32
「――『光』を作った後、流々の歌には命が宿らなかった。つまらないアルバムを一枚出して、それっきり、何も作れなくなっちゃった」
ずっと続けていた、一日一回の歌、作詞、作曲もすべてが止まった。空っぽになった流々さんを支えてくれる人はおらず、Rayを見出したプロデューサーでさえ、彼女を見限ってしまった。でも、落ち込んでばかりではいられない。仕事もせずに貯金だけで楽をしていてはだめになってしまう。流々さんは空っぽのままでも、小さなバーで歌を歌ったり、上京したてのときみたいにアルバイトをかけ持ちしたりと奔走した。時折、堕ちた歌姫に目をつけて身体を求めてくる人もいたらしいけど、決して身体は許さなかったという。
「流々の心も身体も、リーダーのもの。アヤネが死んでも、それだけは譲れない」
「それって……」
「アヤネと流々は、そういう、関係だったわけ」
流々さんがほんの少し顔をこちらへ向けて、首を傾げた。
そういう関係。すなわち、私とあきちゃんの間にあるものと同じ。
掘り下げる必要はない。ましてや彼女は、最愛の人を失っているのだから。
「分かりました。話の続きを」
「……ありがとね」
悲しげに微笑んで、また窓の外を見る。
しかし、バーでの仕事は上手くいかなかった。歌うたびに客から嘲笑され、罵倒され、酒やグラスをぶつけられた。もうお前の歌は時代遅れだ、出てくるな、と、酔客たちのサンドバッグになり果ててしまった。心も傷つき、実際に怪我もするようになって、バーの仕事は続けられなかった。アルバイトは比較的長く続いたものの、バーでの日々が流々さんの心に深い傷を残して苛み、また、一緒に働く人々が歌姫の末路を陰で笑うこともあって精神的に追い詰められていった。リーダーも失い、Rayも失った流々さんには耐え切れない負の連鎖。彼女はアルバイトも辞めて、ついに陰へ隠れる決心をした。
実家の両親は戻ってこいと話すものの、流々さんにはもう、地元に戻る力も、都会で生き続ける力も両方を失ってしまった。生きるとは何なのか、何のために生きているのか。流々さんは「空き缶みたいになっちゃって」と笑っていた。住んでいたマンションにあった荷物だけ地元に送り届け、部屋を解約、自身は何をするわけでもなく、わずかな貯金を少しずつ崩しながら飲み歩く身になる。かつて大きな夢を見た都会の街を離れ、電車に乗って、時には徒歩で、北へ南へ。時には山奥で眠り、時にはホームレスのおばあさんと同じ段ボールで眠り、行く当てもない放浪の旅を続けていたそうだ。
「あのおばあちゃん、どうしてるかな。公園で歌を歌ってあげたらすごい喜んでくれてさぁ。流々にお小遣いだって、五円玉くれようとしたんだよ。受け取れないって断ったけどねぇ」
笑う歌姫の横顔が、痛ましい。
憧れていた歌姫が追い詰められていた。かつてテレビで観た歌姫の姿と、街をさまよい歩く姿を想像して比較する。流々さんの語る真実に、何一つ言葉が出なかった。私の過去が一瞬で否定されるほどに悲しい日々だと思える。
でも、彼女はそれを認めないだろう。
彼女は決して、「自分が一番苦労している」とは思わない人だ。
「それで、何かの縁か知らないけど、流々は棘丘に来ちゃったんだ。朝っぱらから騒ぐ女の子の隣で、べっぴんさんが仏頂面してたの」
こちらに振り返り、窓に背中を預ける。
「フミネだった。あんたと目が合ったんだ、あのとき。覚えてるかな」
「ええっと……?」
朝っぱらから騒ぐ女の子、と聞けば多分、というか絶対に雪だ。棘丘駅から通っていた時期なら私が棘の館で保護される前になる。
ここ最近、雪が騒いでいたときに、目が合った人――?
「――あっ!」
ある朝の出来事を思い出した。
棘丘駅のホームで、雪に例大祭の話をした。大喜びする雪の声に反応して、前にいたコートの女性が振り返って不機嫌そうにこちらを見ていたっけ。あのとき、女性の顔に見覚えがあるような気がしていた。まさか、流々さんだったなんて!
