30
新しい日々が始まって、最初の週末。新しい自室の窓際にある例の食卓で、陽の光を受けながら白い背表紙の本を広げる。あきちゃんと出会ってから止まっていた物語だ。新しい場所で、新しい気持ちを胸に、新しい自分が読む物語。以前と同じ本なのに、読み取る文字から思い浮かべる景色が明るくて、今の私と同じ、陽の光に照らされているようだった。並ぶ単語や文章から、私の中で組み立てられていく幻想の世界、活躍する英雄の姿が、今まで以上に光り輝いている。まどろんでいたときには気づかなかった側面が、閃くように次々と目覚めていく。
彼らみたいに強くなれたら。
彼らみたいに素敵になれたら。
幻想の英雄たちが持つ特別な力の欠片を手にしてみたい。
暗闇に包まれていた私の世界を切り拓き、陽の光で満たしてみたい。
そして、輝く世界の中で、大好きな人と幸せな時間を過ごしたい。
白い本の中には、明るい希望や前向きな夢が刻まれている。この物語は私を酔わせたり、惑わせたりするものではなかった。彼らが苦難の末に切り拓いた運命は、必ず希望が待っている。それは読み手を惑わせて苦しめる幻ではなく、読み手に希望を与え、生きるための活力とする夢だった。
「ふぅ……」
銀色の栞を挟んで、そっと本を閉じた。机の上に本を置いて背伸びをする。
今の読書はとてもいい形で進められた。余計な思考や悲観的な思いも浮かばずに、純粋に物語を楽しめた気がする。今日は予定もなく、勉強も済ませてある。慌てず、休憩を挟みながら読み進めていこう。
椅子から立ち上がって、窓の外へ目をやった。
眼下に広がる棘の森、湯煙立ち上る温泉街、陽の光を受けて輝く灰色の建物たち。伝説に守られた町は、今日も蒼穹の下で平穏を生きていた。
私の変化は幸せと、少しの不安と共に始まった。この平穏の下には、かつて見せた冷酷な側面を許せずに否定する人と、変化した私を認めて受け入れてくれた人たちがいる。周囲を突き放した過去は消し去れない真実だけど、今の私に残る縁や、新しく繋がった縁を大切に守っていけば、私の反省を証明できるはずだ。
緑に包まれる鮮やかな景色を見つめながら、前向きな意志が胸に宿った。
「ふーみー。輝羽でーす」
部屋の扉が軽く叩かれると同時に、愛しい人の声が聞こえた。考えごとをしていたからちょっぴり驚いてしまった。
「はい、どうぞ」
返事をした瞬間、扉が勢いよく開いて小さな恋人が駆け込んできた。満面の笑顔で、私に手を伸ばして走ってくる。
「ふみー!」
ああ、飛び込んでくる。そう思って私も両腕を広げた。予想通り、彼女は私の胸に飛び込んできて、力強く身体を抱きしめてきた。小さくて柔らかい身体を受け止めて、長い黒髪を優しく撫でてあげた。
「よしよし」
「はあぁ~、幸せ~」
今日のあきちゃんはあずき色のブラウスと黒いロングスカート、コルセットのべストを着ていた。ブラウスの生地は光沢があって、手触りもすごく滑らかだった。それに、コルセットのベストなんて初めて見る。さすがは大富豪のお嬢様というべきか、とても豪奢な身だしなみだった。
「その服、とても可愛いですね」
「ホント? ふみに褒めてもらえると嬉しいなぁ」
私から離れてくるりと横に一回転。ロングスカートと長い黒髪が翻る。
「ね、急なんだけど、今から出かけない? 連れて行きたいところがあるの」
後ろ手を組んで首を傾げる。
なるほど、素敵なコーディネートは外出のためらしい。
整い過ぎた顔立ちの彼女が、可愛らしい服を着て見せる仕草。手を伸ばしてそっと口づけたいくらい愛しかった。断る理由もなかったから、うなずいてすぐ返事をした。
「いいですよ。ちょうど読書も休憩しようとしていたところです」
「わぁ、本も読めるようになった!?」
読書と聞いて、ぱっとあきちゃんが赤い瞳を輝かせた。
今まで読書もできないほど心が乱れていたのは彼女も承知だ。環境が変わって読書も再開できたことは、私を救おうと奔走してくれるお嬢様にとって吉報だろう。
「よかった、すごく嬉しい。無理しないで、少しずつ調子を戻していこうね」
「はい、ありがとうございます」
