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桜沢さんのお嬢さま  作者: 松山みきら
第5章 幸と不幸 -桜沢文音-
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 赤絨毯の敷かれた階段を上がって、二階にあるあきちゃんの部屋に通された。

 あきちゃんが木目の重たい扉を開けると、私のよく知る甘い匂いが私を包み込んだ。目に入ったのは陽光を広い部屋へ注いでいる正面の大きな窓と、部屋の左側にある天蓋つきの巨大ベッドだった。

「天蓋つきの、ベッド……」

「紅羽が買ってくれたの。そこのテーブルとソファーもそう」

 あきちゃんが指差した先、窓の手前には桜色のテーブルと同じ色のソファーが置かれていた。ソファーの大きさもなかなかで、ベッド代わりとして横になってもゆったりできそうだった。

「あきちゃんの選んだものはありますか?」

「そっちのデスクと革椅子かな」

 部屋の右側に、パソコンが乗っている重厚な黒塗りのアンティークデスクがあった。あきちゃんが家で勉強をするときはこの机でするそうだ。机に合わせた黒い皮椅子と、書物が並べられた黒のカラーボックスも置かれている。

「あの時計は?」

 黒い机の後ろに私と同じくらいの背丈をしたホールクロックが時を刻んでいた。文字盤や針に金銀の調度が成された豪奢な一品。赤茶色の四角い箱の中で、こちこち、と金色の振り子が規則的に揺れている。よく手入れはされているけど、文字盤がきつね色に焼けていて、年代物であることが分かった。

 質問の連続に、あきちゃんがまた口元を押さえて笑った。

「ふみ、本当に変わったね。私のこと、たくさん聞いてくれるようになった」

「……ごめんなさい、質問ばかりでしたね」

 愛しい人の部屋に招かれたことが嬉しくて舞い上がっているのか。部屋中の様々なものがどんな経緯でここに来たのか知りたかった。

 誰かのことを知りたいと願うこの感覚、ひょっとしたら、初めてかもしれない。

「とんでもない、嬉しいくらいだよ。どうぞ、座って」

「はい」

 鞄をテーブルの足元に置いてゆっくり腰を下ろした。また、甘い匂いが舞い上がる。あきちゃんは着ていたカーディガンを脱いでベッドの上に放るとすぐにソファーへ来て、私の隣に座った。カーディガンの下に着ているのはノースリーブのワンピース。白い素肌が見えて、胸がきゅうっと鳴った。

「あ、そうだ。何か食べられないものある? 苦手なものとか」

 座ったと思ったらすぐに立ち上がって、あきちゃんが首を傾げた。

 苦手なものを意地張って食べたところで楽しくないし、素直に答えた。

「焼き魚とレーズンです」

「レーズン? あ、先に伝えてくるよ」

 黒い机へ向かい、内線電話で短い会話を交わす。

 あきちゃんがあやめさんと話している間、部屋の中を見回していた。さっき聞いた印象だと、あきちゃんの選ぶものには黒が多い。机に椅子、本が入ったカラーボックス。彼女のスマートフォンケースも黒だった。あきちゃんは黒が好きなのだろうか。

「伝えたよ。そっか、焼き魚とレーズンかぁ」

 電話を終え、ソファーに座って背中を預ける。大きなソファーに身体を沈めるあきちゃんの顔は、学校と違ってとてもほころんでいた。かく言う私も、心がずいぶんと軽くなっていた。今日は図書館ではなく、愛しい人の部屋にいる。学校の誰かに気を遣う必要もなく、膝枕だって気兼ねなくできてしまう。館を訪れたときに感じていた緊張は消えて、大好きな後輩と過ごせる密室に安心していた。

「両方とも、小さい頃からずっとだめです」

「じゃあ、好きなものは?」

「牛乳です」

「牛乳! 牛乳か、なるほど。……なるほど」

 あきちゃんが心底納得したようにうなずいていた。

 彼女の視線は私の顔よりも少々下へ向けられている気がする。

「あの、えっと。あきちゃんの好きなものと苦手なものは何ですか?」

「あ、私? 好きなものはお蕎麦かな。苦手なものはドライフルーツ全般」

 ドライフルーツ。ということは、私と同じでレーズンも苦手なのだろうか。

 苦手なものでも共通していると嬉しい。確認のために、慌てて聞き返した。

「えっ。じゃ、じゃあ、レーズンも苦手ですか?」

「苦手だよ。一緒だね」

 あきちゃんが照れくさそうに笑った。

 ドライフルーツが苦手になったのは、あきちゃんが幼い頃に朝食で出てきたレーズンパンがきっかけだという。生まれて初めて食べたレーズンは、幼いあきちゃんにとって強烈な味だったらしく、以来、レーズンをはじめとするドライフルーツを警戒するようになったそうだ。

