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泉実先輩と別れ、図書館へやってきた。カウンターは無人で、司書の先生も見当たらなかった。何かあれば桜沢先輩が対処してくれるだろうという信頼の表れなのか。途中、壁にかかった時計を確認したら、針は五時ちょうどを指していた。
閉館まであと三十分。カウンターを通り過ぎ、奥の席へ早足で向かう。
今日の定例会議は議題も多く、長引いてしまった。宿題は家でやるとして、桜沢先輩と話すことに注力してみよう。
「帰りなよ。あんたと話すことは何もない」
本棚の向こうから、桜沢先輩の冷たい声が聞こえてきた。まだ指定席にたどり着いていないのに、と驚いたのも束の間、すぐに違う生徒の声が返事をした。
「俺にはある。文芸部員として責任は果たしてもらうぞ」
男子生徒の声だ。今の言葉を聞けば、文芸部の関係者だと判断できる。足音と息を殺し、本棚の角まで歩を進め、本棚を背にして指定席の方をそっと覗いてみた。
背の高い男子生徒の背中と、椅子に座って頬杖をつく桜沢先輩の背中が見えた。
「文芸部に戻るつもりも、物語を書くつもりもない。早く消えて」
私と話すとき以上に冷たい口調だった。冷淡で抑揚がなく、遠慮も一切ない。男子生徒を一度も見ずに背中で会話をしている。第三者に聞かれて事を大きくしたくないのか、二人の言葉に敵意はあっても、決して大声で怒鳴り合うことはしていなかった。静かで冷たく、しかし肌を切るような鋭い口論だった。
「部長命令だ。早く部室に行って、作業をしろ」
「退部届は出した。あんたに従う理由はない」
「受理したつもりはない」
「知ったことじゃないね」
部長命令、退部届。ここからでは顔を確認できないが、なるほど、あいつが文芸部部長の明町優樹か。過激な活動を指示するだけあって、ずいぶん高圧的、威圧的な言動をする。それに真っ向から対立する桜沢先輩もなかなかだ。
「強情な女だな」
不意に、男子生徒が桜沢先輩の胸倉と腕をつかんで無理やり立ち上がらせた。そのまま本棚に叩きつけ、顔を近づけて舐め回すように見つめる。嫌な笑みを浮かべ、桜沢先輩に迫るその行為。腹から胸へ、熱い何かが駆け上がって自分の顔が引きつった。
無性に、腹が立つ。
「文音……。他の連中はどう思っているか知らないが、少なくとも俺はお前を評価しているんだぞ」
「離して。気持ち悪い」
棚に押しつけられながらも、桜沢先輩は一つも慌てていない。いつもの眠たそうな瞳を明町に向けて、侮蔑するように、嫌悪するように唇を歪ませていた。
「お前が必要だと言っているのが分からないのか。文芸部で居場所を作って、もう一度物語を書くチャンスだって――」
「お前の物語はお前が執着しているものの焼き直しに過ぎない。忘れたとは言わせないよ。あんたが言った言葉だ」
先輩が明町の声を遮って言った。反論する間を与えないまま、更に畳みかける。
「わざわざ私の姉さんに文書データ送ったんでしょ? 姉さんは言ったよ。『妹が書いてると思うと吐き気がする』ってさ。桜沢家の内情が元になった作品だから笑い者になるって、両親にも猛反対されて、コンテストは取り下げることになった。最終選考まで残った作品を捨てさせておきながら、文芸部の名誉を取り戻すなんてできるわけないでしょ」
先輩の書いた作品が最終選考まで残っただって?
しかし、あの男が先輩の姉に作品を見せたのがきっかけとなり、最終選考から下りざるを得なくなった。今ここで交わされた言葉が真実なら、あの男は桜沢先輩の大きな好機を潰したことになる。好機を潰され、両親にも姉にも否定され、挙句に明町から罵詈雑言を浴びせられる。負の出来事が降りかかり続ければ、部活を辞めたくなるのは当然だ。そもそも、最終選考まで残った作品を取り下げさせるなんて妙な話だ。明町が掲げた『文芸部の名誉を取り戻す』という目標にも矛盾する。
なぜ先輩の姉にその作品を見せた?
先輩の姉と明町の関係は?
