15
あやめさんの運転する送迎車は棘科邸から更に山側へと向かった。上り坂を走り、森の奥へと私を連れて行く。私がかつてまどろんでいた瘴気の森とは違い、現実世界に広がる森は、明るくて緑に輝く聖なる森だった。私の知る日常から遠ざかれば遠ざかるほどに森の緑が深まり、車窓の景色を見るだけで心が洗われていく。
しばらく森の中を走り続けた送迎車が橋を渡った。色褪せた青い手すりが続く、森の渓谷に架けられたコンクリートの橋。棘の館で見た景色よりももっと遠くの町並みまで見えている。ずいぶん高いところに来ているらしい。車は徐々に速度を落として、橋を渡り終えたところで路肩に停まった。道路の左側には白いガードレール、右側には木々が生い茂る緩やかな斜面がある。例のごとくあやめさんが素早く運転席から出て、ドアを開けてくれた。
「到着だ」
車から下りたら、さざ波のような音と共に森の匂いが舞い上がった。渓谷に流れる川の音と、木々の揺れる音が、森の中で海辺の音色を作っていた。
「帰るときに連絡してくれ。輝羽、しっかりエスコートしろよ」
「はぁい。また連絡するね」
「ああ。んじゃ、ふみちゃん。ゆっくりしていってくれ」
「えっ? あの……」
呆ける私を笑いながら、あやめさんは車に乗り込んで走り去ってしまった。
森の匂いと、波を奏でる葉擦れ。まぶしく広がる緑色の自然。
確かに、すがすがしい場所ではあるけど。
「じゃ、エスコートするね。あっちだよ」
あきちゃんが斜面を指差した。斜面の手前には『この先私有地につき立入禁止』の看板がかけられた扉つきの金網フェンスがあった。フェンスの背は高く、目測で二メートル以上。更にフェンスの上には有刺鉄線が張られている。金網の向こうには、斜面に古い木材で組まれた階段があり、斜面の上へと続いているのが見えた。
「立入禁止とありますが……」
「我が家の私有地だからいいの」
それもそうだった。余計な心配だった。
あきちゃんがフェンスに近づき、カーディガンのポケットから鍵を取り出して扉の鍵を開けた。立入禁止と書かれた扉を開けるのは何だか落ち着かない。
「さあどうぞ。他の人が入らないように閉めちゃうよ」
二人でフェンスの向こうに入って、扉に鍵をかける。
あきちゃんは私の手を取ると、先導して古い階段を上がっていった。
生い茂る木々の間を縫うように組まれた古木の階段を、運動音痴の私に合わせてゆっくりと上がっていく。棘の森伝説を読んだときに棘の森にある名所も知ったけど、森の奥にある観光名所といえば森林公園しかないはず。その森林公園もこんな斜面を上がった場所にはない。あきちゃんは沈黙したまま、私の手をしっかりと握って進む。斜面に沿ってうねる階段を、ただひたすら上がっていく。
あきちゃんは一体、私をどこへ連れて行こうというのだろう。
階段を一段上がるたびに、私の知る世界から一歩、また一歩離れていく気がした。私を苛んでいた過去の痛みを誰かが代わりに持ってくれたような。私が過ごしていた小さな世界が遠い場所になっていく。目の前をちらつき、かすめていた虫はいつの間にかいなくなり、鳥たちのさえずりもぱったり止んでしまっている。聞こえるのはただ、木々が奏でる葉擦れの音と、私たちの足音。記憶に刻まれた両親や姉の顔でさえ、ぼやけていく。
違う場所に連れて行かれる。
そんな感覚がした。
「あっ」
階段を進み続けて数分。ようやく、斜面の階段が終わった。
錆びた扉がついた、城壁のようなコンクリートの塀がある。下にあったフェンスとは比べ物にならないほど大きく、堅固な作りだ。更に、塀の表面には一定間隔で白い護符かお札のようなものが貼られていた。
「こ、ここは……?」
「大切な場所なの。この場所を知るのは私たち棘科一族と、一族に縁があるほんの一部だけ。棘の森伝説にも書かれていない場所。一般には公表されていない場所」
