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桜沢さんのお嬢さま  作者: 松山みきら
第10章 愛の支え -棘科輝羽-
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 夜も更けた。

 寝る支度を済ませた私は、自室のアンティークデスクで送られてきた書類や電子メールの確認や整理をしていた。私に送られてくるもののほとんどは温泉街に関連している。来月行われる棘科神社の例大祭、舞の練習予定問い合わせ、イベントの準備経過報告など、目を通すものは多い。紅羽にも指摘されたばかりだったから、今まで以上に集中し、きちんと気を入れて対応していた。

「森林ステージの設備が故障か……」

 書類やメールを整理し終えて、最後の一通に目を通していた。温泉街の観光協会から送られたもので、件名は『森林ステージ設備一部故障のご報告』と件名が入っている。

 温泉街の中には木々に囲まれた野外ステージが存在する。堅固な作りの屋根と充実した音響設備で、演奏会やパフォーマンス、演劇等、イベントのみならず、地域の人々が多く利用する活動場所だ。しかし今回、音響設備の一つに不具合を確認したらしく、設備の修理か新規交換を検討しているらしい。森林ステージは来月のイベントで大勢の人々が利用する予定だ。懸命に練習したであろう人々が設備の不具合で不完全燃焼になるなんて、私としても望まない。それに、ふみにはまだ話していないが、例の作戦で彼女も歌を披露することになれば、当然あのステージに立つ。ここは修理というよりも、安全面も考慮して新しいものに交換するべきか。新規交換の見積もりをとって、設備の不具合解消とステージの安全に努めよう。

 観光協会の予算で新規の設備に交換可能かどうか、また、交換の場合、来月のイベントなど、森林ステージの使用予定に影響が出ないかきちんと調べてもらい、音響設備以外にも、ステージ内外に危険な損傷がないか再度確認するように返信をした。観客もステージに立つ人も安全に楽しめること。それが一番大切だ。

 返信を終えたら、新しく受信したメールがないか確認する――。大丈夫だ、未読は増えない。今日はこれ以上の報告はないようだ。ステージの件については紅羽にもメールを転送しておいた。明日の朝には「大変じゃない! すぐに新しいのを買いましょう」と私以上に騒ぐだろう。姉はこういう事態になると決して渋らない。棘科家から出資して、森林ステージの全面建て直しすらやりかねない。しかも彼女は一切冷静さを失わず、至って真面目にそれを言うのだから恐ろしい。

 棘の巫女なればこそ、か。

 他にも慈善事業を多く行い、篤志家としても幅広く活動する姉には頭が上がらない。それに比べて私ときたら。恋人に執着して盲目になり、冷静さを失ってばかりだ。しっかりしなくてはならないのに、私はどこまでも未熟な……。

 と、悲観していたときだった。

 とんとん、と非常に控えめなノックが扉の方から聞こえてきた。聞き間違いかと思うほどに小さな音だ。

「だぁれ?」

「文音です。少し、よろしいでしょうか?」

 返ってきた声を聞いて椅子から勢いよく立ち上がった。キャスターのついた椅子がそのまま転がっていき、背後にあるホールクロックとぶつかって軽快な音を立てる。館で生活を共にするようになってからは私がふみの部屋を訪ねるばかりで、彼女からこちらを訪ねてきたことは一度もなかった。嬉しさのあまり、自分の表情が砕けていく。大急ぎで扉へ駆け寄り、ノブを引いた。

 扉を開くと、驚いて身を引くパジャマ姿の恋人が立っていた。扉を開く勢いが強すぎて驚かせてしまったらしい。早速、恋人を前にして冷静さを欠いていた。慌てて心に喝を入れ、砕け切った表情を自然な笑顔に引き戻す。

「いらっしゃい。どうぞ」

「あ、えっと……。はい、お邪魔します」

 ふみからはあの石鹸の匂いが強く香っていた。彼女もお風呂に入って寝る支度を済ませてきたみたいだ。鼻をかすめる匂いは私の中に入り込んで、安心感と愛しさ、そして熱い情を目覚めさせた。心臓が高鳴って、もう、すぐに甘えたくなってしまう。

