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桜沢さんのお嬢さま  作者: 松山みきら
第12章 歌姫の闇 -桜沢文音-
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 私が以前、姉に襲われた後に受診した総合病院の五階。病棟のナースステーション前で、背の高い痩せた男性のお医者様と話をした。白い壁と明るい緑色の床、病棟内は清潔な印象があったけど、お医者様の煮え切らない回答を聞けば清潔感も苛立たしく感じてしまった。頭の真ん中からきれいに分けられた茶髪を左右に揺らして、お医者様は呆れたように首を振る。

「とにかく、今日はこのまま入院していただいて、明日、再度検査します。睡眠不足や今までの疲れが影響したのかもしれませんが、今はまだ何とも言えません」

 流々さんは今日、歌を完成させた直後に動悸とめまいを訴えて倒れてしまった。しかし、病院に運ばれても症状をものともせず立ち上がり、今も安静にさせようとする看護師に「帰らせろ」と噛みついているという。電話がきたときにガヤガヤ聞こえたのは、流々さんが看護師さんと戦っていたからか。それだけ大暴れしたというのならひとまず安心だ、と奇妙な形の平穏が胸に落ちた。

 お医者様との話を終えたら、あやめさんに連れられてある個室の前へやって来た。病棟の壁と同じ色をした白い扉があって、扉にはめ込まれた磨りガラスの向こうからは言い争う声が聞こえてくる。通路にまで漏れる声を聞きながら、あきちゃんと顔を見合わせてしまった。

「ったく、まだやってんのかあいつは」

 先頭に立つ執事がノックもせずに扉を開いた。

 目が痛くなるほど真っ白な壁紙に覆われた部屋だった。正面にある正方形の広い窓からは棘森の町並みが見える。窓のそばには手すりのついたきれいなベッドがあり、スウェット姿の歌姫がその上であぐらをかいて女性の看護師さんと口論を繰り広げていた。

「やっと完成したんだ! あと二週間でモノにしないといけないんだよ!」

 言葉と声には力がある。でも、こうしてよく見てみると、流々さんの顔はずいぶん青白くなっていた。瞼の下にはしっかり隈もできていて、やつれているのは一目瞭然だった。

「姫川さん、今日は休んでください。検査して何もなければ帰れるから!」

「嫌だっての! 今すぐ帰らせろ、流々はまだ――」

 と、口論に熱が向いていた歌姫がようやくこちらに気づいた。吊り上げていた目尻がすぐに下がって、ぱぁっと可憐な笑顔が咲く。

「おぉ! フミネとお嬢様とクソ執事じゃん! 迎えに来てくれたの?」

 流々さんがベッドから下りようと床に足を出した。速足であやめさんと看護師さんの横を通り抜けて、痩せた歌姫の肩を両手で押さえ込む。笑顔が消えて、隈のできた目元が理由を尋ねるように私を見上げた。

 首を横に振って、硬い口調で返事をする。

「無茶をしないでください」

 両手から伝わる流々さんの肩の感触に落胆した。どうして、気づいてあげられなかったのか。首筋も、肩も、頬も、血色を失い、最初に会ったときよりももっと痩せている。頻繁に会っていたのに、こんなになるまで気づけなかったなんて。

「憧れの人を壊した先に得る笑顔なんて、いりません」

 涙がにじんで、唇が震えた。

 あきちゃんもあやめさんも、看護師さんもみんな沈黙する。きん、と凍える重たい空気が病室の中に淀んだ。流々さんの肩から手を離して、胸元のリボンを強く握りしめる。憧れる人の異変にも気づけず、休むようにも思いやれず、ただ決められた作業のように歌を練習していた自分が情けない。

 音もなく静かに、私のよく知る大好きな匂いが隣に香った。左に視線を落とすと、白い病室の光に照らされて艶めく長い黒髪が見えた。小さなお嬢様の赤い瞳が、歌姫を硬く捉えていた。

「任せきりにした私に責任があります。無理やりにでも協力者を多くつけるべきでした。申し訳ありません、流々さん」

 以前、図書館で私に謝ったときのように、しっかりと腰を折って頭を下げた。

 歌姫は一度瞳を見開いて、ばつが悪そうに顔をしかめた。

「おバカ。あんたは頭を下げちゃだめだ」

 下げられた小さな頭を人差し指で強く押し返す。あきちゃんはつつかれたところを手でさすりながら身体を起こした。私、あきちゃん、そしてあやめさん。三人の顔を順番に眺めて、歌姫の口から深い、深いため息が漏れた。

