31
「え――!?」
両腕に寒気が走って、ソファーから立ち上がっていた。
何を考えているんだ、という混乱と不安が胸に膨らんで、頭が真っ白になった。言葉が出ずに、ただ立ち尽くして恋人の赤い瞳を見つめる。真っ赤な宝石は冷たく輝き、私を鋭く見つめている。
嘘、じゃない。
今の言葉は軽い提案や、冗談で話しているわけではない。
あきちゃんは本気だ。
三人が私を見つめている。私に視線を突き立てている。
愛しい恋人からの提案は衝撃的で、できるわけないと真っ白な思考の中で否定していた。
例大祭のイベントで、私が歌を歌う。
ついこの間まで冷酷な先輩として振る舞い、ありとあらゆる人間関係を突き放して排除してきた醜い私が、棘の森温泉街最大のイベントで歌を歌う?
できない。できっこない!
確かに、家の問題はあきちゃんたちの協力があって解決に向かいつつある。私もあきちゃんとの触れ合いを通して失ったものを取り戻してきた。七倉さんみたいに私を否定する人はいるけど、学校でもどうにかやり直せそうではある。
でも、すべて途中であって、完全にやり直せたわけじゃない。
未だ過去に苛まれている。私は過去の自分を知っている。
歩み寄った人を突き放して、誰かを信じることをしなかった。
そんな私が、まだ立ち直れていない私が、舞台に立って歌を歌うなんて無理だ。
恐ろしかった。そんな恐ろしい提案で、笑顔が取り戻せるわけない。
昔とは違う。大勢の前で歌を歌うなんて、私にはできない!
「――そんなのできない! できるわけない!」
両手を胸に当てて、服を強く握りしめて叫んでいた。腹の底から、絶叫した。一歩、二歩、ソファーから離れて客室の入り口に退いていく。恋人の赤い瞳が悲しそうに揺れて、私を追いかけた。
「待って、ふみ! 話を聞いて!」
「私を知らないわけじゃないでしょう! 私が今まで何をしてきたのか知っているのに……!」
歌は好き。本当は、歌を聴くのも、歌うのも好きだ。でも、観衆の前で披露するかといえば話は別になる。合唱部で歌っていたのは遠い過去、歌を止めてずいぶん経つ私には流々さんのような実力もない。ただ恥を晒すだけだ。
できない。歌えない。私には無理だ!
「あきちゃんは信じています……。でも、その提案には賛成できない!」
あきちゃんは大好き。本当に好き。信じている。彼女は私に幸せをくれたし、彼女のおかげでたくさんのものを取り戻して、やり直せた。今回の作戦だって、きっと彼女が一生懸命考えてくれたのだろう。私の歌を聴いて、可能性があると思って提案してくれたのだろう。
でも、できない。怖くてできない。
合唱部にいた頃と、今は違うんだ!
部屋から逃げ出そうと振り返った、そのとき。
「フミネ!」
足が素直に立ち止まった。背中に投げかけられたのは、私が憧れる人の声。ゆっくり振り返ると、ソファーから立ち上がった歌姫が微笑んでいた。すたすたと近づいて私の背後に回り、落ち着かせるためなのか、優しく肩を揉んできた。
……ちょっと、気持ちよかった。
「お嬢様ヘタクソかよ。今までそんな強引に迫ってたわけ?」
気の抜けた、呆れる声があきちゃんに向けられた。流々さんの指摘は的を得ている。実際、強引に迫られたことは何度かある。
求められるのは、その、嬉しいけど。
恋人は顔を真っ赤にして首をぶんぶんと横に振った。
「強引だなんて! 私はふみを助けたいだけです!」
「はぁ? だったらもっと上手く口説けってカンジ? 頭はいいのに不器用じゃん。何、フミネのこと好きなの? 好きだから上手く話せない系? がっつき過ぎて笑っちゃうっての」
「う、歌姫だからって言っていいことと悪いことがありますよ!」
「お嬢様だって言っていいことと悪いことがありますよぉ」
「――むーっ!」
出た。でも、あれが出る内はまだ本気で怒っていないのだ。本気で怒ると「むーっ」もなく背負い投げたり、捻り上げたりするし。
「くくっ」
二人の口論を止めもせず、あやめさんは笑っていた。お嬢様がからかわれているのに、フォローもなくていいのだろうか。さっきは怒鳴ってしまったけど、ちょっとあきちゃんが不憫に思えてきた。大好きな恋人だし、例の提案は抜きにして、慰めてあげたくなってきてしまう。
「執事、ちょっとお嬢様連れ出してくんない? フミネとは流々が話すよ。お嬢様って見た目と違って短気っぽいじゃんね」