「コートを着ていた女の人がいました。まさか、あの人が」
「そ。流々だったの」
胸が強く鳴って、運命という言葉が頭の中で瞬いた。
「棘丘駅から電車に乗って、今度は棘森に着いた。割と居心地よかったから、しばらく留まることに決めたの。駅前で飲み歩きながら、公衆トイレとかビルの裏で寝泊まりしてたんだけど、あのバカ執事に見つかっちゃってさぁ」
執事――あやめさんに見つけられた流々さんは、ある少女の話を聞かされる。姫川流々という歌姫を支えに、姉の虐待と両親の無関心に耐え続けた女の子の話。そして、その女の子を救うために、歌を一曲作ってほしいと依頼を受けたそうだ。
「最初は断ったよ。流々はもう終わってるんだって、全力で断った」
リーダーのアヤネもいない。Rayのメンバーも行方が知れない。流々さん自身も、空き缶のように空っぽになっていた。夢も希望もない、自分の行き先も知らない、生きる意味を見失った堕ちた歌姫。しかし、あやめさんは乱暴な口調ながらも、まだ終わっていない、あきらめるなと励ましてくれたのだという。
かつて、プロデューサーや身の回りにいた人が決して口にしなかった言葉。
流々さんはそのときに、涙を流してあやめさんの言葉を受け入れた。なぜなら、あやめさんの一言が、ありふれた激励の言葉が、都会で道を見失っていたときに求めていた言葉だったから。あの街の誰もが言ってくれなかった、小さな励ましの言葉をくれたから。
「彷徨って、迷った先に見かけた女の子。その女の子は驚くことに流々のファンで、しかも、彼女を助けるために歌を作れって、棘科の執事が近づいてきた。……流々は、偶然とは思えない、とんでもなく大きな運命を感じたよ」
外、出てみない?
窓の一番端に、バルコニーへ続く黒い縁取りのガラス扉があった。私は流々さんに連れられてバルコニーへ足を踏み入れた。広い床は木材で、日差しを受けて温かくなっていた。少し怖かったから、銀色の手すりには近寄らずに部屋の近くで立ち止まって、吹き抜ける優しい風に身を委ねた。空の青と森の緑を背景に、手前には古風な温泉街、遠くには灰色に輝く棘森の町並みが見える。流々さんは手すりに両腕を置き、臆することなく、目の前に広がる世界を見渡していた。
「日本の、小さな町だけでもこれだけ広い。そのクソ広い中で、棘科っていう縁が流々とフミネを引き合わせてくれた。流々は、自分の生活とか人生抜きに、こう思ったね」
――フミネとの歌を作りたい、って。
「不思議だよねぇ。歌なんてずいぶん作ってないのに、空っぽになってたはずなのに、実際に会って話を聞いたら、あんたとの歌を作りたくなっちゃったんだもん」
流々さんが手すりから離れた。部屋から逃げようとしたときと同じように、私の背後に立って両肩に手を乗せる。流々さんの温もりを背中に感じながら空を見上げた。バルコニーに出た私と流々さんを、青に浮かぶ光が照らし出す。
「お互い、隠れて生きるのはおしまいにしない? 流々もステージに立つから、一緒に歌おうよ。運命を信じてるのなら、さ」
憧れの歌姫がひねくれた私と歌を作りたい、歌を歌いたいと言ってくれた。歌姫と同じステージで同じ歌を歌えるなんて、とても名誉なことだ。姫川流々のファンなら、この上なく嬉しい機会だと思う。彼女が重ねて言うように、私自身もこの春に起きた出来事には大きな運命を感じる。
知らない人たちの前で歌うのは怖い。
本当は断ってしまいたい。
断れば、私は怖い思いをせずに、愛しい人と同じ屋根の下で平穏な日常を生きていける。でも、あきちゃんはきっと悲しむだろうし、流々さんだって残念に思うだろう。それは嫌だ、あきちゃんや流々さんを悲しませるなんて嫌だ。
私を想い、計画を立案したあきちゃん。
私との出会いを運命だと信じる流々さん。
二人の気持ちを無下にはできない。
そのためには、私が恐怖に立ち向かわなくてはならない。
「私は……」
恐怖に立ち向かう。
一度、自分の意志で恐怖と戦った日を思い返した。