 その話を聞いて驚いた。

 私も、レーズンが嫌いになったきっかけがレーズンパンだったからだ。

「実は私も、レーズンパンがきっかけで苦手に……」

「えっ、本当に!?」

 あきちゃんの目が見開かれて、ぱあっと明るい笑顔が咲いた。

 どうせなら好きなもので盛り上がりたいところだけど、共通するものがお互いにあったことは本当に嬉しかった。好みが似ていると親しみをより強く感じる。あきちゃんがもっともっと、私に近づいたような気さえした。

「はい。私も小さい頃に朝食でレーズンパンが出たのです。そのときは何とか食べきったのですが、独特な味が苦手になってしまいました」

「へえぇ……。意外なところで共通点があったね」

 もちろん、レーズンが様々な料理で大活躍しているのは知っている。レーズンの存在を否定はしない。あくまでも苦手なだけであって、根絶したいわけではない。

「私たちって相性いいのかも」

「そう信じたいです」

「相性ばつぐんだよ。ほら、膝枕もしてもらえるし」

 言いながら笑うと、私の膝に頭を乗せて寝転がってしまった。許可も取らずに先輩の膝を枕にするとか、何て生意気で可愛い後輩なのだろう。

「そんな相性のいい先輩にズバリ、聞きたいことがあるんですが……」

 今となってはわざとらしく思う敬語と共に、膝の上から私を見上げる。長くて豊かなまつ毛、釣り目がちな二重瞼、血のように赤くてきれいな瞳。初めてあきちゃんを見たときに感じた神秘的な感覚は、今も私の肌をぞわぞわと粟立てる。その粟立ちは後ろめたくもあり、快感でもあって、胸の中をかきむしりたくなるほどに乱した。棘科輝羽という少女を愛しい人だと認めてもなお、私を狂わせる。

「何でしょう」

 乱れる心を何とか抑えて静寂を保つ。彼女に対する我慢さえ、今は愛しかった。

 あきちゃんは考えるように目を逸らすと私の手を取った。

「……好きな人とか、いるのかなって」

 予想外。彼女に取られた手が震えた。

 好きな人。

 恋を、愛を覚えた人。

 それは目の前にいる。今まさに、膝で感じる温もりの持ち主。

 伝えたい。想いをあなたに打ち明けてしまいたい。

 でも、この気持ちを伝えたとして、関係が壊れてしまったら?

 厭い続けた人生で見つけたよりどころも失いたくない。

「…………」

 彼女に向けた返答は沈黙だった。言いたいのに言えない。葛藤の中で私ができた、唯一の意思表示だった。逸らしていた赤い瞳が私に戻る。戻った赤い海は潤んでいた。

「いるんだね」

「そう思いますか」

「ふみはいつもはっきり言う。いないならいないって言ってくれるはずだもの。黙るってことは、いるってことだよ」

 私の手を取る細い指先に力が入った。

「まだ、いるともいないとも言っていませんよ」

「じゃあどっちなのかはっきり言ってよ!」

 身体を起こして、あきちゃんが怒鳴った。以前、図書館で私と口論になったときと同じように、彼女の白い肌が赤く染まる。

「あきちゃん……?」

 呼びかけたら顔を逸らされた。長い黒髪に顔が隠れて、表情が読めない。

 どうして?

 どうして、怒るの?

