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桜沢さんのお嬢さま  作者: 松山みきら
第1章 生意気な後輩 -桜沢文音-
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2


 昼休み、雪は昼食を急いで平らげると、事前に用意しておいたという退部届を部長へ届けに行った。一緒に行こうかと聞いたけど、気を遣ってくれたのか断られた。部長のもとから戻ってきた雪の表情はあからさまにふくれていて、かなりの嫌味をぶつけられたと話していた。一応、退部届は受理されたそうで、これで雪も文芸部という枷から開放されたことになる。

 そして、放課後。

 愛用している薄茶色の手提げ鞄に教科書やノートを詰め、一番最後に読み進められなかった本を入れた。鞄を閉じて、顔を上げるとちょうど雪がスクールバッグを肩にかけてこちらに向かってきていた。お昼のときはふくれていた顔も、今では明るい笑顔に戻っている。今日の授業も終わって、部活も行かなくていいから、気が楽になったのかもしれない。

「おお、ミス無愛想。準備万端だな! いざ、我々の楽園へ!」

 大きな声で両腕を広げる雪。おもちゃをもらった幼子みたいだった。

「やかましい。興奮しないでよ」

「有名人に会えるからのぅ、ひっひっひ」

 急に老婆を真似た声を出してみせる。器用なやつだよ。

 教室を出たら、私たちはまっすぐ図書館へ向かった。棘科に会えることが本当に楽しみらしく、雪の話はいつも以上にテンポよく盛り上がっていた。しかも、昼休みに恐ろしい部長と対峙したというのに愚痴や文句を何一つ言わない。彼女の中では気持ちを切り替え終えたみたいだ。

 そんな強い雪が、ときどきうらやましかった。

 職員室や会議室のある南校舎の一階を西へ。昇降口の隣から伸びる渡り廊下を進んで、校舎から離れた建物に入る。階段を二人で駆け上がって、やっと図書館にたどり着いた。

「久しぶりに来たけど相変わらず遠いねぇ」

 声の大きい雪もさすがに図書館ではトーンを下げた。貸出カウンターには誰も座っておらず、今日の図書当番はまだ到着していないようだった。カウンターの奥でパソコンとにらみ合っていた先生が顔を上げて、私たちに笑顔を向けた。

「あらあら! 久しぶりに相棒の顔を見た気がする」

 先生がニコニコと笑いながらカウンターのそばまで来る。文芸部の部長が変わってからは図書館で本を読むことも許されなかったから、雪と一緒に図書館を訪れるのは去年以来で、久しぶりだった。

「どうも、ミス無愛想の相棒です! ボクも部活辞めてきたんですよ!」

 親指を立てて元気よく言い放つ。先生は苦笑いをして、肩をすくめた。

「神城さんまで……。文芸部が大変なことになってるって、朝の職員会議でも話が出てるの。根本的な解決をしないと廃部もあり得るそうよ」

 先生が職員会議の話を漏らすなんて、今までにないことだった。しかし、雪は特に気に留める様子もなく、明るい表情のまま答えてみせた。

「それも仕方ないんじゃないですか? 部長は厳しさの方向を間違えてる気がするんです。物語の組み立て方とか文章の使い方を注意されるのは全然いいんだけどさ、部長はボクたち部員の人格を否定するんですよ。『ゴミ屑が作るものはゴミ屑だ』って。納得できるわけないじゃん」

 頭の後ろで手を組んで首をひねる。彼女の話を横で聞きながら唇を噛んだ。文芸部は汚名返上という目標を掲げたまではよかったけど、部長が部員たちの人格を否定する辛辣な言葉を発し続けたことで、創作に苦しみを抱く部員が増えてしまった。文芸部員である以上、一挙手一投足に気を配らなければ、部長からまた何か言われてしまう。何をするにしても部長の影がちらつき、自分自身を否定されるのではないかと怯えた。それに加え、休日返上や学業に支障が出るほどの過酷なノルマなどによって、部員たちの心身は疲れ果て、続々と文芸部を離れていった。

