29
どこからか、ベートヴェンの第五が聴こえる。
ほら、みんなが運命とか言っているあれだよ、あれ。こんなところで第五を流すなんて、ぶっ飛んだセンスだなぁ。
油と酒と、水と泥と、排気ガスと、あと、自分の醜い吐しゃ物の臭いがする。酩酊して正常な思考はないはずなのに、服だけは器用に汚さないようにしているのが笑えた。酒を胃袋に流し込みながら歩き、たどり着いた先はどこかも知らない、まばゆく輝くビルの裏だった。黒ずんだコンクリートの壁に背を預けて、右手に握られているガラスの角瓶をネオンライトに照らした。瓶に細工された凹凸に光が差し込んで、はちみつ色の液体が天国の陽射しみたいにきらめく。瓶のラベルを認めて、どうやらこれはウイスキーらしいと理解した。
どこでウイスキーなんて買ったっけ。
覚えているわけがない。大方、どこかのコンビニで買ったのか、スナックかバーで飲み過ぎて追い出されるときに握りしめてきたのだろう。今までも似た案件が何回かあったから、多分そうだ。きっとそうだ。そもそも私はウイスキーは好きじゃない。カルーアミルクとか、カシスオレンジとか、ファジーネーブルとか、甘くて可愛くてキュートなカクテルを嗜むお姫様なのだ。
「お姫様だってぇ。バッカじゃね。バッカ、バッカ」
んへへ、と気色悪い笑い声が喉から漏れた。ずいぶん吐いたおかげで悪い酔いが消えて、今はすっきりと心地いい酔いを感じる。気分も晴れたことだし、試しにウイスキーを飲んでみようと口に運んだら、ものすごくキツくて探偵ドラマよろしく吹き出した。
「ブウッ! おえっ、だめ、無理!」
瓶の栓を力いっぱい締めて、暗闇めがけて高く放り投げる。ウイスキーの瓶はふんわり放物線を描いて暗闇に呑み込まれて消えた。景気よく割れてくれるかと思って耳を澄ましたけど、何も音がしなくてがっかりする。
「あんた、変わっちまったな」
フルパワーで呆れるような声が暗闇の中から聞こえた。投げたはずの角瓶が誰かの白い手に握られて、ひょっこりと暗闇から姿を見せる。ああ、白い手だけじゃない。何か、黒いジャケットを着た、スレンダーな金髪の女も見える。えらいべっぴんさんで、こんな薄汚い裏路地には似合わない。
「……あぁ? 誰よ」
しゃっくり交じりに聞くと、金髪女は明るく笑って応じてくれた。
「バトラーだ」
「ばとらあ? ああ、知ってる。知ってるよぉ。あれでしょ、魔王でしょぉ?」
「あー、魔王じゃないんだわ。ハズレ」
「ウソぉ!? 何で? 魔王が地獄に落としにきたんじゃなくて?」
「悪いな、地獄には縁がないんだ。ま、英語の辞書でも引いてくれ」
鼻で笑いながら、靴の音を鳴らして近づいてくる。酒臭い私を怖じることなく、まっすぐに歩いてきて、投げた角瓶を握らせてきた。
「ほら、落とし物だ。――姫川流々」
背の高い女の横顔が、ネオンライトに照らされて青く光る。瞳は碧。まるで、外国人みたいな美人だった。瓶を握らせた手を振りほどいて、後ろに飛びのいた。
「……何で流々のこと知ってるの」
皺だらけのコートを着て、そこら中をふらふらしながら酒を煽り続けた。道行く人は誰一人として私を『姫川流々』だと気づかなかったのに、どうしてこの女は私に気づいたのか。バトラーと名乗った女は肩をすくめて笑った。
「だってあんた、有名だろ。元Rayのボーカル兼サブリーダー。ソロデビューした後、音楽の祭典で大賞受賞、他でもたっくさん受賞しまくってたからな」
Ray、ボーカル、受賞。
その三つの言葉が出てきた瞬間、瓶を逆に持ち替えて振り上げていた。
「やめろ! それを言うんじゃねぇよ!」
ぶっ殺してやる。
きれいな白い顔に向かって、強く握りしめた角瓶を思い切り振り下ろす。中身が残った瓶はいい感じに重みがあって、致命傷を与えるには十分だろうと、酔っ払った頭が思っていた。
どうせ、もう一人殺したって一緒なんだ。
リーダーは。
アヤネは、私が殺したも同然なんだから。
そばにいたのに助けられなかった私のせいなんだから。
「ヤケになるな」
がくん、と右手が止まった。
力いっぱい、思い切り振り下ろしたはずの瓶が、女の左手の甲で軽々と受け止められている。酔っ払っているせいか、いや、酔っ払っていなくても、理解できない。思い切り振り下ろした角瓶を、手の甲で軽々受け止められる人間なんているわけがない!