読みかけの本を机の上に残したまま、急ぎ外出の支度を始めた。顔を洗って薄化粧をしたら、あやめさんと一緒に服を見繕う。当主様とあやめさんが買い込んだ服は結構な量があって、新生活が始まって間もないのに、ワードローブはいっぱいになっていた。
「こんな感じでどうだ?」
姿見の前で、おめかしをした自分と向き合う。
あやめさんが選んだのは胸元にリボンを結んだ白いブラウスと、膝上ちょっとくらいの黒いスカート、それから、パステルブルーのカーディガンだった。私が普段着で着ていた服の色が印象に残っているのか、買い込まれた服は白や青系統のものが最も多く、それ以外だと緑と黒だった。白、青は好きな色だから大歓迎だ。
「とても素敵です。ありがとうございます」
「なぁに。お嬢様の身支度も執事の仕事さ」
真剣な眼差しで私の髪も微調整。あやめさんは満足そうに腕組みをしてうなずいた。今まで出かける機会が少なかった私にとって、執事さんのフォローはとてもありがたいものだった。服の選び方をはじめ、おめかしのポイントは執事さんと勉強していこう。
支度を整えたら、棘科家の送迎車で棘の森温泉街へ向かうことになった。青空の下、緑の森を静かに黒塗りの送迎車が走っていく。
「棘の森ロイヤルホテル、ですか」
「そう。棘の森温泉街の中でもトップクラスの高級ホテルだよ」
時刻は午前十時ちょっと過ぎ。本日のお出かけ先は、棘の森温泉街が誇る高級宿泊施設、棘の森ロイヤルホテル。当主様率いる棘科グループが経営に携わっているホテルだ。都会の施設に比べたら規模は敵わないかもしれないけど、客室や料理など、サービス諸々は自信を持ってオススメできるとあきちゃんが話していた。また、ホテルのレストランは棘科家のお気に入りらしく、ランチやディナーをそこでいただいくこともあるそうだ。スーパー執事のあやめさんも認める、一流の料理が楽しめるとか。
「でも、料理が目的じゃない。今日ホテルに行くのは『ふみの笑顔奪還作戦』の一環なの!」
あきちゃんが妙な作戦名を口にして、いわゆるドヤ顔でうなずいた。こういうときは笑ってあげればいいのだろうけど、残念ながらまだ私には笑顔が浮かばない。
「作戦名はともかく、意図は分かりました」
「むー。作戦名は失敗だったか」
「あきちゃんのドヤ顔が可愛かったので及第点としましょう」
さておき。
ホテルであきちゃんが何かを企んでいるのは間違いない。少し不安ではあるけど、笑顔を取り戻すというくらいだから、私にとって嬉しいものだとは思う。
「ホテルで何があるのかは秘密ですか?」
「うん、ごめんね」
「大丈夫ですよ。あきちゃんの企画なら信頼できます」
「ありがとう」
肩を寄せて、あきちゃんが微笑む。私も黒髪に頬を寄せてあげた。
ルームミラーに映った執事の碧眼が優しく細められていた。
棘の森ロイヤルホテルは温泉街の奥、木々に囲まれた高台にあった。くの字でそびえる、美しい純白の建物。雪の家と同じ色の外壁は、清らかさを感じさせる建物だった。背の高い外壁に規則正しく並ぶ窓が私たちを見下ろしている。上層階の部分は作りが少し変わっていて、広いバルコニーのある客室が数室あるみたいだった。お金持ちの人たちが宿泊する高いお部屋なのかもしれない。ホテルや旅館なんて、小学校や中学校の修学旅行でしか泊まったことがない。家族旅行もなかった私には、車窓の外にそびえる外壁を見上げるだけでめまいがしそうだった。
ホテルの入り口正面に、突き出た屋根があった。あやめさんは何の迷いもなく、送迎車をその屋根の下に停めてしまった。送迎車やバスをここに停められるようにして、宿泊客が雨風に困らないようになっているみたいだ。宿泊施設を詳しく知らない私には、そんなことですら新鮮だった。
「到着だぜ」
あやめさんが送迎車から降りて、後部座席のドアを開けてくれた。あきちゃんに手を引かれながら車を降りると、ホテルの入り口から真っ白な白髪をオールバックにした年配の男性スタッフが優雅に出てきた。黒い背広とグレーのスラックスを身に着け、赤いネクタイがきれいに結ばれている。とても背の高い、老紳士。