あきちゃんと結ばれた日、家に帰ると、私の人生における最大の恐怖、桜沢安珠が待ち受けていた。彼女は理解できない理由と強い力で私に襲いかかり、首を絞めて殺そうとした。あのとき、私はあきちゃんへの想いを武器にして勇気を振り絞り、最大の恐怖と戦って命を繋いだ。
そう、戦った。
あのとき、恋人への想いが勇気を生み出し、恐怖と戦ったのだ。
では、今回の提案ではどうだろう。
愛する恋人がこれからの未来をやり直せるように考えてくれた。私の可能性を信じて提案してくれたのに、私はちゃんと向き合っただろうか。勇気を出して戦ったと言えただろうか。
いいえ。
戦ってなんかいない。戦う前から拒絶して、甘えようとしていた。
できるわけがないと決めつけて逃げた。やろうともせず、ろくに考えもせずに愛する人の提案を否定してしまった。安直な否定は私自身も嫌う行為だというのに。自分の身を持って経験していたのに。
深い後悔と罪悪感が込み上げてくる。
あやめさんに叱られて、小さくなっていくあきちゃんの姿が瞬く。
私は、なんてことを。
あきちゃんの優しさに甘えているだけではいつまで経って変われない。未来を切り拓くためには、一歩の勇気を踏み出さなくてはいけないのだ。今はこうして、憧れる歌姫までもが私を支えてくれている。愛する恋人、憧れる歌姫、親友や多くの人々が、私がやり直せるように支えてくれている。
逃げてはいけない。私は、私の未来のために向き合わなくちゃ。
勇気を出して。
両手を胸に当てて、強く握りしめた。
『ずっと、守るから』
大好きなあきちゃんがそう言ってくれた。
もう独りぼっちじゃないって、分かっていたでしょう。
今度は私が、大好きな人に応えて一歩を踏み出す番。
憧れの歌姫と同じ舞台に立つために。
私自身が変わるために、勇気を――。
恐怖に震える鼓動を抑えて、大きく息を吸った。
そっと触れた 日向の温もり
あなたの心が ああ 呼び起こす
うたかたへ馳せる 私の願いを
叶わぬはずの 私の願いを
「フミネ!?」
背後から、分かりやすいほど期待に溢れる声が聞こえた。
愛する人と迎えた朝に奏でた歌。それは憧れる人が作った歌。幼い私を支えて続けてくれた、希望の歌。
歌いながら首を傾けて、後ろに立つ流々さんを見上げる。歌姫は照れくさそうに笑って、深呼吸をした。
幾度も砕かれ 散った欠片が
陽だまりに輝く 形をとる
見上げる空
光をくれたのは あなただった
バルコニーで奏でる、私と流々さんの歌。憧れの歌姫と一緒に奏でる歌。途中、流々さんがコーラスに切り替えると、主旋律を歌う私の声と重なって、きれいなハーモニーが風に乗った。
懐かしい感覚だった。
これは、合唱部で感じたものと同じ。私自身が一つの楽器となり、他の音色と交わって音楽になっていく。優しい風に乗る声の協奏、震える空気の感触が耳と身体に響いて、私の気持ちを高めていく。
儚い夢でもいい
歩くことをやめないで 前を向いて
君の想いを声にして もっと歌にしよう
未来はきっと 輝きに満ちている
胸がいっぱいになる、確かな感触がした。
歌は、こんなにも素晴らしい。
気高くて尊い感触が胸の中を満たしていた。私はこの感覚を知っている。この感覚があったから、私はつらい出来事に耐えられたのだ。
きっとやり遂げられる。大好きな恋人と、憧れの歌姫がそばにいる。
どれだけ怖くても、支えてくれる人がすぐ近くにいる。
だから、変わるための勇気を、一歩を、踏み出さなくちゃ。
たった一つの 夢や希望が
たった一つの 歌や言葉が
あなたの涙を今 乾かして
光ある 明日へ――
私と流々さんの声が共鳴する。
バルコニーに吹き抜ける柔らかな風が、私たちのハーモニーをさらって温泉街へと降りていった。呼吸を整えて、また流々さんの顔を見上げる。
「……これが、私の答えです」
歌姫はよっしゃ、と満面の笑顔をくれた。
私の答えを『聴いた』後、流々さんは客室に備え付けられていた電話でフロントに連絡し、ロビーで待機しているあやめさんたちを呼びつけた。部屋に入ってきたあやめさんの後ろでは、未だしょんぼり状態なのか、あきちゃんが顔を伏せている。今度はソファーには座らせず、客室の入り口近くで話が進められた。
