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桜沢さんのお嬢さま  作者: 松山みきら
第10章 愛の支え -棘科輝羽-
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 帰り道、棘森の町は遅い夕暮れを浴びて、黄昏色に染まっていた。暦は五月、最終下校時刻まで残っていても空はまだ明るい。陽が伸びてきたね、と空を見上げながら言うと、隣を歩く愛しい先輩がうなずいてくれた。

「今日は一日どうだった?」

 大きな変化点を経てから迎えた連休明け。今までの自分を捨てて、新しく変わった自分を携えて日常へ挑む。ふみにとっては不安と緊張で満ちた一日だっただろう。本当は、この話も図書館で真っ先に聞くべきだ。それなのに、私は真っ先に恋人の唇を求めて、自分の欲望を満たそうとしていた。以前感じていた熱い想いがもっと増しておかしくなっている。君を求めずにはいられない。恋人という距離に縮まってから、ふみへの想いが際限なく溢れて止まらなかった。

 道行く車の音にさらわれそうな声と共に、恋人が眉を寄せる。

 言いにくそうだった。何か、あったのか。

「今日は、その、何と言えばいいのか……」

 顔を小さく横に振りながらため息。悲しみよりも嘆きを感じさせる仕草だった。青々と葉を広げる街路樹の下を通り過ぎると、一瞬だけ森の匂いがした。

「結局は私のせいです。私が撒いた種ですから」

「聞いてみないと分からないよ。話してみて」

 学校前の道路から駅前商店街のアーケードへ。鮮やかなネオンの輝きと雑踏に包まれながら、新しい日を迎えたふみの出来事を聞いた。

 外見と心、共に変化したふみは大勢の生徒から注目を集めた。休み時間には生徒たちが彼女を囲んで、何があったのか、と興味津々だったという。詳細は話せなくとも、込み入った事情があったと説明し、今までとっていた態度についてしっかり謝罪、反省してやり直していく意志を示した。

「しかし、一人だけ、変化した私を否定する生徒がいました」

 名を七倉由佳。ふみとは今日に至るまで接点のない生徒だ。嫌い合っていたわけでもなく、親しかったわけでもない。彼女は生徒に囲まれて話をするふみに、明らかな敵意を含んだ声を投げかけた。ちやほやされていい気になるな、今までツンツンしていたやつが急に変わったらキモいなど、ふみを否定する言葉をぶつけ、神城先輩や他の生徒とも衝突したそうだ。

「急激な変化に不自然な敬語。彼女の言葉には一理あると思います」

「とはいえ、反省する機会もやり直す機会も否定するのは許せないよ」

 その七倉由佳という先輩が抱くのは、嫉妬と嫌悪が混じる形の感情だと推測する。嫉妬が先か嫌悪が先か――いずれにせよ、桜沢文音が大きな変化を見せ、注目を集めたのが気に入らないのだ。私個人としては、ふみの敬語が好きだからそのままでいてほしい。私なんかよりずっとお嬢様な感じがして大好きだ。この気持ちは決して、七倉由佳には理解できないものだろう。

「七倉由佳か。覚えておくぞ」

「乱暴はしないでください」

 雑踏の中、ふみが小走りで前に出て、私の行く手を遮った。明るいアーケードの電飾で、恋人の顔が七色に輝く。普段無表情な彼女が、珍しく眉を寄せて意志を見せている。力でねじ伏せようとする私を止めようとしているようだ。

 立ち止まって、心配するふみに微笑みを返した。

「乱暴はしません。約束します、先輩」

「……よろしい」

 ふっ、と顔から力が抜けて、柔らかな無表情に戻る。笑顔はないままだが、出会った頃に比べてずいぶん柔和な印象になった。彼女の笑顔を取り戻す機会についても、そろそろ企みをまとめていかなくてはいけないか。七倉由佳への対策も含めて検討していこう。