 私も、たくさんの言葉をぶつけられたものだ。

「……もうやめようよ、雪」

 思い出しそうになって、考えるよりも口が先に開いていた。

「あ。ご、ごめんよ、ふーみん。んじゃ先生、奥の席借ります!」

「いつもの場所ね。暗い話題持ち出しちゃってごめんなさい」

 謝る先生に二人で頭を下げて、少し重い足取りで薄暗い本棚の森へ向かった。

 窓の光も蛍光灯の光も届きにくい二人がけの席には、細長くて白い傘のライトスタンドが机の中央に置かれている。指先が銀色のスイッチをなぞると、寒色の白い光が二度瞬いて、机を白く浮かび上がらせた。周囲を囲う本棚が白い光を受けて陰を作り、より大きく、私たちを見下ろすようにそびえ立つ。

 息苦しさすら感じるこの空間が大好きだった。

 ふと、雪が私の背を追い越して、足早に机の反対側に向かっていき、椅子を引いて腰を下ろした。姿勢を正して私を見上げる童顔は、申し訳なさそうに眉を寄せていた。

「ごめんね。部長の話はやめて、お詫びに素敵な話題を提供するよ!」

「どうぞ。聞いてあげる」

 鞄を机の脇に置きながら私も椅子に座った。座り慣れた椅子の感覚は、放課後の解放感をもっと強く感じさせてくれる。向かい合った童顔が明るい微笑みになって、両手で頬杖をついた。

「よしきたっ。実は一つ提案があるんだ。棘科さんと会って無事に仲良くなれたらさ、帰りに寄り道しちゃわない? ドーナツショップとか、カラオケとか!」

「図書館がいい。話題終了」

「ちょまっ! そ、そんなつれないこと言わずにさぁ! ふーみん、昔っから歌か読書か、って感じだったじゃん? ふーみん上手だし、お歌、久しぶりに聴きたいなぁ」

 頬杖をついたまま、キラキラと、ニコニコとこちらを見てくる。逸れない輝く瞳をまともに見ることができず、私も頬杖をついてそっぽを向いた。

 歌か、読書か。上手いか下手かはさておき、歌を歌うことも読書と同じくらい好きだったことは真実だ。小学校の頃に合唱部に所属した時期があって、それをきっかけに歌う楽しさを知った。

 色彩豊かに奏でられる音と想い溢れる詞、そこに自分の心と声を乗せて、音と一つになる。音色に寄り添う私の声は音色の一つになり、旋律になり、やがて歌という音楽として結ばれる。私の声が音楽となり、その音楽を聴いて誰かが笑顔になってくれた日々。小学校の幼いあの日、私が殻に逃げ込む前は、歌うことこそが光であり、私自身を救済する手段だった。

 楽しさや充足感に似ていながら、それ以上に気高く尊い、大いなる手ごたえ。

 語りつくせない、目が痛くなるほどに輝く大きな翼を得たような。

 暗がりにそびえ立つ本棚を見上げた。

 いつからだろう。私は暗闇から伸びる手に羽根をもがれ続け、気がついたときには翼を失って、深い瘴気に満ちた森に堕ちていた。かつて得ていた救済の代わりに、瘴気に溢れる森は数多の幻想を私に映して魅せてくれた。

 叶うことのない、手の届かない光を。

 森は、私を棘の蔦で封じ込め、瘴気で酔わせて幻想に溺れさせた。

 希望を与えるどころか、酔わせて、酔わせて、溺れさせる。

 刹那の灯火が映す幻。幻が放つ光。

 幻想の世界に生きる英雄たちは、本を開けばそこで私の闇を照らしてくれた。私の手が届かない、それでいてすぐ近い場所からいつでも光を投げかけてくれる。私が決してつかむことのない栄光を手にする、創られし英雄の軌跡。人は本来、描かれた軌跡に心を震わされ、前に進む勇気や希望を得るものだ。

 しかし、私は違った。

 幻想の灯火がどれほど光で照らしても、何も変わらなかった。

 ただ、幻想に酔い、溺れ、まどろむだけ。

――変われなかったんだ。変われない理由が、あったから。

「――歌なんて、歌わない。図書館でいい」

「そんな怖い顔しないでってばぁ。棘科さんが来たら、怖がっちゃうよ!」

 私が悩むような話題を持ち出したのはそっちだろう。心の中で思って、首を横に振った。

「来るとは限らないよ」

「来るって! だって『明日も来ます』って言ったんでしょ~」

 棘科輝羽。

 訪れる人の少ない図書館で出会った高貴な少女。

 輝き流れる黒髪を、深い血の瞳を思い出すたびに、肩から背中へ切ない冷たさが落ちていく。今の学校生活に感じていた不安も怯えも、グラウンドから聞こえる生徒たちの声も、何もかもモノクロになって、古い記憶みたいに切なく色褪せる。棘科との出会いを思い出すだけで、向かい合う雪の童顔も遠く褪せていくようだった。今、一緒に生きているはずの親友がまるで、時の止まった私を置いて去っていってしまう錯覚すらして。

