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桜沢さんのお嬢さま  作者: 松山みきら
第1章 生意気な後輩 -桜沢文音-
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 二年生になった年の春。入学式も終わって数日が過ぎ、一年生も少しずつ学校に馴染んできた。放課後、委員会に部活にと奔走する初々しい後輩たちの姿を眺めながら、昇降口の隣から伸びる渡り廊下をゆっくり歩いていた。一年前の私も、先輩や先生たちからこんな眼差しで見守られていたのだろうか。駆け回る一年生へ嫉妬を含む羨望を覚えて、女々しい視線を切った。窓が開け放たれた渡り廊下に風が吹き込み、首の後ろで一本に結った長い髪が風に吹かれて揺れる。肌に触れる風は冬の鋭さを失い、撫でるように優しいものになっていた。春風は時折、校舎を彩る桜の花びらを運んでくる。切った視線を床へ落としたら、迷い込んだ桜の花びらたちが私を見上げていた。

 渡り廊下を進み、王の字で建つ校舎から離れて、孤独に佇む寸胴の建物へ向かう。狐色に焼けたこの建物は、一階に被服室と調理室があり、二階が図書館となっている。教室からの距離も遠いから、図書館を利用する生徒は少ない。この建物がどうして離れのように建てられたのかは、司書の先生も分からないらしい。狭い階段を上ったら、両開きの木製扉が私を迎えてくれた。金色のドアノブには黒いプラスチックプレートがぶら下がっていて、『開館中』と白文字で書かれていた。

「ふう」

 一呼吸してから、図書館に入った。入ってすぐ、右手にあるカウンターの奥でパソコンとにらみ合っているふくよかなシルエットの先生に声をかけた。

荻野おぎの先生」

 パソコンから目を離して、丸い顔が持ち上がった。私の姿を認めると、おたふくみたいな笑顔が返ってきた。

「あら、桜沢さくらざわさん。毎日図書館にいるけど、大丈夫? たまには早めに帰って、お家の人を安心させてあげなくちゃ」

「今日は私のクラスが当番日」

 カウンターに置いてある、卓上コルクボードを指差す。今日の当番は『二年三組』と、ラミネートシートで作られた札がピンで留められていた。荻野先生も席を立ってコルクボードを一緒に確認する。丸い縁のメガネを指先で直しながら、明るい声で笑った。

「やだ、ホント。毎日図書館に来てるから、桜沢さんのクラスだけ当番の日が分からなくなっちゃう。今日も相棒さんは一緒じゃないの?」

 委員会は二人一組が基本で、図書委員も私の他にもう一名いる。幼い頃からずっと同じクラスの、私の幼馴染だ。しかし、彼女は部活へ出席するため、図書当番は休むことになっている。

「相棒は部活。部長、委員会があっても休ませてくれないし」

「気難しい人ねぇ。先生たちも強く言えないから、悪循環だって聞いたわよ。だから、桜沢さんも文芸部、辞めたんでしょう」

 荻野先生は腰に手を当てて、心底残念そうに首を横に振った。面倒な話題になりそうだったから、肩をすくめた。

「もう忘れた」

「あらあら。先生なんかより桜沢さんの方がよっぽど大人ね」

 苦笑いする先生に手をひらひら振り返して、図書当番の仕事に取りかかった。


 私はさくらざわふみ、図書委員会所属の二年生だ。一年生から続けていて、今年で二年目になる。図書委員と聞けば地味な印象があるかもしれないけど、意外と仕事は多く、やりがいがある。昔から本が好きで、本のそばにいたい私にとっては最高の委員会だった。

 文芸部を辞めて以来、放課後は図書館で過ごすのが私の日常となっていた。背の高い本棚は、まるで深い森に並び立つ苔むした木々たちのようだ。誰にも気づかれずに、誰にも気づかずに、草木生い茂る森の奥底に閉じ込められたい。不気味な静寂を湛える森の中、たくさんの本を読んで、文字を読んで、私を眠らせる。図書館は、弱い私の心を守ってくれる。できそこないの私を守り続けてくれる。図書館という森の中、瘴気にあてられ酔わされたい。本の中に組み立てられた幻想に意識を沈めて、ずっと夢を見ていたい。

 図書館だけが、私の居場所なんだ。

 先生と一緒に仕事を片づけた後、カウンターで当番をしながら本を読んでいた。早速、意識を幻想の世界へ沈めていく。読み取る文字から浮かぶ色鮮やかな風景。幻想の世界を生きる主人公たちは、私に一時の夢と希望を与え、慰めてくれた。