「いらっしゃいませ、お嬢様。お待ちしておりました」
洋画の吹き替えみたいに太く、通る声だ。
彼はお手本のような礼をして私たちを歓迎してくれた。
「こんにちは。こちら、桜沢文音先輩。ふみ、ホテル総支配人の青山さん」
あきちゃんが手早く紹介をしてくれた。年配の男性は棘の森ロイヤルホテルの総支配人だそうだ。総支配人が自ら出迎えるなんて、あきちゃんがお嬢様なのを改めて思い知らされた。
「初めまして、桜沢様。総支配人の青山と申します」
「こ、こちらこそ、初めまして。あの、青山さんと言うと……」
青山という名には聞き覚えがある。実家で話し合う前、私に毛布をくれた若い調査員の人だ。支配人は私の言葉にうなずいて笑顔を返してくれた。
「はい、息子が棘科グループに勤めております。私も息子も、代表やお嬢様に救われた身です。棘の巫女のご加護で、親子ともども名誉な役目を拝命致しました」
青山さん親子も棘科家に救われた人たち。棘科グループの調査員、ホテルの総支配人、聞けばうらやむような仕事をしている彼らも、守護者の一族から救済されている。棘の森温泉街が活気に溢れるのは、あきちゃんたちが人々を救済し、守り続けているからこそなのだ。
あやめさんが前に出て、青山さんに車の鍵を手渡した。
「ほい、鍵。案内頼むぜ」
「かしこまりました。どうぞ、こちらへ」
老紳士に連れられて、私たち三人は高級ホテルの中に足を踏み入れた。
二重になっているガラス扉をくぐり、陽の光が差し込む明るいロビーへ。見るからに座り心地がよさそうな肌色の丸いソファーと、艶めくガラステーブルが大きな窓のそばに何台も整然と並んでいた。ソファーやテーブルの周辺には、老若男女様々な宿泊客がくつろいでいたり、荷物をまとめて次の観光地へのルートを確認したり、ロビーの奥にある売店で買い物をしたりとずいぶん賑わっている。ロビーは二階まで吹き抜けになっていて、天井からオレンジ色の光を注ぐ筒状のライトが何本もぶら下がっていた。足元に広がるローズピンクのカーペットには、真っ赤な花びらの模様が散りばめられていて、あきちゃんと結ばれた薔薇に溢れる聖地を思い出した。
ちょっと、身体が強張る。
青山支配人はフロントカウンターに立つスタッフへ送迎車の鍵を預けると、私たちをロビーの中央にあるエレベーターへ案内してくれた。向かう先は何と、十一階。棘の森ロイヤルホテル最上階のスイートルームだという。
エレベーターの表示が『11』を灯す。白銀の扉が開かれた途端、まぶしい青空と緑が眼に突き刺さった。細い柱に区切られた大きなガラス窓の向こうに、棘科一族が守る棘森の町並みが広がっている。エレベーターから降りて通路に出ると、そのガラス窓が通路の先まで続いているのが見えた。どうやら、最上階の通路はガラス張りの回廊となっているようだった。
「うわっ……」
ガラスの前に手すりがあるけど、あまりにもよすぎる眺望に足が竦む。下に見える温泉街に吸い込まれてしまいそう。思わず、手すりにつかまって目を閉じてしまった。
「あっ、ふみ!」
あきちゃんの匂いが舞って、私の腕が力強く握られる。窓から顔を背けるようにして、恐る恐る瞼を開いた。眉を寄せて心配そうに私を覗き込む、小さな恋人がそこにいた。
「ふみ、大丈夫? ロビーに戻ろうか?」
「だ、大丈夫。ちょっと驚いただけです」
あきちゃんに支えられながら、ゆっくりとガラス窓から離れる。ふと、青山さんがガラス窓の前に立った。
「壁を背にご覧ください。幾分か落ち着きましょう」
「壁を背に……」
言われた通り、エレベーター横の壁に背中を預ける形で、大きなガラス窓を見る。足元が見えない分、さっきみたいに吸い込まれる感覚はなく、足が竦むこともなかった。程よい雲が浮かぶ青空と、青空へ懸命に伸びる森の緑が視界いっぱいに溢れている。
ほっ、と、息が漏れた。
「高い場所から世を見渡すというのは、ヒトにとって困難であり、恐怖が生じる非日常と言えましょう。しかし、高みを恐れず世を見渡せば、地上では見えなかったものも見えてくるもの。必ず、よい経験となります」
「……恐れずに視野を広く持てということでしょうか?」
