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桜沢さんのお嬢さま  作者: 松山みきら
第3章 秘める想い -桜沢文音-
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7


 棘科は毎日図書館に顔を出す。生徒会の仕事や会議があって閉館ぎりぎりになろうとも、必ず図書館を訪れ、私の隣に座る。私が先に到着していれば隣に椅子を持ってきて、棘科が先に来ていれば私の指定席を確保した上で勉強を始めていた。面倒だと思ってはいても図書館には行きたいし、棘科を避けるために図書館を離れるなんてしたくない。あいつに負けたみたいで悔しいから、私自身、子供みたいな意地を張っていた。雪にも叱られたし。

 今日も私は、棘科と共に本の森で静かな放課後を過ごしていた。頬杖をついて、隣に座る小さな後輩を横目で見る。このお嬢様はものすごい速度で宿題と予習を終わらせて、今は悠々と読書をしていた。数学の宿題をしているときなんてあまりにもサラサラと書いていくものだから、カンニングしているのかと思ったほどだ。

「どうかしました?」

 ガーネットみたいな瞳がこちらを見上げた。

 私よりも小柄で、きれいなお人形さん。部長に絡まれた私を救ってくれた人。忘れるはずもない、あの日の出来事は色鮮やかに記憶されていた。

 本棚の陰から姿を現したと思ったら一瞬で部長の背後に迫り、足を蹴り飛ばし、腕をひねり上げて押さえ込んだ。自分より体格の大きい男性をほんの一瞬で地にねじ伏せたのだ。マントさながらに翻る長い黒髪と、怒れる赤い瞳、部長を威圧する声と言葉。小さな後輩が見せた横顔は、悪党と対峙した英雄そのものだった。

 いくら守護者の末裔とはいえ、この小さな身体でヒーローみたいな動きを見せるなんて、部長から救われた今も信じられなかった。

「どうかしてるのはあんたでしょ」

「あ、それお上手ですね」

 嫌味をぶつけたつもりなのに笑い返された。

 憎たらしい後輩と知り合ってから、私は図書館で一切読書をしなくなっていた。本を取り出せば何の本かと尋ねてきて集中できず、棘科が話しかけてこなくとも、その存在に気を取られて読み進められない。瘴気に満ちた妖しい本の森で溺れていく感覚は、ずいぶんと遠くへ離れてしまった。消えた感覚に代わって現れたのは、棘科輝羽への奇妙な引っかかりだった。出会ったときに身体をなぞっていった理解できない感情がその一つ。そしてもう一つは、いくら鋭利で冷たい言葉を並べても、余計に近づいて関わろうとしてくる後輩の行動だ。

 理解できない感情と、理解できない行動。

 でも、少しずつ面倒に感じなくなっていくのが不思議だった。

「神城先輩、今日は来なかったですね」

「そうだね」

「何か用事ですか?」

「さあ」

 ライトスタンドの白い光をぼうっと見つめながら返事をする。雪が図書館に来なかった理由は、学校内外で新しい部活やクラブ活動を探しに行ったからだ。何も部活をやらないのもつまらない、絶対に楽しい部活を見つけてやるんだと、ずいぶん張り切っていた。しかし、話題を咲かせるつもりはないから棘科には教えない。

「そうだ。用事といえば、六月に棘の森でお祭りがあるんです」

 話題を広げてきた。雪に叱られたこともあるから、黙って聞いてやるか。

「棘科神社の例大祭で、温泉街も巻き込んだ大きなお祭りなんです。例大祭では、私が伝説に語られる『棘の巫女』として舞を舞うんですよ。棘の森伝説、ご存知ですか?」

「……少しは」

 小学生の頃に読んだ民話を思い出した。

 昔。何と呼ばれた時代かは分からない。でも昔。この土地に住んでいた人たちは突如として現れた巨大な土蜘蛛に脅かされた。土蜘蛛は人々の育てた田畑を荒らし、作物を食い尽くした後は人間や他の動物たちを見境なく食らったという。生き残ったわずかな人々は飢えと恐怖で疲れ果て、古来より立ち入りを禁じられていた聖域、棘の森に逃げ込もうと考えた。棘の森は神聖な森、妖怪である土蜘蛛は近寄れない。人間たちが棘の森に入るのを阻止するため、土蜘蛛は土砂崩れや地震といった災害を引き起こして妨害した。

