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桜沢さんのお嬢さま  作者: 松山みきら
第13章 転生の日 -桜沢文音-
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 親友と共に過ごすひとときは楽しくて、あっという間に過ぎていく。シルバーの細い腕時計が指す針の先、近づく時間に緊張で胸の奥がぐうっと痛む。棘科神社の境内で見たあきちゃんの舞が遠く色褪せてしまうくらい、私は緊張に苛まれていた。温泉街の情緒ある町並みが遠い。祭囃子が遠い。香ばしい屋台の香りも、人々の賑わいも私をかすめるだけで心に届かない。

 上の空とは違う。緊張に気取られて、盲目になっていた。

「――みん! ふーみぃ~ん!」

 全身を揺らして、親友が目の前で両腕を振っていた。

「あ……。え、ええ、はい。何でしょうか」

「ほら、着いたよ! 二時から執事さんと約束してるんでしょ?」

 気がつけば、棘の森温泉街の中央、森林ステージの入り口までやってきていた。ステージと同じ木材で作られたと思われる入り口の四角いアーチには『第十回棘の森温泉街地域芸能フェスティバル』と看板が掲げられている。青々と伸びる木々の向こうではジャグリングが披露されているらしく、パフォーマーの軽快なトークとテンポの速い曲、そして歓声と拍手が鳴り響いていた。

 腕時計をもう一度確認する。時刻は一時四十九分。

 約束の時間まであと十分ほど。

 ぎゅうっ、と、胸がまた強く痛んだ。

「ふ、ふーみん、震えてるよっ。どうしよ、えっと、勇者はこういうとき、どんなアイテムを使えばいいんだっ! ぐおおおっ」

 雪が心配そうに頭を抱えて唸り始めた。

 唇を噛んでうつむく。指先が、脚が、震えていた。

 やっぱり、緊張してしまうのか。

 人前に出るのは怖い。納得できるくらい練習もして、流々さんからアドバイスをもらって、最高の舞台と最高の楽曲を用意してもらった。あきちゃんたち棘科一家や親友の雪、大勢が変わろうとする私を激励し、支えてくれたのに。落ち着いていたはずの緊張や不安、恐怖が再び私の中に浮かんできて、初夏を迎える棘の森で私を凍えさせる。

 でも。

 でも、これは乗り越えなくちゃいけないもの。

 今こそ、小さな一歩の勇気を出すときだ。

 これからを、切り拓くために。

 拳を握り、顔を上げて、頭を抱える親友を見つめる。

 四月で雪と駅前で口論したときのことを、何となく思い出した。

「私、怖いです。怖いですが、歌いたい。歌いたいし、聴いてほしい。ここから先は、私次第なのです。私が踏み出さなくてはいけない、あと一歩なのです」

「…………」

 頭を抱えていた手を離し、じっと見つめ返してきた。優しい風が森の中を吹き抜けて、屋台の匂いと森の匂いをまといながら私たちを撫でていく。

 不安だし、緊張もして怖いけど、歌いたい。

 自分の意志で、自分の踏み出した勇気で歌を歌い上げたい。

 恋人や親友に甘え続けるばかりでなく、私自身の手で。

「踏み出すべき一歩の勇気まで、あなたに頼るわけにはいきません」

 親友との決別じゃない。四月に雪が話していたように、やがて違う道を歩く未来に備えて、私自身の意志で勇気を獲得しなければならないということ。恋人や親友と、これからも共に生きていくために。

「私は、大丈夫です。どうか見届けてください。親友として、私の一歩を」

 親友が両手をぐっと握りしめて、真剣な眼差しでうなずいた。大きな声もからかいの言葉も出さず、ただ黙ってうなずいてくれた。

 雪は森林ステージの入り口で常盤さんや他のクラスメイトと合流し、私の舞台に備えてステージの観客席で待つと話していた。雪から「楽しみにしてるからね」と笑顔で送り出してもらい、私は森林ステージの裏手、関係者用出入口へ向かった。