「……ごめん。何を聞いてるんだろう、私。すぐにカッとなって、バカみたい」

 理解できず、あきちゃんの心を汲み取ることができずに困惑していたら、顔を背けたままきれいな声の謝罪が聞こえてきた。

 もしかして。

 それは漠然と浮かんだ、確信のない期待だった。

「私の方こそ、濁してごめんなさい」

 期待はしても、想いは語らなかった。今の仲が壊れてしまうことを恐れて、どうしても真実を語れない。本当は胸にたぎる想いを吐き出してしまいたいのに。

 真実の想いを告げられない代わりに、せめて今言えることを伝えよう。

 握られたままの手を、握り返した。

「でも、これだけは伝えられます。私は、あきちゃんと一緒に過ごす時間が幸せです。あなたをないがしろにしたり、傷つけたりすることは、もう二度としません」

 そっぽを向いたままの黒髪が揺れた。横顔が見えなくとも、その艶やかな黒髪が揺れるだけで美しい。愛しくて、たまらなかった。

 あきちゃんが口を開く前に、アンティークデスクの方から電子音が鳴った。愛しい人は沈黙したままソファーを立ち上がってデスクへ向かい、受話器を取った。

「うん、分かった。食事が終わったら例の場所に。……うん、よろしくね」

 例の場所。

 あきちゃんの話していた、連れて行きたい場所だろうか。一体どこだろう。

「ふみ、ランチの準備ができたよ。気楽に食べられる食事だから、安心してね」

 受話器を置いてこちらを向く。顔色はいい。柔らかな微笑みだった。先程の話を続けるつもりはなさそうだ。私も話の引き延ばさず、ランチの方へ話題を向けた。

「ありがとうございます」

「いつか、テーブルマナーが必要なフルコースもごちそうしたいかな」

「……予習をしておかなくてはいけませんね」

 ソファーから立ち上がると、あきちゃんが歩み寄ってもう一度私の手を取った。

 いわゆる、恋人繋ぎだった。


 あきちゃんの部屋を出たら、二階の角にある階段から館の三階へ上がった。三階の通路にもいくつか扉があって、棘の館は外から見る以上に広い建物なのだと実感した。赤絨毯の続く通路を歩き、案内されたのは南東にある広い個室。室内には桃色のカーペットが敷かれていて、窓際に用意された二人がけの食卓が唯一の家具だった。食卓には純白のテーブルクロスが敷かれ、ガラスの細い花瓶に一本、赤い花が活けられていた。

 薔薇、だろうか。

「この部屋は空き部屋なの。普段の食堂は別だけど、ふみとのランチだから、景色のいい広い部屋を食事会場にしてみたんだ」

 正面にある長方形に縁取られた大きな窓から、棘の森と温泉街、その先にある棘森の町並みが見える。窓から見える景色は確かに素晴らしかった。空へ伸びる木々の中から覗く瓦葺の白い建物、上る湯煙、そして、遠くに広がる灰色の町。五月の晴れた空の下、人工物と緑の自然が、まぶしく色彩を放っていた。

「きれい……」

「夜景はもっときれいだよ。こちらへどうぞ、お姫様」

 あきちゃんの引いてくれた椅子に座って、もう一度窓の外を見た。

 高いところから見下ろす眺望は、まさに里を見守っているようだった。

「棘科邸は昔、武家屋敷みたいな和の建物だったの」

 食卓の反対側に向かい、椅子に座りながらあきちゃんも窓に目を投げた。

「今の洋館になるまでには物語があったんだけど、ふみは知ってるかな?」

「はい。棘の森伝説の本で読みました。巫女と妖狐のお話です」

 巫女と妖狐。土蜘蛛を滅ぼした棘科一族の後が描かれた物語だ。

 これも、棘の森伝説として本になっていた。

 あるとき、棘の巫女が森の中を見回っていたところ、棘の森の入り口で疲労困憊で倒れる旅人を見つけた。旅人は美しい女性で背が高く、髪は大判小判のように輝く金髪。人づてに聞いた異国人の特徴を持つ旅人だった。

 巫女は、旅人が遠い異国から棘の森へ逃げてきたのかと思い、屋敷に連れ帰り、手当もして寝床も食事も与えた。しかし、旅人の女性は棘科家の財と地位を乗っ取り、この土地を傾かせようと画策する妖狐だった。悪しき妖怪が立ち入れないはずの神聖な棘の森が、唯一受け入れた妖怪だと伝えられている。

 なぜ棘の森が、この妖怪だけ受け入れたのか。

「妖狐は乗っ取るための準備として、巫女の信頼を得ようとしました。土地の人々から持ちかけられる相談や難題をこなし、巫女に美味しい料理を振る舞ったり、欲しがったものを手に入れたり、棘の森に眠っていた温泉を掘り当てたり。次第に妖狐は巫女の側近として、巫女本人だけでなく、土地の人々にも認められるようになっていたそうです」

