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桜沢さんのお嬢さま  作者: 松山みきら
第13章 転生の日 -桜沢文音-
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 例大祭までの二週間、図書当番以外は図書館で過ごす時間を削り、早めに帰宅して歌を身に刻み込んだ。気になる部分を何度も練習したり、声の調子を変えたりして、納得いく形になるまで何度も何度も歌い込み続けた。

 練習中、本番では声が震えて歌えないかもしれない、歌詞を忘れたり間違えたりするかもしれないと、よせばいいのに悪い結末を考えてしまうときがあった。

 本番へ感じる、押し潰されそうな不安。

 晴れ舞台を成功させたいと意志と、逃げ出したくなる甘え。

 そんな複雑に混じり合った私を支えてくれたのは、やっぱりお嬢様だった。

 あきちゃんがいつも不安になる私を支えてくれたから、学校もきちんと通って、学業と練習のリズムをつけられるようになった。学校を終えたら、ほんの少しだけイレギュラーなスケジュールに身を置く――普通の学生とは違う、新鮮な毎日が楽しい。頭をかすめる不安もただ怯えているのではなく、「成功させたい」という意志があるからこそ感じるものなのかもしれないと、前向きに受け止められるようになった。

 幼い頃に失ったと思っていた、私の大好きな歌。私に残されていた最後の武器を、何よりも素晴らしく、輝く光として掲げたい。流々さんと共に作り上げた歌を歌い切ったそのとき、私の過去や苦悩は胸の痞えと一緒に消えて、私も流々さんも観客も、みんなが笑顔になるはずだと信じている。

 愛しい恋人からの提案で、最初は拒絶した晴れ舞台での歌。

 いつしか、自らの意志で臨み、成功させたいと願うようになった。

 不満や苦悩を書き連ねたかつての日々が嘘みたいに、私は、変わっていた。


「ここが森林ステージだ。ふみちゃんは初めてか?」

「はい。温泉街へは滅多に出かけなかったので……」

 例大祭前夜、私はあきちゃんとあやめさんに連れられて棘の森温泉街を訪れていた。私が立つ舞台である森林ステージの下見とリハーサルをするためだ。森林の景観に合わせた木目調のステージはとても広く、大勢のオーケストラで演奏しても息苦しさを感じないのではないかと思った。まばゆい照明に艶めく木のベンチが客席で、ステージから扇状に広がり、手前から奥の方へ段々畑のように高くなっている。その客席をしっかり守るように、透明な天井と壁が周囲を覆っていた。雨風を防ぎつつ、自然も身近に感じられる作りだ。

 ステージの準備は今朝から進められていて、設備や周辺の安全確認、飾りつけ、清掃などはおおよそ完了している。現在、森林ステージには私たち以外に数名の関係者が残っているだけで、他の出演者たちのリハーサルは済んでいる様子だった。

 ステージの中心に立ち、あきちゃんが客席へ両腕を広げて笑った。

「収容人数は千人。音楽堂としての利用はもちろん、演劇や講演会、パフォーマンスの練習、個人の活動でも使われるんだ。音響設備は最新のものに交換したばかりだから、いい音が出るよ」

「そういや、交換するって話だったな。どれ、新しくなった設備を見せてもらおうかね」

 あやめさんが舞台袖へと軽快に歩いて行った。あちらには照明と音響を調整する個室がある。広いガラス窓からステージを見渡せるようになっていて、本番ではあの部屋からあやめさんが私の舞台をサポートしてくれる予定だ。

「ふみ、おいで。ここから、君の歌声をみんなに送り届けるんだ」

 私の小さな恋人が笑顔で手招きをする。糸を引かれるようにふらふらと、気を抜いたら崩れ落ちてしまいそうな足取りであきちゃんのもとへ向かう。

 観客は最大で千人。例大祭は棘科神社最大の祭事で、棘の森温泉街には各地から大勢の人々が訪れる。たとえ満席にならなくても、地元だけでなく遠い場所からきた人々もここに――。恋人のもとにたどり着いたときには、本番を迎えてもいないのに意識が白く飛んでいきそうになっていた。

「ふみ、ふみ。私を見て、私の目を見て」

 両手をつかまれて、二つの赤い双眸がじっと私を見つめる。一瞬か、数秒か、わずかな間を置いて、かちりと頭の右上で音が鳴った気がした。途端、視界と意識にかかっていた白い靄が彼方へ消えて、ステージに立つ硬い感触が蘇る。