錆びついた無骨な扉の前に立つ。一昔前の分厚い鉄で作られたような、重々しい扉。あきちゃんが再びポケットから鍵を取り出した。今度取り出した鍵は、細長い、シンプルな作りの鍵だった。
がちゃん、と重たい音がして鍵が開く。
ドアノブに手をかけて、あきちゃんが私を見つめた。
「この場所のことは、秘密だよ」
棘の森伝説にも書かれず、一般にも公表されていない場所。
棘科一族と、一族に縁のある一部の人しか知らない場所。
私を見つめる赤い瞳は痛いほどに真剣だった。
「は、はい。分かりました……」
気圧された返答を聞き、あきちゃんが深くうなずく。
ドアノブを回し、重たい扉が悲鳴を上げながら開いた。
「入って」
錆びた扉をくぐったその瞬間、踏み入った空間に目を疑った。
「わ……!」
胸の中心が強く鼓動して、締めつけられる。
一面に広がる、真っ赤な花の海。
背の高い緑の木々に囲まれた薄暗い空間に、血の色に染まった無数の薔薇が鮮やかに咲き誇っていた。鳥の声も川の音もなく、虫の姿もなく、ただ鮮やかな赤と緑に満ちた空間だった。花畑の中心には表面が平らになった楕円形の巨岩が鎮座している。童話の眠り姫が横たわっていそうな岩石の臥床だった。岩石へは細い道が続いていて、そこに薔薇はなく、薔薇が散らせた赤い花びらが絨毯のように道を赤く染めていた。
風が通り抜けた。木々が揺れ、真っ赤な花の海も揺らしていく。赤い花びらを風がさらって、木々の向こうに運んでいった。
「……巫女の石座。初代棘の巫女が、天の雨と森の力を授かった場所」
背後であきちゃんが鉄の扉を閉めて、鍵をかけた。
初代棘の巫女。家族や友、住む家を土蜘蛛に奪われた若い娘。
彼女は土蜘蛛の襲撃を命からがら逃げのび、棘の森にたどりついた。そして、棘の森に温かい雨が降り注ぎ、雨は若い娘の身体を別人へと作り変え、神聖な森は娘に土蜘蛛に対抗する大いなる力を授けた。
そうだ。伝説ではあくまでも森の中で力を得たとだけ書かれていて、森のどこで生まれ変わったのか書かれていなかった。
その場所が、ここだった。
薔薇に囲まれた、この場所なのだ。
「とげのもり……。とげ、いばら……!」
寒気が背筋を走り抜けた。
棘の森。伝説の中で神聖な場所とされる棘の森はこの『棘の森』だ。清らかな力と聖なる薔薇に満たされたこの場所こそが、本来の『棘の森』なのだ。森の中なのに、鳥や虫が一切見当たらない理由。私が感じた『違う場所に連れて行かれる』という不可思議な感覚。
ここは伝説に書かれている通り、立ち入ってはいけない場所なのだ。決して侵すことの許されない、神聖な場所。鳥や虫、他の生き物は本能でそれを感じ、自らの生命を守るためにここを避ける。だから、生き物が姿を見せないのだ。
「ここにある薔薇は本来、白い花だったの。棘の巫女が生まれ変わるとき、彼女の身体は激痛と共に作り変えられて、身体からたくさんの血が流れ出たそうだよ。白い薔薇は流れた彼女の血を吸って、こうして赤い花になった。……奇妙なことに、ここの薔薇は決して枯れない。四季を通してずっと、このまま」
「そ、そんな……」
神聖で、侵してはいけない場所に立ち入っただけでなく、棘の巫女の誕生に関する真実を聞いて恐ろしくなった。姉を前にしたときとは違う形の恐怖。超自然的で漠然とした気配に、心の底から怯えた。たとえるなら、幽霊や怪奇現象を目の当たりにした、そんな気分だった。
幻想だと思っていた伝説が、現実にある。
私は今まで、あきちゃんを突き放し、棘の森伝説をよくある民話だと笑った。棘科一族の興りに神秘性を持たせた作り話だと否定した。しかし、現実はどうだろう。ここには鳥も虫も一切姿を見せず、渓谷の川音も、鳥のさえずりも聞こえない。そして、愚鈍な私に備わっている微かな本能が、ここを違う場所だと認識している。
聞かなくては。
私のような屑が、聖地に連れて来られた理由を。
「ど、どうして私をここに連れてきたのですか? 私のような罪深い人間が、立ち入ってはいけないのに……」
私は、今まで犯した罪を償うために罰を受けなくてはいけないのだろうか。
