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桜沢さんのお嬢さま  作者: 松山みきら
第5章 幸と不幸 -桜沢文音-
13/43

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「文音はゴールデンウィークの予定どうなってるの?」

 ある日の夕食で、母にゴールデンウィークの予定を聞かれた。大きな液晶テレビからバラエティ番組の笑い声が聞こえる。夕食を先に平らげた父は液晶テレビの前で寝転がり、騒がしい出演者と同調するように声を上げて笑っていた。

「みどりの日に出かける」

 食卓の正面に座る母に返事をしてから冷えたご飯を口へ運び、ぬるくなったインスタント味噌汁で無理やり流した。胸に詰まるような感じが数秒して、やっと胃袋に落ちていく。おかずに出たイワシの缶詰はあまり好きじゃないから、手をつけられなかった。

「どこ行くの? 雪ちゃんと出かけるの?」

「図書館の仕事。荻野先生に頼まれた」

 嘘だ。

 ゴールデンウィーク中には図書当番も、蔵書チェックもない。あきちゃんと会う貴重な日を守るためについた嘘だった。私の両親は棘科一族からランチの招待を受けたと話しても信じてくれないだろう。仮に信じたとしても、反対されるのは目に見えている。

「図書委員も忙しいのねぇ。男の子からお誘いとかないの?」

 こんなひねくれた女にお誘いなんてくるわけないでしょ。

 私のことを何一つとして知らない証拠だ。

「……お誘い」

 しかし、これは両親を試すいい機会かもしれない。日にちは伏せて、あきちゃんから誘われたことだけを簡潔に話して、様子を伺ってみよう。棘科一族の名前を出したとき、両親は何と言うのか、どんな反応を見せるのか。

「そういえば、後輩からランチに誘われた。女の子だけど」

 連休前で機嫌がいい母は不愛想に返す私を気にも留めず、話を掘り下げてきた。

「なぁんだ、女の子か。お名前は?」

「棘科、輝羽」

 彼女の名前を口にしたら、ほうっと、息が漏れた。

 名前だけでも胸が温かくなって安心する。

 向かい合う母は、笑えないわよ、という風に苦笑いをしていた。

「棘科輝羽って、富豪様の妹さんでしょ? 冗談言うなんて珍しいわね」

「私が冗談言ったことある?」

 いつも素っ気なく当たっている私が冗談など言うはずがない。家族間でまともな会話ができていないのは両親も承知だ。父との間に会話は滅多になく、母とは父より少し多めに言葉を交わすくらいで、決して仲がいいとはいえない。笑顔も冗談も、何年も前に暗闇の海へ沈めてしまったよ。

 母が慌てたように身を乗り出した。

「ちょっと文音、本当なの?」

「本当。どうせ信じないか」

 やっとご飯が空になった。残ったお味噌汁も飲み干して、小さく息をつく。ここ数年、食事が美味しいと感じたことはなかった。美味しく感じるのはせいぜい飲み物程度で、栄養の豊富な牛乳がすっかり私の好物になっていた。

 食器を洗ったら食後のデザート代わりに牛乳を飲もう。食卓から立ち上がると、母も私に合わせて立ち上がり、テレビを見ていた父を呼びつけた。

「お父さん! 大変よ、文音が富豪様の妹さんにランチ誘われたって!」

 父は長座布団の上で横になったまま、心底不愉快で面倒くさそうに返事をした。

「テレビ観てるときにくだらん話をするな。何かの間違いだろう」

「くだらん話だってさ。やっぱり信じないんだね」

 娘よりもテレビが大事なんでしょう。一生テレビに張りついていればいいさ。食器をシンクへ運び、緑色のスポンジを手に取って洗剤をかける。文句を言われるのが嫌だから、幼い頃から自分の食器だけは洗うことにしていた。緩やかに食器を洗っていると、父が顔を歪めながら食卓の方へやってきた。私の言葉が気に障ったらしい。

「お前はいちいち棘のある言い方をするな?」

「娘の話を信じないからでしょ」

「本当なのか」

「同じこと言わせないで」

 父と話すのは好きじゃないから思い切り言葉のナイフを投げた。私が姉から理不尽な暴力を振るわれていてもしっかり解決してくれなかったし、最終選考まで残った物語だって認めてくれなかった。近所の笑い者になりたくない、いつもそればっかりだ。お金も名誉も、誇れるほどのものなんて、桜沢家にはこれっぽっちもないのに。

「返事は?」

「即答で断ると失礼だから保留にした」

「よし、それなら明日断れ。何かいやしいだろ。ゴマすってるみたいで」

 いやしい。卑しいだって?