 いつか、物語の英雄みたいな力を手に入れて、苦難を乗り越えて、大勢の人間から慕われるようになる。幼い頃に見ていた夢は、やがて叶いもしない幻であると知り、自分自身が英雄になれないことを知る。呪文を唱えて変身することも、魔法を放つこともできやしない。でも、彼らと物語を共にすることはどこか快感で、私自身も強くなったと錯覚させた。毒にやられて麻痺した意識が、現実からどんどん遠ざかっていく――。

 そのときだった。

「……せん。すみません」

 沈んでいた意識の向こうから、冷涼で澄み渡る声が聴こえてくる。溺れかけた意識が美しい声に繋ぎとめられ、息を吹き返した。

「貸出をお願いします」

 本から視線を外して顔を上げると、とても華奢で小柄な少女が立っていた。切り揃えられた、腰まで伸びる艶やかな黒髪、青白くも見える色の薄い肌と、釣り目がちな瞼、血のように深みのある赤い瞳。柔らかく微笑む少女は、見覚えがあるような気がした。

「ん」

 読んでいた本に銀色のしおりを差し込んで、カウンターの脇に置く。少女は本を差し出しながら、赤い瞳を優しく細めた。彼女が持ってきたものは紺色の本。タイトルは――ああ、読んだことのある長編小説だ。

「とても集中されていましたね。失礼しました」

 また、爽やかな風のような声が私の向こうに抜けていく。清澄な声は、涼しい湖畔や清水を感じさせる。少女が声を発するたびに、身が清められる感覚すらした。でも、表情には出さない。表情も反応も薄い方が、相手の方から遠ざかってくれるから。

「……学生証」

 これでいい。関わる人間は最小限でいい。早く貸し出しを済ませてしまおう。

 図書館の貸出や返却の手続きはすべてパソコンで行う。貸出に必要なのは生徒の出席番号と、本に貼り付けられたバーコードの入力。パソコンを操作して、貸出画面を立ち上げたら、少女から差し出された真新しい学生証を受け取った。学生証の写真を本人と見比べて、更に彼女が身に着けている制服のリボンも確認する。胸元できれいに結ばれたリボンは赤色。今年の一年生に与えられた色だ。学生証には、リボン通り『一年一組』と印刷されていた。出席番号を入力して、画面に表示された氏名と学生証の氏名を確認する。両方とも『棘科とげしなあき』となっていた。

――棘科?

「えっ」

 驚いて、カウンターの前で微笑んでいる少女をもう一度見た。赤い瞳は変わらず、優しく細められたまま私を見つめている。

 棘科とげしな家とは、古くからこの土地を守り続けてきたとされる守護者の末裔で、大富豪。棘科グループという名の下にたくさんの大企業を抱え、国内のみならず海外でも活動の場を広げている。棘科家の当主で棘科グループ代表の棘科とげしなくれは若い慈善事業家として知られ、芸能人やアイドルのような人気だ。もちろん、町の住民たちにも当主様、富豪様などと呼ばれて慕われている。

 そして、棘科輝羽といえば、その棘科家当主が溺愛する妹。多忙な姉に代わって、地元の催しやお祭りに参加し、地域を盛り上げるために一役買っているとか。私も何度か地方紙で写真を見たことがあるけど、まさか、本人が目の前にいるなんて思わなかった。

「棘科輝羽? え、本物?」

「はい。本物です」

 冗談でしょ。

 心の底から面倒だと感じた。滅多に人の訪れない我が校の図書館に、よりにもよって大富豪の妹が、大富豪家のお嬢様が本を借りに来る。桜沢文音の不幸や不運は昔から変わらず、面倒なことばかり持ってくる。

 そうだ。昔からそうだったと、よく覚えている。私のやることなすこと、声、言葉、仕草、存在、すべて否定されたものだ。トラブルメーカーになることを避けて人々から離れても、面倒や暴威は向こうから私を探してやって来る。だから私は物語の登場人物に憧れて、幻想の世界に溺れたいと願ってしまう。彼らはどんな面倒ごとも、困難なことも乗り越えて、その先にある栄光を手にする。彼らは物語の中だけでなく、現実世界に生きる私にとっても英雄だった。

