38
『やー、実は楽しみで眠れなくてさぁ。ガキかって笑っちゃうよ』
十時を過ぎた頃。執事の愛車で温泉街に向かう途中、私のプロデューサーである流々さんに電話した。彼女は昨日の夜からケーブルテレビの中継を楽しみにしているらしく、夜は興奮のあまりろくに眠れなかったという。
「睡眠は取らないとだめですよ。今夜はちゃんと寝てください」
『いやーん、フミネに注意されるときゅんきゅんしちゃーう! 流々にはアヤネがいるんだから、そんなに誘惑されると困るわぁ』
わざとらしい、高い声を作ってそんな冗談を言う。歌姫の具合はよさそうだ。冗談が出るくらいなら改めて調子を聞く必要もないだろう。
「誘惑じゃなくて心配しているのです。ともかく、歌の方は万全です。喉もいいコンディションだと思います」
『よし。他人の心配ができるなら、心も取り乱してないね』
私の返答に対して急に冷静な口調で返してきた。今の短いやり取りで心の状態まで見抜いたらしい。療養中なんてとんでもない、光の歌姫は健在だ。
『いいかい。歌は物語だ。あんたが読んだ本、書いてきた文章と同じものだ』
冗談を言っていた声色はどこへやら。今の口調は電話越しでも伝わるくらい真剣で硬い。そして、硬い声と共に届けられる奥深い言葉。教えを聞き逃さないよう、頭の中で言葉を繰り返して意識に焼きつけた。
『今回の歌詞には桜沢文音という登場人物の人生が刻まれてる。今の冷静さを維持したまま、歌詞と自分の人生を重ねろ。でも、過去の悲しみや苦悩に歌を揺さぶられるな。逆に歌を揺さぶれ』
「歌を、揺さぶる?」
『そ。揺さぶるってのは、乱すって意味じゃない。歌を脈打たせろってこと。歌に命を宿らせるんだよ。歌は歌い上げて当たり前、歌い手はいつもその先にあるものを見据えるんだ』
何という、熱い想い。
あきちゃんがくれる熱い愛と等しいくらいの情熱だった。
冷静なままであれば気持ちも乱れず、歌声も乱れない。人生を重ねれば過去に感じた様々な想いを歌に込められる。想いを込めるとはすなわち、心が伴うということだ。歌詞や曲調に合わせて歌い上げるのはもちろん、その先で物語を描かなくてはいけないのだ。
『自己満足だ、って腐るやつもいたんだけど、自分で満足できないものを歌えるわけねぇだろって言ってやったよ。そんな歌で想いを伝えられるか、バカにしてんじゃねぇぞクソがって』
乱暴な言い方だけど、言わんとしていることは理解できた。
姫川流々が『光』を作った根本、過程と結果をなぞればその想いが分かる。リーダーの死とRayの解散が悲しかったから作りました、はい同情して、なんて感覚ではない。リーダーとRayが、自身にとってどれだけ大切な存在で、どれだけ感謝しているのか。彼女はそれらを歌を通して伝えたかったのだ。自分の限界まで突き詰めた歌を作り、歌い手として当然歌い上げて、物語を見せるために命を吹き込む。知らない誰かが『自己満足』とあざ笑ったそれは流々さんの情熱、歌に対する揺るぎない意志に他ならない。
彼女は部活の延長で音楽をやっていない。
本気なのだ。
自らの人生すべてを注ぐほど――。
『歌詞を書いた本人なら、誰よりも歌に込めたメッセージが分かる。それを伝えるために、歌を揺さぶれ。命を宿らせろ。自分が満足できる、最高の歌い方でね』
「……はい!」
愛する恋人から歌うための勇気をもらい、憧れる歌姫には歌への情熱を教わった。緊張や不安は前向きな感情に圧されてその姿を潜めていく。でも、決して油断はしない。歌うときは適度な緊張を持ち、もらった勇気と情熱で歌に命を宿らせてみせる。
電話の向こうから明るい笑い声が届いた。
『いいお返事。アドバイスはこんなところでいいかな……。っと、そうだ、執事におつかい頼んでくれる?』
「あ、はい。伝えますよ」
『屋台の食べ物がほしくてさー。たこ焼きと焼きそば、お好み焼きとイカ焼きと牛串焼きに、チョコバナナとりんごあめとわたあめ、それから――』
「い、いっぺんに言われたら覚えきれませんよっ。たこ焼きと焼きそばと……」
『いやん、ごめんごめん! やっぱあとで流々から連絡するわぁ』