 思い出した民話の冒頭をざっと話すと、棘科が柔らかく微笑んでうなずいた。

「さすが先輩。完璧です」

「この土地に住んでる連中は小学生のときに教えられる。よくある作り話でしょ」

「ふふ、そうですね。ここではありふれた民話の一つです。でも私は、真実だと信じて舞っています。この土地と、土地に住まう命の平穏を祈って、こうして舞うんです」

 本を閉じて、細い腕が緩やかに、艶やかに虚空を躍る。

 土蜘蛛が暴虐の限りを尽くす中、たった一人だけ棘の森にたどり着いた人間がいた。家族も、家も、友人も、何もかも失った若い娘。彼女は静寂を湛える森の中で、一人逃げ延びてしまったことを悔やみ続けた。ある日、自分も飢えと疲労で死にかけたとき、棘の森に温かい雨が降り注いだ。天から降り注いだ温かい雨と、棘の森が持つ神聖な力は若い娘をまったくの別人へと作り変えて、土蜘蛛に対抗するための大きな力を授けた。新たな姿と戦う力を携え、彼女は残った人々を救うために土蜘蛛と戦い、一切の傷を負うことなく土蜘蛛を地上から消滅させたという。

「若い娘は華麗に空を舞い、美しい羽を散らせながら土蜘蛛を翻弄した。棘の森から現れて、巫女のように美しく舞ったことから、人々は彼女を『棘の巫女』と呼んだ。以来、彼女の一族は『棘科』を名乗るようになる」

「わぁ。そこまで詳しく覚えていただけると、一族の末裔として嬉しいです」

 胸の前で両手を合わせてにっこり笑顔。首を少し傾げるところがポイント。

 あざとい。

「別にあんたのためじゃないよ」

 そっぽを向いて目を閉じた。

 棘科一族は昔から金持ちでこの土地を治める存在だった。大方、一族の権力を衰えさせないために作った物語なのだろう。興りに神秘性を持たせておけば、民衆の心をつかむのも簡単だ。一族の末裔とされる棘科輝羽は人形みたいに可愛らしく、姉の紅羽はハリウッド女優顔負けの美人で慈善事業家。彼女たちの先祖も同じように外見が優れているとしたら、つかんだ心が不動のものとなるのは当たり前だ。

「それでも、覚えていただけると嬉しいんです。姉だってきっと喜んでくれます」

「ふん。姉、ね」

 私にも一人、歳の離れた姉がいる。姉も何年か前にこの高校に在籍していた。私よりも背が高く、顔立ちもいいから頻繁に比べられた。気に入られるのはいつも姉の方で、妹の私は昔から何かと敬遠されたものだ。去年、クラスの誰かがカラオケ大会を企画したとき『桜沢さんは歌が上手らしいから盛り上がる』と、私に参加を呼びかけてくれたことがあった。そこで男子の一人が『桜沢姉ならいいけど桜沢妹は嫌だ』と言って雪が激怒したのを覚えている。私自身、もともと雪以外の連中と馴れ合うつもりはないからどうでもよかったが、姉がこの高校を卒業した後も比較されるとは思わず、少しばかり不愉快だった。姉と面識のない人間が、訳知り顔で偉そうに比較するのだから。

 お前が姉の何を知っている。

 お前が私の何を知っている。

 姉の内面も私の内面も知らないくせに。

「一族の成り立ちを知ってもらえると、私たちの内面も知ってもらえそうで嬉しいんです。ご先祖様がとても怖い思いをして、今の私たちがあるわけですから」

 胸に浮かんだ濁る感情を散らすように、透き通った声が通り抜けていく。瞼を開けて隣を見ると、棘科が柔らかく微笑んで私を見上げていた。ちょうど内面のことを考えていたから、考えを読まれたのかと思って息が詰まった。