 ひとまず入ってきたふみをソファーに座らせて、ホールクロックと接触事故を起こしている椅子をアンティークデスクに戻した。続いて、電子メールを見ていたパソコンの電源も落とし、整理済みの書類もまとめて片づける。

「ごめんなさい。お仕事中でしたか?」

 顔を上げたら、パソコンのディスプレイ越しに恋人の姿が見えた。胸の前で右手を結び、ソファーに座って心配そうに眉を寄せている。

 笑顔を返して首を横に振った。

「ううん、ちょうど終わったところ。いいタイミングだよ」

「それなら、よかった」

 アンティークデスクの上を片づけたらソファーに向かい、許可を得る間もなく、恋人の膝上に倒れ込んだ。こうして膝枕をしてもらうのも久しぶりな気がする。ここ数日はバタバタと忙しかったし、今日は図書館でも膝枕をしてもらえなかった。でも、今ならもう大丈夫だ。私の部屋なら周囲を気にせず、思う存分甘えられる。

 ふみは膝に倒れた私を穏やかな眼差しで受け入れ、頬に手を添えてくれた。ふみの親指が私の頬を何度も何度も、ゆっくりと往復していく。彼女の顔を見上げて、二人で沈黙したまま見つめ合った。

 言葉以外の、見えない何かを交わし合う時間。愛しい人の温もりと感触と匂いに包まれて、夜の静かな時間に沈んでいく。一緒に住んでいてたくさん時間を共有できるはずなのに、まだ足りない。もっともっと、同じ時間を過ごしたい。もっと君の肌に触れて、存在を確かめて、私の恋人を感じていたい。頭のてっぺんからお腹の下まで、私の中に通っている柱がじんわり、じんわりと温かく熱を蓄え始める。それは乱暴な熱に思えて、しかし最上の愛情表現にも思えて。

 この想いをどうしたらいいのか。

 嬉しいジレンマみたいなものに悶々としていたら、沈黙していたふみがそっと、口を開いた。きれいな色をした唇が、声と言葉を紡ぎ出していく。

「あきちゃんの支えになりたいです」

「どうしたの?」

「お夕飯のとき、あきちゃん、当主様に言われたでしょう? 心構えをきちんとしてもらう、って」

 今日の夕食で私の未熟な部分を指摘した紅羽の言。あの指摘を受けて、私が落ち込んでいるのではないかと心配してくれたのか。

「当主様のお考えはよく分かります。守護者の一族として、当主様にもあきちゃんにも、大きな責務があるのでしょう。私みたいな弱虫には到底耐え切れない、たくさんの責務が」

 ふみの手が頬から離れる。すると、私の身体をそっと抱き起こして、柔らかく胸に抱いてくれた。積極的な彼女に驚きながらも、私は素直に、彼女の為すがままに身体を預けた。

 頬に感じる胸の鼓動と温もり、溢れる石鹸の優しい香り。

 女神に抱かれている思いだった。

「あきちゃんは私の悩みを聞いて、解決のために手を引いてくれました。だから今度は私が、あきちゃんの力になりたいのです」

 ふみの腕に力が入る。それでも、割れ物を扱うかのように優しい抱き方だ。私が普段ふみにする抱き方とは違って身も心も溶かされてしまいそうな魔性を感じた。

「心配してくれたんだね。ありがとう、すごく嬉しい」

 恋人の身体に自分の小さな身体を強く寄せて、瞳を閉じた。

「力には相応の責任が生じるもの。棘科一族には大きな力があるから、私や紅羽に大きな責務が生じるのは当然だよ。紅羽は姉として、当主として、未熟な私を諭してくれたんだ」

「そこは理解できます。とても立派ですが、つらくなりませんか?」

「不安にはなるかな……。私にできるのかなって、ときどき心配になるよ。でも、こうやってふみがそばにいてくれるから大丈夫」

 瞼を開いて、ふみの身体から離れる。恋人は心配そうに眉を寄せたままだ。

 私の身を心配して、支えになりたい、力になりたいと言ってくれた。彼女は今まで周囲を突き放してきたが、本来はこうして心優しく、慈悲深い少女なのだ。大変な目に遭ってきたのに、恋人である私に対してだけでなく、周囲の人間関係も大切にしてやり直そうと奮闘している。