「さすがだね、ふみ。やがて妖狐は、巫女と行動を共にするうちに、巫女が人々を守ろうとする愛に触れ、妖狐自身も巫女に愛されたいと思うようになった。彼女は巫女に夢中になり、土地を傾かせる計画は頭の中から消えてしまったんだ」

 棘の森が妖狐を受け入れた理由はそれだった。この妖狐は愛に飢えた妖怪で、愛を与える様々な存在を妬み、悪さをし続けてきた。しかし、無防備なほどに慈愛を振りまく棘の巫女と出会い、共に過ごすうちに希望を持つようになった。棘の巫女なら本当の自分を愛してくれるかもしれない。妖狐の自分を受け入れてくれるかもしれない、と。

 棘の森は知っていた。

 妖狐は巫女と出会うことで、この土地を守る存在になるのだと。

 そしてある日。妖狐を退治するために有名な陰陽師が屋敷を訪れた。あの旅人こそが妖狐であるとの警告を受けるものの、巫女は「そんなことは知っている」と答え、陰陽師を逆に驚かせたという。彼女は旅人が妖狐であること、棘科家を乗っ取って土地を傾かせる計画をしていることもすべて見通した上で、屋敷で共に過ごしていたのだった。妖怪とはいえ、かつて人々を喰らった土蜘蛛とは違い、妖狐は人々を救うために奔走した。今までの悪行を償い、愛されようと努力する妖狐を退治するなど絶対に許さないと、陰陽師と対立。陰陽師は業を煮やし、妖狐を側近とした棘の巫女までも妖怪だとして攻撃してきた。

 妖狐は自分のせいで愛する巫女が危険な目に遭ったことを嘆いた。巫女を森へ逃がすと、自身の妖力で屋敷の中に複雑な迷路を構築、森や人々の住む里に被害が及ばないよう、迷路の中に陰陽師を閉じ込めて激戦を繰り広げた。陰陽師は戦いの中で、妖狐が巫女に抱く想いや土地を守る意志を察し、最終的に巫女と妖狐へ向けた敵意を撤回した。しかし、屋敷は戦いの被害で全壊してしまい、巫女はまたも帰る家を失い、土地に住む人々も大いに悲しんで心配したという。

「――で、陰陽師は後日、お詫びとして巫女に膨大な金銭や食料、物品を納めた。それらを元手に、妖狐が異国のお屋敷を作ろうと提案して、この洋館ができたんだとさ」

「あ、あやめさん」

 いつの間にいたのか、銀色のダイニングワゴンを押しながらあやめさんが部屋の中に入って来ていた。その口には相変わらず白くて細い棒が飛び出ている。

「日本最古の洋館は別の県にあるから、巫女と妖狐の伝説も創作だと思う……が、棘科邸の建築には不明瞭な部分が多くてな。案外、妖狐ってのは本当にいて、術でも使ってうやむやにしちまったかもしれないぞ」

 くっくっく、と笑いながら食卓の近くにワゴンがやって来る。

「ちなみに、棘科神社を作ったのは陰陽師だ。棘の巫女と妖狐が世を去った後も二人の愛と絆を後世に伝えられるように、ってな」

 陰陽師は非常に義理堅い人間だったという。巫女と妖狐へ敵意を向けた自らの過ちを詫び、二人の愛と絆を未来に語り継ぐために神社を建てた。棘科の名を冠しながら、一族の末裔が神社に住んでいないのはそれが理由だったらしい。なお、神社の宮司は陰陽師の家系が現代まで世襲しているそうだ。

「話の邪魔をして悪かった。続きはメシを食いながらやってくれ」

 銀色の蓋がかぶせられたお皿が私とあきちゃんの前に置かれた。銀の蓋はすぐにあやめさんによって取り去らわれた。あきちゃんの話していた通り、そこには気楽に食べられる食事が用意されていた。

「……オムライス」

 程よい大きさの、楕円、いや、紡錘形。卵の黄色に赤いケチャップ、食欲をそそる鮮やかな色彩と、立ち上る香りにほんの少しだけ頬が緩んだ。久しぶりに、出された食事が美味しそうだと思えた。