「な、内面……?」

「はい。姉はご先祖様に誇れることをしようと決意して、この土地だけでなく世界を股にかけて活動するようになりました。そして私も、多忙な姉に代わってあの温泉街を預かりました。『ただの金持ち』だなんて言わせないって、二人で頑張っているんです。あ、執事も含めれば三人ですね」

 棘科家は大富豪。しかし、大きな屋敷に住むのは執事を含めてたったの三人。わずかに残った末裔だけで、先祖が築き上げてきたものを守ろうとしている。先祖が築き上げたものはお金だけではない。今も生き続ける棘科一族への信頼と、先祖が代々守り続けてきた人々の安寧も先祖の遺産。その莫大な遺産を、たった三人で守っているのだ。

「私たちを信じてくれる人々がいる。それこそが棘科一族のかけがえのない財産なんです。命を懸けたご先祖様のためにも、守らなくてはいけない。姉も私も、心の内でそう思っています」

「……それ、本気?」

「本気です」

 はっきりと口にした、心の内に抱える意志に胸が鳴った。

 小さな後輩は、やれ金持ちだ、やれお嬢様だと言われても、恐ろしい思いをして戦った先祖を信じて、恥じないように活動を続け、胸を張って生きている。図書委員と仲良くしたいという意志も貫いて、私からいくら嫌な言葉をぶつけられようとも向かってきている。執行部顧問の役目だって、無責任な教師たちが面倒ごとを押しつけたのに、棘科一族としてやり遂げようとしているじゃないか。こいつがタフなのは金持ちだからじゃない。心の内に秘めた強い意志が背中を押しているのだ。

 それに比べて私はどうだ。姉と比較されることを嫌い、周囲を疎んで自分の殻に閉じこもっている。ドライで馴れ合わない表面を演じていながら、心の内では確固たる意志も持たずに湿っぽい感情を抱き続けている。みじめな女だ。

 棘科は、たとえあの伝説が創作だったとしても、自分の一族が築き上げてきたものを守るため、偉大な先祖に恥じない生き方をしている。胸を張って、誇れることをしようと、意志を強く持って生きている。そんなことをはっきり言葉にして言われたら、夢物語だなんて笑い飛ばせるはずがなかった。棘科の語るそれは、私が憧れる英雄の心意気。幻想世界でしか見たことのない、光り輝く意志だった。彼女の艶やかな外見と、美しい志を見つめていれば、私の中に渦巻くみじめな悲観が和らぐ気がする。面倒だったはずなのに、今この瞬間だけで、身も心もすべて棘科に預けて眠ってしまいたいと願っていた。

 突き放そうとしていた後輩に救済を願っている。希望を感じている。

 手のひらを返すようで、本当にみじめだった。

「六月の、いつなの、祭り」

 赤い瞳を見つめたまま、なるべく素っ気ない態度を意識して聞く。意外な問いかけだったのか、棘科が聞き返すように声を詰まらせた。

「えっ? あ、はい。六月中旬の土日です」

「あんたが舞を舞うのは?」

「両日です。午前十一時から、棘科神社の境内で」

 棘科神社は温泉街の中、西方面にある。温泉街へは駅前からバスも出ているし、タクシーを拾ってもいい。雪も誘おう。

「……見に行ってやるよ」

 瞼を見開いて、棘科が小さな手を叩いた。

「本当ですか! 嬉しいです!」

「やかましい。図書館なんだから静かにして」

「ご、ごめんなさい……」

 先程まで一丁前に語っていたお嬢様がしょんぼりとうつむく。

 ……可愛いやつ。

「どうせ雪が祭りに行きたがるし、そのついで」

「そんなぁ。私はついでなんですか」

「十分でしょ」

「むーっ!」

 ぽすっと私の右肩に小さな拳が下りてきた。精一杯不服を表したつもりだろうが、遠慮して力が入っていないから肩叩きにもならない。

「点数稼ぎに肩叩きなんてご苦労だね」

「先輩のいじわる!」

 ぽかぽかと私の右肩が叩かれる。少しは肩叩きらしくなった。いい具合だ。

 怒り方も子供っぽくて可愛らしいお嬢様。彼女の心をはっきり言葉で聞いて、私の中で張り詰めていた壁が薄れ始めた。私には到底抱けないような、まぶしい意志。その意志にすがるように、私の心が彼女に希望や救済を求めている。