 寂しくて、切なかった。

 まったく。雪はさっきから私を悩ませる話題しか振ってこない。素敵な話題なんてないじゃないか。

「来ない方が楽だ」

「もー! そんなこと言わずにさぁ」

 私が分からない。この感覚を理解できない。

 私は、棘科に何を求めているのか。何を、したいのか。

 本棚を見上げていた私の目がどんどん下がっていき、気がつけば机に落ちて沈んでしまった。宿題も本も鞄から取り出せないままうつむいていたら、背後から足音がした。

 目の前で頬杖をついていた雪が両腕を広げて声を上げる。

「ああっ!」

 ぞわりと背中にひときわ大きな寒気を感じて、胸の中心が強く鼓動する。身体をひねって振り返ると、私を惑わす厄介な存在の姿を認めた。等身大の人形みたいに華奢で、儚く、美しい。黒髪で赤い瞳の後輩がそこに立っていた。

「おや、これは……。先客がいらっしゃいましたか」

 白い顔が、ふっ、と微笑んだ。

 縮み上がりそうになる身体を抑えて、目を細めた。

「……棘科」

「こんにちは、桜沢先輩。はじめまして、一年一組の棘科輝羽です」

 手前に座る私へ挨拶し、続いて、奥で驚愕し続ける親友へ自己紹介。高貴な後輩は一切動じることなく、柔らかい微笑みを浮かべていた。

「は、はじめまして! 二年三組っ、図書委員の神城雪です! いやぁ、本当に棘科輝羽に会えるなんて!」

 ガタガタと音を立てて椅子から立ち上がり、雪が大声で親指を立てる。思わず指を差し、自分でも珍しいくらいの声で怒鳴りつけてしまった。

「やかましいっ」

「ぐはっ! ご、ごめん、ふーみん」

「……ふふ。よろしくお願いします、神城先輩」

 雪は棘科に気を遣い、違う席から椅子を一つ持ってきて同じ机に座らせた。二人がけの席だから三人で使うとちょっと狭い。別に棘科と話をしたいわけでもないのに、どうして私まで同じ机に座らなくちゃいけないのか。でも、ここで別の机に移動するなんてことしたら、私が棘科を嫌っているとか余計に面倒なことになりそうだ。別に棘科が嫌いだというわけではない。ただ、面倒なだけだ。大富豪の妹で、しかも私のリズムを崩してくるから、対処するのに疲れてしまうのだ。

「お二人は幼馴染なんですね。委員会も一緒で、部活も一緒だったと……」

 声のトーンは控えめに、本の森で他愛ない会話をする。私は無言を貫き、雪が棘科との会話に花を咲かせていた。私と雪が幼馴染であること、共に図書委員会に所属していること。文芸部を辞めた件については詳しく話さないで、少しぼかして伝えていた。

「棘科さんは委員会や部活は何にしたの?」

 また両手で頬杖をついて、童顔がニコニコと笑っている。雪の質問に、棘科は苦笑いを浮かべた。

「部活はしていないです。委員会は図書委員がよかったんですが、生徒会執行部の顧問をしてほしいと頼まれたので、生徒会執行部に所属することになりました」

「生徒なのに執行部顧問!? ど、どういうこと!?」

「我が校初の試みだと伺いました。入学式の翌日に、校長と生徒会顧問の先生から打診されて、『生徒側の』執行部顧問を引き受けました」

「うひゃあ……。富豪様も大変だよぅ……」

 雪が頭を抱えて唸った。

 大富豪のお嬢様を生徒会の中心に置く。様々な物語で見かける状況だった。

 棘科家は土地の守護者、そのご令嬢であれば、文武両道で完璧な存在。だからこそ、学校でも中心となる組織に所属しておくべき。この町や近隣の土地に住む人はみんな、そう思うことだろう。