食欲があるのは元気の証明だと思うけど、入院中にいいのだろうか。
『プロデューサーは大人しくテレビの放送を待つよ。楽しみにしてるからな!』
「ありがとうございます。任せてください」
『頑張んなよ! それじゃっ』
通話が終わったタイミングで、開けた空間にたどり着いた。棘の森温泉街入り口、花壇に囲まれた石造りの円柱噴水を中心に据えた広大な駐車場。まだ午前中なのに駐車場は色とりどりの車と大勢の人で埋め尽くされていた。大型バスもたくさん停まっていて、中から次々と観光客が降りてくる姿が見える。六月半ば、ただの週休だというのにこの集客。
息を呑んだ。
「プロデューサーは励ましてくれたか?」
絶句する私に執事の明るい声が投げかけられる。彼女の口からはいつも通り、キャンディーの白い棒が飛び出していた。
「は、はい。とても心強いアドバイスをくださいました。あと、あやめさんにおつかいを頼みたいから連絡するとおっしゃっていましたよ」
「ああ、たこ焼きとか聞こえたな。了解だ」
車が速度を落として駐車場に入り込んだ。あやめさんは駐車場の端、往来する人や車の邪魔にならないところへ一旦停車した。エンジンはかけたまま、執事さんが素早く車を降りて助手席のドアを開ける。手を引かれて温泉街に立つと、夏を予感させる強い日差しが降り注いだ。
「スケジュールは今朝確認した通りだ。輝羽の舞は十一時からだから、屋台を見ながら神社に向かうといい。午後二時には森林ステージの楽屋に来てくれ。今日は頑張ろうぜ、よろしくな」
「分かりました。こちらこそよろしくお願いします」
「おうよ。館の仕事を済ませたら楽屋の準備もしておく。ふみちゃんは心配せずに祭りを楽しんでくれ」
迷子にならないようにな、と私の頭を撫でて車へ戻る。漆黒の翼は混雑する駐車場を器用に抜けて道路に出ると、低い唸り声を上げながら館の方角へ走り去って行った。あやめさんを見送ったら、雪と待ち合わせの約束をしている大きな噴水へ向かった。
古代神殿の柱みたいな石造りの円柱噴水がそびえ、その周囲を虹色の花壇が丸く囲っている。傷みのないきれいなウッドベンチが花壇に沿って何台も置かれていて、訪れた大勢の観光客が憩いの場として利用していた。棘の森は市街に比べてまだ涼しいけど、降り注ぐ日差しは焼けてしまいそうなほどに暑い。観光客たちが噴水に集まるのは涼むためでもあるのかもしれない。
「ふーみん! こっちこっち!」
温泉街側に向いたベンチの前で大きく手を振る童顔を見つけた。ワンサイドアップの髪はいつも通りで、手を振る動作に合わせて少し揺れる様が可愛らしい。オレンジ色の半袖シャツと真っ白なハーフパンツがまぶしく、雪の快活さを示すように色が濃く映って見えた。肩には控えめな大きさのショルダーポーチをかけている。半月型の、クレープみたいに美味しそうな色をしていた。
「おはようございます。お待たせしました」
雪に駆け寄りながら頭を下げる。まだ屋台すら行っていないのに親友はご機嫌で、童顔が笑顔ですっかり崩れきってしまっていた。
「おはよー、ふーみん! 結婚しようっ」
びしっ、と音が出そうなほどの勢いで親指を立てる。この仕草も学校と変わらない、いつも通りで安心すら覚えた。
「プロポーズを朝の挨拶とワンセットにしないでくださいよ……。ずいぶんご機嫌ですね」
「ご機嫌もご機嫌、絶好調だよ。ふーみんとデートとか滅多にないんだから!」
昔から両親はお祭りには連れて行ってくれなかったし、私自身も出かけようとしなかった。雪と会うことはあっても、せいぜい図書館か、お互いの家に行くくらい。こういったお祭りにきちんと足を運ぶのは初めてだ。
「今日は楽しもうね。エスコートは勇者にお任せさ!」
「はい、よろしくお願いします。そんな優しい勇者様へ、棘科家当主様から言伝を預かっていますよ」
「ぐはっ、と、当主様から!? はいっ、お伺いしますっ」
急に姿勢を正して直立不動になる。当主様本人が目の前にいるわけではないのに、雪はぷるぷると震えて顔を赤くしていた。顔が赤くなる、というところでまず予想が的中した。
