17
あやめからひざかけをもらって、暖炉の前でうたた寝をした。読書や予習で気を紛らわすよりも、暖炉の前で火に当たっていた方が効果的だった。それに、うたた寝というのはベッドで眠るときよりも妙に心地よかったりする。眠気に押されて情熱の炎は落ち着いたものの、ふみのことだけは頭から離れなかった。心地よいうたた寝の中で、愛しい恋人を想う。胸の中がじんわり温かくなって、優しさが広がっていくようだった。
「ん……?」
人の気配を近くに感じて瞼を開けると、いつからいたのか、しゃがんだ紅羽がソファーのひじかけに頬杖をついて私の顔を見つめていた。満面の笑みで、頬も目元もゆるゆるだ。
「……なぁに」
まだ少し眠たい。紅羽へ向けた言葉は寝言のようだった。
「可愛い妹の寝顔を見てたの。あと、あやめから調査結果を持ってきたり」
「調査結果……?」
「お姫様の受賞歴とその他諸々」
私の膝に軽い何かが置かれる。細目を開いて膝の上を見ると、左上をホチキスで留められた二、三枚程度の資料が目に入った。まどろんでいた意識が一気に覚醒する。目元をこすりながら資料を拾い上げたら、紅羽が隣で小さく笑った。
「目が覚めたかしら」
「おかげさまで」
ソファーに座り直して、上からしっかり資料に目を通した。
受賞歴の他に、小中学校での成績や所見も書かれていた。
小学校時代。所属していた合唱部で、合唱コンクールの地区予選を突破。全国大会までは届かなかったものの、合唱部内では圧倒的な実力を見せ、音楽の授業においても歌唱力について高い評価を受けていたという。
「歌を歌うときは人が変わったように真剣だったそうよ」
「ふむ……。合唱部についてはお姉さんの資料にも書いてあったね」
「ええ。結局、お姉さんがいじめたせいで合唱部も辞めてしまったわ」
小学校のときは歌の才能を潰され、高校になったら最終選考に残ったチャンスを潰されたというわけか。出る杭は打たれる、とは少し違うが、こうして未来への道が奪われ、断たれていくのは悲しいものだ。
他にも、授業で描いた絵が小学生の絵画コンクールで入選、入賞すること数回。この頃、学校だけでなく自宅でも絵を描き、趣味として楽しんでいたようだが、母親が「調子に乗るな」と叱りつけたせいで絵は描かなくなったとある。冷酷な言葉を幼い娘に投げる理由や背景は不明だ。
「どうして……」
歌を失った後に見つけた絵への情熱。入選や入賞を繰り返し、人々に認められる才能の欠片が芽吹き始めたというのに、彼女の親はそれを踏み潰してしまった。
「こればかりは、ふみさんのお母様に直接聞かないと分からないわね。この時期、彼女の成績に問題はない。絵に没頭して勉強をおろそかにしていた様子もないのだけれど……」
絵だけでなく、文章についても小学校時代は華々しいものだった。国語の教科書に掲載されている民話についての感想文が最優秀賞を受賞し、他の課題作文についても入賞、または受賞している。文章以外にも、小学校の卒業前に育てるという菊の花が、棘科グループ主催の温泉街イベントに出展されて小学生部門最優秀賞を受賞していた。
当時の通知表はほとんどが最高評価。しかし、姉から虐げられ、取り巻きにも笑われた彼女は決して他人を信用しなかった。クラスからは孤立し、先生にも距離を取られていたようだ。担任の先生は、ふみの力にはなってくれなかったらしい。
やることはやるが、人とは馴れ合わない。
私が初めて図書館で会ったときのふみは、幼い小学校から形作られていた。
「小学校での成績は立派なものだった。でも、中学校に入ってからは何も受賞していないのよ。全体的に見れば、授業態度も成績も小学校時代に比べれば悪くなっている。多感な時期だし、ご両親やお姉さんとの確執が一番つらかったのかもしれないわね」
隣から資料を覗き込む紅羽が中学校の項目を指差した。
華々しい小学校での実績が嘘のように、中学校に進学してからは受賞歴がぱったりと空白になっていた。資料に書かれた補足説明を読むと、この頃のふみは非常に無気力で、部活には所属せず、授業態度もあまりよくなかったそうだ。苦手な科目である数学の教師と揉めることもあったらしい。
「それでも、国語の成績は飛び抜けてるよ。音楽の評価もやっぱり高い」
全体的な評価は小学校時代から下がっていても、国語と音楽の成績は高水準を維持していた。音楽においては、やはり歌唱について高い評価がされている。音楽の教科担任からも信頼を得ていたそうで、中学二年生から卒業まで音楽係として授業進行の手伝いもしていた。
「……歌か」
資料を膝の上に戻して暖炉の炎に目をやった。炎は穏やかに揺れて、心地よい熱を私に運んでくれている。
「文音、とはよく言ったものよね。娘が名前通りの才能を秘めていたのに、ご両親は気づけなかったみたい。最初はつらく当たってしまったけれど、誠実に謝る姿を見れば棘科グループの人材候補に相応しいと思えるわ」
「本当?」
「ええ。名刺も渡したもの」
桜沢文音。当然、その名前はふみの両親が名づけたものだろう。彼女は自分の名前通り、文章についても才能を見せ、歌唱力で音楽の才能を表した。しかし、ふみがいくら才能の片鱗を見せても、両親は彼女の才能を成長させようとはしなかった。自分の子供は他の子よりちょっと成績がいい――その程度で済ましたのかもしれない。彼女と真剣に向き合えば、桜沢家に栄光や名誉をもたらす可能性もあったというのに。