 反対されるのは予想していたけど、その言葉を聞いて大いに落胆した。

 どうしてすぐそういう思考や発言に行きつくのか。

 娘を一切信用せず、棘科家にゴマをすっていると思われたくないから断れときた。そういう発想に至るあなたこそがいやしい思考の持ち主なのではないか。守護者の末裔と仲良くなったことを素直に喜べないなんて、あまりにも哀れだ。

 これではあきちゃんと一緒に帰っていることさえも認めなさそうだ。

「もし」

 食器を洗う手を止めて、眉間にしわを寄せる父の浅黒い顔を見上げる。父からは嗅ぎ慣れている煙草の臭いがした。

「私が心から失礼のないようにするって約束しても、ランチの誘いは受けちゃいけない?」

 わずかな光明を求めて。父を煽るのではなく、硬い口調で真面目に伝えた。

 しかし。

「だめだ。お前は信用ならん」

 お腹の中心に鈍い何かを打ち込まれる錯覚がして、鳥肌が立った。

 そうだよ。そうだった。分かり切っていたことだった。

 昔から、私たち親子の間に信頼や信用なんてなかったね。

「そう」

 これで決心がついた。みどりの日は絶対にあきちゃんと会おう。今まで突き放してきたせいで罪悪感や気後れを覚えたとしてもだ。娘を信じない両親に、あきちゃんとの関係を壊されてなるものか。絶対に、愛しい人への想いを捻じ曲げたりはしない。

「失礼のないように断るんだぞ。お前はただでさえ口が悪いからな」

「……せっかく棘科一族から誘われたのに」

「バカかお前は。家の用事とか、当たり障りなく言えば理解してもらえるだろうが。富豪様に余計なことを言って、融通してもらおうなんて思うなよ」

「口が悪いのはそっちも同じじゃない、クソジジイ。最低」

 にらみ上げてやる。父親は悪態をついて長座布団に戻ると、わざとらしく音を立てながら横になった。

 憎いのでどうしても煽ってしまう。あまりやり過ぎると叩かれるから、そろそろ黙っておこう。食器を洗い終えたら、手を拭こうとシンクの手前にかかっているタオルを手に取った。また、衛生的に悪いあの臭いがした。

「母さん、タオル交換しなよ」

「自分でやりなさいよ。洗面所に新しいタオルあるから」

 だらしない人だ。呆れてため息が漏れてしまった。

 あきちゃんは冷たくて嫌な先輩だった私をずっと気にかけてくれた。関心を持たず、面倒を避け続けた両親よりも私を想ってくれた愛しい人。そんな人からの誘いをどうして断れようか。

 早く、会いたいな。

 洗面所へ向かう足取りが分かりやすいほどに軽かった。




 五月になった。

 日に日に太陽が注ぐ温もりが熱を増していき、野や山に広がる緑も日差しを受けて明るい緑を輝かせるようになっていた。世間はゴールデンウィークに入り、棘森駅の改札も大勢の観光客で賑わっていた。大きなリュックを背負う人、スーツケースやキャリーケースと共に歩く人、観光案内やパンフレットを見ながら電光掲示板の時刻を調べる人。きっと、あきちゃんが見守る棘の森温泉街やその周辺の観光地へ向かう人々だろう。愛しい人が奪われるわけではないのに、あきちゃんの温泉街に行くと思うと激しい嫉妬を覚えた。自分がこんなにも嫉妬深い人間だったなんて思わなかった。

 今日は、待ちに待ったみどりの日。両親に嘘をついて『荻野先生に頼まれた図書館の仕事』ということでどうにか外出を勝ち取った。友人関係が希薄な私にとって、使える嘘といえばそのくらいしかない。雪と遊びに出かける、あるいは図書当番という嘘はリスキーだったから使わなかった。雪は私と同じ委員会に所属しているし、お互い近所に住んでいる以上、どこかで雪と両親が出くわす可能性がある。万が一出くわした場合、私の嘘は簡単にバレてしまう。かと言って雪に口裏を合わせてもらうのも申し訳ない。だから、『荻野先生に頼まれた』と一言付け加えた上での『図書館の仕事』ということにした。