「スープとサラダもあるぞ。量は少なめだから安心しな。小食だろ、ふみちゃん」

「えっ。わ、分かってしまいますか」

「執事さんの勘ってやつだ、気にするなよ」

 スープとサラダも食卓に並べ終えて、細長い筒状のグラスにお冷が注がれた。

「他に飲みたいもの、食べたいものがあったら遠慮なく言ってくれ。何でも用意するぜ」

 じゃ、ごゆっくり。

 あやめさんが部屋を出て行ったら、あきちゃんがスプーンを取った。

「よし、いただこう。遠慮しないでゆっくり食べて。気楽にね」

 あきちゃんの言葉にうなずいて、二人でいただきますをした。

 あやめさんの料理は本当に美味しかった。あきちゃんと一緒に食べられるという安心感や喜びもあって、いつもの私とは思えないほど食が進んだ。胸に詰まる感覚もなく、咀嚼して飲み込めば素直にお腹の中へ落ちて行ってくれる。

「味はどうかな?」

「美味しいです。とても」

 お世辞じゃない。素直に美味しいと思えた食事は何年ぶりだろう。

「よかった。あやめも喜んでくれるよ」

 あきちゃんがスプーンを置いてグラスを手に取った。こく、と水を一口。

「あやめはね、巫女と妖狐の話が大好きなの。特に妖狐にはすごく肩入れしてて、毎月必ず棘科神社に行って、お稲荷様にお祈りしてるくらい」

 棘科神社で祀られている神の一柱に、巫女の側近であった妖狐も稲荷神として祀られているそうだ。巫女と妖狐は互いの命が尽きても、同じ場所で眠り、この土地を見守り続けることを望んでいた。二人は今も、棘科神社で肩を並べて私たちを見守ってくれている。

「当主様とあやめさんって、巫女と妖狐の関係みたいですね」

 ふと、そんなことを思った。

 困った人々を救おうとした巫女と、巫女を支え続けた妖狐。

 世界を股にかけて活動する当主様と、当主様を支えるあやめさん。

 よくよく考えてみると、あやめさんは物語に出てくる妖狐と同じ容姿だった。背が高く、金髪で、美しい女性。彼女は執事として棘科姉妹のお世話をして、こういった食事会場のセッティングも、美味しい料理だって作れる。物語に出てくる妖狐もあやめさんと同じように巫女のお世話をして、料理も振る舞っていた。

 ひょっとしたら、話の中に語られる巫女が当主様、妖狐があやめさんで、二人はその特別な力で長い時を生き続けているのかもしれない。

 ここ数年の私には考えつかなかった、そんな幻想が頭に浮かんだ。

「ふふ、そっくりだよね。本当に仲良しなんだよ」

 笑いながら言って、あきちゃんが広い窓を見上げる。

「紅羽とあやめを見てると、ときどきすごくうらやましくなるの。二人の間には、すごく特別で強い繋がりがあるように見えるから」

 当主様とあやめさんが持つという強い繋がり。身近な家族であるあきちゃんですらうらやましく感じるもの。最近になってようやく愛しさを知った私には、その正体を察することができなかった。

「でも、二人の間だけじゃない。私とふみの間にもある」

 赤い瞳が窓から私へ移る。その言葉には、不思議な音があった。

「……きっと」

 花瓶の赤い花も、うなずくようにこちらへ傾いた。


 食事を平らげた後、しばらく民話や伝説の話を静かに語らいながら、食後のティータイムを楽しんだ。図書館では膝枕をして、互いにぼんやりと過ごすばかりだったから、こうして意識をはっきりと留めて会話を続ける感覚は新鮮だ。周囲を突き放して以来、これほど長い会話を続けたことはなかった。

 私は変わりつつある。

 自分に訪れた変化を、動き出した時間を自覚したように思えた。

「この後の予定なんだけど、連れて行きたい場所があるの。そこで過ごしたら、駅に送って今日は解散かな」

 どのくらい経っただろう。おかわりを頼んだポットの中も空になった頃。少し残念そうにあきちゃんがそう言った。解散と聞くと、途端に物悲しくなる。

「あっという間ですね……」

「そんな悲しい顔しないで。今日が最後じゃないんだから」

「また誘ってくださいますか?」

「もちろん。これからたくさんね」

 今まで生きてきて、初めて充実したランチタイムを過ごせた気がする。久しぶりに美味しいと感じた食事や温度、窓から見た棘森の町、想いを寄せる人と交わした言葉。それらはかつて、私が望んだものであり、もう二度と望まないと突き放した幸福の形だった。