神聖な棘の森から、裁きを受けなくてはいけないのだろうか。
「はっきりさせるためだよ」
あきちゃんが花畑に足を踏み入れて石座に歩を進めた。
「私を引き留めたあの日、ふみが何に悩み、苦しんでいたのか」
赤い道を歩き、あきちゃんが石座に近づいていく。
ゆっくり、ゆっくり、私から離れていく。
「あの日、私がふみに感じた好意が真実なのか、間違いなのか。すべてをはっきりさせるために、ここに連れてきた。誰も知らない、邪魔されない場所で」
小さな背中が石座にたどりついた。石座の前に立って、私へ向き直る。嘘偽りのない思い、淀みない意志が赤い瞳に宿り、私を縫いとめた。
また、風が私たちの間を通り抜けていく。
鮮やかな血の花びらが私たちを包み込んだ。
薔薇の花びらに彩られる青白い肌と長い黒髪は、これまでに見たどんな瞬間よりも、あきちゃんを艶美に映した。
「……今までたくさん我慢してきた。でも、限界なの。ゆっくり歩み寄れないよ」
低い声で言うと、うつむいて可愛い顔を黒髪に隠してしまった。
「どういう……。それは、どういう意味ですか」
「もう限界なんだってば!」
彼女の吐き出した言葉に、最悪の予感を覚えた。
突き放す私にしつこく迫り続けた生意気な後輩。棘科一族として内面に持ち続けた強い意志を教えてくれた英雄。私に膝枕を求める愛しい想い人。色鮮やかだった一か月の思い出が瞬く間に色褪せてひび割れていく。
決別の、気配がした。
愛しい人は私を見ない。ただ静かに聖域の風を受けるだけだった。
吹き抜ける風が途端に冷たく、痛く感じられた。
私は今まで大勢の人を傷つけた。差し伸べられた手を払いのけ、誰一人として信じなかった。そうさせた原因が別にあるとしても、傷つけるという選択をしたのは私だ。
英雄の一族である棘科輝羽ですら、私は信用しなかった。
どうにか距離が縮まっても私の変化は乏しく、鈍くて、あきちゃんに悩みを打ち明けることも、秘める想いを伝えることもしなかった。
愛しいあなたと過ごせる日々が、今までのどんな日常よりも輝かしくて、幸福だったから、その日々に甘えてしまった。やっと縮められた距離なのに、あれから私は何も変わろうとしなかった。行動せず、言葉にせず、誰かが私を変えてくれると、甘えていただけだった。
「…………」
甘えていたと分かっても。あきちゃんが吐き出した言葉を聞いても。私は何一つ動けなかった。口は凍りついたように固く、両腕も両足もずっしりと重いまま。
――突き放されるって、こういうことなんだ。
愛する人から自分の犯した罪と同じ罰を受け、その痛みを知った。
立っていられない。
崩れ落ちてしまいそうになったそのとき、正面に立つ白い顔が持ち上がった。
「限界。限界なんだよ、ふみ。私から先に、はっきりさせるからね」
大きく息を吸って、あきちゃんが白い顔を赤く染めた。
「――大好き! 世界で一番、ふみが好き!」
可憐な音と表情に乗せられた言葉が聖域にこだました。
心地よい寒気と震えが私の表面を走る。
指から通学鞄が滑り落ちて、鮮血の花びらに沈んだ。
真っ赤な花畑で、真っ白になった。
「う、そ……」
決別の言葉を言われると思った。
かつて私が投げつけた以上の言葉を突き立てられると思った。
棘の館で過ごした時間も、当主様に謝った勇気も、図書館で睦み合った日々も、すべてが今日で消え去ると思っていた。
私に対する怒りと不満が、あきちゃんを我慢の限界に追い込んだのだと思っていたのに、それは思い違いだった。
可憐で小さな後輩が我慢していたのは。
私への、恋心――。
「図書館でふみと出会ったとき、すぐに何かを抱えているのが分かった。『棘』の刺さった人を見つけた。だから、助けなくちゃって、棘科の血が騒いだんだ」
小さな手のひらを開いて見つめる。
その小さな手は、震えていた。