 そんな心優しい君がいれば、私は十分だ。

 私にとって、君は聖母であり、女神様だ。

「これからも私のそばにいて。私の恋人でいて。君の存在が、何よりの支えになるから」

 私と同じ責任を負えとは言わない。私の仕事を手伝えとは言わない。それは支え方が違う。共に笑い、泣き、悲しみ、ときには叱咤激励し、され、愛を交わし合う。伴侶による支えとはきっと、共に過ごす時間の端々に現れる、そういう部分を言うのだ。

 きっと。

「あきちゃん……」

 一瞬、ふみの瞳が私の唇に向いたのを見た。

 珍しい。いつも私から迫っていたのに、今日はふみから求めてくれている。

 恋人の両手が私の頬を包み込んだ。そっと、壊れないように気を遣いながら、互いの顔が、唇が近づいていく。唇の先が、恋人の感触を求めてうずいている。

 ふっ、と唇が捕らえられそうになったその瞬間。

 部屋のあっち側から四回、扉が叩かれる音がした。

「きゃっ」

 ふみがびくりと肩を震わせ、私から手を放した。それと同時に、部屋の外から執事の声が聞こえてくる。執事は中にいる私たちの雰囲気など知るはずもない。遠慮は一つもなかった。

「輝羽、起きてるか。報告がある」

 とんでもないタイミングだ。いい雰囲気だったのに。

「むー……。ごめん、ふみ」

「だ、大丈夫です。待っていますね」

「うん。ありがとう」

 ふみの頬にそっと口づけて、ソファーを離れて扉へ向かった。永遠に離れるわけではないのにこの名残惜しさときたら凄まじいもので、お腹が内側から締めつけられるように悔しい。ああ、だめだ、紅羽に指摘されたばかりじゃないか。ふみにも情けない姿は見られたくない。棘の巫女として気持ちを切り替えて、執事の報告を受け取ろう。

 深呼吸を二回してから扉を少しだけ開く。執事が愛用している黒革のジャケットを肩にかけて立っていた。口には相変わらずキャンディーが咥えられている。

「どうしたの?」

 背の高い碧眼を見上げて、首を傾げる。執事はうなずくと声を潜めた。

「……姫川流々を見つけたぞ」

 はっとなった。

 姫川流々。ふみの希望である歌姫。

 ふみが歌を披露してくれた朝、私はあやめに頼んで歌姫の捜索をしてもらっていた。例大祭の晴れ舞台で歌を歌わせるだけでは足りないと思い、特別な要素として検討したのが姫川流々の協力だ。しかし、歌姫は『光』でたくさんの受賞をしたものの、その後は結果を出せずに表舞台から姿を消してしまった。実家にも戻らず、消息が完全に途絶えていたために捜索が難航していたのだが、ついに発見できたらしい。

「どこにいたの?」

 部屋の中にいるふみに聞かれないように私も声を潜める。嬉しい一大事を伝えたいのか、執事の顔は抑えた声の代わりに喜びの笑顔を全開にしていた。

「この町にいたんだ」

 驚いた。思わず大声が出そうになった。尋ね人がすぐ近くにまで来ているなんて思いもしなかった。この土地は寒気がするほど不思議だ。棘科が求める、あるいは棘科を求める人々が、棘の森によって導かれて集っていくようだ。

 あやめは肩にかけていたジャケットの袖に腕を通し始めた。

「足取りをたどったら、棘丘駅でそれっぽいやつを見た人がいてな、証言してくれたんだ。四月の朝、棘丘から乗車して棘森で降りたそうだ。よれよれのコートを着て、ひどく酒臭かったとか……。他人の空似かと思ったが、調べてみたら当たりだったぜ」