 しかし、いくら憧れても、私が英雄になることは絶対にないのだ。

 うつむくと、貸出処理を待つ紺色の本が見えた。

「棘科家の人間がここにいるのは不思議ですか?」

 苛立つくらいにきれいな声。うつむいた顔をのっそり上げて、棘科輝羽に視線を戻す。優しい眼差しと、微笑みがずっと私を見ていて、外れていなかった。彼女の目力めぢからときたら強くて、赤い瞳が向ける視線は目から脳に入り込み、私のすべてを見透かしているのではないかと思った。

 ああ、そういえば。

 棘科一族も、民話や伝説に語られる英雄だった。

「……別に」

 素っ気なく、かつ冷酷に言い放ってパソコンから伸びている白いバーコードリーダーを手に取る。出席番号の入力と確認は終わったから、本のバーコードを読み取れば貸出は完了する。

 そこで一瞬手が止まった。

「…………」

 バーコードリーダーを持つ手が汗ばんで、震えていた。

 ここ数年、こんな風になることはなかった。シラけたつまらない自分は周囲に無関心になって、緊張するほどの場面に遭遇する機会もなくなっていた。緊張とは無縁だと思っていたのに、棘科輝羽の登場に緊張しているのか。震えを押さえ込みながら、どうにかバーコードを読み取って、キーボードのエンターキーを押した。

 これで、貸出処理は完了だ。

「ほら。貸出期間は今日から一週間。返却もここのカウンターで」

「分かりました。……あ、そうだ。図書館の中で勉強をすることは可能ですか?」

「可能」

「よかった。自習室は息苦しくて」

 私が差し出した本と学生証を受け取りながら、小さくうなずいた。

 自習室は机と椅子がパーティションで細かく区切られていて防音性も高いから、集中して勉強をするには最高の環境だ。でも、私には自習室が孕む、鋭くて冷たい沈黙が苦痛にしか感じられなかった。

 私の居場所は図書館だ。読書をするのも、勉強するのも、図書館がいい。

「……あの部屋は、何か違うよ」

 つぶやいて、目は合わせず、更にうつむいてそう言った。棘科の目力は強すぎるから、目を見て話すのは危険だ。直視すれば視線を捉えられて、私がシラけた人間になった理由まで読み取られてしまいそうな気がする。無表情を維持するのが大変だった。

「先輩も苦手なんですね。自習室の静けさは、攻撃的な感じがします。静かなのに攻撃的というのは、おかしな話かもしれませんが」

 先輩と言われて、うつむいていた顔を上げてしまった。

 赤い瞳と目が合った。

 首を動かそうとしても、目を逸らそうとしても、動けない。

――ほらね。やっぱりつかまれた。

「先輩、ですよね? リボン、青色ですから」

 確認するように、棘科が自分のリボンをつついた。私のリボンは青色。青いリボンは二年生の色だ。

「お名前、教えてください」

 棘科輝羽から視線が離れない。青白い肌、艶やかに流れ落ちる黒髪。すべてがこの場所に似合わない、異質な存在感。どうして意識を囚われるのか理解できなかった。シラけて無関心だとか言ってたくせに、どうしてこいつにだけ。

「……桜沢文音。二年、三組」

 二の腕から背中に向かって、寒気に似た、嬉しくて寂しい波が走り抜けて、身体がぶるっと縮み上がった。

 何だよ、これ。名乗りたくもないのに名乗ってしまったじゃないか。

「ご丁寧にありがとうございます。一年一組の棘科輝羽です」

 もう、ご存知でしたね。

 そう言ってまた微笑む。瞼が優しく細められても、赤い瞳は輝き続ける。豪奢な額縁に入った絵画のように鮮やかな少女は、絵画の向こうで微笑み、私の目に焼きついて褪せることのない色を残した。

 どうしてこうも目を奪われるのか。身体に沸き立つ寒気は何なのか。目を合わせるのが大変だったはずなのに、目が離れない。息を呑んでばかりで、呼吸ができない。今までに感じたことのない緊張が四肢を凍らせていた。

 そして、もう一つ。

 緊張とは別の感情が身体の中心で小さな音を立てていた。音が鳴るたびに、ぞわり、ぞわりと寒気を運んでくる。

 私には受け止められない、切ないもの。

 初めて経験した感覚に、何一つ適切な言葉が出てこなかった。

「では、失礼します。奥のテーブルをお借りします」

 私に一礼し、踵を返した。

 図書館は意外と広い。一定間隔で設置された本棚たちを中心に、それを囲うように四人がけ、二人がけの席がいくつも並んでいる。貸出カウンター前は六人がけの長机も何台かあるけど、棘科は手前の席には目にもくれず、まっすぐに本棚の向こうへ歩いて行った。あの本棚の向こうには二人がけの小さな席があって、貸出カウンターからは見えない。私が図書当番以外で図書館を訪れるときは、よくその席を使っていた。どうやら今日は指定席を取られてしまったようだ。