「でも、やるからには手は抜きません。守護者の末裔として信頼に応えなくては」

 強い意志を感じさせる言葉だった。

 どうしてそんなにも強くいられるのか。幼さの残る横顔に浮かぶ眼差しは、たくさんの経験をしてきた大人の女性みたいに凛としていた。断る選択肢があったのにも関わらず、信頼に応えようと、執行部顧問を受け入れた。私にはそんなことはできない。不安に押し潰されて断るか、途中で辞めてしまう。

 そう。文芸部のときみたいに。

「……タフなやつ」

 呆れた口調でこぼした。赤い瞳がこちらを向き、微笑みながら首を横に振る。

「好きなことを委員会として続ける。好きだったことを嫌いにした部活を辞める。そうやってはっきり決められる先輩たちの方がずっと強いと思います」

「強くなんかない。私は逃げただけだ」

 吐き捨てた。

 仕方なく所属した部活とはいえ、少し楽しめてきた創作活動だったのに、部長の存在を感じるだけで苦痛になった。だから、物語を作ることをやめて、深い森の中で幻想に浸り続けることを選んだだけ。その決断には、彼女が言うような気高い強さなんてこれっぽっちもない。

 どちらにしろ、私の書く物語は薄っぺらい。文芸部を続けるだけの価値もない。何かを真似て、欠片を集めて、桜沢文音のセロハンテープで乱暴にくっつけたお粗末なもの。気色悪くて吐き気がする汚物に過ぎない。

 そう言った人が、いるんだ。

 物語の創作だけじゃない。思い返せば昔からそうだった。合唱部で一生懸命歌っていただけなのにいじめてくる人間がいた。私が絵を描くことに楽しみを見出せば、「調子に乗るな」と否定した人間がいた。小さい頃に好きだった歌と絵。そして、高校で知った物語を創作する楽しみ。すべてが、こぼれて、消えていく。

「……ちっ」

「先輩……?」

 私の視線は机の上に落ちていたから、二人がどんな顔をしていたのかは分からない。ただ、棘科の声色を聞いて、冷たいことを言ってしまったのだろうと、余計なことを言ってしまったのだろうと、何となく、感じることができた。

「こら、ふーみん。棘科さんは――」

 親友からのお叱りが飛んでくる。うつむいたまま彼女の話に耳を傾けようとしたら、本棚の向こうから誰かが近づいてくる足音が聞こえた。

「神城さん、ちょっといいかしら?」

 呼びかける声に、三人揃って頭を動かした。本棚の陰からふくよかなシルエットが姿を見せる。荻野先生だった。

「んおっ? どうしました、先生」

八坂やさか先生が来たの。文芸部を退部したことについて話を聞きたいんですって」

 八坂先生は生徒会顧問と生徒指導を兼任し、授業では体育を担当する女性教師。ついさっき棘科の話にも出てきた、生徒会顧問の先生その人だ。部長と衝突し続けて疲弊し、退職してしまった文芸部顧問の先生に代わって、退部した生徒の話を聞いたり、他の先生にも働きかけたりして、文芸部を立て直そうと奔走している。

 雪と顔を見合わせる。彼女は困ったように眉を上げて肩をすくめた。

「耳が早いこと。ちょいと話してくるよ」

「私も行くか」

「へーきへーき! 部長と話すわけじゃないから大丈夫だって。あっきー、ふーみんのことよろしくね~!」

 棘科の肩を軽く叩きながら、荻野先生と本棚の向こうへ歩いていく。見えた横顔は明るかったから、ひとまず心配は軽くなった。

「ふふ。あっきー、か。早速親しくしていただいて、嬉しい限りです」

 雪の姿を呑み込んだ本棚へ瞳を向けたまま微笑む。

 昨日、この少女が図書委員と仲良くしたいと話をしていたのを思い出した。雪も棘科に会うことを望んでいたし、こうして二人が仲良くなれたなら、棘科も人当たりのいい雪に懐いてくれることだろう。面倒ごとが遠ざかったと思って一安心。

 というわけにはいかなかった。

「先程は先輩の気持ちを理解せず、軽率な発言をして申し訳ありませんでした」

 静かに立ち上がり、隣に来て深々と頭を下げてきた。艶やかな黒髪が流れ、ライトスタンドの光に照らされて煌く。大富豪の妹ともあろう存在が、こんな嫌な女に頭を下げている。自分が間違いを犯したとでも思っているのか。