「雪さんによろしくね。お祭りを楽しんで。……だそうです」
間違いなく当主様の言葉を伝える。親友は伝言を聞くと、両手を大きく広げて、非常にやかましい返事をしてくれた。
「はぁぁぁい!」
顔を真っ赤にして大喜び。私の予想はこれで完全に的中した。例大祭が終わったら、この報告を当主様にしなくては。予想通りの大喜びでしたと伝えれば、当主様も同じように大喜びしてくれる。
瓦葺の白壁が連なる古都は、祭囃子と人々の賑わいに溢れていた。店舗の軒先はぶら下がる提灯とのぼり旗で彩られ、石畳に並ぶ屋台からは食欲をそそる香ばしい匂いが漂ってくる。温泉街のお店も、訪れる人々も、双方が笑顔で活気溢れる場所を作っていた。石畳の往来は混雑していたけど、雪と手を繋ぎながら賑やかな中を抜けていくのは楽しかった。屋台でたこ焼きを買って雪と分け合ったり、わたあめの袋を選ぶのに悩んだり。初めて訪れるお祭りはお世辞抜きに楽しく、そして、ちょっぴり寂しかった。聞こえる祭囃子のせいか、情緒ある温泉街の街並みのせいか。何とも、奇妙な郷愁だった。
温泉街の中心から西へ逸れて、木々がそびえる棘科神社の参道へ。森の木々にも負けないくらい大きな鳥居をくぐり、雪と二人で歩いていく。参道は白い舗装できれいに整備されていて、石畳の温泉街よりも歩きやすかった。参道の左右にはやはり様々な屋台がずらりと並び、神社の方まで途切れずに続いている。舞の時間が近いせいか、賑やかな人波が神社へ向かって流れていた。
「みなさん、舞を見に行くのでしょうか。すごい人です……」
「なんの、負けないぞ! 一番近いところで見られるようにするんだ! はぐれちゃだめだよっ」
神社が近づくにつれ、祭囃子がよく聞こえてくるようになった。参道の幅に合わせた緩やかな石段を上がり、もう一つの鳥居をくぐったら境内にたどりついた。境内の中にも屋台が所狭しと並んでいて、間を大勢の人の波がゆっくりと流れている。奥の大きな建物では人々が列を作り、お賽銭を投げ入れては手を合わせて頭を垂れていた。あの場所で初代棘の巫女に参拝できるらしい。美しい朱色に染め上げられた建物と、少し色褪せた翡翠色の屋根。
朱色をじっと見つめていると、当主様の姿を思い出してしまった。
「ぐはっ、人多すぎ! あっきーの舞台は――あそこか!」
雪が指差した先。境内の中心に、拝殿と同じきれいな朱色に染まる屋根つきの舞台があった。舞台の上では白い装束に黒い袴を履いた男女数名が座り、真剣な眼差しで笛や太鼓を奏でている。舞台に壁はなく、四方から鑑賞できるように柱だけで屋根が支えられていた。見上げた屋根には古い書体で『神楽殿』と読める額が掲げられている。
「神楽殿、と見えますね」
「えっ、ふーみん読めるの!? 古代人!?」
「現代人ですよ……。字の形がそう見えただけです」
今は演奏だけで、神楽殿の周囲に立つ見物人も少ない。あきちゃんの舞にはまだ少し時間がありそうだった。
「舞台へ行く前に手水舎で身を清めましょう。参拝するときの礼儀です」
「あ、そうだね! ふーみんってば物知りだよねぇ」
「本で読みましたから」
鳥居の左手に四つの太い柱で建つ手水舎があり、ここにも人が列を作っていた。舟みたいな黒い岩の中央にお稲荷様の石像があって、その開いた口から絶えず冷涼な水が注ぎこまれている。並んでいる木製の柄杓もきちんと手入れされていて、水に濡れた姿が涼し気で美しかった。
「…………」
清水を注ぎ続けるお稲荷様の像と目が合う。
なぜだろう、あやめさんに「ちゃんと清めな」と囁かれた気がした。
備えつけられている注意書きと作法に沿って身を清めたら、神楽殿へ向かう前に拝殿で手を合わせた。棘科家に支えられ、命を繋いだ今を深く感謝して頭を下げる。雪はお願いごとをしたと話していたけど、どんなお願いなのかは教えてくれなかった。
参拝が済んだら、いよいよあきちゃんの舞を見るために神楽殿へ向かった。
神楽殿の周り数メートルはしめ縄で囲われていて、それ以上近づけないようになっていた。一部、しめ縄が開放されている部分があったけど、そこは巫女装束を着た女性が二人立っていて、見学人を別の場所へ誘導していた。