「――あっ。あき、ちゃん」

「よし、戻ってきた」

 真っ白な照明に照らされた、恋人の可愛い笑顔がそこにあった。青白くてひんやりとした、神秘的なお人形さん。私とあきちゃんが二人きりで両手を繋ぎ、ステージの真ん中に立ち尽くしていた。

 世界に、私たちだけ、みたい。

「緊張してるね。手が震えてるよ」

「はい……」

 冷たい風にさらされて凍えるように、私の両腕が小刻みに震えていた。

 完成させた歌を毎日聴き込んでは歌い、磨いた。満足しないときは棘科家の三人に意見を求めたり、違うアーティストの曲を聴いて比較してみたりと、私ができる全力を尽くした。聴き、歌い、話し、たった一つの歌を大切に育て上げた短い時間。その中で私も成長し、合唱部で歌った昔を土台に、新たな力がどんどん私に加わっていった。自分で違いが分かるほど、長く息が続き、歌声も変わった。

 でも、どれだけ練習を重ねても、自分の成長に手ごたえを感じようと。

 不安と緊張、本番への恐怖は完全に拭い去れなかった。

 病床にある流々さんも元気づけたいのに、私は、恐怖に囚われていた。

「たくさん不安で、本当に怖いです」

 そんなに恐ろしいのなら歌なんて歌わなければいい。愛しい恋人の提案も、憧れる歌姫の説得も、すべて否定して拒絶すればいいだけだ。私はどうして恐怖を感じてまで歌おうとするのか。提案と説得を受け入れ、自らの意志で臨もうとしているのか。絶えずに注ぐ照明は、私の影も不安も、何もかも照らしつくすようだった。

 お嬢様が私と繋ぐ手を片方、離した。私が右側、あきちゃんが左側に立って、片手の指を互いに絡める。そっと、あきちゃんが小さな一歩を踏み出した。遅れて私が一歩。ゆっくり、狭い歩幅でステージの上を歩く。あやめさんのいる音響室とは反対側の舞台袖へ足が向いていた。

「今のふみに曖昧な激励はできないかな」

「曖昧な激励?」

「不安を消すために必要なものを具体的に示すべきだと思ったんだ」

 絡める指が撫でられた。

 愛おしそうに、あきちゃんの華奢な指が肌の上を往復する。

「毎日、歌を練習した。歌姫にも導いてもらった。短い期間でいいものにしようと、ふみも流々さんも決して手を抜かなかった。やるからには全力で取り組んできたよね」

「はい。一生懸命やりました」

「じゃあ、そこで根本に戻ってみよう。どうして、ステージに立とうって決めたんだろう? どうして一生懸命になれたのかな? 私の提案と流々さんの説得を受け入れた一番最初の理由を、もう一度思い出してみて」

「一番最初の理由……」

 ステージの端まで歩いて、立ち止まった。

 こちら側の舞台袖はステージで使うものを運び入れる搬入口や、ステージ裏側にある楽屋へ続く扉もある。この森林ステージで、一体どれだけの人が歌い、演じ、言葉を紡いだのだろう。その先を考えるよりも、あきちゃんの問いかけに答える方がたやすかった。

「私の未来を切り拓くため。自分を変える一歩として、挑戦したくて……」

「気持ちのいい回答だね。その挑戦の舞台が、ここなんだ」

 言いながら私の手を引く。小さなお嬢様に連れられて、ステージの一番前に立った。夜を切り裂く照明はステージだけでなく、客席側にも設置されている。文明の灯火は闇に隠れようとする森林ステージを隅々まで輝かせていた。

「過去を払拭し、生まれ変わった桜沢文音を披露する最高の舞台。君の未来を切り拓くために、君を変える一歩を踏み出すために。勇気を出して」

「……勇気」

「そう。君に必要なのは、大きな覚悟じゃない。小さな勇気だ」

 繋いだ手が離れた。お嬢様がステージから軽快に飛んで、客席の方へ優雅に着地してみせる。照明に煌く黒髪を翻らせて振り返る姿が本当に美しかった。

「最高の舞台を用意した。歌姫とも縁を繋ぎ、君自身も成長した。私は一番近くで支えるし、紅羽とあやめも、病院の流々さんだって応援してる。もう独りぼっちじゃないんだ」

 人気のないステージの上、客席から私を見上げるあきちゃんと視線を交わす。

 痛みばかりの実家から私を救い出して、最高の環境で守ってくれた。最高の師と大好きな歌を磨き、作り上げる縁をくれた。作り上げた歌を披露する、最高の舞台も用意してくれた。