待ってください、流々さん。その短気のおかげで救われたり、幸せを感じたときもたくさんあります。と、心の中でフォローしてしまうのはやっぱり、私が甘いからだろうか。
流々さんのストレートな評価に笑い、あやめさんが怒れるお嬢様の手を取った。
「賛成だ。輝羽、行くぞ」
「ちょっと待ってよ! この提案は私が企画したんだよ!? 私がちゃんと話をするから――」
踏み止まってつかまれた手を振りほどこうとする。あきちゃんの力は強いのだろう、あやめさんの目元が不機嫌そうに歪んだ。一度舌打ちをして、あやめさんがパッ、と手を離した。腕組みをして小さなお嬢様を見下ろし、息を吸う。
そして。
「冷静になれ! 助けたい人を怖がらせてどうすんだ!」
大きな雷が落ちた。
「っ!?」
あきちゃんが肩を震わせてあやめさんを見上げる。青白い顔に陰が差したらだんだんと視線が下に落ちて、背中まで丸くなり、長い黒髪で顔を隠してしまった。背後にいる流々さんが「わお」とつぶやく。
雷は一度だけ。続けるあやめさんの声はいつものように穏やかだった。
「棘の巫女は何でもかんでも独断でやったりしねぇ。巫女が慕われたのは、里の連中や妖狐の声に耳を傾けたからだ。頭のいいお前なら分かるだろ」
「…………」
「ロビーで待つぞ。流々、ふみちゃんを頼むぜ」
「はいはぁい、おまかせぇ」
あやめさんに連れられて、あきちゃんが部屋の入口へと歩いていく。黒髪で顔を隠したまま、私の方は一切見ずに。二人は沈黙したまま、静かに部屋を出て行ってしまった。
「あきちゃん……」
二人が出て行ったのを確認すると、流々さんが私から離れてソファーに戻った。私も彼女に遅れて、恋人のいなくなったソファーへ座る。あの提案は私のためを思って考えてくれたもの。あきちゃんの思いやり、私に対する愛情だというのはよく分かる。でも、今の私には怖くて受け入れられない提案だった。
うつむいて、あやめさんに叱られて小さくなっていた恋人を思い出す。
ズキズキと胸が痛んだ。今すぐ追いかけて、慰めてあげたい。
「お嬢様が気になる? フミネってば優しいんだぁ」
はっとなって顔を上げる。いつの間に持ってきたのか、流々さんが赤い液体の入ったワイングラスを傾けていた。テーブルの上に同じ色をしたボトルも置かれている。ラベルには『棘原ワイナリー』とあった。地元のワイナリーから取り寄せたものだろうか。
「あきちゃんのおかげで、私はここまで自分を取り戻せました。彼女が私を望むなら応えてあげたい。それだけ、大切な人なのです」
「ひゅー、ゾッコンじゃん。これデザートワインって言って超甘々なんだけど、このワイン並みに甘々だわぁ」
「でも、今回の提案には応えられません」
「どうしてぇ?」
早々にグラスを空にしたら、ボトルを取ってまた赤い液体を満たしていく。流々さんは愛らしい笑顔を私に向けながら、楽しそうにお酒を飲んでいた。
「……それは、言えません」
初対面の流々さんには話せないことだ。たとえ憧れの人であっても、出会ってまだ間もない人に、私の過去は打ち明けられなかった。
私が今まで歩いてきた過去。とても醜く、苦痛と苦悩に満ちた過去。醜い過去に汚れた私が、大勢の心へ届く歌を歌えるはずがない。七倉さんのように、やり直そうした私を否定する人だっているのだ。過去の私を知る人はみんな、口を揃えて言うに違いない。
『あんなやつが歌なんか歌いやがって』
絵は母に否定され、文章も部長と家族に否定された。私の好きだったものはすべてこぼれ落ちていき、何をやっても否定されるだけなのだとあきらめた。新しい日々を歩き出した今でも、絵を練習しようとは思えないし、新しい物語を書いてみようとも思えない。でも、その中で唯一、たった一つだけ、過去から蘇ったものがある。消えてなくなったと思っていた私の一部。
それが、歌だった。
あきちゃんと情を交わした翌朝、あの小さな恋人によって解き放たれたもの。彼女がくれた幸せが、私の中で眠っていた歌を目覚めさせてくれた。最愛の人に救われた、私の大切なもの。それを、どうしても失いたくなかった。最後に残った私の大切なものが否定されたら、私には今度こそ、何も残らなくなってしまう。
歌が消えたら、私のすべてが消えてしまう気さえして。
だから、怖かった。
私はもう、何も失いたくない。
「怖いんだよねぇ、フミネは」
長い沈黙の後、またワイングラスを空にした流々さんが口を開いた。開けたばかりのボトルはどんどん中身が減っていく。