雪に手を引かれながら人込みを縫って一番前へ向かう。舞の時間が迫り、神楽殿には人が集まり始めていた。一般の人だけでなく、リポーターを中心に動くテレビクルーの姿もある。私のお嬢様がテレビに映される――若干の嫉妬を覚えて恥ずかしくなった。
「いよっし、一番前だ! 録画しちゃうぞぉ」
雪がポーチの中からスマートフォンを取り出して掲げた。
「撮り終わったらふーみんにも送るからね! 思い出に残しておきなよっ」
「分かりました。ありがとうございます」
大好きな恋人の動画が手元に残るのはありがたい。
……あきちゃんがお仕事で忙しいときは、動画を見て心を慰めようかな。
雪と話をしていたら、舞台の上で奏でられる演奏が静かに止まった。演奏者たちがそっと立ち上がって、厳かに頭を下げる。神楽殿を取り囲む人々から、盛大な拍手が彼らに贈られた。
ふと、どこからともなく、マイクを通した優しい女性の声が聞こえてきた。
『ただいまより、棘科神社に伝わる棘巫女の舞を披露致します』
立ち上がった演奏者たちが、アナウンスを聞いて舞台の端へ移動する。舞台の中央を空けたら、再び床に座って楽器を持ち直した。
「おほっ! ついに始まるぞっ」
雪がスマートフォンを上下左右に動かしてあきちゃんの姿を探し始める。いつもの癖、胸の前で右手を握りしめながら、私も姿を見つけようと必死に目と頭を動かした。
『この舞は、伝説に語られる棘の巫女様の転生から、土蜘蛛退治までを演じる舞でございます。棘科一族の末裔であられる輝羽様の演舞、どうぞお楽しみください』
アナウンスが終わると、しめ縄が開放されている一角に立っていた二人の巫女が両端によけ、ひざまずいて頭を垂れた。開かれた道の向こうに、小さな人影。
陽射しに煌く金の頭飾りをつけ、純白の千早と緋色の袴を身にまとった現人神。
聖なる巫女の装いをした恋人がそこにいた。
「きれ、い……」
白粉で化粧をしているのか、いつも以上に肌が白く輝き、後ろに結われた黒髪とのコントラストがあまりにも清らかで畏れすら覚える。血の色をした瞳も、小さな唇を彩る口紅も、鮮やかに焼きついて離れない。学校の姿、館で過ごす姿、英雄として戦った姿、私と夜を共にした姿――様々な姿が色褪せてしまうほど、彼女は美しかった。
熱い、ため息が漏れた。
「あっきー、神様みたい……!」
隣でスマートフォンを構える雪も呆然として、神々しいお嬢様を凝視している。
この場にいる誰もが今、棘の巫女様に心を奪われたに違いない。
右手は金色に輝く神楽鈴を、左手は聖地で見た赤い花の束を握り、二つを顔の前に掲げていた。一歩ずつ一歩ずつ、確かめるように木の段を踏みしめ、神楽殿に上がっていく。止まっていた演奏が沈黙を裂き、降臨した棘の巫女へ雅な笛の音色を添えた。周囲から聞こえるシャッター音も気にならないくらい、神々しい巫女として在る恋人にじっと見とれた。
棘の巫女が神楽殿に上がり、舞台の中央に立つ。
ドン、ドン、と緩やかなリズムで太鼓の重い音が重なった。
鈴と花で顔を隠したまま拝殿の方へ身体を向けて、音色に合わせてゆっくりと頭を下げる。初代棘の巫女様やお稲荷様への挨拶みたいだ。挨拶を終えて頭を上げたら、笛の旋律に合わせた男性たちの歌が聞こえてきた。私や流々さんが歌うような声ではない。独特の声で歌詞も聞き取れないけど、寒気がするほどに厳かで神聖な気配があった。
初めて肌で感じた和の雅な音色。
私では言葉にするのが難しい。
この清澄さや美しさを、どんな言葉で形容すればいいのか。
「ああ……。あきちゃん……」
恋人は緩やかに、上品に舞ってみせた。
鈴を頭の上で短く鳴らし、左手の花でゆっくりと宙に円を描く。
緋袴を前に踏み出してくるり、くるり。
彼女が回るたびに揺れる袖が、翼で羽ばたいているみたい。
まるで真っ白に輝く翼――。
「輝、羽……」
恋人の名前を呼んでいた。
純白の翼を揺らして舞い、回る巫女。
四方八方へ規則正しく、観客すべてに加護を授けるように舞い続ける。