 初めて一緒に帰った日の言葉を違えていない。

 私が心を開いた日の言葉を違えていない。

 彼女はいつだって本気で、私の手を引き続けてくれた。

「あとは、君次第。勇気を出して、一歩踏み出すだけだよ」

 周りの人はたくさん支えてくれて、私の周りに勇気の欠片を散りばめてくれた。あとは、私がその欠片を集めて勇気という形にするだけ。舞台も歌も、些細なところまで納得できる状態に仕上がっている。あきちゃんの言う通り、もはや私次第なのだ。

 もう、誰かを疑い続ける自分に戻るのは嫌だ。素直に誰かを愛し、誰かと触れ合い、人としての温もりを感じながら生きていきたい。もしここで逃げたら、私は一生素直になれないまま、笑顔も取り戻せない気がする。

 それだけは、絶対にだめだ。

 私が生まれ変わるために、たくさんの人が支えてくれた。たくさんの人が私と共に時間を過ごしてくれた。みんなの支えを無駄にはしたくない。支えてくれた人たちに応えたい。私だけ笑顔を取り戻すのではなくて、聴く人みんなをまぶしい笑顔にしたい。

 右手が無意識のうちに胸の前へ上がり、ぎりり、と力強く結ばれた。

 握りしめた右手から私の鼓動、血の熱を感じる。

 たとえ明日笑えなくても、明日の先で笑えるように、今を歌おう。

 貸別荘で流々さんと話したときに感じた情熱がもう一度湧き上がってくる。

 じっくりと、胸の中を温め始めていく。

「こいつはいいシロモノだぞ! 最新のやつじゃねぇか、気に入ったぜ!」

 爽やかな笑顔を浮かべた執事が、暗闇の舞台袖から歩み出てきた。

 新しい音響設備はスーパー執事が褒めるほどいいものらしい。私の師が心身を削って作り上げた久しぶりの新曲を奏でるのだから、いい音が出せるのならそれに越したことはない。流々さんもこの場にいれば喜んでくれただろう。

「本番でも音響の面倒は執事さんが見てやる。『フミネを潰したら許さない』って、プロデューサーからうるさく言われてるんだ」

 温泉街の地域芸能フェスティバルは毎年恒例のイベントで、地元のケーブルテレビでも放送される。休養中のプロデューサー――流々さんも病室から晴れ舞台を見届けてくれるはずだ。光の歌姫に恥じないよう、私自身も音響も、万全の態勢で準備しよう。

「リハーサルついでに音の確認をしたい。一発歌ってくれるか」

「はい。望むところです」

「よしよし、やる気だな! 用意する、待ってろ」

 あやめさんがもう一度、音響室の方へ駆けて行く。

 客席に降りたあきちゃんはベンチへ腰かけて、奏でられる歌を待ち望むようにこちらを見上げている。この場にいるのはあきちゃんとあやめさん、そしてわずかなスタッフ。まだ心に感じる緊張は軽い。恥ずかしがらず、恐れず、きちんと歌えそうな気がした。リハーサルで自信をつけて、本番でも大好きな歌を楽しめるようにしよう。

 大好きなことには、情熱を持って取り組むべきだ。

「あきちゃん!」

 客席にちょこんと座る恋人へ大きめの声を投げる。

 はぁい、と可愛らしい笑顔と返事が返ってきた。

「私の歌、聴いてください」

「喜んで! いつでもどうぞっ!」

 両手を広げてにっこり笑顔。このまま客席に降りてぎゅっと抱きしめてあげたい。でも今は、両腕ではなく、歌声であの華奢な身体を抱きしめよう。あきちゃんに対する感謝や愛情、たくさんの想いを込めて。そして明日は、ここに集う大勢の人々を、テレビの向こう側で見ている人々を、私の歌声で大きく大きく包み込んで、光を注いでみせよう。ステージの照明以上にまぶしく、優しくて思いやりに溢れた光を。

 不安や緊張の隣に、勇気の欠片が集まってくる。

 欠片は徐々に結ばれて、負の想いを覆いつくすほど大きく、強固な意志へ変わっていく。

 暗い昨日から這い上がり、輝ける明日へ歩き出すために、歌を――。




 そして。ついに運命の日を迎えることになった。

 少し肌寒い早朝、不安にならないように夜を共にしてくれたお嬢様と、窓際に立って朝焼けを眺めていた。入梅をとうに過ぎた六月の半ば、例大祭初日の朝は、梅雨の気配を微塵も感じさせない美しい空を見せている。棘の森は深い夜の闇を脱ぎ去り、東から昇る山吹色の光に目覚めた。私はもう二度と、日の出を苦悩や苦痛に苛む日常にはしない。今よりも素敵な日常を迎えるための、新しい日にする。

