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桜沢さんのお嬢さま  作者: 松山みきら
第12章 歌姫の闇 -桜沢文音-
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 放課後、あきちゃんとの待ち合わせ場所にした中庭を訪れた。各クラスの教室がある中央校舎と、音楽室や化学室などの特別教室がある北校舎、その間に広い中庭がある。季節の花を咲かせる花壇と青々とした植木が、葉桜をまとう大きな桜の木を囲い、学校の中に小さな公園を作っていた。原色で彩られた鮮やかな花畑の輝きは園芸部の熱心な活動の賜物だ。中庭と音楽室はガラス扉で繋がっており、扉の周辺ではフルート奏者たちが譜面台を持ち寄って毎日練習している。今日も吹奏楽部は音楽を奏で、園芸部はその演奏を聴きながら両手を土で汚していた。そういえば、植物に素敵な音楽を聴かせると立派に成長するという話を耳にしたことがある。園芸部の手入れと吹奏楽部の演奏が、中庭の美しい自然を保っているのかもしれない。

 桜の木へ近づき、そばにある傷んだ木製のベンチに腰を下ろした。

 六月に入ってもまだ風は冷たく、しかし降り注ぐ日光は夏のように燃えていた。風に乗って耳に届くフルートの音色、懐かしい寂しさを浮かばせる土の匂い。中庭に漂う優しい空気が私を包み込んで、肉体と心に引っかかっていた一日の疲労をそっと拭っていく。本を広げずとも、風の旋律と土の匂い、鮮やかな木花が物語を作っていた。図書館の甘美なまどろみとは対照的な、生命の力強さがそこにあった。

 初めて棘の館を訪れたときを思い出す。

 ランチを終え、館から帰るときに当主様がくれた言葉。

『あなたの前には多くの道がある。狭い世界に押し込まれたままでは見えない道がそこにある。――広い世界へ続いている道。あなたはその道を歩き、もっと広い世界を知る必要がある。何も知らない大人になってはだめよ』

 過去に囚われ、自ら狭い世界を作って逃げ込んだせいで何一つ気づけなかった。たくさんの道や風景があったのに、私はただ通り過ぎるだけ。高校に入学して二年、中庭の存在は知っていても、この心地よさを知ったのはたった今だ。こんなにも近くにあるのに見つけられなかったのだから、当主様の言う広い世界には膨大な発見が秘められている気がした。

 そう。私は無知なのだ。まだ何も知らない。

 これからやり直していく中で、多くの発見をしなくちゃ。

 大好きな恋人と、新しく縁を繋いだ仲間たちと一緒に。

「あれっ、文音ちゃん? 珍しいじゃん」

 景色を眺めていたら横から私の名を呼ぶ声が飛んできた。声の主を探して横を向くと、私より背の高い、快活な眼差しをした女子生徒が立っていた。薄手の黒いカーディガンと使い古したリュックサックは、去年も――。

「針ノ木、先輩?」

 驚きと一緒にわずかな嫌悪感がちくりと刺さった。

 一つ上の先輩。針ノ木蓮華。

 棘科輝羽の、憧れの人。

「やっほー。隣、いい?」

 短い黒髪を揺らして微笑む。大人の、たとえるなら当主様の雰囲気に似た笑顔。そう、針ノ木先輩はカッコいい女性だ。小さく頭を下げて返事をした。

「……どうぞ」

 あきちゃんが憧れている。

 そう思うだけで私の中に醜い泡が沸いて、声色が険しくなった。他人を突き放していた自分に戻ってしまいそう。

 あきちゃんは私の恋人。

 小さなお嬢様は私の恋人。

 針ノ木先輩はあくまでも憧れの対象であって、恋慕の対象ではない。

 分かっているのに、私は嫉妬していた。

 一人分の間を空けて、針ノ木先輩がベンチにゆっくり座った。空気が動いて、木々の匂いに甘いバニラの香りが混じる。

 先輩の、匂い。

「文芸部に顔出して以来だね。こうして話すのは初めてかな」

「そうですね」

 抑揚のない声で返事をして、眼前の景色へ意識を飛ばした。相変わらず、吹奏楽部の女子生徒たちがフルートの音色を奏でている。中庭に注がれる日差しを受けて、部員の一人が持つ黄金のフルートが煌いた。