「な、何してんの、あんた」

 胸が内側から大きく叩かれ、指先が震えた。

 透き通る白い肌と、絹の光沢を見せる黒髪がすぐ目の前にある。フルーツでもない、花でもない、不思議な甘い匂いが私の鼻をかすめて、忘れかけていた切ない感覚が胸の中に広がっていった。

 私よりも背が低くて、細くて、壊れてしまいそうな後輩。

 その肌に、もし、触れられたら――。

「……うっ」

 一瞬、自分の中に浮かんだ思考にものすごい寒気を感じて、息を呑んだ。

 棘科を遠ざけたいはずなのに、触りたいと願った。何を、バカなことを。

 震える指先を思い切り握り締めて、冷たくて鋭い言葉を搾り出した。

「面倒だから、そういうのやめてくれる? 謝られるようなことじゃないでしょ」

 どうにか一つ、私らしい言葉を発することができた。震える手を見られたくなくて、腕組みをして棘科を見やる。椅子に座って腕組みする先輩と、頭を下げる後輩。棘科家のお嬢様が、こんなにも嫌味でひねくれた私に頭を下げている。

 ちょっとだけ、優越感を覚えた。

「で、では、許していただけますか?」

 棘科が折った腰を戻してこちらを見る。赤い瞳が潤んでいた。

「許す、許さない以前の問題。謝られるようなことじゃないって言ってんの」

 大富豪の妹とはいえ、ただの女の子。きつく言ってやれば大人しくなるだろう。彼女に感じた不思議な感覚や、妙な願望の正体は分からないままだけど、これからは私と距離を取ってくれるに違いない。これでもう一言言ってやれば棘科も離れて、あの感覚に苛まれずに済む。

「それに、図書委員と仲良くしたいなら雪に面倒見てもらえばいい。私のことは放っておいてよ」

 決まった。これ以上ないくらい嫌な先輩を演じることができた。

 そう思っていたら、棘科が潤んだ赤い瞳を鋭くした。

「嫌です」

 はっきり、面と向かってそう言ってきた。口答えという単語が浮かんで消える。苛立たせる返答を聞いて、私もこの胸糞悪さを他の人間に振りまいているのだろうと思った。知ったことじゃないけど。

「昨日、桜沢先輩は『勝手にしたら』とおっしゃいました。先輩と仲良くするために動くのは私の勝手で構わないはずです」

 確かに言った。

 しかしそれは、棘科輝羽を遠ざけるための言葉であって、私に近寄せるための言葉ではない。棘科め、私が突き放したいことを理解した上で言っているのか。一度舌打ちをして、私に立ち向かおうとする日本人形を睨んだ。

「私個人じゃなくて図書委員と仲良くしたいんでしょ」

「先輩だって図書委員です」

「図書委員なら私じゃなくてもいいじゃん」

「それは私の勝手でいいはずです!」

 妙に食い下がってくる。遠ざけたいから傷つけるようなことを言い続けていたのに、こいつときたら離れるどころか向かってくる。今までに経験したことのないタイプだ。大体のやつは私が無愛想にしていたら勝手に離れて行ってくれたから、ここまで言い争うのは初めてだった。

「仲良くしたい相手が先輩じゃだめだというのなら、その理由を答えてください! 今すぐにっ!」

 小さな両手を握り締め、肩を怒らせる。生きた日本人形が透き通った声で、ひねくれた先輩に向かってくるその姿。

 少し、可愛く見えた。

「……くだらない。バカじゃないの」

「むーっ!」

 棘科の白い肌が赤くなったのが分かった。彼女は自分の座っていた椅子を私の隣にぴったりとくっつけてきた。意地を張るようにその椅子に座って、黒革のスクールバッグからプリントや問題集を取り出し始める。

「ちょっと、私のことは放っておいてよ。迷惑だ」

「だったらもっと嫌がらせをして追い返してください。もっと突き放してみてください。全部受け止めますから」

 そんなことをしたら面倒なことになるだけだ。棘科は私が面倒ごとを嫌っているのを分かって言っている。嫌がらせなんかしても今の私には何のメリットもない。このまま言葉を並べても、棘科は私以上の理論を用いて反撃してくることだろう。

 口論なんて慣れていない。勝ち目は、ない。

「はあ……。もう勝手にしてよ」

「ふふ、やったぁ」

 深いため息をついてあきらめたら、棘科が心底嬉しそうに笑顔を浮かべた。


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