、思い切り引き寄せる。

「えっ、せんぱ――」

 次の瞬間には立ち上がっていて、小さな後輩の身体が胸の中にいた。逃すものかと抱きしめていた。棘科の鞄が床に落ちて、重たい音を立てる。自分の胸に後輩を押し当てて、細い身体の感触と、甘くて酔いそうな匂いを一番近くで感じた。

 待ち焦がれていた後輩の温もりだった。

 腕に伝わる、小さくて、柔らかい、細い身体。頬に当たる髪の感触と、溢れる匂い。棘科が視界から消えようとしたことへの悲しみ、その棘科が腕の中にいる幸せ、この身をなぞる彼女の感触への悦び。複雑に入り混じる感情の波は桜沢文音の一部を麻痺させて、凍りついた喉からやっと、声を押し出すことができた。

「行か、ないで……」

 かすれた声だった。細い指が私の腕に触れて、美しい声が胸を貫いた。

「私がいたら、先輩は平穏でいられない」

「それでもいいから……。お願い、行かないで、ください……」

 懇願していた。

 口から漏れたその言葉は、私の中にある先輩としてのプライドと、桜沢文音としての強情を崩して、地に立つ足からも力を抜いてしまった。一方的な短い抱擁を解いて、私は床にぺたん、と座り込んだ。がっくりとうなだれて、脱力しきって、目の前で立ち尽くす棘科を見上げることもできない。

 やって、しまった。

 棘科家のお嬢様になんてことを。これでは棘科が私を避けてしまう。避けるどころか、大問題じゃないか。同じ女同士なのに。今までどうしようもないくらい冷たく突き放してきたのに。強情で冷酷な先輩としていられたのに。今更「行かないでください」なんて――!

 もう、だめ。弱さをすべて、さらけ出してしまった。

 避けられるだけでは済まない。きっと、もっと恐ろしい罰が私に下る。

 棘科が私から離れていく寂しさ。自分の行為に対する罪悪感。指先から腕へ、冷たくなった血が心臓へ向かってくる。私の身体は恐怖に震え、みるみるうちに凍えてきた。

「……そんなに、怯えないでください」

 棘科が静かにつぶやいて、私の近くにあった椅子と落ちた鞄を遠ざけた。棘科も私の前に座り込んで背中を向けたら、そのまま私の膝に頭を乗せて床に寝転がってしまった。

「とげ、しな……?」

 可愛いお人形さんが、ぺたりと座った私の膝を枕にしている。

 膝、枕。

 長い黒髪が膝の上から床に広がり、もう一枚スカートができたかのようだった。

「もっと近くにいますから」

 逆さになった後輩が微笑んだ。返事を口にすることはできず、そのまま、ぼんやりと棘科を受け入れていた。自分自身に落胆したり、恥ずかしさを感じたりはしたけど、棘科が私の膝に頭を預けてくれたことは嬉しくて、幸せだった。

「帰ろうとして、ごめんなさい」

 弱さを見せてしまったから、上から押さえつけられることを覚悟していた。生意気を言われることも、嘲笑されることも、軽蔑されることも。でも、棘科はそうしなかった。可愛い顔を見下ろしながら、素直に、本音をこぼした。

「こわ、かった……」

 逆さの瞳がハッと大きくなった。分かりやすく眉が寄る。

「本当にごめんなさい。怖がらせてしまって」

 うつむく私を、膝の上から赤い瞳が見上げている。返事の代わりに、彼女の白い頬に手を伸ばしてゆっくり撫でてあげた。柔らかくて、艶やかで、気持ちがいい。目を細めて私の手を受け入れる後輩は、本当に愛しかった。

 ……愛しい?

 いと、しい。

 心の中で、その言葉を繰り返した。

 そうか。

 ああ。そうだったのか。

 私の身体を切なく、寂しくさせながらも、芯を熱くするあの感覚。

 ぞわぞわと肌の上を撫でて、背中を抜けていく何か。

 愛しさ。

 これが、誰かを好きになるということ、なんだ。

 認めた瞬間、不愉快だった背中の寒気や切なさ、寂しさが、急に心地よくなった。膝にいる棘科の存在がそれを余計に強く感じさせる。張り詰めていたものが消えて、私の意識が深呼吸をして目を覚ました。

「……お嬢様は、私を軽蔑しますか?」

「しないよ」

「今まで散々、突き放したのに? いきなりあんなことして『行かないで』なんて、言ったのに?」

「しない。絶対に」

 もう、立場が逆転しているようだった。弱さをさらけ出した私は敬語を、棘科は私に心を許して砕けた物言いになっている。

 生意気だなんて、これっぽっちも思えなかった。

「今までたくさんの問題を解決する中で、関わった人は大勢いた。問題を起こした張本人や被害者、被害者の家族。心を入れ替えてもらったり、立ち直ってもらったり、その過程で厳しく突き放されたことは何度もあったから、軽蔑なんてしない」

 頬を撫でる私の手に棘科の手が添えられる。

「でもね、先輩は少し違った。他の人たち以上に気になるの。ここまで気になったのは初めて。今も、先輩の膝枕がすごく幸せに感じるくらい。どうしてだろう」

「嬉しい」

「なら、笑ってほしいな」

 言われて、自分の表情を意識した。鏡を見なくても分かる。私は不愛想に、そして眠たそうに顔を固定している。申し訳なくて目を逸らしたら、膝の上で可愛い後輩が小さく笑った。

「気にしないで。今日は、先輩の笑顔を見るために一歩前進できたんだ。先輩が話せるようになるまで近くで支えるよ」

「本当に?」

「うん。約束する」

 もう少し。

 私の胸にある暗闇の海から、鉄の塊が姿を現そうとしていた。笑顔と涙を封じ込めた、重々しい、無骨な鉄の塊が。この鉄の塊が姿を現したとき、そのとき初めて、私のすべてを打ち明けられそうな気がした。

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