「別に、いいか」

 口の端からぽろりと漏れた。

 この日も図書館は静かだった。訪れたわずかな生徒は、電車かバスを待っていたのか、問題集やノートを広げて少し経ったら何も借りずに出て行ってしまった。自習室が苦手な生徒は私や棘科以外にもいるみたいだ。

「…………」

 棘科と話してから、手元に広げた幻想の世界へ潜れなくなった。少し文字を読んでは顔を上げて、また少し読んだら顔を上げて。あいつが消えた本棚の向こうが気になって、何度も何度も目を向けていた。本に囚われていた私の心を、たった一度の邂逅でつかんでいった。端麗な容姿のせいか、棘科家という血筋のせいなのか。棘科が存在している図書館は、靄に覆われた薄暗い森ではなくて、朝陽が差し込む聖地にすら思える。

「バカ。何言ってんだか」

 言葉にし尽くせない感情を振り払うように頭を振った。こぼれたつぶやきに、ほんの少し顔が熱くなる。こんなに気にするなんて、どうかしている。大富豪のお嬢様と会話できて、舞い上がっているとでもいうのか。

 集中できなくなって、本に銀色のしおりを挟んで閉じた。このまま読み続けても物語の内容なんて理解できそうもない。落ち着くまで幻想への扉は閉じておこう。小さくため息をついたら、後ろで作業をしていた先生が席を立つ音が聞こえた。

「ちょっと職員室に行ってくるわね。先生が戻ったら下校してちょうだい」

「ん」

 だらしなく返事をしたら、先生がおかしそうに笑った。

 荻野先生が書類の束を抱えて図書館から出て行く。左手につけたシルバーの細い腕時計を見たら、十七時十分を指していた。図書館の閉館時間は十七時三十分。私の居場所に滞在できる時間も残りわずかだというのに、結局、集中して本を読むことができなかった。自分自身も崩されそうになって、踏んだり蹴ったりだ。沈んだ気持ちのまま家に帰るなんて残念でならなかった。

 白い本を両手で握り締めてうつむいたら、遠くの本棚から物音が聞こえた。顔を上げると、赤い瞳と目が合った。黒革のスクールバッグを肩に下げて、棘科がこちらへ向かって歩いてくる。図書館を出るときは貸出カウンターの前を通らなくてはいけない。通り過ぎるだけかと思ったら、華奢な少女は目の前で足を止めた。

「今日はありがとうございました。また明日も来ます」

「ご自由に」

 この女を直視すると私のリズムが崩されるからそっぽを向いた。私は図書委員としての務めを遂行しただけだ。態度はさておき、与えられた役割は果たしている。感謝されるようなことでもない。

「ごめんなさい。図書館が好きなので、図書委員会の方とは親しくしたいと思って……」

 委員会なんて毎年変わる。執行部辺りは例外としても、この学校じゃ三年間通して同じ委員会に所属する生徒の方が稀だ。私みたいな変人とかね。いずれにせよ、一年なんてすぐに終わる。仲良くしたところで何か変わるのか。

 バカなやつだ。

 こんな変な女と親しくしようとするなんて。

「知らないよ。勝手にしたら」

 それくらいしか言えない。言いたくない。棘科に関わると、考えなくてもいいこと、感じなくてもいい感情が湧き出てきて、ドライでいたい自分が崩されていく。余計なことを考えないためにも、棘科には私から離れてもらう必要がある。

「ふふ、そうですね。分かりました、ではそうします」

 突き放したはずなのに明るい返事。棘科を見上げたら、笑っていた。微笑みとも、満面の笑みとも違う。元気を感じさせる、しっかりとした笑顔だった。

「……おやすみなさい、先輩」

 目元を妖しげに細めて、華奢な背中が図書館を去っていく。

 去り際に見せたあの目と声色は、私を誘惑するように艶かしかった。


 棘科紅羽の妹がこの学校に入学したらしい。

 そういえば、そんな噂が教室で囁かれていたことがあった。教室でも相変わらず本を読み続ける私にはあまりにも遠い世界の話だったから、今までは気に留めていなかった。でも、今日は違う。棘科と出会った翌日の休み時間、本を読んでいる私の意識は妙にはっきりしていた。手元に広げる幻想の世界へ入れないまま、物語が止まっている。まどろみに似たあの感覚がいつまで経っても訪れない。女々しく周囲の話し声に耳をそばだてて、高貴な少女の名前を探している。探し物は探しているときに限って出てこないものだ。今日の休み時間はいくら耳をそばだてても、棘科の名前は聞こえなかった。