「は!? 何で!?」
「酔っ払いの暴走くらい止められないと、執事は務まらんぜ」
やっぱり没収だ、と、私の手から角瓶をするりと奪い取って、また笑って見せる。さっきからニコニコと、私の苦しみも知らずに明るく振る舞いやがって。気に入らない。気に入らないし、何だか。
「…………」
何だか、怖い。
私を知っている。誰も気づかなかった私を知っている。
裏路地で彷徨っていた、酔っ払いの私を。
「な、何なんだよ! あんた、あんた誰なの! 何なの!」
酒でぼんやりと歪む視界の中、女が明るく笑顔を浮かべ続ける。私が一歩下がれば、女も一歩進んでくる。唯一の武器だった瓶も取られてしまった。酔っ払って頭も回らないし、足もまともに動かない。後ろに下がるのが精いっぱいだった。
「ああそうか、自己紹介がまだだったな。守護者の一族、棘科家に仕える執事。居谷里あやめだ」
「とげ……、棘、科……!?」
「知ってるだろ? 棘科の名前はあんたと同じくらい有名なはずだ」
棘科の名前はよく知っている。世界を股にかけるお人よし集団、棘科グループ。そしてその頂点に立つ、棘科グループ代表の棘科紅羽。私と同じくらいなんてとんでもない。私以上に、Ray以上に知られている名前に違いない。
「かつてRayをまとめ上げていたリーダー『アヤネ』の死、Rayの解散、そして、ソロデビュー。大賞を取った『光』を最後に、あんたは少しずつ陰に消えてった。探したぜ、姫川流々。こんな田舎の都会でゲロ吐いてるとは思わなかったが」
「うるせぇんだよボケ! 執事の分際で生意気言いやがって! ぶっ殺すぞ!」
「いいねぇ。好きだぜ、そういうの」
精いっぱいの強がりを笑って受け流された。
この余裕、超ムカつく。金持ちはひねくれて皮肉で生意気で思いやりのない連中ばっかりだ。そういう連中をたくさん見てきたもん。
「いいか、よく聞け。いくらでも酔い潰れたっていい。いくらゲロ吐いたって構いやしない。その代わり、あんたは棘科が保護する」
「ふざけんじゃねぇ! 何で金持ちの世話にならなくちゃいけないんだ! 流々は酒飲んで血ィ吐いて死ぬんだ、ほっといて――」
言いかけたとき、執事の手が私の胸倉を掴み上げた。碧眼が私をにらむように見下ろして、低い声が空気を震わせた。
「黙って聞け。これ以上喚くなら今すぐぶっ殺してやる。めちゃくちゃ痛いぞ?」
「……う」
やっぱり、怖い人だった。
息を呑んだら、静かに手を離して解放してくれた。
胸元を直しながらにらみ返す。執事は臆する様子も見せず、淡々と語り始めた。
「ガキの頃から家族にも見放されて、孤独に生きてきた高校生の女の子がいる。その子はあんたの歌を聴き、あんたの歌う姿を見て、『歌』に希望を見出した。残念ながら、あんたが表舞台から消えると同じくらいに、姉にいじめられて歌うことをやめちまったんだけどな」
「…………」
「その子が、少しずつ立ち直ってきたんだ。歌をやめてずいぶん経つのに、ついこの間、あんたの『光』を見事に歌い上げたんだよ。歌詞も何も見ずに、だ」
自分が言うのも何だけど、あの歌は難しい部類だ。私自身の限界を超えるために、全力の全力を振り絞って作った歌だ。各メロ部分の強弱、緩急は歌えたとしても、サビの部分ではかなりの高音を要求される。同じ女とはいえ、そう簡単に出せる高音ではないと自負しているつもりだ。
それを、長年歌わなかった女の子が、つい最近歌い上げただって?