「――つーわけでぇ、流々とフミネはお互い昔話を交換して、一緒に『光』を歌って超意気投合したわけよん。つか、フミネの声ヤバかったわ。よく出るじゃん、本当に素人かよ……」
私の歌は、憧れの歌姫にも認めてもらえた。驕らずに大切にしていこう。あやめさんが棒つきキャンディーを頬張りながら嬉しそうにうなずいた。
「歌う決心がついたんだな!」
「……はい。先程は取り乱してしまい、申し訳ありませんでした。例大祭のイベント、挑戦してみます」
まだ不安ではあるし、正直言って怖いけど、自分を変えるための一歩として何かに挑戦してみるのはいいことだと思う。それが自分の好きな歌だというのなら、なおさら価値あるものに感じられた。歌い方やステージでの心構えは、大先輩である流々さんが教えてくれる。更に、プライベートでは大好きなあきちゃんもいて、生活面では棘の館という最高の環境がある。
今の状況なら、きっと恐怖とも戦える。
うつむいていたあきちゃんがそっと顔を上げた。私と流々さんを交互に見て頭を下げる。
「私の方こそ、取り乱してごめんなさい。流々さんのおっしゃる通り、私は強引に過ぎるところがありました……」
「おや! いいねいいね、謙虚で可愛いじゃん。流々も全力フォローするけど、イベントまでは一か月しかないからね。お嬢様もちゃんとフミネのフォローしてやんなよ」
「もちろんです。流々さんも必要なものがあれば、遠慮なく教えてください。みんなでイベントを成功させましょう」
あきちゃんがしょんぼり状態だったのは拗ねていたわけではなさそうだ。ただ純粋に、自分が強引だったと反省していたらしい。謝罪を済ませたあきちゃんはいつもの自信に満ちた、可愛いお嬢様としてそこにいた。
早速、流々さんがあやめさんへ必要な機材や具体的な作曲の話を始めた。実家に送った荷物には流々さんが作曲で使っていた機材があるという。更に、作曲途中のデータもいくつか残っているから、それらを棘科グループの手を借りて大至急送ってもらうようお願いしていた。
「流々さんには製作環境として、山側の別荘地にある別荘を一つ提供するよ」
話す二人を眺めていたら、あきちゃんが苦笑いをしながら私の隣へやってきた。棘の森温泉街の南西、山側に別荘地がある。そこに貸別荘として棘科家が所有している物件があるそうで、明日から例大祭までの期間、流々さんに無償で提供するのだという。既に部屋の一部は防音室としてきちんと改装済みらしい。棘科グループの力は相変わらずだ。
「さっきは、ごめん。いや、さっきだけじゃないね。今まで何度もふみに強引なことをしてきた。私はひどい恋人だ……」
弱々しく、赤い眼差しが私を見上げていた。
「ひどくなんかありません。私の方こそ、ごめんなさい」
細いお人形さんの手を取って、想いを込めてぎゅっと握手した。
「この握手で仲直りしましょう」
「仲直り?」
「はい。私のせいであきちゃんが叱られてしまいましたから」
「ふみのせいじゃないよ。まったく、優しすぎる」
ちょっと呆れたような苦笑い。
ほんのちょっと言い争ってしまっただけで、ケンカしたわけではない。このくらいで私たちの関係が壊れるはずもなく、多分私はまた、館に戻ったら小さな恋人をとことん甘やかしてしまうのだろう。そしてあきちゃんもまた、私に甘えてくるのだろう。きっとそうだ。
「フミネ、ちょっといいかな」
あやめさんとの話を終えたのか、流々さんが部屋に備えつけられているメモパッドと黒いペンを私に差し出してきた。さすがスイートというべきか、純白無地のメモ用紙が載せられたメモパッドは金色に輝いていた。
「フミネの名前さぁ、漢字でどう書くのか教えてくんない?」
「あ、はい。分かりました」
「サンキュー! 歌い手の名前から伝わる印象もあるしさ、どんな些細な情報でも曲の材料にしておきたいのよね~」
私の名前も材料にしてもらえるのなら喜んで提供する。材料の話を抜きにしても、名前を教えるくらい問題にならない。金色のメモパッドとペンを受け取ったら、一画一画丁寧に私の名前をメモに記していった。