 真っ黒な重たい鉄扉を開けると、真正面に楽屋を管理する事務室の受付カウンター、右手には各楽屋に続く白い廊下が伸びていた。カウンターではあやめさんが事務室の若い女性と談笑していて、口元には例のごとくキャンディーの棒が覗いている。私が入ってくるのを見つけると、ニカッと明るく笑って歓迎してくれた。

「よう! 十分前到着とは模範生徒だな。祭りは楽しんでくれたか?」

「はい。屋台で腹ごしらえもして、あきちゃんの舞も見てきました。とても素敵なお祭りですね。あっという間でした」

「ばっちり楽しめたみたいだな。棘科姉妹も喜んでくれるぞ」

 今日が終わって館に戻ったら、きちんと二人に「楽しかった」と伝えよう。かつて両親や姉を憎み、過去を恨んでばかりいた私が、読書以外の何かを楽しく感じ、時を忘れるほどに没頭した。昔から信頼する親友と美味しいものを食べ、恋人の舞に見とれ、生まれ変わるための舞台にも立てる。

 私は幸せ者だ。心からそう思う。

「さあ、楽屋へ行こう。おめかしの時間だ」

 あやめさんに連れられて、廊下の中央にある楽屋へ。外の廊下と同じ清潔感のある白い部屋で、ユニットバスとトイレもついた立派な楽屋だ。部屋の左手にまぶしい電球に囲まれた三名分の化粧台、右手にはカーテンのついた着替え用のスペースがあった。化粧台にはたくさんのメイク道具が並んでいて、それらはすべてあやめさんが用意したものだという。また、楽屋の中央には来客用か、四角いテーブルとそれを囲う四つの革椅子が置かれていた。

 そして、楽屋の奥。壁に一着の淡い桜色をした袖なしのドレスがかけられていた。床に引きずるくらい長く、桜の花びらの意匠が施されたもの。棘科家の三人と相談し、更に流々さんにも意見を求めて特注された私の衣装。私の見た目、そして桜沢文音という名から、普通の桜色よりも淡い桜色を感じたらしく、柔らかくて儚い色になった。以前、当主様たちが外出用に私の服を買ってくれたけど、そのときと色のチョイスがたいぶ違う。

「前に買っていただいた余所行きの服と、色合いが違いますよね」

「似合う色というより、感じる色を優先したからな」

「感じる色、ですか」

「ああ。似合う色とはちょっと違う。その人が持つ色、パーソナルカラーってやつかね」

 当主様に赤や紅を感じるように、私にも持つ色があった。自分では意識していないけど、身近な人たちには桜色に見えていたようだ。ふと、あきちゃんは何色だろうかと考えてしまった。実家で話し合いをしたときに着ていた黒い外套を見れば、あきちゃんには高潔で艶やかな漆黒が似合いそうな気がする。

 あれ。それでは似合う色になってしまう。

 この場合、似合う色と持つ色が同じ、ということ……?

 恋人の色について一人で悩んでいたら、あやめさんが部屋の右手にある浴室へ続く扉を開いた。

「ほら。温泉街を歩いて疲れただろうし、汗を流してさっぱりしな」

 執事の提案にうなずいて、ひとまずシャワーで汗を流すことにした。

 あやめさんの仕事に隙はなく、化粧台に用意されたメイク道具だけでなく、私が愛用しているシャンプーやボディソープ、スキンケア用品一式を新たに買い揃えてこの楽屋に持ってきていた。シャワーから上がったら、濡れた髪を手早くドライヤーで乾かされ、保湿からメイクまでを素早く、かつ丁寧にやってくれた。私はただ、何もせずに化粧台の椅子に座って鏡を見ているだけ。あやめさんのブラシが頬に触れ、眉や鼻筋、唇をなぞっていくと、どんどん『ステージ用の私』が出来上がっていく。あまりにも手際がいいから、本番への緊張よりも驚きの方が大きくなっていた。