執事が嬉しそうにまた笑った。何でこんな気持ちいい笑顔を浮かべるんだ。マジでムカつくんですけど。
「音楽屋の血が騒ぐか? 目つきが変わったぞ」
「知るか、バカ。だから何? 歌えたからどうなのよ」
いくら乱暴に吐き散らしても、執事はもう怒らなかった。笑顔のまま腕組みをして、よくぞ聞いてくれましたと言わんばかりに声のトーンを上げた。
「ああ、そこでだ。その女の子を完全に立ち直らせるために、今度の例大祭に向けて一曲、あんたにプロデュースしてもらいたい。これが成功すれば、女の子だけじゃなくてあんたも立ち直れるかもしれない。お互いがお互いの希望になれるチャンスがある」
プロデュース。私に憧れ、私を希望としていた女の子を立ち直らせるために、そして私自身もその子の希望として返り咲くために、歌を歌うのではなく曲を作る。それが、棘科家の執事が持ってきた話。仕事もなく、貯金を食い潰して飲み歩く私に舞い込んだ、一条の光だった。
「期限は一か月ほどしかない。かなり無謀な依頼だとは思ってる。だが、曲を制作している間は生活を保障するし、例大祭後の報酬も出す。それから、あんたが社会復帰できるよう、棘科グループからバックアップもする。損は一切ないはずだ」
「…………」
待って。
周りの人たちは結局金儲けだったでしょう。私が売れないと分かったら、周りはすぐに私を切り捨てて突き放していった。棘科家だってそうだ、私を心から必要としているのではなく、利用しているだけだ。美味しい条件をちらつかせて、ドロップアウトした私に安く歌を書かせようと企んでいるのだ。きっとそうだ。
一筋の光が、分厚い鈍色の雲に遮られた。
「金持ちの執事が、そんな夢物語のために、みじめな女を探しに来たんだ。そんな美味しい話、信じるわけないじゃんね」
踵を返して吐き捨てる。またポケットに小銭がいくらか残っていたはずだ。コンビニで酒を買って飲み直そう。そして、ほどよく酔ったらこの路地に戻ってきて朝方までひと眠り。早朝、電車に乗って別の町へ行くことにしよう。棘森には二度と近寄らない。こんな怖い執事がいるなんて聞いてないし。
「執事さん。さっさと帰って富豪様に伝えなさい。流々はもう終わってるの! 何も変えられないし変われない! 流々の歌はもう誰の心にも届かない。Rayのメンバーもみんなどっか行っちゃった。大好きなリーダーだって、もういない。流々にはなぁんにも残ってないんだって……!」
からっぽ。空き缶みたいに、すっからかん。横から潰せばすぐに潰れちゃう。
私は大好きなリーダー、アヤネを失ってから、空き缶になった。アヤネはすっごくきれいで、堂々としてて、頼りになる最高のギタリストだった。東京に出て右も左も分からない私たちの手を引いて、一生懸命走り抜けてくれた。
私は、そんな彼女の優しさと強さに甘えてばかりいた。他のメンバーがいないところで、いつもアヤネは私を抱きしめてくれた。二人きりになれば、すぐに、不安を抱え続ける私を慰めてくれた。
『大丈夫、大丈夫だから。泣かないで、流々……』
そう言ってキスして、優しく抱いてくれた。
アヤネのことが、本当に大好きだった。
でも――。
吐き気がして、口を押さえた。
ツアーの真っただ中、ライブで突然、アヤネが倒れた。演奏が止まって、見渡す限りの人の海から悲鳴が上がる。たくさんの歌を歌い続けた私ですら知らない声。心を黒く蝕み、恐怖で埋め尽くす人の鳴き声がした。
『アヤネ! やだよアヤネ、しっかりしてよ!』
可愛くてきれいで頼りになるアヤネが、白目を剥いて泡を吹いていた。大切にしていたギターが投げ捨てられたように床に落ちて、ひどい音で鳴いた。何度呼びかけてもアヤネは応えてくれない。スタッフがてんかんだと言ったけど、結局、彼女は意識を取り戻すことはなかった。私もすぐそばにいたのに、何もできず、泣いて、絶望することしかできなかった。何かできたら、意志を持って行動していれば、アヤネは生きていたかもしれないのに。肝心なときに私は何もできなかった。
私を抱きしめてくれた温もりが、唇の感触が、楽しかった青春が、一瞬で灰になって崩れ落ちていく。それがどれほど恐ろしくて、悲しい出来事だったか――。