「苦しむ人を助けたい。最初はしっかり意志を持っていたはずなのに、おかしいの。気がついたら、誰にも渡したくない、私だけを見ていて欲しいって、思うようになって。ふみに抱きしめられた日は、その気持ちがもっと強くなって、おかしくなりそうだった」
愛する人が紡ぐ一言一言を逃さぬよう黙って受け止めた。
あの狂いそうになる熱い感情を、愛する人も感じていた。彼女はそれを抑え込み、堪えながらずっと、私のそばにいてくれたのだ。あの熱い感情の切なさやつらさは私自身もよく知っているのに、一緒にいられるわずかな時間に何もしてあげられなかった。私がしたことといえば膝枕程度。満たされるはずがない。
「あきちゃんを、苦しめていたのですね……。ごめんなさい……」
胸のリボンを握りしめて謝った。
あきちゃんへ抱く恋心が理解されるはずがないものと決めつけ、叶わない想いだとあきらめていた。しかし、あきちゃんはあきらめなかった。私の心に触れて、想いを読んでくれた。そして、消極的な私に代わって彼女が先に想いを打ち明けてくれたのだ。
私があきちゃんを抱きしめた日に見せた、ほんの少しの好意を信じて。
もう、お互いに我慢する必要はない。秘める必要はない。
あきちゃんが私に何かを望むのなら、私はそのすべてに応えるだけだ。
身体も心も、命だって差し出せる。
それが、今まであきちゃんにしてきたことに対する償いだ。
「欲しいのは謝罪じゃない」
見つめていた手を静かに下げて、あきちゃんがもう一度私を見た。
釣り目がちな赤い瞳が、怖じることなく私を捉えていた。
「私が欲しいのは、君だよ」
心臓が跳ねて、切なくて愛しい寒気が全身を駆け抜け、粟立たせた。
大声で告白したときよりも表情は落ち着いていた。白い顔に添えられていた紅は消えて、堂々とした、あきちゃんが身にまとう気高い雰囲気がそこにあった。揺れる黒髪と、彼女を彩る赤い花びらたち。
熱い吐息が口から漏れた。
胸の中がきらきらと優しい光に満たされるようだった。それは夜空に広がる星々の瞬きのようでもあり、夜空の下に広がる夜景の瞬きでもあった。
優しい光の温かさを感じたとき、あきちゃんを見つめたまま、私の瞼から何かが零れたのが分かった。心がざわめく。胸が苦しくて、喉の奥が詰まるようだった。あきちゃんの顔を見ていると涙が溢れて、止まらなかった。
「あ、あれ……。どう、して……」
涙を我慢することくらい慣れていた。当主様と向き合ったときだって簡単に我慢できた。
でも、どういうわけか止まらなかった。
肩が震えて声がしゃくり、瞬きをする度に涙が溢れてくる。流れて、私の頬を濡らしていく。拭っても拭っても、涙が消えることは無かった。拭った手も、顔も、どんどん涙で濡れていく。どうしてこんなにも涙が出るのか不思議だった。学校でも家でも、嫌なことや悲しいことはたくさんあったのに、涙は出なかった。両親に頬を叩かれたときも、部長に絡まれたときも、最終選考に残った作品を取り下げたときも、こんなに胸が詰まることは無かったのに。
あきちゃんからの告白。愛しい人からの告白。
そうだ、これは悲しいことじゃない。嬉しいことなんだ。
愛する人から必要とされたことが、嬉しくて、涙が止まらないんだ。
悲しい涙は我慢ができても、嬉しい涙を我慢する方法は、まだ知らなかった。
「あき、ちゃん……。わた、私っ……」
震える唇からしゃくりあげた言葉が漏れた。
あきちゃんは赤い瞳を向けたまま、私の言葉を待っている。
伝えなくては。
私の胸に詰まるこの想いを、言葉にしなくては。
「わ、私、私も」
「うんっ」
「あきちゃんの、ことがっ」
「うんっ!」
流れる涙をもう一度拭って。大きく息を吸って。
あきちゃん、私も――。
「私もっ、あきちゃんが好き!」
赤い花びらと一緒に、私の声が森に響いて、飛んだ。
目の前が、明るく開けたように思えた。私を曇らせていた靄が消えて、正面に立つ愛しい人も、聖地の色鮮やかさも、すべてがはっきりとした輪郭で私の目に映っていた。
あなたが教えてくれた愛を口にしたその瞬間、私の想いをせき止めていたものが崩れて消え去った。