疑問は残るが、桜沢先輩が文芸部を辞めた理由はおおよそ分かってしまった。距離を縮める前にこんな形で知ることになろうとは。
「居場所をくれた文芸部、歩み寄ってくれた部員たち、最終選考まで残ったチャンス。全部、何もかもあんたが壊して奪っていった。これ以上私から何を奪おうっていうの?」
「言いたい放題だな!」
胸倉をつかみ直して、もう一度本棚に叩きつける。大きな音がして、一瞬だけ桜沢先輩の目元が歪んだ。
「無能揃いの文芸部が何だ。コンテストの最終選考がどうだと言うんだ。落ちこぼれは黙って俺のものになれ。周囲に怯える必要もなく、姉の恐怖も感じずに安心して暮らせるぞ」
冗談じゃない。お前の言葉は従属を強制するようにしか聞こえない!
取り押さえてやろうと、踏み出したそのときだった。
嫌悪感に満ちていた先輩の目がふっと、悲しい色に変わった。
「姉さんに振られたから、私で妥協するわけか。……かわいそうな人」
桜沢先輩の言葉が耳から脳に届き、意味を明確に理解する。
明町が起こした行動の動機を察した瞬間、額と目の周りが熱く燃え上がった。
色恋沙汰――。
明町は、先輩の姉へ想いを寄せていたが叶わなかった。それでも何とか彼女の興味を自分に向けようとして、犠牲になったのが桜沢先輩。桜沢家の内情が書かれた作品を封じれば、明町が桜沢家を守ったことになる。やつは桜沢先輩を売って、先輩の姉を振り向かせようとしたのだ。最終選考に残った作品だろうと、想い人の心さえ手に入るのであれば容赦なく生贄にして。
文芸部の名誉など、どうでもよかったのだ。
しかし、結局先輩の姉が明町を選ぶことはなかった。叶わなかった想いの矛先は形を変え、想い人の妹へ向けられる。
右拳を握りしめた。硬く握られた拳は熱を持ち、震えた。
想い人を振り向かせようと贄に捧げるだけでは飽き足らず、叶わなかった欲望の代替品として従わせようとするのか。先輩の魂を、踏みにじっておきながら。
明町優樹。貴様は――。
貴様は、絶対に許さない!
「貴様ああっ!」
私の怒声が図書館を貫くと同時に本棚の陰から飛び出し、明町の顔がこちらを向いた瞬間には近くまで踏み込んでいた。彼の膝裏に思い切り蹴りを見舞って膝をつかせる。桜沢先輩をつかむ手が離れたら、今度はその手を背中の後ろへ強くひねり上げて床に押さえつけた。押さえつけた男の身体から軋む音が聞こえる。
明町は痛みに声を上げて突っ伏した。
「うわああっ! 誰だ、何をする!」
「私は棘科輝羽。貴様こそ何者だ。嫌がる彼女に何をするつもりだった!」
「と、棘科だって……!?」
力を込めて横へ突き飛ばし、桜沢先輩を庇うように前に出た。
転んだままの明町が腕を押さえながら後ずさる。彼の顔をしっかりと認めた。
写真で見た顔と同じ。はっきりした眼差しと、黒いセルフレームの眼鏡。胸元に結ばれた制服のネクタイは緑。緑色は今年の三年生を示す色だ。間違いない、こいつが桜沢先輩を苦しめている原因の一人、明町優樹。
相手は上級生。
しかし、桜沢先輩へ向けた仕打ち、そして文芸部員たちを苦しめてきた愚行は決して許されない。拳を握りしめて、明町の目をにらみ続けた。
「文芸部がどうとか聞こえたぞ。文芸部が部長の狂気に苦しめられていることは学校中で噂になっている。貴様がその部長か」
「生意気な……。俺は信頼を失った文芸部を立て直そうとしているだけだ。下らん馴れ合いや甘えで信頼など取り戻せるはずがない。結果を出すために堕落しきった連中の尻を叩いているんだ」
信頼を取り戻す。聞こえはいいが、桜沢先輩に手を出した今となってはその言葉もひどく安っぽく感じられた。学業に支障をきたすほどのノルマを与え、罵詈雑言で部員を追い詰める非道が立て直しに繋がるとは到底思えない。実際に所属していた部員は大勢が退部し、文芸部が壊れてきているのは明白だ。
やはり目を逸らさず、明町がどんな行動をとってもすぐに対処できるよう警戒しながら怒鳴り返した。
「バカなことを。貴様の仕打ちが部員を追い詰め、文芸部を更に壊している! 部員の信頼すら得られない部長に、周囲からの信頼を取り戻すなど不可能だ!」
「な、何を根拠にそんなことを……。入学したばかりの一年生に何が分かる!?」
「……何と愚かな男だ。いいだろう、はっきり言ってやる」
生徒会の会議で話した厳格と無責任を思い出した。明町本人は結果を出すために厳格な指示をしているつもりだろうが、部員や周囲から見れば狂気でしかなかった。大勢の部員が明町を原因として部活を離れたというのに、それを認めず、改善せず、傍若無人に振る舞い続けるのは部長として無責任だ。部長という小さな権力に優越感を覚えるような、器の小さい男なのだと思った。
「大勢の部員が離れたこと、そして貴様の指示する活動が一切実を結ばないのが何よりの証拠だ。貴様はただ他人を見下し、恐怖や力で抑えつけ、それを信頼を取り戻すための活動として、勝手な自己満足に浸っているに過ぎない!」
一歩、足を前に踏み出して明町を威圧した。彼の唇の端が震えて引きつっているのが見える。恐れを感じているのか、屈辱を感じているのか。しかし、貴様以上に大勢の部員が屈辱と苦痛に悩まされ続けてきた。人の自由を踏みにじるような真似を繰り返した狂気は、守護者の一族として決して見過ごせない!