『私は雪よりも図書館にいることが多いから、雪がいないときに先生から蔵書チェックの手伝いを頼まれた――』

 もし必要以上に詮索されたら、この筋書きを逃げ道に使おう。無関心な両親が学校に確認の連絡することはない。

 完璧だ。嘘をついた精神的な負担も軽い。

 でも、校則で私服登校は禁止されているから、学校を口実にしたせいで制服で外出することになってしまった。休日の登校については例外もあるけど、もともと外出用の服を持ち合わせていない私が必死におしゃれをすれば母親に勘繰られる。今回はあきちゃんとの時間を確実にしたかったからやむを得ない。あきちゃんには正直に事情を話して謝ろう。

 改札を過ぎたら通路を右へ進み、階段を下りて駅の入り口へ。駅を出たら突き抜けるような青空と輝く日差しが私を出迎えてくれた。あきちゃんとのランチが本当にいけないのなら、神様はこんなにも澄んだ青空を用意してはくれないだろう。

 増えた人波を抜けたら、見慣れた駅前から浮いた異質な送迎車を見つけた。混み合うロータリーの手前、入り口から近いところに停まる、黒塗りの角張った車。

 車の隣には、細い棒を咥えた例の執事と、愛しい人が笑顔で待っていてくれた。

「あきちゃん……」

「こっちだよ、ふみ!」

 細い手が大きく振られる。

 白がまぶしいワンピースに桃色のカーディガン。流れる長い黒髪はいつも通り、日差しを受けて艶やかに輝いていた。まさにお嬢様、とても清らかで、素敵。

 制服で来た罪悪感がぐっと強くなって、両足に重圧を感じた。

 重たくなった足をどうにか動かして、二人の前に近づいた。

「こんにちは。今日はお世話になります」

 顔の力を少し緩めて、あきちゃんと執事に頭を下げる。笑顔は浮かべられなくとも、今日のデートは楽しみにしていた。口から出た挨拶は私の心を表すようにはっきりとした声だった。

 顔を上げると、あきちゃんが笑顔で執事の腕をつついた。

「紹介するよ。我が家の執事、居谷里あやめ。あやめ、こちらが桜沢文音先輩」

「執事の居谷里あやめだ。あやめって呼んでくれ。ウチのおてんばが世話になってるな、よろしく頼むぜ」

 片手を上げて、執事らしからぬ明るさと砕けた挨拶をされる。

 彼女からお菓子独特の甘い匂いがして、咥えている細い棒がキャンディーだと分かった。そういえば、前に私と目が合ったときもこうやって片手を上げていたっけ。不思議と嫌な印象は受けなかった。なぜか歓迎されている感じが強く伝わってほっとする。これは彼女の人柄ゆえなのだろう。あやめさんに向き直り、もう一度頭を深く下げた。執事であるあやめさんもあきちゃんの大切な家族だ。愛しい人の家族を突き放す真似なんて、できるわけがない。

「初めまして、あやめさん。私の方こそ、あきちゃ――いえ、お嬢様に、ご迷惑ばかりおかけしてしまって……」

「あぁ、言い直さなくていいぞ。遠慮しないで『あきちゃん』って呼んでやってくれ。迷惑もどんどんかけてやんな。輝羽は棘の巫女だからな、どんな無理難題も朝飯前だぜ」

 くっくっく、と棒つきキャンディーを咥えたまま笑う。彼女の応対は私以外が相手でもこんな砕けたものなのだろうか。そんな些細な疑問が浮かんで消えた。

 挨拶はほどほどに、ひとまずあきちゃんに説明をしよう。両親に嘘をついたことはまだしも、制服で来てしまった無礼を詫びなければ気持ちが落ち着かなかった。

「せっかくのランチなのに制服でごめんなさい。遠回しにあきちゃんのことを話してみたのですが、両親に反対されてしまったので、今日は図書館の仕事だと嘘をついてきました」

 あきちゃんは分かりやすく目を開いて、あやめさんは眉を上げて腕を組んだ。

「反対!? どうして教えてくれなかったの? 私が直接説得するよ!」

「そうですね……。今思えば、あきちゃんに相談するべきでした。ごめんなさい」

 謝りながら手に持つ通学鞄を開けて、中から桃色の包装紙に包まれた箱を取り出した。包装紙の右上には銀色のリボン付きシールが貼られている。電車に乗る前に洋菓子店に立ち寄って買ってきたものだ。お詫びの菓子折り、といったところ。お小遣いを残して貯めてきたのが役に立った。