「徹夜したのは仕事がヘヴィだったからじゃない。楽しくて嬉しくてしょうがないから、眠る時間も惜しかったんだよ。必要とされるのが、超、幸せだったんだ」

 必要とされるのが幸せ。

 歌姫は虚空へ目を移して、浮かぶ過去を振り返るように想いを語ってくれた。

 最愛の恋人を失い、居場所を失い、力を振り絞った歌を最後に、自分を見失った。あの街で、本当の意味で彼女を繋ぎ止める人はおらず、自らも悲劇を乗り越えられなかった。姫川流々は苦悩を一人で抱えたまま、自分の無力と無責任を責めて、受け止めて、青春たちと夢見た都会の街を後にした。すべて終わったのだと、絶望で自らを壊しながら長く、長く彷徨い続けた。

 そうして、たどり着いたこの場所。

 彼女はここで、最愛の人に感じた運命と同等の出会いを果たした。運命に導かれて集った縁は、歌姫が失いたくないもの、終わらせたくないものを必要とした。

 姫川流々の歌と音楽。

 とうに過ぎ去った、色褪せた景色の中に残る、姫川流々の根本。

 それを運命だと信じて必要としてくれた。

「すっげー幸せだったんだ。だから、あれもしたい、これもしたいって、次から次へと思い浮かんで、アヤネと一緒に曲を作ってたときみたいに楽しかった」

 きっかけを作ってくれた棘科輝羽と、その従者居谷里あやめ。

 そして、共に歌うパートナーとして認めた、私。

 運命の出会いは歌姫の中でくすぶっていたものを燃え上がらせた。天で見守る最愛の人へ届く歌を作りたい。あきらめて別れたかつての仲間たちに認められる歌を作りたい。

 必要としてくれた新たな仲間たちを笑顔にできる、とびきりの歌を作りたい。

 夜更かし徹夜何するものぞ。永遠に灯り続ける聖火が宿った彼女を、眠気も頭痛も疲労も、何一つとして止めることができなかった。

「流々を必要としてくれるだけじゃなくて、生活も面倒見てくれて、しかも納得がいく最高の歌を作れときた。こんなの、アツくなるに決まってるでしょ。一か月もあれば十分、一曲どころか、何曲だって作りたくなるっての」

 私を見上げる痩せた歌姫の顔。

 その瞳は衰えるどころか、強い生命の息吹を感じる光で溢れていた。

「今回の歌は絶対に成功する。フミネたちのおかげで流々も大切な音楽を取り戻したんだ。……だから、頼むよ。一緒に帰ろう。帰って、歌を練習しよう」

 私たちに必要とされ、かつての情熱を取り戻した歌姫。彼女の話を聞いて、止められない音楽への熱を強く理解した。流々さんがそれで幸せなら、流々さんがそれで笑ってくれるのなら、今すぐに退院させて一緒に歌を煮詰めたいと思える。

 でも、また流々さんが倒れてしまったら?

 例大祭の晴れ舞台に私一人になってしまったら?

 それは、嫌だ。あきちゃんの提案を受け入れたのは、憧れの歌姫が共にステージに立つと言ってくれたからでもある。不安だからというより、私は流々さんと同じ舞台で歌うのを楽しみにしているのだ。

 流々さんの情熱を認める衝動的な私と、本番の舞台を心配する冷静な私。心の中でぶつかり合い、鈍い痛みを飛び回らせた。

 どうしたら、いいのだろう。

 痛みにうつむく私に代わって、隣で黙って聞いていたお嬢様が口を開いた。

「流々さんが音楽に対する熱い気持ちを取り戻してくれたこと、嬉しく思います。ここまで熱中するほどですから、とても素晴らしいものになったのでしょう。流々さんの気持ちは理解できますが……」

 硬い声色にわずかな嘆きを感じて、あきちゃんの横顔をそっと見る。

 赤い瞳は、流々さんをにらむように鋭くなっていた。

「かつてのあなたと同じ思いを、ふみにさせてはいけません」

 歌姫の光に満ちていた瞳が曇った。噛みしめるようにして、唇を真一文字に結ぶ。後ろに控えていたあやめさんが「輝羽」と名前だけ呼んで、それ以上の言葉を遮ろうとする。執事の制止を聞かず、お嬢様は静かに、怒れる様子もなく、諭すように続けた。