「先祖が代々守り続けてきた人々の平穏を乱すのなら、たとえ相手が上級生であろうと容赦はしない。貴様がいかに私を侮辱し、否定しようと、私は貴様と戦うぞ」
怒りで熱を持つ指で明町を指差し、低い声で言葉を突き立てた。
「――覚悟しておくんだな」
「ひっ」
彼は青ざめるとすぐに立ち上がり、本棚の向こうへ駆けて行った。
やつは自分の行いが間違いであったと知るべきだ。棘科一族の信念を持って向かい合ったつもりだが、これでは脅迫だろうか。私はすぐ頭に血が上ってしまうからいけないな。
足音が消えたのを確認して、後ろに庇った桜沢先輩を見上げた。
彼女の瞳は本棚の向こうを見ていた。憐れみの光を宿して。
「先、輩……?」
なんで。
どうして、そんな目をするの。
一世一代の機会を奪った人に、あなたを踏みにじって欲望を満たそうとした人に、どうして慈悲を向けようとするの。あなたを力で従えようとして、思いやりの一つも見せなかったのに、どうして憐れんで、思いやる目をしているの。
嫌だ。
やだよ、あんな男を見ないで。
「先輩!」
走り去った愚か者に繋がれた視線を切り裂きたくて、強く先輩を呼んだ。あからさまで女々しい苛立ちが浮かんで消える。
いや。苛立ちじゃない。
これは、嫉妬だ。
「……大声出さなくても、聞こえてるよ」
視線が切れた。私の方は見ずに、すっかり乱れた胸元を直して、汚れを落とすように制服を払う。大きく深呼吸をしたら、席に座ってまた頬杖をついた。私も鞄を机の上に置いて隣に座る。先輩は頬杖をついたまま、そっぽを向いた。
頬杖をつく腕が、ほんの少し、震えていた。
黙って先輩を見上げる。
先輩、怯えているんだ。
「詳しく説明してください。だんまりは許しませんから」
事前に調べていたことは内緒にして、少し強引な口調で聞いてみた。今なら、先輩の周辺や文芸部について踏み込んだ話もできそうな気がする。予想通り、先輩はすぐに返事をして応じてくれた。
「……まったく」
あの男、明町優樹。
昨年、文芸部所属の部員が吹奏楽部の楽器を壊した事件を受けて、文芸部の信頼と名誉を取り戻そうと過激な活動を推し進める張本人。部活顧問の先生すら退職させるほどの傍若無人な振る舞いを続け、多くの部員を退部に追いやった。学業にも支障をきたす過剰な活動は、生徒指導を担当している八坂先生にも伝わった。何回か話し合いの場が持たれたそうだが、決定的な意見や方針は打ち出せず、話は平行線のまま。教職員たちの間では文芸部を廃部にする話まで出たくらいだ。もちろん、廃部は学校側の横暴だと明町が喰らいついたのは言うまでもない。
先輩が話してくれたのはそこまでで、私が既に知っている情報と同じ内容だった。先輩の姉と、最終選考に残った作品については口にしなかった。これらについてはまだ追求しないでおこう。万が一盗み聞きがバレてしまったら口を聞いてくれないかもしれない。せっかく先輩の抱える問題に近づけたのだから、次の手に繋がるよう、慎重に進めて行こう。
「しかし愉快だね。守護者の一族に見られた上、取り押さえられるなんて。あいつ、プライドだけは高いから悔しいだろう」
愉快だと言いつつも、先輩の顔は笑っていない。腕の震えも治まっていない。強がっているのは明白だった。
先輩は、怖かったんだ。
明町という存在が。
明町に力を振るわれたことが、怖かったんだ。
そう思った途端、桜沢先輩が急に近い人に感じた。触れられないほど鋭利で高い位置にいたはずなのに、抱き寄せて慰めても拒まれないのではないかと、変なことを思った。
「ね、先輩」