「どれだけ説得しても、他のメンバーの心は戻らなかった。流々も頑張って『光』を産んだけど、もう、いい歌を作ることができなかった。想像してみて、執事さん。一番大好きな人が、目の前で白目を剥いて死んじゃうの。どれだけ『光』が評価されて受賞してもね、あの瞬間だけは、忘れられないんだよ……」
膝が折れた。がっくりと、歩く力が抜けてアスファルトに突っ伏した。胸が、胃が、ずきずきと、鈍く痛む。酒を飲み過ぎたせいというよりも、私の精神が肉体に亀裂を刻み込んでいる気がした。
「流々は、無力なの。アヤネがいないと、誰かに依存しないと生きられないの」
アヤネを失ってから初めて、私は自分の無力と臆病さを知った。自分から行動を起こすのが怖かった。誰かに否定されるのが怖くて、行動できなかった。アヤネを失った場所で、ゼロから作り上げることが不安で、死にたいと思うほど怖かった。そんな私を無責任だと、甘えていると非難して、攻撃してきた人もいる。
分かっている。私の無責任、無力、無能を。
自分で選んだつもりの行動が、すべてアヤネに同調しただけだと。アヤネの判断なら正しく信じられると、自分で考えず、選択せず、アヤネに背負ってもらっていたのだ。
「流々だってやり直したいよ。でも、もうやり直すには遅すぎるの……」
酒を浴びるほど飲むよりも首を括った方が早かっただろうか。
そうすれば、私の無責任も償えて、アヤネと天国で幸せになれただろうか。
アスファルトに突っ伏して、声を殺して泣いた。
私の中心が、痛い。肉体の奥、精神の奥。私が痛い。とても痛くて、つらい。
アヤネ。お願い、もう一度私を抱いて。アヤネ。
あなたがいないと私は、流々は……。
「やり直すのに早いも遅いもねぇだろ。誰が決めたんだ、そんなの」
背中の向こう、遠くから穏やかな声が聞こえる。さっきはぶっ殺してやるって脅したくせに、ずいぶん優しいじゃん。何なの、この執事。
「やり直したいって思うなら、人はいつだってやり直していいんだ」
足音が近づいて、私の背後で止まる。そのまま背中をさすられて、ちょっと、温かいなぁって思った。
「でも、何をすればいいのか分からなくて、失敗するのも怖い。たった一歩、きっかけになる勇気を踏み出せない。あんたもそうやってたくさん悩んで、彷徨ってたんだろ」
「…………」
「悩んで悩んで、実を結べないまま、無念に息絶えた人たちを多く見てきた。やり直したって、必ずしも報われるとは限らない。万人が報われるほど世の中は甘くない。努力が実る保証なんてどこにもない」
執事が私の右腕をつかんで、そっと自分の首にかけた。肩を支えるようにして私を立ち上がらせる。彼女の横顔には微笑みがある。でも、希望に満ちたものではない。あきらめの、悲しい微笑みだった。
「棘科紅羽は、それをよく知ってるんだ。味方のいない絶望、先の見えない恐怖をよぉく知ってる。だからこうしてお節介を焼くんだ。全国――いや、世界中の悩める人々を救うためにな」
棘科紅羽は、棘科グループという巨大な組織を組み立ててまで、世界中の困っている人々を助けようと奔走している。彼女に従う人々も、恐怖や苦悩に絶望していたところを救われて、同じ苦しみを減らせるように協力していると聞く。
弱きを助け、強きをくじく。
そんな絵空事みたいなバカを本当に実行しているのだ。棘科紅羽にとって、私も、私に憧れる女の子も等しく、救済の対象なんだ。彼女の救済という目的に、嘘も偽善も、利用も詐欺もない。
助けたい。ただ、それだけ。
「やり直すのが怖いのなら支えてやる。何をすればいいのか分からないのなら、一緒に悩んでやる。……あんたは、終わってなんかいねぇ。あきらめるな」
終わってない。
急に目の奥が熱くなって、もっと涙が溢れてきた。
都会のあの街で。
心が折れたあの街で、その言葉を言ってほしかった。
誰でもいい。たった一言、それを言ってほしかった。
頑張れ。
あきらめるな。
もう一度。
歌ってくれ。
求めていた励ましの言葉たち。あの街の連中は、何一つ言ってくれなかった。街に吹き抜ける風と同じ、冷たくてどこへ行くのかもわからない連中だった。
私はもう一度、ちゃんとした場所で歌を歌いたかった。アヤネやRayのメンバーたちと過ごした時間を無駄にしたくない。みんなと過ごした青春の中で、一生懸命築き上げてきた私の歌を、終わらせたくなかった。
だから。
だからこそ、励ましがほしかった。
どんなに安っぽくて薄っぺらでもいいから、その一言が。
それなのに、私の周りにいた連中は――!