「あなたは大切な人を失う絶望を知っているはずです。先達として、同じ絶望を新たな歌姫に教えるつもりですか。――共に立つステージで、大切な人が倒れる悲しみを」

「ち、違う。そんなつもりじゃ……」

 流々さんは瞳を曇らせたまま、苦々しそうにうつむいた。

 厳しい問いかけだった。あきちゃんはいたずらに流々さんの過去を掘り返したわけではない。今、歌姫がしていることを省みさせているのだと思った。

「ぶしつけな提案をした私にも責任はあります。きちんと日取りを踏んで交渉したわけでもないし、文句を言うなら歌なんて作らせるなと言われるかもしれない。しかし、私の提案を了承してくれたのは他でもない、あなた自身です。だからこそ、こうして話しているのです」

 棘科家が歌姫の生活も保障し、製作に集中できる環境を与えた。それは、最高の歌を作曲するためであり、万全の態勢でステージに立つため。決して無茶や無謀をさせて利益を上げたいわけではないのだ。

「今回の歌は、先を歩いた歌姫が新たな歌姫と共に、新しいスタートラインに立つための歌。スタートラインから踏み出すためには生きていなければいけません。情熱に身を燃やすのは結構ですが、死ぬなんて絶対に許しません」

 今日のあきちゃんは冷静沈着なお嬢様だった。作り上げた歌も、例大祭の本番も、私と流々さんも、すべてを大切に輝かせるために想ってくれている。どんな些細なことも一人一人が納得いくように手を打ちたい想いが、未だ硬くする横顔から読み取れた。

「棘の森温泉街を預かる者として、この企画を立ち上げた者として、守護者一族の末裔として、光の歌姫に申し上げます。今日は病院で休んでください。そして、明日の再検査を受けてください」

 あきちゃんが背負うものすべてを掲げて、流々さんに願う『休養』だった。

「流々よ」

 あやめさんが歌姫を見ながらポケットから棒つきキャンディを取り出していた。

「お嬢の想いが分かるか。お前に『生きろ』って言ってんだよ。酒浸りの今までとは違う、平穏な人生を生きてほしいんだよ」

「うっせーな、分かってるよ。死ぬつもりなんてさらさらないし、アヤネが死んだ瞬間を他の人に経験させたい苦労だとは思わないっての」

 鼻を鳴らす。私やあきちゃんには比較的優しくしてくれるのに、あやめさんには相変わらずの当たり方だった。流々さんはしばらく沈黙した後、ベッドの外に出していた足を戻し、ゆっくりと身体を横たえた。私たちを見る瞳は、今度は違う光が宿っている。

「心配すんな、フミネ。あんたに流々と同じ絶望はさせない。音楽を生み出す苦労はあっても、その先にある楽しさを教えてやる。先を歩いた流々の錆びついた宝物。錆びを落として磨けば、きっときれいに光るはずだ」

 悲しい微笑みに、涙の光が浮かんだ。

「一緒に、磨こうね。絶対、死なないからさ」

 身体を捻って背中を向けると、溢れる涙を隠すように枕へ顔を埋めた。痩せた肩は、押さえ込んだ嗚咽に合わせてほんの少し、震えていた。

 私は流々さんが休んでくれるという安堵と一緒に、明日の再検査への大きな不安も感じていた。たった今、彼女の見せた涙が、自らの終焉に恐怖しているように思えてならなかった。音楽への情熱を取り戻し、まだ生きていたいと思えたから、流々さんは検査を恐れ、こうして涙しているのだろう。生きて冬を越えられない枯れ葉みたいな、とてつもなく寂しい気配を感じて、怖いのだろう。

 気がつけば、私は両手を胸に当てて祈っていた。

 棘の巫女へ。この町を遥か昔から見守り続けている存在へ。

 私の憧れる歌姫にもう一度『光』を与えてください。

 平穏な人生を歩けるだけの元気をください。

 どうか、姫川流々が無事でありますように――。

 見えない声で、祈り、歌い続けた。


 翌日の午前中、学校の休み時間に検査を受ける前の流々さんから電話があった。

 今日から例大祭当日まで、図書館で過ごす時間を歌の練習に回してほしいというお願いだった。まず、放課後は図書館には行かず、まっすぐ帰宅する。そして館で宿題を済ませたら流々さんのスタジオと化している貸別荘へ向かい、完成させた歌を二人で歌い込み、歌詞とメロディを身体に刻む。練習中に変更したい部分が出る可能性もあるから、わずかな時間でも大切にしたいと話していた。このことはあきちゃんとあやめさんにも連絡しておこう。