残念だが、しょせん、たらればの話か。
「さて。受賞歴が分かったところで、棘の巫女が次に放つ一手は?」
立ち上がった紅羽が腕組みをする。彼女の眼差しは硬かった。
「ふみの『歌』がどこまで残っているか分からないし、本人の気持ちも聞いてないけど、考えは浮かんだよ」
「聞かせてちょうだい。お姉ちゃんも協力したいの」
「その思いやりがふみのお姉さんにもあればいいとつくづく思う」
言いながら、私もひざかけと調査結果を持ってソファーから立ち上がった。うたた寝をしたせいか、身体も軽く、頭もすっきりしていた。
「例大祭だ。棘科神社最大の行事をふみの晴れ舞台にする」
「温泉街のイベントね?」
うなずいた。
六月に行われる棘科神社の例大祭では、神社はもちろん、温泉街でもイベントが同時開催される。イベントでは様々な演奏やダンス、パフォーマンスなどが行われる予定だ。泉実先輩が率いる吹奏楽部もそこで演奏することになっている。そのイベントの中でふみが歌う機会を設け、地域の人々に彼女の歌声を聴かせてみたい。もしも彼女の歌が周囲から認められたら、ふみも自信を取り戻して、笑顔を取り戻せるかもしれない。
しかし、これには本人の意志が伴わなければならない。それに、私たちはまだふみの歌声を知らない。中途半端な状態でふみをステージに立たせて失敗してしまえば、ふみの心を更に傷つけてしまう。
まずはふみの歌を聴ける機会を作る。
そして、ふみに未来を切り拓く意志があるか、確かめよう。
「輝羽。お姉ちゃんの話も聞いてくれる?」
私の話を一通り聞き終えた後、紅羽が静かに口を開いた。トーンを下げた声を聴いたら、自然と姉の赤い瞳に視線が向いた。私の提案に不満があったのだろうか。
「私は次の一手として、ふみさんの保護を最優先に考えるわ。あなたがふみさんから聞き出した事情や、今までの調査結果を加味した上で、そう判断する」
「保護?」
「ええ。ふみさんとその才能を守るためにね」
紅羽は言う。
ふみが姉の結婚式に出席したくないと話したとき、両親はしっかり話し合う場を設けず、ふみの頬を叩き、夕食を食べさせないという罰を科した。ふみの話し方も辛辣で問題があったかもしれないが、姉に虐げられていた過去は両親だって承知のはずだ。自分の娘に刻まれた過去と向き合わず、根本的な解決もしない。その場限りの制裁で済ませているところを見れば、自分たちへの被害を最小限にして、煩わしいことはせずに事態を収拾したいのは明白である、と。
我が子と向き合わない両親に、ふみは任せておけない。
紅羽の言葉は厳しく、真剣だった。
「ふみも、両親は自分たちの体裁しか考えないと言っていた……」
「でしょう? ふみさんは自分の過ちや罪を理解して、きちんと謝って反省できる子よ。そんな子が頑なに両親を嫌い、姉を拒絶しているなら、問題の本質は両親と姉にあると考えるべきよ。あの家はふみさんにとって地獄でしかないわ」
指摘されて、嫌な焦燥感を覚えた。
ふみにとってあの家庭が地獄であることは明らかだったのに、私はふみを求めるばかりで、行動を起こすのが遅かった。棘科グループの専門機関には紅羽が根回しをしてくれていたし、保護だけであればすぐに対応できたはずだ。その上で両親と姉について詳細な調査を行い、解決に必要な材料を揃えれば、ふみの抱える不安も早めに取り除けたかもしれない。
「ふみさんに自信を持たせるため、晴れ舞台でシンデレラにする。とても素晴らしいと思うわ。でも、その晴れ舞台までふみさんが持つか、今このときが心配なの。輝羽、強引かもしれないけれど、先に私たちでふみさんを――」
紅羽が言いかけたそのとき。
ポケットにしまっていたスマートフォンがけたたましく鳴り響いた。目覚ましのアラームや通知ではなく、着信音だ。取り出して見てみると、ディスプレイには『神城先輩』と出ている。
「待って、紅羽。神城先輩から電話だ」
「ふみさんの親友さんよね? どうしたのかしら?」
「……嫌な予感がする」
紅羽の話を聞いて焦っているのか、妙に胸が痛む。
胸やけに似た不快感を抱えたまま着信に応じた。
「も、もしもし、棘科――」
『あっきー! ふーみんが大変なんだよ! 助けてぇっ!』
「――っ!」
私の言葉を遮って貫いていく、悲痛な涙声。
胸を抉られて、腹の底に嫌な重圧がのしかかった。
神城先輩の大声は隣に立つ紅羽にも届いたようだった。紅羽はロングスカートを翻してすぐに大広間を出て行った。今すぐ館を飛び出してふみのところに駆けつけたい。口が渇き、心臓が激痛と共に胸を叩く。スマートフォンを持つ手も震えて止まらない。
恋人に何があったのか、早く知りたくて、不安で、恐ろしくて、怯えた。
紅羽は正しかった。まずはふみを地獄とも言える環境から救い出して、その上でシンデレラへの階段を上ってもらうのが理想的だった。でも、私はふみと恋人同士になって舞い上がり、目がくらんで見えていなかった。あれだけふみの家は危険だと、散々調べて知っていたのに――!