「今日のお礼と、制服で来てしまった無礼のお詫びを兼ねて、クッキーを持ってきました。みなさんで一緒に食べてください」

「んもう、菓子折りまで用意しちゃって。今度は一人で抱えたりしないで、相談してよね」

 あきちゃんが苦笑しながらお菓子を受け取って、車を顎で指した。

「さあ、急いで逃げよう。知り合いに見つかってご両親にバレたらいけないもの。あやめ、このお菓子とふみの鞄、お願い」

「おうさ。こっちだお姫様、お城に逃げるぞ」

 あやめさんが車のドアを開く。通学鞄とお菓子を預けて、急いで車へ乗り込んだ。今回の送迎車はいつものスポーツカーではなく、棘科家が来客用の送迎車としてきちんと手入れしている車だとか。セダンとも、サルーンともいうらしい。あやめさんがイギリスのメーカーだとか、いろいろと詳しく教えてくれようとしたけど、話が長くなるからと、あきちゃんが止めていた。

 汚れや傷一つない白い座席やマット、木目調の内装。しっかり手入れをしてあるのがよく分かる。本当にきれいで、清潔な車内だった。私たちが乗ったら優しくドアを閉めて、あやめが左手前の運転席へ乗り込んだ。

「ふみちゃん、気を楽にしてくれよ。ご両親にはバレないようにするし、疑われない時間に帰れるようにしよう」

「……はい。申し訳ありません」

「いいってことさ。んじゃ、出発するぞ」

 静かに車が動き出す。混み合うロータリーを難なく抜けて、流れるように車が主要道路に入った。車に乗るのは久しぶりだった。険悪な仲の家族と出かけることもせず、休日でも家でこもりきりな私にとって、車窓から見える景色は新鮮だった。今まで何度も見てきた駅前のビルや道路が、全然違う色と形で目の前に現れる。色彩を失った私の狭い世界が、鮮やかに色づいて呼吸を始めていた。

 ふと、膝の上に置いていた手にあきちゃんの細い手が乗せられた。車窓から目を移してあきちゃんを見る。私服の彼女は本当に清楚なお嬢様だった。抱き寄せたいし、膝枕をしてあげたい。

「今日は来てくれてありがとう。嘘つかせちゃって、ごめんね」

 申し訳なさそうに苦笑い。あきちゃんは何も悪くない。悪いのは嘘をついた私と、私を信じない家族のせいだ。何が『いやしい』だ。父親に言われた言葉を思い出して、また腹が立った。

「私の方こそ、相談せずにごめんなさい。両親はあきちゃんからの招待を信じないでしょうし、信じても反対するのは目に見えていました。実際、話してみたら予想通りになってしまって。ゴマをすっていると思われるから断れだなんて、本当に、悔しかった……」

「……そんなこと、言われたんだね」

 手を強く握られた。

 信頼は家族の基本だと、どこかで読んだことがある。娘の話をまったく信じようとしない時点で、桜沢家の家族関係は破綻している。

 幼い頃から姉に虐げられ、何かとトラブルになっていた私を『面倒』だと感じた両親は、しなければいい、させなければいい、関わらなければいいと、私を家に閉じ込めておくことにした。私が起こすアクションの一つ一つを否定し、批判し、認めない。そうすれば、私は自発的に行動することを恐れるようになり、両親の知らないところで面倒やトラブルを起こすことはなくなる。トラブルが起きたとしても、家庭内であれば両親や姉が隠すから家の外に漏れることもない。見ていないところで私がトラブルを起こさなければそれでいいということだ。

 私の心や魂を削り、すり減らしても、自分たちの体裁さえ守れればいい。

 私の家族は、そういう連中だ。

「ふみが大人になったとき、ご両親はどうするんだろう」

「え?」

 私から目を離して、あきちゃんが正面を向いた。車の速度は穏やかに、前を走る車と程よい距離を取って順調に進んでいた。

「ふみの話すことを信じない、認めない、反対ばかりする。そんなことをされ続ければ、ふみは自分の意志で決断することを恐れて、毎回誰かにお伺いを立てなくちゃいけなくなる。否定や反対をされ続けたまま成長したら、決断することを知らない大人になってしまうでしょ? そのときにご両親は、どうするんだろうって思ったの」