青山さんの言葉は、いい景色が観られる、という意味ではなさそうだった。高い場所でも恐れずに、世を見渡してみる。そうすれば、私の見えなかった道や、見えなかった世界が見えてくるはずだと、前向きな教えを説かれた気がした。
そういえば、当主様も似たような話をしてくれた……。
「左様にございます。いやはや、老いぼれの言葉を察してくださるとは」
老紳士が柔らかく微笑み、うなずいた。
ガラス張りの回廊を進んで、私たちは南東の角にある扉の前にやってきた。金色の装飾に縁取られた、両開きの白い扉。右側の扉には黄金に輝く正方形のプレートがはめ込まれていて『Suite1112』と刻まれていた。
「こちらでございます。ルームサービスその他、何でもお申しつけください」
青山さんが回廊の端に立つ。どうやら案内はここまでらしい。今日、この場所を訪れるのは私の笑顔奪還作戦の一環ということだけど、ここで一体何をするのだろう。考え込んでいると、あやめさんが笑って前に出た。
「ありがとよ。よし、ここからは任せてくれ」
「かしこまりました。お嬢様、桜沢様、どうぞごゆっくり。よい時間をお過ごしください」
優雅に頭を下げて、すっと背筋を伸ばす。老紳士は顔に皺を寄せて微笑むと、踵を返して回廊の向こうへ歩いて行った。青山支配人の背を見送ったら、あきちゃんと一緒にスイートルームの扉を見上げた。
「ここに何が……」
「サプライズ、にはなるかな。あやめ、お願い」
「おうよ」
執事が壁にある白い呼び鈴へ指を伸ばす。ピンポン、と短く、優しい音色が聴こえた。
「なぁに~? 誰よ~」
扉の向こうから気の抜けた声が返ってきた。あやめさんが呆れたようにうつむいて、首を横に振った。やれやれとため息をついて、少し大きめの声で返事をする。
「バトラーだよ。彼女を連れてきた、鍵を開けろ」
「あぁ! はいはぁい!」
ガチャガチャと乱暴に鍵を外す音がして、両開きの扉がこちらに向かって開いた。中から出てきた人はあやめさんよりちょっぴり背が低く、シルクのバスローブを着た――。
「――えっ!?」
漏れた声が裏返った。
部屋の中よりも何よりも先に、出てきた人に息を呑んだ。内側に毛先が跳ねたショートカット、切れ長の瞳。少し痩せて、目の下に隈もできていたけど、間違いない。胸に手を当て、興奮に高鳴る鼓動を抑え込んだ。
昔から何度もCDのジャケットや雑誌の写真を見た。この人のようになりたいと、憧れ続けた。私に『歌』という希望を刻み込んでくれた、希望の光。
「おや、あんたは……。ま、いっか。どぉも、姫川流々でーっす」
陰へ消えたはずの歌姫、姫川流々。
彼女は呆然と立ち尽くす私に、笑顔とVサインを向けた。
通されたスイートルームはホテルの外観同様、白が基調になっている部屋だった。通路と同じ、大きなガラス窓が温泉街と棘森の町並みを見下ろせるように向いている。とても広く、中にある照明や家具、装飾品のどれもが凝った代物。棘の館を客室に凝縮したように、美しい西洋アンティークに満ちていた。私とあきちゃんはふかふかのソファーに座らされて、金縁の丸いガラステーブルに置かれた二つのワイングラスと向き合っていた。ワイングラスには小さな泡を含んだ黄金の液体が注がれている。グラスのそばには、氷が詰め込まれた透明のバケツみたいな容器があって、中に緑色の瓶が突き刺さっている。ラベルは見えないけど、まさか、お酒を出されているのだろうか。
あやめさんはソファーには座らず、あきちゃんの隣に立ったまま険しい表情をしていた。
「おい。確認するが、そいつは酒じゃねぇだろうな?」
「当たり前っしょ! 未成年にお酒飲ませるわけないじゃん!」
「ボトルを見せろ」
あやめさんは姫川さんに対して強気だ。姫川さんも砕けた物言いをしていて、互いに気を許しているように思えた。面倒くさそうに歌姫が悪態をついて、透明な容器から緑色の瓶を引き抜く。蓋がしてあるのをしっかり確認して、あやめさんに向かって瓶が放り投げられた。難なく片手でキャッチすると、素早くラベルを指先で確認する。険しかった執事の顔に、ぱっと笑顔が浮かんだ。