「くっ……。クソ! 離せ、離せよ! 偽善者め!」
涙を流しながら、しゃくり上げながら。執事の腕を振りほどこうとする。しかし、執事は顔色一つ変えないまま、かたくなに腕を離さなかった。どんなに抵抗しても、罵倒を重ねても、さっきみたいに脅すこともなく、黙ってその場から動かなかった。
「うっく……。離してよ……、離してよぉ……!」
バカみたいに泣いた。涙でぐずぐずで、心もぐちゃぐちゃ。酔っ払って喚き散らして、大泣きして、もう、めちゃくちゃだった。執事は私の腕を握り直して首を横に振った。
「離さねぇ。こっちだって希望を探したんだ。誰が離すかよ」
ネオンライトに照らされる碧眼。映画でも観ているのかと錯覚するほど、言葉も横顔も繊細で、美しかった。
「希望なんてないわよ……!」
「いいや、ある。棘科一族が希望になる。紅羽たちがいる限り、世界から希望は消えねぇ!」
「ウザいんだよ! 世界中すべての人を救うなんてできるわけない!」
「それでも戦うんだ! 偽善だと言われても、希望であり続けるために止まらない。それが棘の巫女だ!」
「バカ野郎か、てめぇらは!」
「ああそうさ、大バカ野郎だよ!」
私の言うことがことごとく撃ち落とされていく。何を言って喚いても、執事は絶対に希望の言葉を捨てない。大勢の人間が集まる都会の街でも、こんなクソ一途なバカは見たことがなかった。
会って間もないけど、私はこの執事を認めていた。
前向きで、希望を語り、どこまでもクソったれで大バカ野郎な執事。
うらやましくて、心の底からムカつく。
「クソ、クソぉぉぉぉ!」
ムカつき具合を全力で叫んで放出した。ビルの合間に私の薄汚い声が響き渡っていく。
もう言葉も悪態も尽きた。私は昔から論が立たない。その辺はアヤネの得意分野だったから、口ゲンカで戦おうなんざ無謀だったよ。
「あんたみたいなよく分かんないやつに口説かれるなんて! しかも、落とされちゃうなんて……!」
私一人だったら、絶対にやり直そうなんて思わなかった。本当に酒ばかり煽って、身も心もとことんまで壊して死のうとしただろう。癪だけど、本心と向き合えたのは、初対面で口説きにかかったファッキン執事のおかげだ。終わってないとか、あきらめるなとか、薄っぺらい励ましにマジの感情込めてくる人なんて、久しぶりだよ。
「クソったれ。好きにしろよ、バカ野郎! 地獄に堕ちろ!」
「クソったれとバカ野郎と地獄以外は聞き届けた」
嘆きにも似た私の答えを聞いて、執事が力強くうなずいた。今まで見せた感情豊かな表情を消して、眼差しも口元も硬く鋭く、彼女の本気を感じた。
「……本当に、やり直せる? 信じていいの?」
「やり直せる。信じろ」
「業界でも売れなくなった流々に働き口なんてあるの?」
「ある。見つけてやる」
銀幕に映る執事は真剣だった。私と、例の子が本気で救われると信じている。
ふん。
やっぱりこの執事、主人と同類でとびっきりの大バカ野郎じゃん。
「執事さん」
「どうした?」
「その、女の子、なんだけど。流々のどこがよくて、憧れたの? 流々の歌の、どこがいいのかな……」
まだ会ったこともない、私に憧れるという女の子。奇特なファン。表舞台から消えてずいぶん経ったのに、私の歌を歌い上げたという、一筋の光。彼女が一体、何に対して憧れているのか純粋に気になった。
「そんなの、知るかよ」
執事は硬くしていた表情を崩し、ニカッと笑って即答した。
「ちょ、ええっ!? さっきまで偉そうなこと言ってたくせに答えられないの!?」
「本人に聞け」
「うっわ、冷た! 執事のくせに気が利かないのね! そこは嘘でも何か言うべきでしょ! 誰か助けて、執事にセクハラされる!」
「しねぇよ! 喚いてないでさっさと宿で休め」
引きずられ、半ば強引な形で路地から連れ出されていく。
ここまで堕ちたのに、私を必要としてくれる人がいたなんて、思わなかった。執事に抵抗する言葉も力も嘘っぱちで、求められるのなら受け入れてしまおうと、清々しい解放感が胸に広がっていた。
私に憧れる、高校生の女の子。かつて私が通り過ぎた、青春の中を生きる人。
まずはあなたに会ってみよう。そしてあなたを聞かせてほしい。
錆びついた私の宝物を託せるかどうか。
あなたの音を、聞かせて――。