焦りと自分の不甲斐なさに涙がにじんだ。
「何があったんですか!? すぐに行きますから、状況を教えてください!」
『ぐすっ。うう、うぐっ、うう』
「先輩、しっかりして。ふみの状況を知っているのは神城先輩だけです。お願いします、ふみを助けるために気をしっかり持ってください」
そう言っているのは口だけで、今の私は心底焦っていた。泣きじゃくる神城先輩を怒鳴りつけたいと思うほどに頭に血が上っている。しばらくしゃくり上げていた先輩だったが、私が何度か優しく声をかけ続けて、ようやく話をしてくれた。
『ご、ごめんなさい、あっきー。実は、ふーみんがさっきボクの家に来たんだ。髪の毛は切られて、靴も履いてなくて。事情を聞いたら、あっきーとのランチが終わって家に帰ったら、お姉さんに乱暴されたらしいんだ。スマホも壊されて、命からがら、どうにか逃げてきたって……!』
「なんだって!?」
桜沢安珠、まさか帰省していたのか!
帰宅してそのまま桜沢安珠につかまり、そこで何かトラブルになったようだ。ふみからメッセージの返信がなかったのはそれが原因だったのか。愛しい人は安らげるどころか、恐怖のどん底に落とされていた。
なんてことだ。私が不甲斐ないばかりに!
『しかもふーみん、ストレスのせいか、すごい熱出して倒れちゃったんだ……! ウチのお母さんがふーみんの家に電話しようとしたけど、ご両親も信じられないから止めたんだ。もうふーみんの家族は誰も信じられない、頼れるのはあっきーしかいないんだよ!』
ふみの家族へ連絡をしない判断は正解だ。家庭内の問題を外に漏らしたと知られれば、桜沢安珠も両親も、必ず制裁を加えるだろう。ふみは高熱を出して疲弊している。その上で制裁されたら、ふみは壊れてしまう!
「よく止めてくださいました。今から向かうので私たちが着くまで絶対にふみの家族には連絡しないでください。棘科家と棘科グループがふみを支援することを約束します」
『うああああん! ありがとう、あっきー!』
「さすが親友です。ふみは熱が出てつらいはずですから、私が行くまで看病を頼みます」
『分かった、分かったよ! ふーみん、あっきーが来てくれるから! ほら、電話!』
端末が手渡されているのか、ガサガサと音が聞こえて、愛しい人の弱々しい声が続いた。
『もしもし……。あきちゃん……』
ついさっきまで元気だった人の声が、たった数時間で枯れ果てる。声が聞こえた途端、ふみを救えなかった罪悪感と悔しさが胸を満たして涙があふれてきた。膝が折れて、絨毯の上で土下座をするようにうずくまった。彼女の身体を気遣う言葉は言えず、ただ名前を呼び、謝ることしかできなかった。
「ああ……。ふみ、ごめん、ごめんなさい。ふみ……!」
『……あきちゃんは、何も、悪くないです……』
「違う、私が悪いんだ……。ふみがつらい環境にいたのに、私は何もしなかった。君を恋人にすることばかり考えて、一人で舞い上がってた! 君を救うための行動を何も起こさなかったんだ!」
涙が止まらない。
スマートフォンを両手で握り、絨毯に額を押しつけて泣き続けた。
恋人が命の危険に晒されるという、初めて経験する重圧。突き刺されたわけではないのに、はっきりと胸の奥が鋭く、腹の奥が鈍く痛んだ。大広間が暗い色に沈み、私を鈍色の染みで蝕んでいく。
結婚式に参加したくない。そう聞いた桜沢安珠がどんな行動を起こすかなんて、今までの調査でいくらでも推測できただろうに。ふみを解き明かす、ふみの心に歩み寄る、言い方はそれらしいが、結局私は、ふみを恋人にするための方法ばかり考えていたんだ。
救いになんて、何一つ繋がっていないじゃないか!