「お、スパークリングアップルジュースか。美味そうじゃないか」
「せっかくのスイートじゃん。雰囲気だけでもいいでしょ」
「ああ、いいと思うぜ。わりぃわりぃ、へべれけの印象しかなかったから疑っちまったよ」
「うっわ、執事超ウザい! もういい、煽ってくる執事は放置して、改めて自己紹介しましょ。ボトル返せよ、バカ!」
あやめさんから乱暴にボトルを奪い取り、氷の中に押し込む。ガラステーブルの向こうにあるソファーに腰を下ろしたら、砕けた雰囲気のまま、笑顔を向けた。
「初めまして。Rayのボーカルやってました、現在無職の姫川流々でーっす。マイハニーのお名前、聞かせてくれる?」
「あっ、は、初めまして。あの、えっと、わ、私は、桜沢文音といいます」
「よろしくね、フミネ! 流々のことは、流々って呼んでくれていいよ!」
「は、はいっ。流々、さん。よろしくお願いします」
私も頭を下げる。憧れの歌姫を名前で呼んで、面と向かい合う日が来るなんて。驚きと緊張で胸がまだドキドキと鳴り、手の甲と額に熱を感じた。ちなみに、流々さんはファンの人を昔からマイハニーと呼んでいた。私をマイハニーと呼ぶのはその名残だ。
短い自己紹介が済んだら、あきちゃんが胸の前で両手を一度叩き、微笑んだ。
「では、サプライズの一つが済んだところで黒幕からお話をさせていただきます」
そっと立ち上がって、ガラステーブルの横に歩いていく。私と流々さんの間で止まり、私たちの顔を交互に見て、うなずいた。
「桜沢文音の笑顔奪還作戦。今日は、その作戦の詳細を伝えるために、二人に会ってもらいました」
作戦の詳細。どうやら、あきちゃんの企みは憧れの歌姫と会うだけでは終わらないらしい。あきちゃんは私の笑顔を取り戻すために、流々さんまで巻き込んで何かをするつもりだ。流々さんは既に承知なのか、不敵に微笑みながらあきちゃんの顔を見上げている。
「来月中旬の土日、棘科神社で例大祭が開催されます。それに合わせ、ここ、棘の森温泉街でもイベントが執り行われます」
その話はよく覚えている。私があきちゃんと出会って間もない頃、神社で舞を披露する話をされて、見に行く約束をした。
「イベントは例大祭に合わせて土日の両日開催されますが、土曜日のみ、地域の人が様々な演奏やダンス、パフォーマンスを披露するというものが行われます。『棘の森温泉街地域芸能フェスティバル』――棘森高校吹奏楽部も参加予定です」
吹奏楽部も参加するのか。活躍が著しい彼らは、様々な場所から演奏の依頼が舞い込んできていて非常に多忙だと聞く。今年も大規模なコンクールで金賞を取ることを目標として頑張っているそうだ。彼らにとっては、温泉街での演奏も大切な『コンクール』の一つなのかもしれない。
話をしていたあきちゃんが、微笑みを消した。声のトーンを下げて、とても真剣に、私を見つめてくる。どうしたのだろうと、首を傾げてしまった。
「棘科神社の例大祭は温泉街最大の祭事。地域の人や観光客の人が大勢集まる機会。その大切な機会を使い、ふみの笑顔を取り戻します」
「……あきちゃん?」
まだ話が見えない。あきちゃんは一度目を閉じて、言いにくそうにうつむいた。流々さんも、あやめさんも、あきちゃんを見たまま何も言わない。長い黒髪が、あきちゃんの表情を隠す。私たちが結ばれる前、聖地で告白する前も、あきちゃんはああやってうつむき、沈黙していた。
これから彼女が告げようとしている言葉は、私に告白することと同等の決断を必要とするもの。私やあきちゃんの、運命を定める極めて大切な一言になるのだと、予感した。
私が問いかけてからどれくらい経っただろう。沈黙を破って、ようやくあきちゃんが顔を上げる。赤い瞳が、私を捕らえた。
「この前聞かせてくれた歌声、忘れてないよ。とっても、素敵だった」
「え、えっと……?」
歌を褒められた。大好きな恋人に褒められるのは嬉しいけど、突然どうしたのだろう。
しかし、次の言葉が発せられた瞬間。
その嬉しさは恐怖へと反転する。
「流々さんと一緒に君の歌を作ろう。例大祭のイベントで、歌を歌うんだ」