 再び虹色に輝くアーケードを歩き出した。

「七倉由佳が嫌がらせをしてくる可能性もあるから、この話は紅羽にもしておくよ。何かされたらすぐに言うように。いいね?」

「分かりました。ありがとうございます」

 アーケードを過ぎれば、帰宅ラッシュに乱れる棘森駅前に着く。横たわる銀色の駅は、今日も大勢の人波を呑み込んでは吐き出している。

 駅前のロータリーに着いたら、自然と足を止めていた。

 連休前、私とふみの帰り道はいつもここで別れていた。初めて一緒に帰った日、ふみは振り返らず歩き去ってしまった。それが、私を呼び止めたり、姿が見えなくなるまで見送ってくれたりと、たった一ヶ月の中で徐々に変わっていき、ついに、同じ屋根の下で暮らす幸せを手に入れた。

 新しい日々は、ふみだけでなく私にも訪れている。

 寄せては返す人波と、ロータリーと道路を走り抜けていく車。活気に満ちた人々の声、駅前の飲食店から漂う匂い。見慣れた光景が全然違う。ぼやけていた形が、知らなかった色が見えてくる。聞こえなかった音や声を、肌と耳が敏感に受け止める。ああ、恋人が隣にいるだけで、これほどまでに世界が変わって見えるのか。叫び出したくなってしまうほど、泣き出してしまいたくなるほど、胸の奥を握ってくる感覚。ノスタルジーとは程遠い駅前なのに、なぜかそんな気分にさせてくる。

 感嘆の息が漏れた。

 幸せと、言葉一つにするにはあまりにももったいない。

「あきちゃん?」

 立ち止まった私に気づいて振り返る。首を傾げると、切ったばかりのきれいな髪がさらりと揺れた。私はあの髪の感触と匂いをよく知っている。帰るまで堪えろ、と押し込んでいた情熱がせっかちに騒ぎ出した。

 ふみを求める情熱を深呼吸で諫めたら、明るく答えた。

「ちょっと感動しちゃった」

「…………」

 傾げた首を戻して、私を黙って見つめてくる。やはり笑顔はない。でも、その眼差しから伝わる熱は優しかった。

「最初に帰ったときと世界が全然違うんだ。『幸せ』だけじゃ説明しきれないって言うか。飛び上がりたくもあって、泣きたくもあって……。とにかく、ふみと一緒にいることがすごく嬉しいの」

 四月のあの日、図書館で君を見つけなかったら。君と出会う日が、状況が、ほんの数秒、ほんの少し違っていたら。こうして生きる時間も共にできず、本物の愛も分からなかった。突き放された四月から、結ばれた五月までのわずかな一か月を振り返って、私は本心からこう言いたい。

 君に出会えて、本当によかった。

 儚い青春の三年間を、心から愛する人と過ごせる幸福に感謝したい。

「生きていてくれてありがとう。これからも、よろしくね」

 ふみの瞼が見開かれる。今まで見た中で、最も明らかな表情の変化かもしれない。確かめるように、私が告げた言葉と同じものを繰り返した。

「生きていてくれてありがとう、ですか」

「あっ。ごめん、気に障ったかな」

「いいえ」

 緩やかに首を横に振る。瞼は元の位置に戻り、私を見下ろしていた。夕方の涼しいそよ風が私とふみの間をすり抜けていく。駅前の匂いと雑踏を運んで、電車の音と共に遠くへ消えていった。

「生きてきて、よかった」

 小さな声で発せられた一言だった。まだ笑顔は浮かばない。ふみの学校生活も人生も、やり直し始めたばかりだ。それでも、「生きてきてよかった」と言ってもらえたことは、そばで支える恋人として心から喜べるものだった。愛する人の支えになれたのだと、強く実感できて嬉しかった。

 緩やかな動作で私に手を差し出して、送迎用の駐車場へ目を投げる。視線の先にはいつもと同じ場所に停まる黒い翼と、キャンディーを頬張る金髪美女が立っていた。私たちの姿に気づいて大きく手を振っている。

「行きましょう。帰ったらもっとお話を聞かせてください」

「いいとも。お話ついでにたくさん甘えさせてね」

「……お手柔らかにお願いします」

 差し出された手に私の手を重ねる。二人で握り合ったら、満面の笑みで待つ執事のもとへ向かった。


 館に帰ってしばらく経つと夕食に呼ばれた。ふみと一緒に使用人食堂に向かうと、私の冷蔵庫の前に紅羽が立っていた。帰ってきたばかりなのか、腕に赤いジャケットをかけて、連休前と同じように貼りつけられたプリントとにらみ合っていた。ちなみに、私の冷蔵庫はふみと共同で使うことにした。ふみの好物である牛乳もストックされていて、頼れる執事が期限と本数をきちんと管理してくれている。私も牛乳を分けてもらっているが、気になる部分が成長する気配は見られない。一朝一夕で変わるわけがないとは分かっているものの、非常に悔しい。幼い頃から飲むべきだった。