「見つけられたのはよかった。でも、酒臭いって?」

「ヤケ酒だよ。各地を転々としながらずっと飲み歩いてたらしい。相当打ちひしがれたみたいだな」

 かわいそうなもんだ、とあやめが寂しそうにつけ加えた。

 彼女は決まった家を持たず、山奥や駅のトイレなどで寝泊まりして浮浪者同然の生活をしていたそうだ。夜になったらバーや居酒屋などを訪れて、泥酔するまで酒を飲むのだという。あまりにも変わり果てた彼女に、周囲の人々も姫川流々本人だとは気づかず、よく似た酔っ払いの女だと思っていたようだ。

「もう保護はしたの? 何年も飲み歩いてたなら、身体が心配だよ」

「これから保護するよ。今は調査員に見張ってもらってるから大丈夫だ。執事さんが直々に話をつけに行ってやるぜ」

 あやめが直接出向いてくれるなら安心だ。ほっと胸をなでおろした。

「歌姫さん、確実にやつれ切ってるだろう。保護したら温泉街のホテルに泊めさせて、少し休ませてやりたい。何日か時間をくれるか」

 それはもちろんだ。歌姫本人だって、ファンにやつれ切った自分を見せるなんてしたくないはずだ。ふみにも希望である人物の変わり果てた姿を見せたくない。しかし、棘科神社の例大祭までは一か月ほどしかない。歌姫を見つけたのなら、私が企んでいる作戦も本格的に始めていく必要がある。

 受け入れてもらえるかは分からないが、いよいよふみにも話さなくてはいけないな……。

 少し考えてから、うなずいて返した。

「もちろん、しっかり休ませてあげて。でも、例大祭まではあと一か月しかないから、今週末まで。今週末、ふみに作戦の提案をする。歌姫さんにはあやめから伝えてもらえるかな?」

「いいぜ。どこまで話せばいい?」

 ふみのことは簡単に触れるだけにして、作戦の概要のみ伝えてもらおう。ふみの身に起こったことについては、自己紹介を含め、ふみと歌姫が直接会ったときに話をするのが理想的だ。歌姫にはまず、週末まで休むことに集中してもらいたい。

 私の提案に、あやめは明るい表情でうなずいた。

「了解だ、歌姫さんには休息を優先してもらおう。いよいよだな」

「うん……。私の作戦はエゴかもしれない。ふみにとっても、歌姫さんにとっても、余計なお世話でお節介かもしれない。でも、この作戦が上手くいけばきっと、ふみも歌姫さんも救われると信じてる。『歌』は絶対に、人を救えるはずなんだ……」

 姉の虐待や親の無関心に晒されたふみは、姫川流々の歌を支えに、苦しい日々を生き抜いてきた。姫川流々の歌が幼いふみの希望であり続けたこと、それはすなわち、歌が人々の希望となり、心を救えるという証明なのだ。

 ふみの得意な歌で、ふみの笑顔を取り戻し、堕ちた歌姫をも救う。

 これが、私が企む作戦だ。

 咥えているキャンディーの棒をつまみ、あやめがまた笑った。

「熱いじゃねぇか。それじゃ、いっちょ行ってくるぜ」

「お願い。ふみには内緒にしておくから」

「ああ、任せとけ。夜更かししないでちゃんと寝とけよ」

「分かったよぅ」

 ぽんぽん、と私の頭を優しく叩き、ジャケットを翻して廊下を走り抜けていく。執事の駆けて行く後ろ姿はとても頼れる、かっこいい背中だった。

 あやめを見送ったら、ふみに気取られないように気持ちを切り替えた。扉を閉めながら深いため息をついて、不安や心配をため息と一緒に吐き捨てていく。ふみに伝えるのは今週末。今すぐに伝える必要はない。今は先程の続きを、途中になってしまった甘い時間を再開するんだ。

 踵を返してソファーに戻ってくる。お互いの脚がぴったり触れ合う距離に座って、思い切り肩を寄せた。ふみが私の髪に頬を寄せながら、控えめに尋ねてきた。

「大丈夫でしたか?」

「うん、頼んでた仕事の報告をしてもらっただけ。順調だよ」

「よかった。少し心配してしま――」

 ふみの言葉が途中なのにも関わらず立ち上がった。彼女の膝上に座り直して、首に両腕を回して向かい合う形になる。途中の言葉はそれ以上紡がれなかった。半開きになった唇が、そっと閉じられる。