「そう、ですね……」

 あきちゃんの指摘はもっともだった。事実、私は変化を恐れ、選択肢のない、決断をする必要のない場所を自分で作り、そこへ逃げ込むことを幸福としてしまっていた。この先の未来で、私は何がよくて何がだめなのか、決断することができるのだろうか。

 胸が痛んで、不安になった。

「今日も、ディナーやパーティじゃなくて、ふみが出かけやすいようにランチを計画したんだけどな……。どうしてゴマをすっているなんて思っちゃうんだろう」

「父の偏見だと思います。あきちゃんは悪くないです、本当にごめんなさい」

「ううん、謝らなくていいんだよ。お父様は実際にどんなことを言ってたの?」

「あまり詳しく言いたくありません。あきちゃんに対して失礼ですし、父の醜態を晒すようで、情けないです」

 愛しい人の前で、両親の醜態を晒すことはできない。世間一般的にも、他人の前で自分の両親をこき下ろすような真似は好ましくないだろう。

 親は子供を守るために子供の意見を否定したり、反対しなくてはならないときもあるだろうけど、今回は納得できない。いくら後輩が棘科一族とはいえ、二人で昼食をするだけだ。棘科グループの重役を呼ぶパーティでもないのに、たかが昼食だけで嘘をついて出かけなくてはならないのは悲しすぎる。行ってもいいけど失礼のないようにしなさい、とか、胸を張って自分の娘を送り出す気概もないのか。

「ただ一つ言えるのは、父も母も、私が問題を起こしたら面倒だ、としか考えていないということです。あきちゃんとの縁を喜んではくれませんでした」

「残念だよ。こんなに仲良しなのに」

 あきちゃんの手を握り返した。小さくて細い指。きれいで、艶やかな白い肌。頬を撫でているときと同じで、すごく気持ちよかった。

「……富豪様の前で両親をバカにしてしまいました」

「違うよ。ふみは両親への不満を相談しただけだもの」

 手を握り合っていること、そして、彼女へ両親の不満を打ち明けたこと。私たちの距離は間違いなく縮まっている。両親や姉からの仕打ちを、あきちゃんに打ち明けられる日はそう遠くない。今日のデートで、もっと仲良く、近い存在になれそうな気がした。

 私たちを乗せた高級外車は緩やかに緑を輝かせる棘の森へ入っていった。木々の間から覗く空は晴天。いつかこの空と同じくらい晴れ晴れとした心で、あきちゃんに笑顔を見せられるだろうか。

 しばらく走って、棘の森温泉街の入り口を通り過ぎた。駅前の賑わいをそのままここへ運んだように、大勢の観光客で溢れている。大きな観光バスや色とりどりの乗用車が何台も温泉街へ入っていくのが見えた。

 温泉街を過ぎ、車は更に森の奥へ私を運んでいく。

「あれが我が家だよ」

 あきちゃんが指差した先に、大きな洋館が見えた。

 森から突き出す注射器のような尖塔と、ヨーロッパの古い建築様式を思わせる外観。海外のドラマで目にした貴族の館がそこにあった。周囲に他の建物が見当たらないから、館だけ見ると外国へ来たのではないかと錯覚させる。

「お城みたい……」

 小さな後輩が帰る場所。偉大な守護者の末裔、棘科一族が代々住んでいたとされる洋館。館の主は世界を股にかけて活躍する棘科家当主、あきちゃんの姉である棘科紅羽。

 畏怖と緊張で、息を呑んだ。

 途中、左に一つだけ細い並木道があった。あやめさんは丁寧に速度を落としてハンドルを切ると、並木道へ入ってまっすぐに車を進めた。巨大な洋館が真正面に、私を堂々と待ち構えていた。棘の館は石造りの堅固な建物で、中央の本館を四つの塔が囲うような形で建っている。館というよりは長い歴史を持つ古城という印象だった。並木道の左右には整備された芝生が遠くまで広がっており、森の木々と一緒に緑を輝かせていた。

「ひょっとして、この広い芝生全部がお庭ですか?」

「うん。館の裏側には立派な庭園もあるよ」

「は、はあ……」

 この芝生の庭以外にも植木や花々で彩られた庭園があるのだという。広大な敷地に巨大な館。私が恋した人は、想像以上に違う次元を生きていた。

 開かれた門扉を抜けて、こげ茶色に艶めく大きな玄関扉の前に車を横づけする。あやめさんが素早く運転席から降りて、車のドアを開けてくれた。あきちゃんが先に降りて、後から出てくる私の手を引いた。