緩慢でゆっくりとした舞でも、退屈などとは思えなかった。耳に触れる神聖な音色が心地よくて、瞳に映る巫女の動きが愛しくて、いつまでもいつまでも、ずうっと見ていたいくらいだった。心の蓋が消え去って、胸の空洞にある暗い靄がすべて吐き出されていく。
「……あっ」
舞う恋人の肩越しに赤い瞳と視線が交わった。
回って背中を見せても、前を向けばまた目が合う。何度も、何度も。
そんなにこちらを見ては、舞を間違えてしまいますよ。
もう。可愛い人なんだから――。
五、六分ほど舞い続け、歌声と和の演奏と棘科輝羽による棘巫女の舞が終わった。神楽殿を包む大きな拍手を受けながら、神妙な面持ちのまま四方へ頭を下げる。私も雪も、いつまでも鳴りやまない拍手の中に手の音を重ね続けた。しめ縄の近くにいた巫女がマイクを持って神楽殿へ上がっていく。あきちゃんはその巫女からマイクを受け取ると、神妙な面持ちを崩してようやく笑ってくれた。
『みなさま、おはようございます。棘科家当主、棘科紅羽の妹で輝羽と申します。本日は早くからのご参詣、ありがとうございます。初代棘の巫女様とお稲荷様も、みなさまのご参詣にお喜びでしょう』
マイク越しに聞こえる、愛する人の美しい声。耳にするだけで気持ちよくて、背筋が震えた。左隣にいた老婆が両手を強く合わせてじっとあきちゃんを拝んでいる。神楽殿の周囲を見回すと、同じように拝む人が他にも大勢いた。
『今回ご参詣されたことで、棘の巫女様とお稲荷様がみなさまのそばで見守り、導いてくださいます。どうか困難に恐れず、勇気をもって、一日一日を歩んでいただきたいと思います』
はっとなった。
勇気。昨日の夜と同じ言葉を聞いて、お祭りの雰囲気とあきちゃんの舞に酔っていた心が一気に目を覚ます。午後からの晴れ舞台――私はまさに、一歩の勇気を踏み出さなくてはいけない日を迎えていた。
『さて、棘科神社では夜にまた奉納の神楽や舞が行われ、花火も打ち上げられます。温泉街の森林ステージでは、午後一時より棘の森温泉街地域芸能フェスティバルが開催されます。恒例となっている和太鼓やダンスをはじめ、今年は棘森高校吹奏楽部の演奏と、フィナーレには同校の生徒による歌の披露があります』
赤い瞳がまたこちらを向く。
雪が面白がって肘でつついてきた。
「うりうり、しっかり宣伝されてるよぅ。何ならボクが叫んであげようかぁ」
「やめなさい、もうっ」
声を抑えて笑う雪の腕を軽く叩いてやった。
歌うのが私であるとこの場で声高らかに主張する必要はない。雪に叫ばれたってみっともないだけだ。ぷいっと顔を背けたら雪が大慌てで謝り出した。そんなに慌てるくらいなら、最初から変なことを言わなければいいのに。
『温泉街各店舗でも様々なキャンペーンを行っていますので、ぜひ立ち寄ってみてくださいね。……それでは、棘科神社例大祭をお楽しみください。本日はありがとうございます』
マイクを口元から話して、四方へ礼をする。神楽殿を囲う人々も頭を下げ、舞台から下りていく小さな巫女の背中に拍手を送り続けた。あきちゃんは舞台を下りると、二人の巫女と共に拝殿の方へ歩き出した。それにつられて、神楽殿を包囲していた人々の一部が吸い寄せられるように流れていく。先程見かけたテレビクルーも人々の波に交じって向こうへ行ってしまった。
「ありゃ。あっきーと記念撮影したかったけど、これじゃ無理かぁ。トゲミコ人気過ぎでしょー」
スマートフォンを片手に雪が顔をしかめる。あの人波では記念撮影も、言葉を交わすことも無理そうだ。人波に紛れるのに精一杯で、波の向こうに隠れた小さな恋人まではたどり着けそうにない。追いかけた人々は、私の恋人を有名人として見ているのか、それとも、現代に降り立った棘の巫女として見ているのか。
隣で祈っていた老婆の姿を思い出す。
「……あきちゃんは、みなさんの希望なのかもしれません」
人波が引く気配は見られない。あきちゃんはきっと、あの中で人々の声に耳を傾け、言葉を交わし、日々に苦悩する守るべき心を支えようとしているはずだ。棘科一族、守護者の末裔として、当主様に言われた心構えを持って。
棘科輝羽は私の恋人であり、そして、人々の希望なんだ。