「お嬢様も執事も口が堅くて詳しく教えてくれなかったけど、なーんか昔っから災難に巻き込まれてたんでしょ?」
「…………」
「肯定と受け取りまーす」
優しく笑ってワインを一口。本当、美味しそうに呑んでいた。
「で、お嬢様に救われた。お嬢様はフミネが大好きだからたっくさん手を打ってくれるわけだけど、フミネは怖いんだよ。変わったら自分が何かを失くすんじゃないかって、ね」
さすが、大人なんだと思った。私の不安なんてお見通し。いや、この場合お見通しではなくて、彼女自身も似たような経験をしたから分かったのだろう。彼女は高校卒業後にRayのメンバーと一緒に上京して、デビューするまで散々都会の洗礼を受けた。もちろん、デビュー前だけではない。一流のロックバンドになってからもたくさん揉まれただろうし、頼れるリーダーだって失い、バンドメンバーとも離れてしまった。今でこそこうして笑っているけど、流々さんの人生には私以上の苦悩と苦痛があったに違いない。
「フミネはさ、流々の自叙伝とか持ってる?」
「はい、持っています。何度も読みました」
「いやん、ありがと。まあ、本に書いた通りっていうか。フミネの苦しみには及ばないかもしれないけど、流々にもちょっとくらい理解できるってカンジなのよね」
「そんな。私の過去なんて、流々さんの苦労に比べたらちっぽけなものです……」
自叙伝は何度も読み返している。流々さんは謙遜して言っているけど、私の過去より大変だったはず。脆弱な私には絶対に耐えられない。しかし、歌姫は鼻で笑った。それは私をバカにするのではなくて、流々さん自身を自嘲するような笑い方。そんな大したものじゃないよ、と、言われている気がした。
「そう言ってくれるのは嬉しいけど。結局、苦労なんて百パーセント他人に共有してもらうなんてできないよ。流々の痛みも、フミネの痛みも、どっちが本当に痛いかなんて、永遠に分からない。本当の苦痛は、受けてる本人にしか分からない」
私から視線を外して、悲しげに微笑む。ワイングラスを窓に向けて、赤い液体を日差しに照らしていた。彼女は今、何を思い返して、話しているのだろう。
「だからね、自分の苦労がちっぽけだ、なんて言わなくていいの。かと言って、自分は超苦労人だから特別扱いしろってのもウザいけど……。ま、さっきの絶叫を聞く限り、フミネは割とガチで苦労したっぽいから、こうして話そうと思ったわけ」
飲みかけのワイングラスをテーブルに置いて、流々さんが席を立った。壁の棚から新しいワイングラスを取ると、今度は氷の中にあるアップルジュースのボトルを引き抜いて、林檎の香りがする黄金の光をグラスへ注いでいった。
「歌姫なんて言われてた流々だけど、そんなものは過去の話。今ここにいるのは、仕事もないみじめな一人の女。かしこまる必要もないよ」
先に出したやつはぬるくなってるだろうから、と、新しいグラスが差し出される。流々さんは疲れた笑顔で首を傾げた。
「……駅で見かけた子にもう一度会うなんてね。そこに棘科が関わってるとなれば、もう運命としか思えないっしょ」
「えっ? 何の話ですか?」
「覚えてないなら忘れてて。ほら、ただの女同士、腹割って話そ」
グラスと流々さんの顔を交互に見る。
今の彼女がどうあれ、姫川流々という女性は私にとって憧れる歌姫であることに変わりはない。それなのに、彼女はただの女同士――同じ目線で話をしようと言ってくれた。彼女も私も初対面。彼女にとって、私はファンの一人でしかないのに。
「どうして? どうして、そこまで……」
当然の疑問だと思う。あきちゃんの提案に取り乱した私を落ち着かせてくれたり、こうして深く言葉も交わしてくれた。初対面の流々さんにここまで親切にされる理由はないはずだ。
流々さんはグラスを差し出したまま、肩を小さくすくめた。
「運命を信じてるからだよ」
「運命……」
「そ、運命。さっきも言ったじゃん」
私は覚えていないけど、流々さんは私を駅で見かけたという。そして、棘科一族が紡いだ縁をたどり、こうして再会したことを運命だと受け取って、大切にしようとしている。もちろん私も、受け入れてくれる人との縁を大切にしたい。今まで周囲を突き放すという過ちを犯してしまった分、仲良くしてくれる人との縁を大切にして、私の反省を証明したいと考えていた。