 去年、問題を起こした文芸部の先輩と針ノ木先輩は親しくしていた。よく文芸部の部室にも顔を出していて、言葉は交わさなかったけど、互いの存在は知っている。今では件の先輩も文芸部を辞め、針ノ木先輩も吹奏楽部を見守るようになった。顔を会わせる機会はほとんどなく、彼女が言う通り、話すのも初めてだった。

「吹奏楽部の練習を見に来るのも久しぶりだなぁ。勉強とバイトで忙しくてね」

 あきちゃんの話によれば、先輩は棘科グループの企業に就職することを前提として、大学への進学を勝ち取ったという。中庭に来るようになってから針ノ木先輩と会うのは今日が初めてだ。忙しいのは本当らしい。

「今日はどうして来たのですか」

 先輩の方を見ないまま聞いてみる。

 忙しいなら来なければいいのに。

 そうすれば、こんな嫉妬を、醜い泡を感じる必要もなかった。

 このワガママな嫌悪感も誤りだというのは十分承知している。それでも、抑えられなかった。私の可愛い後輩を憧れさせるなんて。あんなに小さくて可愛いお嬢様の心をときめかせるなんて。

 悔しかった。

「ちょっと勉強疲れしちゃって、泉実に会いたくなったんだ。あの金色のフルートの子」

 金色のフルートを持つ奏者は一人しかいなかった。栗色の髪を揺らしながら風の音を奏で続ける、柔和な印象の女子生徒。彼女、高瀬泉実先輩は生徒会長で、吹奏楽部の部長も務めている。去年の事件を通して、針ノ木先輩と高瀬先輩、そして吹奏楽部の面々には強い絆が芽生えたと聞く。コンクールでの金賞から始まり、輝かしい栄光を勝ち取り続ける吹奏楽部のそばには、いつも針ノ木先輩の姿があった。

「文音ちゃんはどうして中庭に?」

 視界の端で先輩がこちらを見たのが分かった。先輩の顔は直視できないし、本当は話したくもない。でも、それでは昔の自分に戻ってしまうし、何より大好きなあきちゃんが悲しんでしまう。あきちゃんへの愛と先輩への嫉妬と天秤にかければ、どちらが勝るのかは明白だった。

「図書館へ行く前に、ここであきちゃんと落ち合うようにしたのです」

「あぁ、あきちゃんと! そっかそっか!」

 あきちゃんの名前を出したら声色が明るくなった。

 どうして明るくなったのかは分からないまま、また嫉妬した。

「あきちゃんと仲良くしてる?」

「はい。とても大切な人です」

 即答した。

 だって、あきちゃんと私は恋人同士だもの。

 あきちゃんは私が受け止めきれないくらいの愛をくれる。壊れてしまいそうなほど華奢なのに、私を求める力はとても強い。仲良しだけでは語れない深さ。その深さを誰かに理解してほしいとは思わない。私とお嬢様の時間として、胸の中に秘めるだけ。

「あーっと。あんまり警戒しないで? あたしはいじめたりしないよ」

 突然、先輩がそんなことを言った。私をじっと見ているのが視界の端からでも分かった。抱く嫌悪感や嫉妬に気づかれたのかと思い、息が詰まる。上級生に対して失礼なことをしている自覚はあっても、やっぱり、どうしても抑えられなかった。じんわりとブラウスの下に汗がにじむ。

「……先輩がうらやましいのです」

 妬ましいとは言わなかった。これ以上の無礼を重ねるわけにもいかない。重石みたいな嫌悪や嫉妬がお腹の中にあっても、恋人の憧れる人を傷つけたくはなかった。針ノ木蓮華は棘科輝羽にとって大切な友人なのだ。私が雪を親友としているように、きっと。

「どの辺が? うらやましがられるような人間じゃないよ、あたし」

 先輩は明るく笑う。本来なら私が気を遣わなくてはならない立場なのに、上級生に気を遣わせている。先輩を見るものかと頑なに固まっていた首がやっと動いた。

 明朗快活な笑顔が隣に咲いていた。

「先輩は私の知らないあきちゃんを知っています。私よりもずっと前にあきちゃんと時間を共有していて、彼女の憧れにもなっています。それがとてもうらやましいのです。私も、もっと早くあきちゃんに出会いたかった」

「あぁ……。そういう、ことか」

 そっと、身体を前に向ける。先輩の視線はフルート奏者たちへ投げられた。

 少しの間、二人とも沈黙した。

 私から声をかけようとも思わなかったし、それ以上の話題を持ち出そうとは思わなかった。針ノ木先輩も黙って微笑んだまま、フルートを奏でる少女たちを見つめている。公園で遊ぶ幼子を見守る母のようだった。