 ドレスを着て、同じ色の花飾りを頭の左上につけて髪を整える。

 私の髪から指先を離して、あやめさんが満面の笑顔でうなずいた。

「完っ璧」

 化粧台の椅子からゆっくりと立ち上がって、鏡を見る。

 淡い、桜色の長いドレスに包まれた私。

 本を読み、空想の世界でしか描けなかった『お姫様』が目の前にいた。

 美しいドレスを着ることなんて、一生ないと思っていたのに。

 冷酷だった私が、こんな姿になれるなんて――。

「……っ」

 涙がにじみそうになったから、まばたきをして押し込んだ。

 近い将来、自ら命を絶つのだろうと予感していた裏で、この姿を願っていた自分がいる。終焉と幸福、求める矛盾の果て。私にとってどちらが本当の幸せなのか、私はどちらを本当に求めていたのか。にじんだ涙と胸に溢れる喜びを思えば、答えは単純だった。

 鏡を見つめていたら、楽屋のドアがとんとん、と叩かれた。私が振り向くよりも早く、あやめさんが返事をしてドアの方へ歩いて行く。フットワークの軽い執事に感心していると、開いた扉の向こう側に紅白の装束が見えた。

「来賓席にいなくていいのか?」

「紅羽が仕事から戻ったの。ふみさんのそばに行ってあげなさい、って言われて、交代」

 現れたのは私のお嬢様だった。服装は舞のときと同じ巫女装束、結っていた髪はほどいて、いつものように背中へ流していた。黒塗りの舟形下駄で硬い音を立てながら、あやめさんによって完成された私へ近づいてくる。白粉を落としたあきちゃんは、優しく微笑んでいた。

「様子を見に来たよ。……きれいだね」

 手を伸ばせばすぐ触れる距離で立ち止まって、私を見上げる。私に飛びつくわけでもなく、声を上げて喜ぶわけでもない。赤い瞳でじっと見つめ、囁くように甘い声で、そう言った。心を直接、手でそっと撫でられたよう。血の色に潤む瞳に覗かれながら、私の唇が自然と言葉を紡いでいた。

「あの日、あなたが図書館に来てくれたから……」

 四月のあの日。棘科輝羽が図書館を訪れ、私を見つけてくれた。私が変わる旅路は、すべてそこから始まった。心を開かれ、愛することを知り、愛される幸福を知り、笑顔を取り戻すための一歩を踏み出す舞台にたどり着いた。あなたがきれいだと言ってくれた私になれたのは、あなたのおかげ。今まで何度もあなたに詫びて、感謝をしてきた。それでも足りないくらい、私はあなたを想っている。初代棘の巫女が妖狐と共にあったように、私もこの小さな巫女と共にいたい。死んで、灰になっても、あなたと一緒に、ずっと。

「……先にステージの方に行って待ってるぞ。あと十五分で出番だからな、遅れるなよ」

 ごゆっくり。

 執事さんが微笑んで踵を返す。背の高い後ろ姿が楽屋を出て、パタン、と扉が閉まったその瞬間、私もあきちゃんも同時に腕を伸ばして、互いの唇を強く重ねた。身体が潰れて一つになってしまいそうなくらい、きつく抱きしめあって、激しいキスをした。一歩踏み出すための勇気を愛する人から注がれて、晴れ舞台への不安と緊張を愛する人の感触で塗りつぶす。

 できる、絶対に。ふみにならできる。

 唇の温もりと柔らかさから、確かな励ましが伝わってくる。

 何度目かのキスの後、ようやく、互いの唇が離れた。

 もう、言葉は交わさなかった。

 恋人の温もりが、何よりも強い勇気の源になったから。


 口元のメイクをちょっとだけ直し、あやめさんを追ってあきちゃんと一緒に舞台袖へとやってきた。青白い光が照らす、夜みたいな舞台袖。持ち場で待機するスタッフの人たちに挨拶をしながら、ステージに近い音響室へ向かう。ステージでは我が校の吹奏楽部が一糸乱れぬ力強い演奏をしていた。重なり合う音色が空気を伝わり、肌と内臓をビリビリと震えさせる。さすがは金賞を勝ち取った実力者たち。私の出番を忘れさせるくらい、心に響き渡る演奏だった。