『いいえ、あなたは私の心を確かに救ってくれました。こうして雪の家に逃れたのも、あなたが心の中で手を引いてくれたからなのです……』
「でも……」
『あきちゃん、あなたは間違っていません……。棘の巫女は私に勇気をくださいました。恐怖に抗え、生きろと、私の手を取ってくれた。だから、泣かないで、あきちゃん……』
自らが危険な目に遭って、高熱まで出して苦しいというのに、不甲斐ない私を気遣ってくれるのか。私は君を欲するばかりで、解決に向けて何ら行動を起こさなかったのに。
悔しくて涙を流し続ける私の前に、紅羽が着替えを手に戻ってきた。姉を見上げると、彼女は黙ってうなずいて着替えを差し出した。
詰襟で厚手の、ロングコートのような漆黒の一張羅。
私が、戦うときに着ると決めている服だった。
ハッとして涙が止まった。
「立ちなさい、輝羽。戦うときが来たわ」
戦うとき。今、まさに戦うときなんだ。
ふみは追い詰められていても、私との縁を信じて絶望と戦った。私の想いを信じて、自分にできることで桜沢安珠という恐怖と戦ったんだ。
ふみが戦ったのに、棘の巫女である私が嘆いてばかりでどうする。
戦う力を持つ私が泣いてばかりでどうするんだ!
私は、棘科輝羽。現代を生きる、棘の巫女なんだ――!
拳を握り締め、涙を拭って立ち上がる。大きく深呼吸をして、震える声を抑えた。大好きな人にこれ以上の失態を見せられるものか。これよりは、棘科一族の末裔として、どんな手を使ってでもふみを守り抜いてみせる!
「……桜沢文音。君を我が家に迎える。もう少しだけ、待っていて」
『はい。雪と、待っています……』
そっとスマートフォンを耳から離して通話を切る。
自分の失態を嘆くのは後だ。余計なことは考えず、大好きな人を守るためにすべての力を尽くそう。まずはふみを我が家で受け入れる準備をあやめに頼み、棘科グループの調査員をふみの家に派遣する。ふみを保護する旨を伝え、問題の解決に向けて状況の観察と援助を始めよう。家族ぐるみで隠される前に動かなくては。
頭の中でまとめて、姉の顔を見上げた。紅羽の顔も強張っていて、着替えを受け取ったらすぐに腕組みをして人差し指をトントンと動かしだした。
「ふみさんの受け入れ準備はあやめに頼んでおいたわ。私としても、妹の恋人は我が家に住まわせたいのよね」
「ありがとう。それから、家族の状況観察と援助、改善指導のためにグループからの調査員を派遣したいんだ。許可をお願い」
「手配済みよ。根回しした機関からも職員を送ったわ。考えることが同じで嬉しいわね」
私が考えついたことはすべて紅羽が対処してくれていたようだ。
「さすが紅羽。まずは神城先輩の家に行ってふみを保護。その後、桜沢家に行って調査員と合流。桜沢家の闇を糺す。――力を貸して、姉さん」
「喜んで。手加減しないわよ」
顔を見合わせて、うなずく。
大広間から出る私の足は力強く地を踏みしめていた。
桜沢安珠。貴様は妹に何を望む。なぜそこまでして妹の自由と意志を侵し、支配しようとするのか。そして、血の繋がった娘を救おうとしない無責任な親たちよ。貴様たちは娘を何だと思っているのか。結婚して子を為せばそれで終わりか。子供を産めば人としての役割を果たしたとでもいうのか。未来に遺される子供たちをなぜ導こうとしない。なぜ未来に向かって歩けるように支えないのか。
棘科家にゴマをすっている?
いやしい?
娘を信用できないのは親自身が信頼に足る行いをしていないがゆえ。親が学ぶべきものを学ばずに生きてきたのなら、面倒を避けて生きてきたのなら、その子供に正しい人生を示せるはずもない。安珠は他人を虐げ、陥れることを当然に、平然と行うようになり、ふみはそんな姉に虐げられて他人を信じられなくなった。痛みを知っているのに、周囲を突き放す愚かさや間違いを理解しているのに、それでもなお、他人を信じられない。
私はふみをこんなにした桜沢家を許さない。
ふみだけは、必ず私が守り、未来へ導いてみせる。
怒りたぎる胸の奥。
私に流れる英雄の血が吹き上がり、愛する人を救えと咆哮した。