「おいで、ふみ!」
あきちゃんが笑顔で両腕を広げたのを見て、迷わず駆け出した。
赤い花びらの海を走って、あきちゃんの小さな身体を思い切り抱きしめた。あきちゃんも私の首に両腕を回して、ぴったりと身体をくっつけてくれた。全身で感じる彼女の身体は柔らかくて、あの、甘い匂いに満ちていた。脚が、胸が、頬が触れるたび、切なくて愛しい、あの感覚が走り抜けていく。
あきちゃんの身体が、気持ちいい。
引き留めたあの日よりももっと、気持ちいい。
「あきちゃん……。あきちゃん、大好き、大好きです、あきちゃん……」
「私も。ずっと、こうしたかった……」
――互いの想いを打ち明けた後、石座の上で横になって抱きしめあった。
私はあきちゃんの胸に顔を埋めて、すべてを打ち明けた。
姉が力を示すために私を虐げ続けた過去。
それを助けてくれなかった姉の取り巻きと、両親。
唯一、泥にまみれた私の手を取ってくれた雪の存在。
雪以外、誰も信じないと心に決めた幼いあの日。
それらの過去を元に物語を書き、最終選考まで残った栄光。
部長がその物語を姉に見せて、姉に罵倒され、ぶつけられた言葉の数々。
両親に応募を取り下げろと迫られた無念。
部長の仕打ちと過激な活動に耐え切れず、部活を辞めた放課後。
そして、私を苦しめ続けた姉の結婚式に参加しろと言われた日。
式への参加を拒絶して、母親と口論になり、結局父親にも叩かれた夜――。
愛する人の鼓動を聞き、柔らかい身体の感触で自分を慰めながら、すべてを打ち明けた。誰かを突き放し続けた冷酷で嫌味な先輩は、とても脆弱な割れ物なのだと、すべてを晒した。私を形作った過去と、至った現在まで。
どうして私が周囲を遠ざけるのか。
どうして私が文芸部を辞めたのか。
どうして私が図書館で過ごすのか。
「ありがとう。思い出すのもつらいはずなのに、全部話してくれたんだね」
私を胸に抱いたまま、頭を撫でてくれた。小さな手のひらが頭の上を動くたびに、私の身体が喜んで、あの切なくて愛しい寒気を肌に走らせた。
「私を引き留めた日のことも、よく分かった。ご両親に責められて、寂しかったんだね」
「はい……。寂しくて、頭に浮かぶのはあきちゃんのことばかりでした。あきちゃんに殺されたい、食べられてしまいたいと、自分でも理解できないくらいに、いっぱいいっぱいになってしまって……」
「いくらふみからの頼みでも、殺すなんてできないよ。こうやってぎゅってできなくなっちゃう」
「では、食べてはくださいますか?」
「そのうちいただこうとは思ってるよ。違う意味でね」
「違う意味? ……あっ」
理解して顔が熱くなる。
ついさっき想いを伝えたばかりなのに、もうそこまで考えているとは思わなかった。ましてや、後輩の彼女がそれを口にするなんて、先輩としての立場がない。かなり前からなかっただろうけど、とにかく、このままでは先輩としてだめだめになってしまう。
あきちゃんの胸に抱かれたまま、精一杯の抵抗を言葉にしておいた。
「……バカ」
「あ、それいい。すっごい可愛い。もう一回言って?」
「嫌です。私、これでも先輩ですよ」
「だから可愛いのに」
仲良くなる前も、なった後も、あきちゃんとの口論には勝てないのか。
「でも、これでふみのことを解き明かせた。ふみが私といるとおかしくなる理由。周りを突き放す理由。文芸部を辞めた理由。たくさん、ふみのことを聞かせてもらった」
急に真面目な口調になって私の頭を抱く力を強めた。
大好きな人に守られている。大切にされている。
幸せだった。
すべて、何もかもから解放されて、ただあきちゃんに愛され続けたい。あきちゃんの優しさと温もりに甘え続けて、どろどろに溶けてしまいたいくらいだった。
「残るは笑顔だ。ふみの笑顔を、まだ見てない」
愛しい人は私のように目の前にある一時の幸せだけには惑わされない。私が地に足をつけて、未来へ向かって歩いて行けるように導こうとしている。一時の幸せではなく、ずっと続く幸せのために、私の手を取り続けてくれていた。