「もう話はやめよっか」

 いつもの私ならここでわざとらしい笑顔を浮かべるはずなのに、しなかった。今、私の胸を埋め尽くす愛しさは、あの笑顔が持つそれとは違う。先程の甘い時間にあったのは、想いの果てに生まれた私とふみの熱くて力強い、真剣な愛情の形。

 遊びや戯れじゃない、もの。

 もっと。もっと、深くて、どこまでも本気なもの。

 ふみの両腕も、私の背中に伸びた。

「今夜は、あきちゃんの話を聞こうと思ったのに……」

「ごめんね。お話よりもしたいことができちゃった」

 初めて一緒に過ごした夜以上に、身体の中心が熱い気がした。

 二人で想いを言葉で確かめ合っただけなのに、ここまで違うものなのか。

 桜沢文音に深く口づけたい。彼女の肌と温もりに自分を重ねたい。

 彼女を壊して、私も壊されたい。

 むちゃくちゃに、なりたい。

「どうか、お手柔らかに……」

 泣きそうなほど瞳が潤み、声も震えていた。

 ふみも感じ取っている。いつも以上に互いを求め合う強い想いを。私の背中に回された腕も、指先も、凍えているように震えていた。

「できそうにないよ」

「努力してください……」

「ごめんね」

 ぐいっと頭を後ろから押さえて強引に唇を重ねた。口づけたまま、力任せにソファーへ恋人を押し倒す。ふみが嫌がっても力で押さえてやろうと、乱暴な愛しささえ浮かんでいた。でも、そんなのは杞憂で、ふみは私を拒絶しなかった。私に口づけを返しながら、なだめるように背中を包んでくれる。強引な私と対照的に、優しく、優しく。深いキスを何度も交わした後、唇を離して潤む瞳を見つめた。愛する先輩の顔は艶っぽく、赤い色が添えられている。

「やっぱり、当主様の言葉がつらかったのですね」

「そう思う……?」

「はい。今日のあきちゃんは乱暴ですから、そんな気がします」

 私の頬に手を伸ばして、二度、三度、もどかしい触れ方で撫でる。もっと強く触れて欲しくて、自分の手を重ねて押しつけた。強く、恋人の存在を感じたくて。

「悩みがあれば一緒に悩んで考えます。泣きたいときや甘えたいときは胸を貸します。求めてくださるのなら、私は喜んでこの身を捧げます」

 彼女は何一つ嫌がらず、拒まない。むしろ、私がぶつけるすべてを受け止めると待ち構えている。熱い欲望で冷静になれないときもあるのに咎めない。乱暴に触れても、口づけても、それ以上の慈悲で私をなだめ、癒そうと包み込んでくる。

「疲れた恋人を支えるのは伴侶の役目。負い目なんて感じないでください。それで元気になったら、当主様の言葉通り頑張ればいいのです。姫川流々もしていた、メリハリをつけましょう。そうすればきっと、きちんとできますから」

 ふみは私を甘やかそうとしているのではない。私が姉の言葉を実行できるように、支えになろうとしているだけだ。守護者としての心構えと、私たちの愛情。そのいずれも失わないように。

「おいで、お嬢様。今日は休んで、明日からまた頑張りましょう」

 誘われるがまま、ゆっくりと自分の身体をふみに預けた。胸に顔を埋めて、柔らかい身体を抱きしめて、幼子みたいに甘えた。慈愛溢れる言葉を囁きながら、私の小さな背中や頭を撫でてくれる。何度も石鹸の匂いを吸い込んで、愛しい人に夢中になっていった。

 この少女がいないと、私はもう。

 桜沢文音がもたらす聖母の温もりは、未熟な私にとって毒であり、薬であり、そして、希望だった。

 甘えるばかりではだめなのに。

 姉に諭されたばかりなのに。

 ああ、ふみ――。


 自分自身の脆弱さと、ふみの泥沼みたいな優しさを噛みしめる。

 気がつけば、聖母の胸を涙で濡らしていた。

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