「あら、妹たち! ただいま!」

 紅羽は私たちに気がつくと笑顔を浮かべ、両腕を広げて駆け寄ってきた。私とふみを左右の腕でそれぞれ捕まえて、ぎゅうっと抱きしめてくる。私は慣れたものだが、ふみは突然の抱擁に慌てていた。

「わっ。お、おかえりなさい、当主様」

「大丈夫よ、そんなに身構えないで。当主様はただ癒されたいだけなの」

 その言葉通り、紅羽は私とふみを捕まえて抱きしめるだけ。幸せそうなにっこり笑顔で、身体を左右に揺らしている。多忙な姉が楽しみにしている時間の一つだ。

「はあ……。仕事で疲れたら妹に甘えるのが一番ね。しかも妹が二人になったから効果も二倍よ、二倍」

「お、お役に立てて何よりです……」

 熱く語る姉に対して、ふみは終始困惑していた。家族からこういったスキンシップをされるのはなかったのだろう。嫌がっているわけではなさそうだから、ひとまず安心しておく。

「紅羽、ふみの件で話しておきたいことがあるの」

 私が話を切り出すと、姉の腕からすぐに力が抜けた。すっと背筋を伸ばしたら、眉をひそめて私とふみの顔を交互に見る。腕組みをしたら例のごとく、指がトントンと動き始めた。

「何かあった? 先生たちへの伝え方が悪かったかしら?」

「そっちは問題ないよ。ふみが同じクラスの女子に目をつけられちゃったの」

 ふみの横顔を見上げる。彼女は申し訳なさそうにうつむいていた。

「連休明けからごめんなさい……」

「謝らないで。話してごらんなさい、相談に乗るわ」

 食卓にはあやめも同席させて、あまり楽しいものではなかったが、夕食をとりながらふみの身に起きた出来事を説明した。ふみはほとんど沈黙していて、質問をするなどして声をかけないと口を開かなかった。直接否定されたのはふみ本人だというのに、彼女は恨み言も陰口も漏らさない。私の恋人は気高い意志を握りしめていて、短気な私と違ってとても立派だと思う。

 ざっと話し終えた後、当主が一口お吸い物をすすってうなずいた。

「その七倉さんは、ふみさんを下に見ていたのかもしれないわ。でも、ふみさんが劇的に変わったことでクラスメイトたちの心が動いた。七倉さんにとって見下す対象だった人が、一転して人気者になったから悔しかったんでしょうね」

「ああ、ふみちゃんに嫉妬したんだろうよ」

 先に夕食を済ませたあやめは、頭の後ろで手を組んで天井を仰いでいた。どうしたもんか、と口から飛び出たキャンディーの棒を動かしている。

 ふみの生活環境を改善するために保護している以上、学校でのトラブルについても真剣に向き合っていく必要がある。私としては生徒同士の口ゲンカで始末したくない。発端は些細なことだったとしても、そこから獲得した憎悪が想像を絶する強大さに膨らむことがある。警戒しておくべきだ。

「今回は口論だけで終わったけど、その口論が引き金になってふみの身に何かあったら嫌なの。直接手を出されていないとはいえ、何か手を打っておきたくて」

 桜沢安珠に襲われたときみたいな失敗を繰り返したくなかった。七倉由佳という生徒がどんな内面を持つのか、どんな人間関係を持っているのか今のうちに把握して、可能な限り迅速な対応ができるようにしておきたい。もちろん、そんな対応をせずに事態を収拾できるのが理想的だ。救うために力を振るっても、結果的に愛する人を悲しませたり、傷つけたりしたら救いにはならないのだ。