「私が願うのは心からの笑顔。恐ろしい過去と向き合うために、これからの未来を切り拓くために、ふみが持つ可能性を見つけなくちゃ」
私が気づいていない、取り柄のようなものだろうか。
私にできることなんて、もう何も残っていない気がする。雪も褒めてくれた歌への情熱は遠い昔に消えて、本を読む力も、創作する力も失っていた。特に創作は、最終選考まで残った物語を取り下げて以来意欲が完全に消失している。歌を歌ったとしても、物語を書けたとしても、今の私と同様に中途半端なできそこないになるだろう。
私には、胸を張って誇れることがなかった。
あきちゃんに見初められたこと、以外は。
「私には何も残っていません。行動を起こす勇気も、痛みを受け止めて自分を変えることも、恐ろしくてできません……」
「それは今までのことでしょ? これからは違う」
愛しい人が私を胸から解放して、覆いかぶさってきた。長い黒髪を横に流して、細めた赤い瞳が見下ろす。
不思議だった。
あきちゃんは違う話をしていて『それ』を口にしていないのに、私に対して何を望むのか伝わってくる。見下ろされているだけで、私の身体が次にされることを理解して、身構えていた。
「私、ふみの恋人になる。それでも、怖い?」
囁かれる。夢のような言葉を、囁かれる。
赤い瞳は私の目と、その下を交互に動いていた。
「いいえ。あきちゃんが恋人なら怖くないです」
答えたら、あきちゃんが眉を下げて微笑んだ。石座の上に力なく伸びていた手を握られる。握り返す私の力よりも、あきちゃんの小さな手の方がずっと強かった。
「ずっと支えるよ。誰にも、渡さない」
ゆっくり、あきちゃんの顔が下りてくる。
目を、そっと閉じた。
唇に柔らかい温もりが触れたら、唇からちりちりと、小さな火花を散らして首筋から肩を通って背中に抜けていった。愛する人の感触に、身体が震えて、喜んだ。私たちを繋ぐ皮一枚の温もりがただ、気持ちいい。
初めての感触は嬉しくて、ほんの少し、いけないことをしているよう。
でも、背徳感の中に、光り輝く希望があった。
英雄の末裔が、私の恋人であること。みじめな私が誇れる、たった一つの宝物。
過去は覆せない。起きてしまったことを変えることはできない。過去に遡って出来事を変えるなんて、それこそ、幻想の世界に生きる英雄たちでなければなしえないことだ。では、現実を生きる人々は苦しい過去をいかにして乗り越え、未来に進んでいくのか。
そこには支える何者かの存在があった。
友人、恋人、家族、仲間。
歴史に名を刻んだ多くの偉人、本の中に生きる幻想の英雄も何者かの支えが必ずあった。彼らは誰かに支えられ、時には支え、共に歩み、その時代を生き抜いた。
誰かを信じ、共に歩むことは決して恥ではないのだ。
だから。
だから私も、私に愛を注いでくれる温もりを信じようと思う。
私は変わりたい。私に痛みを刻んだ過去と戦うために。
恋人と生きる未来をつかみ取るために。
英雄である恋人に恥じない人間になるために。
私は、強くなりたい――。
幸福な時間はあっという間に過ぎ去り、いつもの学校よりも早い時間に、帰る場所である棘丘の駅へと降り立っていた。陽は西へ向かいつつもまだ高く、注ぐ陽光の色も明るい。日常との違いを見せる景色は、私の変化を描き出しているようだった。想い人と想いを交わした時間を経て、あの人は私の心で手を握ってくれている。離れていても、優しい温もりが胸の中心に宿り続けて、私に『生きて』と言ってくれる。血の繋がった家族よりも力強くて、希望に満たされた幸福だった。
『すごいじゃん! あっきーとランチしたなんて、大進歩だよ!』