 あやめさんは音響室の外、黒い壁に寄りかかりながらステージを見ていた。音響室の中では別のスタッフがたくさんの機器とにらみ合っている。多分、吹奏楽部の演奏を担当している人なのだろう。演奏中だから、控えめな声であやめさんに呼びかけた。

「あやめさん。お待たせしました」

「ん? ああ、二人とも来たか。よし、最終確認をしよう」

 壁から離れて、あやめさんがこの後の段取りを説明してくれた。

 吹奏楽部の演奏が終わったら、舞台袖に待機しているスタッフが部員たちと共に楽器や椅子などを片づける。その間、あやめさんはマイクの設置と、リハーサルで確認した音響の設定を行う。吹奏楽部の撤収が完了次第、司会の人が私を紹介し、簡単な話をしたら曲名を告げて歌を披露。無事にフィナーレとなったら、あきちゃんがフェスティバル閉会の挨拶をしてお開きだ。

 司会の人をあやめさんから紹介され、挨拶を済ませた。地元のラジオパーソナリティを務めるという、明るくてフレンドリーな印象の女性だった。結構有名な人らしいけど、私はラジオを聞かないから名前を知らなかった。私より少し背が高く、黒髪を頭の後ろに丸くまとめてかんざしを挿している。お祭りらしく、彼女が着ていたのは紫陽花を思わせる涼し気な浴衣だった。

 一通り説明を終え、あやめさんが私の髪を指先で微調整し始めた。楽屋であきちゃんと触れ合ったときに乱れてしまったのかもしれない。直した口元については何も反応がなかったから、バレていないだろうと安心しておくことにした。

 あやめさんに整えられる私の隣から、あきちゃんが声をかけてきた。

「私とあやめがここでちゃんと見てるから。頑張って」

「心強いです。ありがとう」

「例大祭が終わったらデートだよ。時間、空けておいてよね」

「あきちゃんこそ。私より忙しいのですから」

 私の髪を直し終えたあやめさんが笑い声を上げる。首を傾げてあきちゃんを見ると、苦笑いをして肩をすくめていた。

「確かに。時間を作らなくちゃいけないのは、私の方だね」

 他愛ないやり取り。

 近づく出番に緊張はしても、もう恐れはなかった。早く素晴らしい歌を歌い上げ、胸にこびりつく緊張を吐き出してしまいたい。さっさと終わらせたいわけではなくて、自分の出番がとても待ち遠しく感じられた。

 楽しみしている、らしい。

 ステージ全体を響かせ、震わせる演奏が止んだ。ステージの方では、演奏を終えた吹奏楽部員たちが立ち上がって頭を下げているところだった。客席の方からは嵐のような喝采が上がっている。舞台袖を貫く大喝采は、吹奏楽部の演奏がフィナーレだと思わせるようだった。

 司会の女性がステージへ出て行き、演奏の終了を柔らかく告げる。舞台袖に控えていたスタッフたちが一斉に駆け出して、吹奏楽部員たちと一緒に楽器や椅子、譜面台などをステージから片づけ始めた。あやめさんも音響室のそばにあるマイクスタンドをつかんで、ステージの上に駆けて行った。

 私の横を通り過ぎる、吹奏楽部員とスタッフたち。慌ただしい動きの中で、いよいよ私の出番が来るのだと、息を呑んだ。緊張で心臓が強く鼓動し、鼓動に合わせて身体が揺れる。両手を胸に当てて目を閉じたら、何度も何度も、深呼吸を繰り返した。

 流々さんに説得されて歌うと決めたあの日から、一か月。時間はあっという間に流れて、この日を迎えた。何のために歌うのか、私にとって歌が何なのか、深呼吸をしながら心の中で繰り返し確かめた。私の笑顔を取り戻し、過去の私を払拭するため。病床に臥せる流々さんを励まし、再起させるため。そして、私の歌を聴いてくれたすべての人へ希望の光を注ぐため。

 私に残された唯一の武器で、私はこのステージに立つ。

 絶対に、成功させてみせる――!