「憧れについてはちょっと置いといてさ。文音ちゃんだって、あたしの知らないあきちゃんを知ってるんじゃない? 図書館で毎日会うらしいし、あたし以上にたくさん、あきちゃんの瞬間を見てきたんじゃないかな」

 急に、針ノ木先輩の眼差しが違う世界を見つめているように感じた。

 妖しげに私を誘惑する微笑み。小さな子供みたいに目を輝かせる明るい笑顔。文芸部の部長や、私の家族に向けた激怒の横顔。私を求める切ない瞳。私の胸で見せた穏やかな寝顔と、守りたくなるような泣き顔――。

 この春に見た小さなお嬢様の色彩が、数年の思い出みたいに頭を駆け抜けた。

「あたしも、もっと昔から泉実のそばにいたかった。もっと早く、一日でも早く泉実と仲良くなりたかった。フルートパートの子たちがうらやましかったよ」

 針ノ木先輩にとって、高瀬先輩はどんな存在なのだろうか。それほどまでに強く想う根本には、一体何があるのか。隣から遠くを眺める眼差しは、高瀬先輩が通り過ぎた戻れない日々を探しているようで、どこか寂し気だった。

「でも、それが、運命ってものじゃないかな」

「運命?」

 ここ最近、よく聞く言葉。

 私が憧れる歌姫、姫川流々も同じ言葉を口にしていた。

「うん。最初から時間を共有することが運命じゃない。違う時間を歩いた先で道が交わったからこそ、運命なんだ」

 胸が、鳴った。

 じわりと瞳が濡れた気がした。

「大切な人が他の誰かと先に時間を共有していても関係ない。あたしたちの時間に交わる瞬間は、他の何物にも代えられない、とびきりの瞬間なんだ。文音ちゃんがあきちゃんと出会う瞬間が、一分でも一秒でも違ったら、大切な人になれなかったかもしれない。だから、これでよかったんだよ。うらやましく思うことなんて、ないんだ」

 ゆっくりとこちらを向いて、首を傾げる。たしなめるような、穏やかな微笑みを浮かべていた。

 この人はどうして、ここまで温かい言葉を紡げるのか。

 私たちは大切な人に出会うまで、たくさんの経験をしながら道を歩み続ける。そして、知らない誰かが同じ道に交わって、同じ方向へ歩き出す。私たちが望まなくても、意図しなくても、不思議な縁が近くに集い、やがて、私たちは大切な人と巡り合う。

 その瞬間こそが、運命。

 たった一分、たった一秒の誤差もない。

 運命の瞬間に出会うからこそ、大切な人になるのだ。

 やっぱり、彼女は先輩だった。

 あきちゃんが、憧れるわけだ――。

「申し訳ありませんでした」

 ベンチから立ち上がって、深く頭を下げた。

 大切な人が憧れる先輩に対する無礼を精一杯詫びた。

「いやいやいや! ちょっとやだ、やめてよそんな。座って座って」

 両手を振りながら先輩も立ち上がり、慌てて私をベンチに座らせる。もう一度座り直したとき、一人分の空白はもっと縮まって、私たちの距離は近くなっていた。先輩はさっきよりももっと明るい笑顔を浮かべて、声の調子も上がっていた。

「これをきっかけに仲良くやっていこうよ。泉実も誘うからさ、今度時間作って、あきちゃんと四人で出かけたりしない? 温泉街でお泊りとか」

 もう、ネガティブな話題を切り替えてくれた。さすがは先輩だ、気難しくて卑屈な後輩にも見事な気遣いをしてくれる。私はあきちゃんの恋人ではあるけど、先輩としては針ノ木先輩には敵わないと思った。

「楽しそうですね。修学旅行でしかそういう場所に行ったことがないので、興味はあります」

「おっ、前向きな回答だ。オッケー、あたしからあきちゃんに相談してみるよ。多分、四人の中で一番忙しいのはあきちゃんだろうし、お伺い立てないとね」

 へへへ、と人懐っこい笑い方をして、針ノ木先輩がスマートフォンを取り出した。すごい、もう連絡するつもりだ。こうして提案して、きちんと行動に移していくのは見習いたい。私にもこれだけの勇気があれば、もう少し早く、笑顔を取り戻せただろうか。