「フミネはどう思うの? お嬢様と出会ったことや流々と出会ったことは、ただの偶然だと思う? それとも、運命?」
「それは……」
苦しんだ人生の果てに、棘科輝羽と出会った。彼女に救われて新しい日々を歩み出し、そして、愛しい人が紡いだ縁の先で憧れる歌姫と言葉を交わした。悩んで、泣いて、その先でようやく幸せをもらえた。大切な出会いや過ごした日々を、ただの偶然だなんて、簡単な言葉で片づけたくない。
これは運命。
運命だと、信じたい。
差し出されたグラスをそっと受け取ったら、流々さんが満面の笑みで自分のグラスを拾い上げた。
「素敵な運命に」
「……運命に」
乾杯。
可憐な音が短く弾けて消えた。
乾杯の後、流々さんから熱心に頼まれてしまい、自分の過去を少しずつ、少しずつ、彼女に語り始めた。決して言い触らしたいわけじゃない。自分が悲劇のヒロインみたく語りたくない。でも、憧れの人に面と向かって「あなたのことを聞かせて」なんて言われてしまったら断れなかった。私だって、流々さんが私と出会うまでに何があったのか聞きたいのに、私の昔話ばかり聞いてくる。私の過去も振り返っているのだから、流々さんの過去も教えてほしいけど。
「はあぁ……? 若いのになかなかどうして、ヘヴィじゃね……」
一通り話し終えたら、流々さんはワインを飲む手を止めて呆然としていた。自叙伝を読む限り、流々さんの方がもっとヘヴィだと思う。
「流々さんほどではないです」
「それはナシだって言ったじゃん。流々は音楽やりたくて都会に行ったんだし、その辺の苦労はフミネと違う。比べるのがナンセンスよん」
言われてみれば、流々さんは音楽で身を立てるという目標を持って、都会の荒波と戦った。対して、私は望んでもいないのに姉に虐げられ、両親にも見捨てられた。形が違うといえば、確かに違う。
「ったく、文芸部の部長ムカつくわぁ。フミネの物語ぶっ壊しておいてさぁ、姉ちゃんに振られたらフミネに迫るとかマジありえないんだけど。そんな軽い女か、ド阿呆が。マイクスタンドで頭ぶん殴ってやんぞ」
「い、一応、部長も改心したみたいなので、止めてあげてください」
「はー! ホント、甘ちゃんだねぇ。フミネって可愛いし優しくて巨にゅ――」
「ちょっと、流々さん」
言葉を遮って流々さんの瞳を見つめた。いや、失礼だけど、にらんだ。そこは言わなくていいと思います。というか言わないでください。言う必要ないです。
流々さんがぎょっと目を見開いて押し黙る。彼女が無言でカクカクとうなずいたのち、話を続けた。
「こほん。……私が生きてこられたのは、親友と流々さんの歌に支えられたからだと思います。おかげで、あきちゃんという素敵なお嬢様にも出会えて、今も、憧れの歌姫と言葉を交わせています」
私を支え続けてくれた親友と、歌の存在。どちらか一つでも欠けていたら、私はこの世にいなかったかもしれない。嘘偽りない、本心から思う感謝の気持ち。私の真剣な思いを察してくれたのか、流々さんが表情を硬くして、ワイングラスをそっとテーブルに戻した。
いい機会だ。憧れの人に、私に希望をくれた人に、お礼を伝えよう。
姿勢を正して、きちんと流々さんに向かい合った。
「姫川流々さん。あなたは私の希望です。本当に、ありがとうございます」
目を閉じて頭を下げた。
あきちゃんに告白したときと、どこか似ている充足感。優しい温もりが、胸の中にじんわりと広がっていった。憧れの人に感謝を伝えることは、胸がいっぱいになるほど心地よくて、幸せだった。陽だまりの中にいるような温かさを感じながら顔を上げたら、流々さんが照れくさそうに顔を背けて、苦笑していた。
「おバカ。改まって言われたら、照れくさいに決まってんじゃん……!」
慌てながら立ち上がって、ガラス窓へと歩いていく。窓の外へ向いたまま、歌姫は背中で言葉を続けた。外から降り注ぐ陽光は、流々さんの背に寂しい陰を作っていた。
「……すごく嬉しいな。生きててよかった」
今度は歌姫が過去を語り始めた。
その内容は自叙伝に書いてあったことと同じだった。でも、同じ内容だからといって、軽く聞き流すような真似はしなかった。静かに語る流々さんの声と言葉を頭の中で文字にして、自分の中に刻み込む。憧れる人の喜怒哀楽を、私の知らないセピア色の青春を読み取ろうと頑張った。
やがて、流々さんの語る話は表舞台から去った後へと移っていった。
ここから先は、自叙伝にも書かれなかった過去だ。