 少しだけ、棘科との付き合い方を見直すことにしよう。

 英雄の心意気を蹴飛ばすことは、できそうもないから。

「先輩、肩凝ってませんか?」

「あんたのせいで肩が凝るんだよ」

 口の悪さはなかなか抜けそうにないけど。


 自宅のある町、棘丘の駅舎につく。棘丘駅は曇り空で、日が伸び始めたとはいえ、薄暗くなっていた。きれいに掃除された木造の駅を出たら、自動車が行き交う大通りの歩道を更に北へ向かって歩き出した。我が家は駅から北へ歩いて十数分ほど。雪の家は駅前から少し南に歩いたところにあるパン屋さんだ。雪は部活を探しに行くと言っていたけど、何か収穫はあっただろうか。部活が見つからないようなら、家業を継ぐためにパン作りを手伝うのもありだと思う。

 暦は春。陽が暮れたら北の町は冷え込んでくる。家は好きじゃないけど、帰らなくては凍えてしまう。死と等しい眠りを望むくせに、本能はその眠りを恐れる。生き続けるためには自分に言い聞かせて理解させる必要があった。親と子、姉と妹、先輩と後輩。立場の上下、後から生まれたものが先人に従属する責務のようなもの。それらを理解できるようになれば、人間は大人として認められる。

 出る杭は打たれる。

 振られる槌に抗えぬなら、打たれぬ杭として埋まっておれ。

――大丈夫。私は杭として使えないもの。

 頭に聞こえたもう一人の自分に答えたら、意味の分からない涙がにじんだ。

 大通りを右に逸れて、住宅街へ入っていく。コンクリートブロックの塀や、よく手入れされた生垣が作る道を歩いて数分。住宅街の一番奥、突き当たりの角に私の帰る家があった。街灯に照らされて、傷んだ灰色の外壁と屋根が見える。茄子色の軽自動車が家の駐車場に停まっていて、母が帰宅しているのだと分かった。

 ブレザーのポケットから合鍵を出して、なるべく静かに鍵を回す。黒くて重たい玄関ドアを開けたら、ラベンダーの強い匂いがして顔をしかめた。もしかして、と左手にある靴箱の上を見る。開けたばかりと思われる紫色の芳香剤が置かれていて納得した。

「文音? 帰ってきたの?」

 玄関から二、三メートルほど先にある引き戸が開いて、茶色いエプロンを着た母が出てきた。あまり明るい顔はしていない。

「ただいまくらい言いなさいよ」

「……ただいま」

 ローファーを脱いで家に上がる。母の顔は見ずにまっすぐ洗面所へ向かった。

「そうだ。安珠あんじゅの結婚式、六月にやるって話だからね」

 安珠あんじゅとは、私の姉だ。高校卒業後に都会へ行き、音楽活動をしながらアルバイトで生計を立てていた。何年か前にライブで知り合った男性と付き合いはじめ、去年の暮れに入籍の挨拶に来た記憶がある。

「そう」

 生返事をしながら洗面台の電気をつける。暖色の丸いライトが二つ、鏡の前で光を放った。鏡に映った私は気怠そうで、光の加減か、目の下に隈ができているようにも見える。

「あなたも行かないとだめよ」

「どうして?」

 母の言葉が聞こえた瞬間、反射的に聞き返していた。栓をひねって手を濡らし、ハンドソープのポンプを二回押す。柔らかい泡が手のひらにこぼれて、私の好きな石鹸の匂いが漂った。