 考えていたら、ポケットに入れていた私のスマートフォンが強く、連続して震えた。これはメッセージの受信ではなく、通話の着信だ。私に電話をかけてくるなんて一体誰だろう。先輩に一言断ってスマートフォンを取り出す。ディスプレイには『あやめさん』と出ていた。

 少しだけ、寒気を感じる。

 画面にそっと触れて、通話に応じた。

「も、もしもし? もしもし?」

 端末の向こうはガヤガヤと、何だか騒がしい。

 何度か「もしもし」を繰り返して、ようやく返事が返ってきた。

『すまねぇ、文音ちゃん! 流々が倒れた!』

「え――!?」

 返事には、叫び声にも似た悲痛が込められていた。

 言葉を失った代わりに、心臓が身体を揺らすほど跳ね上がる。

 中庭の冷たい風が背筋をなぞってぞわりと凍えさせた。


――流々もステージに立つから、一緒に歌おうよ。運命を信じてるのなら、さ。


 流々さんの笑顔が、悲しい色を持って私の脳裏に浮かんで消えた。

「そ、そんな! 具合はどうなんですか!?」

 大きな声で、普段しないような強い口調が漏れた。

 隣でスマートフォンをいじっていた針ノ木先輩も何事かと顔を上げる。

 共に最高の晴れ舞台を目指す大切なパートナーであり、憧れる人が倒れた。

 不安に感じていたことが、現実になってしまった!

『詳しくは検査しないと分からないが、意識はしっかりしてる。今、病院に運んだところだから、このまま学校に行くぞ。輝羽にも連絡したから、一緒に流々を見舞ってやってくれないか』

「もちろんです、早く連れて行ってください!」

『ああ、速攻で迎えに行く。支度しといてくれ』

 ぶつっと通話が切れる。

 ディスプレイの通話終了という表示が残酷に見えた。

「何かあったんだね」

 隣にいた針ノ木先輩が察して、顔つきを硬く、凛とさせていた。

 歌姫が棘森にいることは秘密にしなくては。流々さんのイベント出演はチラシや宣伝でも公表されていない。流々さん自身も、サプライズがバレてしまえば落胆してしまうだろう。

 心配する先輩を見つめ返して、小さくうなずいた。

「どうか、何も聞かないでください。先輩を疑っているわけではありません。落ち着いたら必ずお話しします。だから、今は……」

 スマートフォンを胸の前で握りしめてうつむく。涙が出てきそうだった。

 流々さん。幼い私に希望を与え続けてくれた人。一緒に歌おうと、私との歌を作りたいと言ってくれた人。思い返す朗らかな声と、明るい笑顔はとても苦しくて、悲しくて。喉の奥と胸がズキズキと痛んで詰まるようだった。

 涙を堪えて震える私の肩に、針ノ木先輩の手がそっと乗せられた。

「分かった、何も聞かないよ。励ますべきなのか、慰めるべきなのか、あたしには分からないけど……。とにかく、気をしっかり持って」

 先輩の励ましを受け止めながら必死に涙を堪えて、流々さんの笑顔と声に締めつけられる胸の痛みと戦った。先輩の言う通り、しっかり気を持たなくてはだめだ。私が取り乱してしまえば、歌とも向き合えない。私が、しっかりしなくちゃ。

 言い聞かせる心の声は薄ら寒い空っぽの部屋を飛び回るようにむなしくて、無力で、自分への苛立ちすら覚えるほどだった。

「ふみっ!」

 肩にかけた鞄を握りしめて、小さなシルエットが中庭に駆け込んできた。長い黒髪をマントさながらに揺らして走ってくる、小さくも勇ましい姿。

「あきちゃん!」

 すぐに飛びつきたかったけど、針ノ木先輩の前だから、立ち上がるだけで留まった。あきちゃんも私には手を伸ばさず、険しい顔のままベンチの前で立ち止まる。走ってきたのに息は乱れておらず、澄んだ声をすぐに聴かせてくれた。

「蓮華先輩、すみません。大至急ふみを連れて行かなくてはいけません」

「訳アリみたいだね。さあ、行った行った!」

 針ノ木先輩も立ち上がって、私たちを追い払うように両手を振った。

「失礼します、針ノ木先輩。今度ちゃんと、お話しさせてください!」

「はいよ! 転んで怪我しないようにね!」

 二度、三度、頭を下げてあきちゃんと手を繋いで駆け出した。

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