自宅への道をゆっくり歩きながら、想い人と心を結ぶために後押しをしてくれた親友とスマートフォン越しに話していた。あきちゃんと恋人同士になったことはまだ言えなくとも、彼女との距離を縮め、悩み続けた過去を打ち明けることができたお礼をどうしても言っておきたかった。親友が信じる英雄を信じてほしい――そう言って背中を押してくれた雪のおかげで、私は奇跡を授かったのだから。
「雪のおかげです。明日、ゴールデンウィークの最終日ですが、よかったら会って話しませんか? 雪には今日がどんな一日だったのか話しておきたくて」
『おお、もちろんオッケーだよ! ボクのこと、そんなに大切に想ってくれてるんだね! 結婚しよう、ふーみん! 新婚旅行はグアムね!』
「ヨーロッパがいいです。雪との縁談は破談ですね」
『あぁん、いけずぅ』
口を尖らせる姿が頭に浮かんで消えた。
『でも、嬉しいな。歌が大好きなあの頃と同じ声じゃん。すごく嬉しいよ、ボク』
電話の向こうで、雪が穏やかに笑っていた。
幼い頃、私が周囲を突き放して笑顔を失うまで、少しだけ猶予があった。その短い猶予で、私は雪と出会い、共に泣き、笑い、歌い、遊び、親友になるための時間を重ねていった。今はまだ笑顔を浮かべることはできないけど、嬉しい涙を流すこと、そして、かつて親友に向けていた『声』を取り戻すことができた。
『明日はボクの家においで。ご両親に疑われないように迎えに行くからさ。朝十時で!』
「はい、分かりました」
『んふふ。ホント、昔に戻ったみたいで嬉しいなぁ。明日が楽しみだぁ』
幸せなこと、楽しいことを話していたせいか、足取りも普段より軽く、気がつけばもう、すぐ目の前に私の家が見えてきた。くすんだ灰色の、私が憎む帰る家。家の姿を目にしたら落胆したけど、胸の中に残り続ける温もりが倒れそうになる私を支えてくれた。
「ちゃんとお話できるよう、明日まで頭の中でまとめておきます」
『うんうん。あっきーとランチして緊張しただろうし、今日はゆっくり休もうよ。明日、ばっちり聞かせて』
「そうします。寝坊しないで、ちゃんと迎えに来てくださいね」
『分かってるって! それじゃ、また明日ね!』
「ええ。また明日」
スマートフォンを切って、ブレザーのポケットにしまう。大嫌いな生家を見上げながら、その玄関へ向かう。明るい話題を終えた後も、嫌いなものは嫌いなまま、憎いものは憎いままだった。しかし、抱く憎悪は形を変え、両親や姉に頼らず、自分の力で何かを築き上げて見返してやるという意志へ変わりつつあった。それは明るい意志に近く、復讐に似ているようで少し違った。
あきちゃんの話していた、私が持つ可能性。
恋人と一緒に可能性を見つけて、家族を見返してやりたい。
屑みたいな私にも、何かできることがあるはずだから――。
幸せな出来事と、それを素直に報告できた喜びが沈んでいた私を軽くして、押し上げてくれている。この高揚感は両親には見抜かれないよう、心に潜めよう。
合鍵を使って玄関扉を開けた。
ラベンダーの芳香剤がいつも通り鼻につく。
「あれ?」
そこで異変に気づいた。
玄関に、見慣れない女物の赤いブーツが置かれている。
誰のブーツだろうと見下ろしていたら、視界に陰が差した。
「おかえり。待ってたよ」
わざとらしい、悪意を含んだ優しい口調と声に肌の上が冷たくなる。
まさかと思って顔を上げた。
柔和な笑顔を貼りつける、背の高い女。ショートの茶髪に緩いパーマをかけた、今どきの若い女が立っていた。白いシャツにタイトなジーンズ、グレーのロングカーディガンを羽織った姿は、その女の輪郭を憎いほど縁取って美しく描き出していた。学生の私より、ずっと魅力的な女。
でも、その女は私が世界で一番嫌悪し、一番恐怖する存在だった。
「まずはただいま、でしょ。何だよその顔。青くなっちゃって。久しぶりにお姉ちゃんが帰ってきたのにひどいなぁ。ひどいよね? でも、その様子だと――」
糸が切れたように貼りついた笑顔が消えた。
「――帰省した意味、分かってるみたいだね」
低い声で空気を震わせ、新緑の午後に満ちる温度を奪っていく。
桜沢安珠。
私の恐怖が、そこにいた。