「あなたのお姉さんが結婚するのよ。兄弟姉妹が出席するのは当たり前じゃない」

 緩慢に手を動かして、両手全体を洗っていく。白い泡が手の中で大きくなって両手を包んでいった。石鹸の匂いが強くなって広がる。

「それ、私が姉さんのこと苦手だって分かって言ってる?」

「二人とも大きくなったんだし、仲良くできるでしょう」

 バカじゃないの。

 口には出さずに、腹の中で吐き捨てた。

 真っ白な泡をぬるめの水で洗い流す。排水溝の暗闇に、私を包んでいた泡が呑み込まれて消えていった。

「はいそうですかって仲良くなれるわけないでしょ。私が何されたか分かって言ってるの?」

「あのねぇ。旦那さんのご家族とも親戚同士になるんだから、これからお付き合いしていかなくちゃいけないのよ。あなたがそんなこと言ってたら『変なところから嫁をもらった』って思われちゃうじゃない」

「また体裁か」

 栓をひねって水を止める。手を払って軽く水気を切ったら、背後のタオルハンガーにかかっていたタオルを手に取った。タオルから衛生的によくない独特の臭気がして、一瞬手が止まった。悪臭タオルを乱暴に洗濯機の中に放って、新しいタオルを取って拭く。

「姉さんと仲良くするってどういうこと? あっちがどんなに間違っていても『YES』を言わなくちゃいけないってこと? 叩かれても蹴られても、全部私が悪いって我慢しなくちゃいけないことなの?」

「いい加減にしなさい! 怒るわよ」

 険しい顔をして、母が両手を腰に当てた。手を拭いたタオルをハンガーにかけて、怒れる母に向き直る。

 どうして、私が怒られなくてはいけないの?

 姉が私をいじめた過去は真実で、自己中心的な思考を完全な大義名分のように振りかざし、言葉と力で暴の限りを尽くした。幼い頃からあの人が巣立つまで、ずっと、ずうっと苦しめられてきたのに。

 どうして。

 どうして私が――!!

 拳を握りしめて、むかむかと沸き起こる怒りを思い切り吐き散らした。

「ふざけないで!」

 狭い洗面所に私の怒声が弾け飛び、壁がビリビリとその身を鳴らした。絶叫と怒りの眼差しをぶつけられて、母がわずかに肩を引く。溢れて止まない憤りを思いつく限り言葉にして突き立てた。

「どうして私が怒られるの!? いじめられたのは私なのに、どうして! 父さんも母さんはいつもそう。物を投げて、ベルトで叩いて、鼻血を出すまで殴って! ろくに解決もしないで、ただ外に放り出すだけだった!」

「……文音」

「昔からただの兄弟姉妹のケンカだって放っておいたのはそっちでしょ!? いつもいつも、助けてくれなかった!」

「文音!」

「去年応募したコンテストの作品を取り下げさせたのも間違ってる! 家の体裁、自分たちの体裁しか考えてない。私が姉さんから虐められたことを家族ぐるみで隠すなんて、おかしいって思わないの!?」

「やめなさい!」

 甲高い音と共に、私の頬に鋭い痛みが弾け飛んだ。

 母が目を吊り上げて唇を震わせている。頬を貫いた痛みが母の平手打ちによるものだと理解するのに時間はかからなかった。

「叩くことしかできないくせに! 父さんも母さんも姉さんも、暴力しかできないんだ!」

「親にそんな口をきくからでしょ!」

「娘の痛みを考えない親が悪い! 絶対に結婚式なんて行かない。叩くだけの親なんて、親として認めない!」

 絶対に従うものかと、頬に残る痛みと一緒に憎しみを吐き出した。

 私をにらみ続ける母をにらみ返して、二階にある自分の部屋へ向かった。

 その夜は夕食抜きになった。母は仕事から帰宅した父にしっかり私のことを話して、怒った父からも殴られる羽目になった。殴られるとはいっても、拳じゃなくて平手打ちだ。傷痕が残らないようにするのは器用だなと変なところで感心した。

 私は姉が苦手だ。物心ついた頃にはもう姉を恐れていた。些細なことで言い争いをして、取っ組み合いのケンカをして、最終的には年齢も体格も上だった姉にねじ伏せられる。おおよそのパターンはこうだ。