 私の部屋から眺める棘森の町並みは、朝陽を浴びる黄金郷のようだった。

「よく眠れた?」

 寝間着のまま身体を寄せ合い、二人で温もりを確かめる。

 燃える情熱や甘美な欲望もない。

 ただ、その温もりから生命の息吹を優しく感じ取っていた。

 お嬢様の問いかけに、少し、首を傾げて応える。

「はい。あきちゃんのおかげで安心して眠れました」

「よかった。私もふみが近くにいると安心するの」

 彼女もよく眠れたみたいだった。愛する人の心を癒せるのなら本望だ。

 場所は違うけど、今日は二人とも晴れ舞台に立つ。互いに身を寄せて休み、運命の日に備えてきちんと力を養った。あきちゃんは棘の巫女として舞を、私は過去の自分を払拭するために歌う。今日はお祭りであって、かつて感じていた姉への恐怖や、周囲への不信に悩む必要はない。お祭りとして、純粋に楽しめばいい。

 大好きなことを楽しめば、封じ込めた笑顔という色彩もきっと戻ってくる。

 親友と、愛する恋人の悲願。

 病床に臥せる師の悲願。

 私自身の、悲願。

 今日で私は、生まれ変わってみせる。

 いつも通りの生活リズムでシャワーと歯磨き、軽い化粧諸々をした。棘科姉妹と共に例の食堂で朝食をとって、きちんとお腹も満たしておく。緊張で若干食べるのが遅くなってしまったけど、腹八分目でほどよく食べることができた。朝食を終えたら、頼れる執事さんと一緒にスケジュールの確認。今日の例大祭では私も棘科姉妹も、それぞれに果たすべき役割がある。物語でたとえるなら、書き手だろうか。

「再三伝えたがスケジュールを再確認するぞ。まず紅羽と輝羽はこれから棘科神社に行って、十時からの例祭に出る。輝羽は十一時に舞があるからな、ばっちり決めてくれよ」

「はぁ~い」

 緊張や不安はなく、舞を軽んじている様子でもない。あきちゃんは楽しみにしているように笑顔で返事をしていた。当主様もあやめさんもずっとニコニコしているし、小さな食堂もお祭りらしく明るい雰囲気に包まれていた。

「で、二人はそのまま神社でお偉方と昼飯だ。昼飯の後、紅羽はグループの仕事に戻って、輝羽は午後の一時から例のイベント――棘の森温泉街地域芸能フェスティバルに行ってもらう」

 当主様は仕事に戻り、あきちゃんは棘科一族代表としてイベントの来賓席に座る。このイベントには周辺地域の市町村長や議員、企業の代表など、責任ある立場の人たちも招待されている。さすがは温泉街の一大イベントだ。たくさんの人々が集い、注目しているのは本当だった。

「プログラムはこいつ。イベントは午後一時から午後四時までの予定だ。今年のトリはふみちゃんだぜ」

 あやめさんがテーブルに一枚の紙を置いた。艶のある大きめの紙に印刷されたそれは、数日前の朝刊と一緒に配られたイベントのプログラムだった。午後一時に開催式、そこから順に和太鼓やダンス、ジャグリングなど、様々な演奏やパフォーマンスが休憩を挟みながら行われていく。私の出番は棘森高校吹奏楽部の後で、イベントでは一番最後だ。プログラムには『フェスティバルフィナーレ・棘森高等学校桜沢文音』と書かれていた。私が歌姫にプロデュースされたのは本番までの秘密。流々さん本人がステージに立てなくても、きっと大きなサプライズになるだろう。

 私がこのイベントに参加する旨は、棘科グループの人を通して両親にも連絡してあるそうだ。私に明るい変化があったと聞いてとても喜び、晴れ舞台は必ず見に行けるよう都合をつけると話していたとか。今回の舞台を成功させれば両親への激励にもなるだろうし、今まで私を否定し続けてきた姉への返答アンサーにもなる。

 最高の歌を歌って、私にもできることがあるんだって、見せつけてやるんだ。

「ふみちゃんは午後二時までフリーだ。二時からは森林ステージの楽屋に来て準備、最終確認をして三時半の出番に控えてもらう。それまでは雪ちゃんと祭りを楽しむといいぜ」

「はい。ありがとうございます」

「むーっ、私もふみと屋台回りたいなぁ」

 唇を尖らせる。

 あきちゃんは当主様に代わって棘の森温泉街を預かっている身。私もあきちゃんとお祭りの中を歩いてみたいけど、守護者一族の末裔が背負う責務や役目を理解しているからわがままは言えない。そっと手を伸ばして、可愛らしいお人形さんの頭を撫でてあげた。くすぐったそうに目を細めて白い顔が微笑んだ。