「お待たせ。到着だよ」

「…………」

 車から降りて、玄関扉の前に立つ。館を見上げて、立ち尽くしてしまった。

 愛しい後輩の家。この土地に伝説が残る一族の末裔で大富豪の館。見上げても、見回しても、私の視界に収まりきらない巨大な館。

 緊張しないわけがない。

「入ってくれ」

 あやめさんが優しく笑って、大きな玄関扉を開いた。

 お嬢様に連れられて暖色のランプが下がった灰色の通路を歩き、純白に輝くエントランスホールへたどり着いた。上を見上げれば豪奢なシャンデリア、下に目をやれば磨き上げられた白い床に赤絨毯、正面には二階へ続く大きな階段。周辺の壁には調度品と一緒に古い絵画がいくつか飾られていた。

 本の世界で夢見た、聖堂か王室の宮殿のようだった。

「あの……。本当に、私が来て大丈夫でしょうか……」

 次元の違う場所にたまらず、後輩の小さな背中に呼びかけた。彼女は私に振り返ると大きな目を見開いて笑った。

「何言ってるの。私が招待したんだから大丈夫だよ。あ、そこの赤い絨毯からはスリッパでお願いね。土足はこの灰色のタイルまで」

「は、はい」

 赤絨毯でスリッパに履き替えていたら、ホールの中に通る声が響き渡った。

「ようこそ」

 驚いて顔を上げると、一人の女性が堂々とした振る舞いで二階から階段を下りてくるのが見えた。ベージュ色のブラウスに真っ赤なロングスカート。見たことのある顔、そう、テレビや雑誌で見たことのある、有名な美女。見間違うはずもない。

 燃える髪の女性は、優雅にスカートを揺らしてホールの中心に立った。

「初めまして、お客様。当主の棘科紅羽よ」

 腕組みをして、ほんの少し不敵な笑み。たったそれだけなのに、足がすくんだ。

 角のある口調に強烈な敵意を感じる。向き合っている表面がぞわりと粟立った。

「う……」

 戦慄した。

 すごい、威圧感と存在感。その不敵な笑みが、私の精神をすり減らしていく。口が渇いて、足が震えた。図書館で部長に絡まれたときは平静でいられたのに、この人にはひざまずかなくてはいけないと、足から力が抜けそうになる。

 棘科紅羽。棘科家当主で、あきちゃんの、姉。

 そう、姉なんだ。姉は怖い。こうして私を威圧してくる。私を拒絶する。

 あきちゃんも自分の姉が見せるむき出しの敵意に不満なのか、声を上げた。

「ちょっと紅羽、だめだって言ったじゃない! 初対面なのにひどいよ!」

 当主様も私の姉と同じことをする人なの?

 いや、結論を急いじゃだめ。落ち着いて、よく考えよう。

 当主様は私の姉とは違う。私の姉は理解できない理由で力を振るった。ただ弱い私を虐げる獣だった。対して、当主様の敵意や怒りを招いた原因は単純明快だ。私があきちゃんを突き放し続けたから。当主様の愛する妹を傷つけ続けたからだ。当主様は、私があきちゃんを拒絶し、差し伸べられた手を打ち払い続けたことを知っているのだ。

 この敵意は、受け止めなくてはならない。

 愛しい人を突き放した罪を雪ぐための試練として。

「……大丈夫、です。これは必要なことですから、ご挨拶させてください」

「ふみ……!」

 一歩、前に出た。

 恐れてはいけない。当主様は愛する人の姉上。私の姉とは違う人。

 あきちゃんを想って愛し続ける以上、避けられない。姉である当主様に、妹を傷つけたことを謝らなくてはいけない。私はあきちゃんと仲良くしたい。これからもずっと、愛し続けたい。そして、あきちゃんが大切に想う家族とも、仲良くしたい。それはあきちゃんの幸福にも繋がることだから。

 戦わなくては。

 棘科家当主に想いと反省を伝えなくては。

 深呼吸をして、当主様に向き直る。姿勢を正して、深々と頭を下げた。

「初めまして、桜沢文音と申します。早速ですが、当主様に謝らせてください」

 頭を上げたら赤い瞳が私を射抜いた。今、目が合った瞬間、戦慄の冷たさに全身が粟立った。すべてを読み取られたと、心の奥底まで見抜かれたと悟った。

「何?」

 腕組みをしたまま、首を傾げる。私があきちゃんを突き放していたことを根に持っているのか、当主様はやはり高圧的に見えた。元はと言えば私自身の招いたこと、当主様の態度が高圧的でも文句は言えない。