「……改まって聞くのもアレなんだけどね。流々やRayの歌ってさ、どこがいいのかな?」
「え?」
不意に、流々さんがそんなことを言った。ちょっと悲しい色合いを持った質問に思えたから、名前を書く手を止めて、憧れる歌姫の顔を見上げてしまった。目が合うと「変な意味じゃないよ」と苦笑いを返された。
「単純に感想がほしいだけよ。声がいいのか、歌詞がいいのか、メロディがいいのか。とにかくね、直接マイハニーから感想を聞きたいわけ」
「感想……」
メモ用紙に視線を落とす。桜沢、まで書かれた自分の名前が見えた。
もちろん、歌声も、歌詞も、メロディも好き。Rayの楽曲も、流々さんがソロで出した『光』もすべて、私の心に響く音楽だった。特にRay時代には、季節の歌、つらい失恋や優しい恋の歌、はたまた、おふざけみたいな面白おかしい歌、彼女たちの生き様を込めた熱く激しい歌など、たくさんの形をした楽曲があった。それぞれの曲について良い点を挙げようとすればきりがない。
その膨大な楽曲の一つ一つが、幼い私の心に光を与えてくれたものだった。底が見えないほど深く貫かれた心の空洞を、流々さんやRayの存在が光り輝く欠片となって埋めようとしてくれた感覚があった。流々さんたちの歌は、私にとって単純な良し悪しの中に括ることができない、説明できない力があった。
「その、言葉では上手く説明できないのですが……」
「全然いいよ、フィーリングで」
流々さんの明るい声を聞いて、止まっていたペンを動かす。
私の名前は、かつて流々さんが愛したRayのリーダーと同じ文字。何の因果か同じ文字を持つ私は、流々さんやRayに心を支えられて育ち、こうして巡り合うことができた。
もはや、流々さんやRayが奏でた歌のどこがいいのか、という問題ではない。
歌姫の言葉を借りれば――。
「運命、でしょうか」
名前を書き終えた紙をきれいにメモパッドから切り離し、流々さんに差し出す。『桜沢文音』と書かれたメモを見て、流々さんが目を大きく見開いた。笑顔も消えて、メモを受け取る手も震えていた。
「どこがいいのか、ではないと思うのです。私が流々さんやRayの歌に惹かれたのは、きっと運命なのだと思います」
流々さんの見開かれた瞳には涙が溜まっていた。
Rayのリーダーはアヤネで、私はフミネ。
読み方は違っても、共に『文音』と書く。
歌姫は崩れ落ちるようにカーペットに座り込んで、両手を震わせながらメモを見つめていた。流れ落ちる涙が私の名前に一つ、二つ、染みを作っていく。
「リーダーは『アヤネ』。流々を連れ帰ろうとした執事は『あやめ』。そんで、流々に憧れる女の子はアヤネと同じ漢字の『フミネ』だって……?」
棘の森と棘科の紡ぐ縁に導かれた、不思議な巡り合わせ。運命を強く信じる歌姫は、この奇妙な繋がりをどう思うだろう。堕ちた果てにたどり着いた今を、どう思うだろう。
「あぁ、執事はちょっと似てるくらいで、そんなに関係ないかもしれないぞ」
あやめさんなりの気遣いだったのかもしれない。歌姫はそれを聞くなり、うなだれた頭を起こして目を吊り上げた。涙で濡れた瞳は気遣いを受けて和らぐどころか怒りの火が灯っている。
「水差すんじゃねぇよ、バカ! クソ執事! 死ね!」
「おお、こわ。すまんすまん」
執事が謝りながら頭をかいてそっぽを向く。しかし、その口元は笑っていた。
「歌姫さん。今回の件で一番大切なのは楽しむことです」
黙っていたあきちゃんが流々さんの前に出てしゃがみこんだ。
「例大祭には芸能界の複雑な事情はありません。楽しみながら、素敵な歌を作ってください。だって――」
お祭りですから。
そう言って、お嬢様が可憐に笑う。
歌姫も涙を拭って、子供のように可愛らしい笑顔を見せてくれた。
こうして、私は笑顔を取り戻すために、ステージに立つことになる。
お祭りにおける、たった一度の歌。一度きりの夢だと、そう思っていた。
知らず上っていた見えない階段は、気がつけばどこまでも天高く伸びていて。
東に昇る朝陽のようにまぶしく、やがて輝ける明日へ私を導くのだった。