 目を開く。ステージの方から、金色のフルートを手に持った可愛らしい女子生徒がこちらへ来る姿が見えた。栗色の長い髪と金色のフルートといえば、吹奏楽部の天使、生徒会長・高瀬泉実。彼女は私の顔を見ると、立ち止まって微笑みかけてくれた。

「桜沢さん。吹奏楽部から、バトンタッチです」

 すっ、と頭の高さまで右手が掲げられる。つられて私も手を上げると、パチン、と軽快なハイタッチの音が鳴った。右手に響く軽い痛みは心地よく、全身が目覚めるようだ。高瀬先輩としっかり話すのはこれが初めてなのに、彼女は必要以上に畏まらず、ニコニコと柔らかく接してくれた。

「蓮華の言う通り、すっごくきれいだね。お姫様みたい」

「……そ、そんな」

「えへへ。吹奏楽部もみんな応援してるから。ファイト、です!」

 小さく手を振って、舞台袖から楽屋の方へ歩いていく。去っていく背中に頭を下げて、偉大な天使とのわずかな邂逅に感謝した。

「マイクも音響もオーケーだ。ふみちゃん、スタンバイしてくれ!」

 ステージから戻ったあやめさんが音響室から顔を出して笑顔で手を振っている。

「わ、分かりました!」

 いよいよ、だ。

 ステージに近づこうとしたら、目の前に小さな巫女が立ちはだかった。真剣な眼差しで手を合わせ、赤い瞳が私を見上げている。

「過去の自分に決着を。棘の巫女は、君と共にある」

 短い激励を私に送り、手を下ろしてすっと横へ退く。その先に、まばゆい照明に照り返す艶やかな木目のステージが見えた。強くうなずいて、あきちゃんへの返答とした。先にステージへ向かっていた司会の人が場を繋ぐトークを切り上げ、次のプログラム、フェスティバルフィナーレの声を上げた。

『――それではフェスティバルのフィナーレです! ご紹介しましょう、本日フィナーレを飾るのは棘森高等学校の歌姫っ! 桜沢文音さんです、どうぞぉっ!』

 明るく元気な呼びかけと共に、観客席から大きな拍手が飛んできた。もう一度深呼吸をして、音響室のあやめさん、隣のあきちゃんへ目配せをする。二人がうなずくのを確認してから、私はまばゆいステージの上へ足を踏み出した。

 頼れる恋人と執事が、後ろへ、後ろへと離れていく。広大でまぶしい木目の平原がすべて、私の舞台。ここから先は、私一人で地を踏みしめて立ち続けなくてはならない。緊張で膝の力が抜けそうになったけど、一歩ずつ、司会の人が待つステージの中央へ進んで行った。

 ここに来るまで、長かった。歌う前から感極まりそうだった。

 苦しみ、悩み抜いた過去。

 愛しい恋人と出会って変わり始めた日々。

 恋人に出会った四月が、親友に叱られた四月が、もう何年も前に通り過ぎたセピア色の思い出に感じる。衣装をまとい、晴れ舞台に立つこの瞬間を、あの頃の私が予想できただろうか。私自身がこれほどの変化を遂げるだなんて、今でも信じられない。

 更に、その変化は続いている。まだ終わっていないのだ。

 過去の自分に決着をつけなくては、生まれ変われない。この舞台でどれほど緊張しようが、負けるものか。かつて人々を突き放した悲しい意地を、ステージに立つための勇気に変えてやる。

 ステージの中央、スタンドマイクの隣で足を止めた。

 観客席を見た瞬間、息を呑んだ。

 澄み渡る青空と木々の緑に囲まれた扇状の観客席、すべてが満席だった。手前から最後列まで、老若男女、十人十色、色とりどりの人々がきれいに着席し、歌う前だというのに私へ喝采を投げかけている。最前列左手前にはスーツ姿の人たちが並んでいて、その中に赤いジャケットを着た当主様が座っていた。遠くに目をやれば、席に座れない人々は最後列の後ろで立ち見していて、大きなビデオカメラやデジカメを掲げている人もいる。

 フェスティバルフィナーレは、私の想像を超える集客だった。

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