「輝羽さんに出会ってから、私は彼女のことをよく知らないくせに、一方的に嫌って、突き放しました。当主様もご存知のはずです」

「ええ、そうね。そう聞いたわ」

 当主様はその笑みを崩さないまま、うなずいた。あれだけ冷たく突き放し続けたのだから、あきちゃんも当然家族に相談するはずだ。溺愛する妹が傷つけられたのなら、姉である当主様が怒らないわけがない。

 臆さずに、当主様の瞳から逃げないように、言葉を振り絞った。

「でも、深く悩んでしまったときに、輝羽さんは、救いを求めた私を受け入れてくれました。ずっと突き放していたのに、そばにいてくれた……。こうして手を取り続けてくれる優しさに触れてようやく、私が続けていた過ちに気づかされました。棘科一族が持つ、人々を助けたいと思う意志も一緒に」

 笑みが消えて、瞳の色合いが少し変わった。腕組みを解いて私を見つめる当主様の表情には、憐れみや寂しさが混じっているように見えた。

「輝羽さんの思いを理解しようとせず、突き放してしまったこと。輝羽さんにも謝りましたが、ご心配をおかけした当主様にも謝らせてください。――本当に、申し訳ありませんでした」

 腰を折り、もう一度深く頭を下げた。

 今回、招待されることに気後れを感じていた。その原因の一つに、今まであきちゃんを突き放していたという罪悪感があった。私は、自分の行為が間違いだと知っている。知っているのにも関わらず、あきちゃんの想いも理解せずに突き放して、自分の殻に閉じこもっていた。

 覚悟はできている。当主様に嫌われても、突き放されても、どれだけ傷つけられようとも、私は受け止める。それがあきちゃんに対する償いだというのなら、私は耐えられる。

 冷たくて痛い沈黙がホールに漂う。あきちゃんもあやめさんも沈黙したままだ。当主様が動くまで、決して頭は上げなかった。私の意志が嘘だと思われたくないから、頑固者の意地を張って頭を深く下げ続けた。

 しばらくの沈黙が過ぎ、私の肩に手を置かれた。

 顔を上げると、目の前で当主様が微笑んでいた。

 まるで聖女のように、慈愛溢れる微笑みだった。

「十分よ。……歓迎するわ」

「あ……。ありがとう、ござい、ます」

 許された。そう、確信した。

 涙がにじんだけど、絶対に泣くものかと堪えた。涙は、見せたくない。

「もう話していいな? ふみちゃんがクッキーくれたんだ。脅かすのはやめろよ」

 私の謝罪が終わり、当主様も認めてくれたと読んだらしく、あやめさんが明るい声でクッキーの箱をちらつかせた。

「あらやだ、そんなに気を遣わなくていいのに。お礼に今度、温泉街にある美味しいケーキ屋さんに連れて行ってあげるわね。当主様のお気に入りなのよ」

 両手を叩いてにっこり笑顔。素直に謝ったことが嬉しいのだろうか、当主様はすっかりご機嫌な様子に見える。姉妹揃って笑顔がきれいな人たちだ。

「むーっ! 何がケーキだ! 私は許さないぞ、紅羽のいじわる!」

 あきちゃんが膨れながら私の腕を絡めてきた。当主様を前にして波立っていた心が、あきちゃんの感触でゆっくりと穏やかになっていく。

 あきちゃん、ありがとう。

 口には出さず、瞳を投げたらウインクを返してくれた。本気で怒ってはいないみたいだ。

 そういえば、久しぶりにあきちゃんの「むーっ」を聞いた気がする。

「むむ……。そ、そうね。思うことがあったとはいえ、失礼だったわ。ごめんなさい、ふみさん。もっと違う形で、あなたと言葉を交わすこともできたでしょう」

 当主様が申し訳なさそうに首を横に振って、そう言った。当主様が謝る必要はない。姉として、大切な妹が傷つけられたことを怒る。当主様は私の姉と違って、妹のあきちゃんを大切にしているのだから当然だ。