 隣で沈黙していたふみが静かに箸を置いた。

「あきちゃん、私は大丈夫です」

「手を出されてからじゃ遅いんだ。何か対策を考えるよ」

「慌てないでください。雪やクラスのみなさんも味方ですから」

「それでも心配なの。せっかくやり直し始めたのに、台無しにされたくない」

 私も箸を置いて腕組みをする。

 まずはあやめに頼んで七倉由佳の情報を手に入れてもらう。学校内での動きもどうにかして把握できるように――七倉由佳に対する警戒網をいかに敷こうか考えを巡らせていると、上座に座る姉が笑っていた。肩を震わせ、幸せそうな笑顔を浮かべて。

「二人とも、本当に仲がいいのね」

 真剣にふみを心配して考えを巡らせていたというのに、当主の抜けた発言で心配が飛んでいってしまった。何がおかしいのだろうと、そっちの方へ思考が向かい始める。

「控えめなふみさんを輝羽が引っぱって、短気な輝羽にはふみさんがブレーキをかけてくれる。いいわ、すごくお似合いよ」

「バランス取れてるよな」

 紅羽はニコニコと、あやめはニヤニヤと。七倉由佳の話はどこかへ置いたまま、そんなことを言われた。私はそれほど慌てなかったが、ふみは照れたらしく、顔を伏せて背中を丸めていた。

 今まで、何かと後ろに下がりがちなふみの手を引いてきた。出会った当初は手を引くというよりも、強引に迫ったという方が正しい。放っておいてと突き放されても聞かず、ふみが折れるまであきらめなかったものだ。距離が縮まって仲良くなってからは、一歩後ろに下がる我慢をふみに教えられた。ふみの家族と話し合ったときに、激怒する私の手を握ってくれたこと。図書館でキスを迫ったときになだめられたこと。紅羽たちの言うように、私とふみは互いの特徴で互いを補い合っている気がする。

「じゃあ、お似合いの妹たちに助言しちゃおうかしら」

 笑顔のまま、紅羽が人差し指を立てた。

「まず、ふみさん。学校ではできる限り人目のつく場所にいなさい。校内を移動するときは雪さんやクラスの子と行動するように。放課後は、ほとぼりが冷めるまで学校の中庭か昇降口で輝羽と待ち合わせましょう。図書館へ行くのは輝羽と合流してからね。万が一、七倉さんに何かされたらすぐに相談すること。我慢して隠しちゃだめよ?」

 中庭は大きな桜の木があって、園芸部が周囲の花壇と一緒に毎日世話をしている。近くにある音楽室では吹奏楽部が練習しているし、騒ぎを起こせば大勢の人の目につくことになる。放課後の昇降口も生徒の出入りが多くなるから、手は出しにくいはずだ。姉からの頼れるアドバイスを聞いたら胸が軽くなった。ふみも伏せていた顔を上げ、真剣な面持ちでうなずいていた。

「続いて輝羽。あなたには心構えをきちんとしてもらいましょう。ふみさんが心配なのは理解できるけれど、焦らず冷静になりなさい。毎日の授業や友人関係、生徒会や温泉街のこと……。私もあなたもやるべきことがたくさんある。棘科一族としての信頼を失わないよう、おろそかにしてはだめよ」

「……はい」

 耳が痛かった。

 紅羽の指摘は私もよく自覚していた。ふみに執着するあまり、冷静さを欠く場面が多くある。私を諭す姉の言葉は、穏やかな声色と反対の痛みを持って深く突き刺さった。

 守護者、棘科一族としての責務。伝説に語られる棘の巫女は、暴虐非道に苦しむ人々の希望であった。私と紅羽が持つ棘科の名は、希望の灯火として輝かなくてはならない。英雄の名を、人々の希望を背負っているのだから。

「あなたたちは一人じゃないわ。二人とも、心を強く持ちなさいね」

 助言を総括するように、希望に溢れる言葉が送られた。

 心を強く持てば、冷静な自分を維持していられる。冷静とは、無関心になるのではなく、様々な場面において視野を広く持ち、適切な選択と行動ができる意志の強さである。力を持つ以上、相応の責任が生じるのは当然。その中で、私も紅羽も力に溺れず、意志を強く持って己の心を律していかなくてはならないのだ。

 そう、頭では理解できていることなのに。

「…………」

 視線を落とした先に見えた私の右手は、あまりにも細くて、小さくて。

 棘科の名が霞むほどに、弱々しく見えた。

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