 姉がちょっかいを出してくる。

 私が怒る。

 姉が逆ギレする。

 暴力を振るわれて私が負ける。

 という形だ。暴力を振るう姉を避けて大人しく本を読んでいても、向こうから私を探して手を出してくる始末だ。取っ組み合いをしている瞬間を両親が見ていれば、ひとまずは止めてくれる。しかし、どうしてケンカになったのか根本的な解決をせず、私と姉の両方をベルトで叩いてただ黙らせるだけ。その後、姉は「お前のせいで私まで叩かれた」と見えない場所で更なる暴力を振るってきた。馬乗りになって首を絞め、顔を叩き、蹴飛ばし、腕や脚を踏みつけた。

 そんな乱暴を働くくせに、姉は不思議と友達が多かった。男子にも女子にも好かれて、私はいつも「あんな姉がどうして」と思っていた。でも、学校の授業では態度が悪く、宿題もやらない人で、担任の先生が頻繁に両親を呼んでは面談をしていたくらいだった。また、基本的に友人たちには愛想よく振る舞っていたけど、自分を『良く』見せるために他の生徒をこき下ろしたり、悪評を吹き込んだりしていたとか。高校時代に姉と同じクラスだった生徒の一部は、姉の二面性を知って幻滅したと聞いたこともある。

 自分の思い通りにならなければ暴力を振るうか、周囲の人間関係を使って抹殺しようとする。プライドも高くて攻撃的な人。

 そんな姉と、仲良くできるわけがない。

 

 家の中でもうかつに出歩けば、両親たちが向けるあからさまに嫌な顔を受け止めなくてはならないから面倒だ。お風呂から上がったら歯も磨き、あとは寝るだけの準備をして部屋に閉じこもった。

「……だめか」

 ベッドに腰かけて、読み進められない本とにらみ合う。棘科と知り合ってから読書は全然できなくなっていた。本とどれだけ向き合おうと幻想の物語は一向に進まない。こういうときにこそ集中して読めたら、幻想の世界にまどろんで、嫌なことも忘れられるのに。

 本を開こうとすると、幻想の世界に代わって棘科の顔ばかりが浮かんでくる。

 並外れて整い過ぎた容姿、私を貫いていく冷涼で美しい声、甘く酔わせる匂い。

 白い顔に浮かぶ、血の色に満たされた瞳。

『面白半分ではありません。あなたを笑顔にするまで、私はあきらめません』

 本をカーペットの上に投げて、ベッドに背中を預けて倒れた。天井の青白いライトがまぶしい。右手を目の前に持ってきて、まぶしい光を隠した。

 青白い。

 青白い、肌。

 に、赤い瞳。

 ああ、私を呼ぶ声が聞こえる。

 初めて会った日に見せた明るい笑顔と、妖しい微笑みが色鮮やかに戻ってくる。

 棘科の顔が浮かんで、消えない。頭から離れない。

 両親と揉めて心が弱っているから?

 幼い頃の荒んだ日々を思い出したから?

「とげ、しな……」

 声が漏れた。

 甘くてとろけそうな、求める声。

 どうしてこんな気持ちが浮かぶのか。どうしてこんなに切なくなるのか。あいつは確かにきれいで可愛らしく、礼儀正しいお嬢様だ。英雄の心意気も持ち、棘科一族の末裔として立派に生きていると思える。

 そんな彼女に何を求めているの。

 胸をかきむしりたくなるような、心臓をえぐり出したくなるような苦しさ、焦り、切なさ。その、乱れて絡み合う感情の中に、ただ一つ明確な炎が燃えていた。

 会いたい。触れたい。触れられたい。

 そして、殺されたい。

 私を壊して、血を啜って肉を喰らってほしい。

 かけ布団を乱暴に身体に巻いて、きつく、きつく、自分を締めつけた。

『先輩』

 棘科の幻を瞼の裏に浮かべたまま、私の意識は闇に沈んでいった。

 殺して、殺してと願いながら。

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