「まずはそれぞれの役目を果たしましょう。例大祭が終わったら、どこへでも参ります」

「よーし。約束だよ」

 満足そうなお嬢様の笑顔が隣に咲いた。

 例大祭をきちんとやり切れば、その後の日々もきっと楽しくなる。あきちゃんと過ごす様々な日々が色鮮やかな青春になる。これからを楽しく過ごすためにも、悔いのないように頑張ろう。

 私たちのやり取りを見て、当主様がコーヒーカップを片手に笑っていた。

「朝からイチャイチャしちゃって。二人とも絶好調みたいね」

「心配なさそうだな。紅羽も晴れ舞台には遅れるなよ。そのために仕事も早上がりにしたんだ」

「了解よ。頑張ってね、ふみさん。楽しみにしているから」

「はいっ」

 いつになく元気に返せた。

 多少の緊張は残っているけど、ステージが楽しみになってきているのは事実だ。私の歌を聴いてもらいたい。再起した流々さんの新曲を聴いてほしい。幼い頃の合唱部で知って以来の高揚感。久しぶりの、懐かしい感覚。間違いなく、着実に、本当の私が戻ってきている。

 もう少し、すぐ近くにいる。そんな気がした。

 今晩までのスケジュールを確認し終えた後、私たちはそれぞれの準備へ移った。棘科姉妹は手早く支度を済ませ、エントランスホールで執事の車を待っていた。

「十一時の舞には遅れないでね。見に来てくれなきゃやだよ」

 私の両手をつかんで、何度も何度も上下に振る。幼い子供が駄々をこねるみたい。気を張って凛としているあきちゃんも素敵だけど、こういう可愛らしい姿を見る方が好きだったりする。

「はい、必ず。雪と一緒に見に行きます」

 棘科神社へ出かけるのも初めてだ。雪と合流したらそのまま境内へ向かい、あきちゃんの舞を近くで見られる場所を探そう。恋人として晴れ舞台を見てほしいのは私だけでなく、あきちゃんも同じだ。恋人の存在を近くに感じれば、舞も歌もより一層心が伴うというもの。

 ふと、雪の名前を聞いて当主様が声を上げた。

「そうだ、雪さんによろしくね。『お祭りを楽しんで』って伝えてちょうだい」

「分かりました。雪、顔真っ赤にして喜びますよ」

 勇者を自称する雪にとって、棘科姉妹は伝説の英雄であり、本物の勇者だ。当主様の伝言を伝えたその瞬間、絶叫して大喜びする姿が目に浮かぶ。美しい姉妹が顔を見合わせ、楽しそうに笑いながら「ありえる」とうなずいた。仲のいい姉妹は息もぴったりだ。

「ああやって純粋に喜んでもらえると、当主様としても嬉しいの。グループの運営は大変だけど、雪さんみたいな人たちがいるからこそ、頑張れるのよね」

 当主様が雪の顔を思い返すように目を閉じて優しく微笑んだ。

 以前、あきちゃんも話していた。棘科一族を信じてくれる人々がいる、それこそがかけがえのない財産なのだと。あきちゃんも当主様も、一見華々しい人生を送っているように見えるけど、私の知らないところ、見えないところでたくさんの苦労や苦悩を経験してきている。でも、一族を慕い、信じてくれる人々がいるからこそ、彼女たちは歩み続けることができる。偽善だと言われようが、夢想だ、夢物語だと言われようが。信じてくれる人々の力が、その果てしない救済を続ける意志へと繋がる。

 雪への伝言は間違いなく伝えよう。

 先に出かける棘科姉妹を見送ったら、雪との待ち合わせ時間まで歌詞のチェックと歌の練習をした。歌い過ぎて声を枯らすわけにはいかないから、本番で歌うものと流々さんの『光』をそれぞれ一回ずつ、エントランスホールで歌って調子を確認する。純白の神殿に投げた歌声はいつになく際立った形で返ってきた。私の詞と流々さんの音が一つの清流となって、空間に敷かれた道を流れて私を包み込む。歌い手である私も清き歌の流れと同化していった。

「……ふう」

 歌い終えて息をつく。神殿は私の声を呑み込み、白い静寂を差し出した。

 微かに残る余韻が心地いい。これまでの練習で身についたからこそ、この心地よさがある。声も歌詞も、確かに私に刻まれている実感。

 悲しい過去を堅固な土台にして、新たな日々で築き上げた声が今に宿っていた。

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