「いえ。非は私にありますから、私が受け止めなくてはいけないことです」

「……誠実なのね、あなた。まだ明日もお休みなんだし、今日は泊まっていく? お詫びとして、ディナーもごちそうするわよ」

 すごく嬉しい提案だった。両親さえ理解のある人だったら、愛しい後輩と朝まで一緒に過ごすことも叶っただろうに。私の腕を胸に抱いたまま、あきちゃんが首を振った。

「それはだめ。ふみはね、ご両親に反対されちゃったから、図書館の仕事だって嘘をついて出てきてくれたんだよ」

 嘘をついて出てきたこと。当主様が怒ってしまうのではないかと思ったけど、予想は外れて苦笑いが返ってきた。分かっていた、というように肩をすくめる。

「やっぱり。制服だったからそんなことだろうと思っていたわよ。ランチに招待されて制服で来るなんて、そうあることじゃないわ。気苦労をかけたわね」

 私の頭に当主様の手が伸びて、少し遠慮ぎみに撫でられた。

 私が知る姉は、こんな優しさを向けてはくれなかった。優しさや慈しみではなく、痛みと憎しみばかりを私の心身に刻んだ。私の姉と、あきちゃんの姉。同じ姉だというのに、こんなにも違う。

 世界を股にかけ、終わりの見えない慈善活動を続ける当主様。

 とても深く、広い心を持った人なのだと身に染みた。

「ご両親にバレちゃったらすぐ連絡するのよ。私と妹で丸く収めるわ」

「ありがとうございます。安心しました」

「くすっ、可愛い子。どうぞごゆっくり。妹と仲良くしてね」

 小さく手を振って、軽い足取りで階段を上がっていく当主様。見えた横顔は穏やかで、とても満足そうにしていた。あきちゃんを突き放していたことが雪がれて、胸を埋め尽くしていた罪悪感がさっぱりと消えていく。気後れもほんの少し、軽くなった。

「ふう……」

 当主様の姿が階段の上に消えたら、深いため息が漏れた。緊張から解き放たれたせいか、喉の渇きを覚えて、肌が汗ばんでいるのを感じた。

「ふみ、大丈夫?」

 あきちゃんが心配そうに眉を寄せて私を覗き込んできた。緊張して少し疲れてしまったけど、愛しい人の可愛い顔を見ればそれも和らぐ。

「大丈夫です。今までしてきたことを償うには足りないくらいでしょう」

「おいおい、全部ふみちゃんが背負うことはないだろう」

 あやめさんが当主様と同じように苦笑いをしながら肩をすくめた。

 なぜか、奇妙なほどによく似ていた。

「どうしてそうしなければならなかったのか。省みて考えたときに初めて、何が悪かったのかが見える。ふみちゃんが輝羽や他の連中を突き放すという結果を作ったのは、きっとふみちゃんのせいだけじゃない」

「それは……」

 どうして私が周囲を突き放すことを選択したのか。その結果に至る前の過程に存在していたのは、苦しみと痛みが伴う姉の暗い影と、遠い両親の姿だった。

「根本、本質は一体何だったのか、そこに至るまでの過程はどうだった? ……ま、執事さんには何となく分かるがね」

 私の肩を強めに叩いて、目元をぎゅっとして笑った。

「ランチの用意ができたら呼ぶ。美味いもん食わせてやるぜ」

 ひらひらと手を振りながら、あやめさんがホールから真横に伸びる長い通路へ向かって歩いて行く。

 根本や本質。あやめさんの言っていることは理解できる。

 でも、根本にある原因を知ったとして、状況を変えられる保証はどこにもない。

 それでも根本や本質に目を向ける必要はあるのだろうか。

「状況が変えられなくても、私自身が変われなくても、根本や本質を見返す必要はありますか? 見返す意味は、あるのでしょうか」

 歩いていく背中に声をかけたら、振っていた手を下げて足を止めた。

「大いにある」

 振り返る。

 あやめさんは当たり前だぜ、と笑っていた。

「生きるってのは、そういうことだ」

 確信に満ちた、力強い言葉だった。

 あやめさんがまた背中を向けて歩き出す。当主様に負けないくらい、堂々とした後ろ姿だった。

「素敵な執事さんですね」

「自慢の執事だよ。紅羽には『キャンディーばっかりの甘ちゃん』だって言われるけどね」

 首を傾げたら、あきちゃんが口を押さえて小さく笑った。

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