 しかし、あくまでもこの話は、流々さんが今日退院することを前提にしている。

 最悪の場合も、考えたくはないけど、あるかもしれない。

『流々は今日の検査が怖いよ。飲み歩いてたときは死んでもいいくらいに思ってたのに、フミネたちに出会ってから死にたくない、生きたいって思うようになったんだ。ホント、何も出ないでほしい』

 休み時間、生徒たちの賑やかな喧騒に包まれる廊下で、私は流々さんと秘めた会話を続けていた。短い休み時間の間、流々さんの不安が少しでも軽くなるようにと、一生懸命話を聞いては励ました。

「私、昨日からずっと祈っています。流々さんが無事でありますように、って」

『……サンキュ。フミネのお祈りで悪いところ全部ぶっ飛んでくれないかなぁ』

「大丈夫です。きっと、大丈夫です。私の近くには棘の巫女がいますし、お稲荷様のご加護もありますから」

『ほほぉ、お稲荷様のご加護ねぇ。それって効いた?』

「効きましたよ。保証します」

 あやめさんから頭を撫でられた日。私の環境が変わり、髪型も心も変わって迎えた連休明けの初日だ。お稲荷様のご加護を信じて勇気を出したら、クラスメイト達と新しい縁を繋ぐことができた。七倉さんにはつらく当たられてしまったけど、縁を繋いだみんなが背中を押して、すぐそばで支えてくれた。

 だから、今回もきっと大丈夫。私は、そう信じている。

『へぇ。フミネがそう言うなら信じるよ。なんてったって、アヤネと同じ漢字持ってるからねぇ。だいたい同じ漢字のマイハニーと知り合うとか……。あ、呼ばれてるわ、順番来ちゃったみたい』

 話の途中、歌姫の声に重なるように「姫川さーん」と大きな声が聞こえた。

 冷たい息を呑んだ。棘の巫女様、お稲荷様。どうか、流々さんを守って。一瞬の間に強く祈って、絶対にあきらめないと気をしっかり持った。私や流々さんに迫る悲しい予感を蹴り飛ばして、最高の舞台で最高の歌を奏でられるように。

「絶対に大丈夫です。今日は必ず別荘で会いましょう」

『ん。じゃ、そろそろ行くね、アヤ――』

 言いかけて、声が止まった。呼ばれた私も思わず身構える。

 年下で別人の私を、自分の愛した人と同じ名前で呼ぼうとした。昨日から続く不安に、誰よりも頼りにしていた愛する人を求めてしまったのだろうか。昔、上京して間もない流々さんが不安で負けそうになったとき、リーダーのアヤネが何度も「大丈夫、泣かないで」と励ましてくれたという。彼女の弱さを責めることなく、前を向いて進んでいけるよう、何度も何度も。

 愛する人に励まされた流々さんはやがて『光』という歌を産み、その歌によって幼い私が救われた。たった一人の言葉が誰かの人生を支え、その誰かもまた、知らない誰かの人生を支えていく。それは受け継がれていく思いやりの意志。生き物が子孫を残すように、心もまた、遠い世代へ続いていく。

 巡り巡って、今、流々さんに励まし返すときがきたみたいだ。

 廊下の冷たい壁に背中を当てて、目を閉じてうつむいた。病院で不安になっているであろう、歌姫の姿を思い浮かべて、あきちゃんが思い出させてくれた『思いやり』を言葉にした。

 私はフミネであってアヤネではない。顔も声も、想いを寄せる人も違う。

 それでも、代わりに励ますくらいはできる。

「……大丈夫、大丈夫だから。泣かないで、流々」

 電話の向こうで息を吸う音が聞こえた。

 歌姫の愛した人が実際にどんな言葉と声で励ましたのかは分からない。今の私にできるのは、私自身が愛する人によって取り戻した思いやりで、思いやること。憧れの人を呼び捨てたのは生意気な気遣いとは思わない。それだけ気持ちを傾けて、想いを込めて励ましただけだ。

 数秒の沈黙。向こうから返ってきたのは、短い言葉だった。

『あり、がとう、アヤネ……。行ってきます』

 はっきりと私をアヤネと呼び、通話はそこで切れた。

 スマートフォンをブレザーのポケットに戻したら、昨日からこびりつく悲しい予感や恐れが再び圧し上がってきた。歌うと決めた心に亀裂を入れようと、底からゆっくりと、しかし容赦なく圧をかけてくる。

 流々さんは、無事に退院できるだろうか――。

 廊下の窓から見える空は、味も深みもない灰色で塗りたくられていた。

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