 あきちゃんは確かに私の手を取り続けてくれている。

 瘴気に満ちた森に毒されて朦朧とする私を、目覚めさせようとしてくれている。突き放した幸福を、もう一度私が受け入れられるように、すぐそばで手を握ってくれていた。

 支度をしたら一階のエントランスホールへ向かった。ホールでは当主様とあやめさんが待っていて、階段を下りる私たちを見上げていた。

「帰したくないわねぇ。あやめ、何とかできない?」

「よく言うぜ。最初に脅かしたのはどこのどいつだっての」

 こつん、と、あやめさんが軽い拳骨を当主様に見舞っていた。当主様も拳骨を受け入れるように頭を傾けて苦笑い。

 本当に仲良しだ。主人と執事の関係には見えない。

 階段を下りたら仲睦まじい二人に頭を下げた。

「今日はありがとうございました。お食事、とても美味しかったです」

「もう帰っちゃうの?」

 初めて会ったときとはまったく違う。心底残念そうに当主様がそう言った。

「そう、ですね。あまり遅くなると、両親が――」

 両親が疑いますから、と言いかけて言葉を切った。

 当主様に対して両親への憎しみを言葉にするわけにはいかない。

「――両親が、心配、しますから」

 心にもないことを言った。

 両親が心配するのは私の身ではなく、自分たちの体裁だ。私の心と身体がどれだけ痛めつけられようが、傷つけられようが、あの人たちは気にも留めない。ただ、面倒だとしか思わないのだ。

「隠さなくていいのよ」

 また、当主様の手が私の頭に伸びた。

 今度は遠慮しない。何度も何度も、労わるように私の頭を撫でてくれた。

「家族があなたの歩く道に陰を落とすのであれば、私たちが道を照らしましょう。あなたの前には多くの道がある。狭い世界に押し込まれたままでは見えない道がそこにある」

「見えない、道?」

「そう。広い世界へ続いている道。あなたはその道を歩き、もっと広い世界を知る必要がある。何も知らない大人になってはだめよ」

 撫でる手を放し、ブラウスの胸ポケットから一枚、紅のカードを取り出した。

「私の名刺よ。お守りだと思って持っていて」

「は、はい。ありがとうございます」

 受け取った真紅のカードには、細く黒い書体で『棘科紅羽』と書かれているだけ。裏には小さな文字で住所と当主様の連絡先が印刷されていた。棘科グループ代表などの肩書は一切書かれていない、不思議な名刺だった。

 当主様は終始名残惜しそうにしながら、外まで見送ってくれた。

 送迎車が動き出して、見えなくなるまでずっと、見送ってくれた。

 遠ざかる当主様の姿を見つめながら、私に向けられた言葉を何度も思い返す。

 私の前には多くの道がある。それは狭い世界に押し込められたままでは見えない道で、私を広い世界へ導いてくれる道。何も知らない大人になってはいけない、もっと広い世界を知る必要があるのだと。

 私の世界は自宅と棘森の町。そして、幼い頃から読み続けた数々の本たちが描いた幻想の世界。私が知っているのは狭い現実と小さな幻想だけだった。すぐに消えてしまいそうなマッチ一本の火だけを持ち、深い暗闇の中に立っているようなもの。マッチの火では現実という暗闇を切り開く力がない。かと言って、私には幻想という灯火を作り上げる才能もない。雪のように行動し、闇に飛び込む勇気も持ち合わせていなかった。

 だから当主様は言ったのだ。

 何も知らない大人になってはいけない、と。

 両親や姉に覚えた恐怖や嫌悪が、幼い頃の私から消し去ってしまった何か。その何かを取り戻さなくては、私は何も知らない大人になってしまう。当主様は私が失った何かを知っていて、取り戻す方法も知っている。だからこそ、あの言葉をくれて、紅の名刺をくれたのだ。

 もらった名刺を、制服の胸ポケットに入れていた生徒手帳へ丁寧に挟み込む。

 棘の森と、棘科邸。

 気後れを感じていた場所は、自宅よりも親しみのある優しい居場所だった。

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