返事をせず、先輩の眠たそうな瞳が私を見下ろす。頬杖をつく腕を指差して、首を傾げてみた。
「腕、見せてください」
「やだ」
「だめです。見せなさい」
「……妙に強気でムカつくんだけど」
「いいから見せなさい」
心底嫌そうに顔を歪めてため息をつく。そっけなく差し出された右腕から、微かな石鹸の香りがした。手首で留められたブラウスのボタンを外して、ブレザーの袖と一緒にそっとまくり上げる。先輩のきれいな白い肌の上に、赤い手形がしっかりとついているのを見つけた。
「ちっ」
舌打ちを聞いて見上げたら、すぐに目を逸らされた。
「……怖かったですよね」
「…………」
「無理しないでください」
嫌味じゃなくて、先輩に心を傾けて言った。口から出た声は私が思う以上に穏やかで柔らかいものだった。彼女は目を逸らしたまま何も言わない。不機嫌そうに横を向いて、沈黙している。
袖のボタンを留めて、制服を元に戻す。でも、腕は離さなかった。先輩の腕から手の甲へ、何度も何度も、優しく撫でてあげる。こんなことをしても、痛みや赤い手形が消えるわけじゃない。それでも、撫でずにはいられなかった。
「怖い思いをさせて、ごめんなさい」
結果的に最悪の事態を避けることはできても、桜沢先輩を恐怖させ、傷つけたのは私にも原因がある。先輩の抱える問題を探ろうと聞き耳を立てて、すぐ助けに行かなかった。あの男が先輩を本棚に叩きつけ、迫っていたあの瞬間。もし、あのとき私が間に合わなかったら。閉館まで三十分だからと図書館を訪れなかったら。
最悪の事態を想像すると、あの男だけでなく、自分自身にも怒りが込み上げてきて、悔しくてたまらなかった。
「意味分かんない。何であんたが謝んの?」
先輩の疑問はもっともだ。この謝罪の理由は知られるわけにはいかないから、簡潔な言葉でまとめてごまかすことにした。
「悔しいからです」
先輩の腕を撫でる手を止めて、うつむいた。背中が縮こまり、丸まっていくのが分かる。
情報を探ろうと様子見をしていた自分が卑怯で悔しい。
あの男が桜沢先輩に迫ったのが悔しい。
先輩に触れて、傷つけて、視線まで奪ったあの男が許せなくて、悔しい。
「バカなやつ」
ため息交じりに言って、左腕が私の頭の上に伸びた。手のひらが頭の上にそっと置かれて、私の長い髪をゆっくり、ゆっくり撫でていく。落ち着かせるように、何度も繰り返して先輩の手が私の頭をなぞっていく――。
全身が先輩の指を知ろうと、肌で感じようと待ち構えている。
目を閉じた。
闇の中、しなやかな指の感触を、頭で、髪で受け止めた。指が動くたびに、私の薄っぺらい身体が声を上げる。音を立てる。胸の中心を叩いている鼓動が、速さを上げていく。
変な、感じ。
先輩は私を落ち着かせようとしているのに、心はもっと熱を帯びてくる。荒々しい熱じゃない。布の上に落とした血が、じんわりと染みて広がっていくような。
気持ち、いい。
「悔しくない。何も、悔しいことはないんだよ……」
子供か妹をたしなめ、優しく言い聞かせるように、慈愛に満ちた声色だった。初めて聞いた声色。胸をくすぐる優しい声。
すごく心地よくて、甘えたくなった。
「……助けてくれて、ありがとう」
ゆっくりと瞼を開いて、先輩を見上げた。
見えた先輩はいつも通りで、笑顔じゃなかった。私をしばらく見つめた後、頭を撫でていた手を離して、そっぽを向いてしまった。しかし、私に預けた右腕は引っ込めない。このまま撫でていてもいいのだと思った。止めていた手を動かし、先輩の腕から痛みが消えるように祈って、撫で続けた。
長いようで短い三十分。
先輩の匂いと感触を、何度も何度も、手のひらに焼きつけた。