「ページがめくれてないよ、ふーみん」

 無邪気な少女の声が正面から聞こえた。この学校で私を『ふーみん』と呼ぶのはただ一人だけ。顔を上げると、ワンサイドアップの女子が腕組みをして私を見下ろしていた。皺の寄った紺色のカーディガンを着て、そのポケットからは音楽プレーヤーのイヤホンがだらしなく飛び出ていた。

「……ゆき

 童顔でぱっちりとした瞳。可愛らしい顔つきだから、こうして不敵な笑みを浮かべるとイタズラを企んでいる幼子みたいだった。

 彼女、神城かみしろゆきは、幼稚園からの友人。ただの友人ではない、心を許せる、幼馴染。図書委員会での相棒とは彼女のことである。明るくて行動力もあって、卑屈で引っ込んでばかりいる私と何もかもが対照的だった。

「ほほほ、読書が進まないほどの大イベントが発生したのかなぁ。さあ、白状して楽になりなっ」

 ずいっと顔を近づけてきて瞼をぱちぱち。本当に幼い子供のようだった。

「別に何も」

「それは嘘だ! ふーみんが読書中断するレベルだし。さあ、白状しろっ」

 前の席から椅子を持ってきてどすんと座る。白状するまで動く気はないらしい。喚き立てられるのも迷惑なので、ため息をついて、止まり続ける物語にしおりを挟んで閉じた。

 昨日の出来事。放課後、私の居場所に現れた、高貴な少女。瘴気に満ちた森で眠る私を見つけて、まどろみから目覚めさせた人。無関心でいたい私の心を乱して崩しかけてきたから、突き放そうと必死になったのだった。

「棘科輝羽と話をしただってぇ!」

 椅子ごと倒れるのではないかと思うほど、オーバーリアクションで後ろに引く。周囲に聞かれたら面倒だから、すぐに手を伸ばして彼女の口を手でふさいだ。

「やかましい」

「むぐぐぐ」

 ゆっくり手を離すと、雪が詫びながら苦笑いを浮かべた。

「ごめんごめん! ボクってばすぐ声が大きくなるからいけないね……。んでぇ、やっぱり大イベントだったわけですが、ミス無愛想はどう弁解するのかな。今なら駅前のドーナツ二個で手を打とう」

 何とも饒舌な親友だ。ちゃっかりドーナツでの和解も提示している。そんな取引に応じるつもりもなければ、弁解するようなことでもない。

「弁解する必要なんてあるの?」

「くっ、この余裕! 有名人と話しておきながらっ」

 そう振舞えるのは雪の前だからであって、棘科と話をしたときは緊張して手が震えて、手汗も出たほどだ。思い出すと悔しくて、叫び出したくなる。本のページもめくれず、物語は昨日から二、三行程度しか進んでいない。あのわずかな邂逅で心を乱されているのは事実だ。雪にはすべてを話してもよかったのに、なぜか、必死に隠そうとする私がいた。昨日の放課後に感じた想い、私の中に浮かんだ感情の数々、棘科の言葉。

『分かりました、ではそうします』

 去り際の妖しげな笑みと声が瞬く。

 親友にすら言えない、この切ない感情。

 切ないのに、こんなにも心地いいのはどうして?

「あ~あ。作品も完成したし、部活サボって図書当番行けばよかったなぁ。うん、文芸部はさっさと辞めるべきだなっ。うん、決めた、お昼休みに退部届出してこよう。ボクも棘科輝羽に会いたい」

 雪が頭の後ろで手を組んで、天井を見上げた。昔から決断も行動も早いとは思っていたけど、文芸部を辞めるならしっかりした理由を携えておくべきだ。あの部長は普通の人間じゃない。狂人だから。

「文芸部を辞めるのは賛成できる。退部届を出すなら、ちゃんと理由を整えないと部長に噛みつかれるよ」

「その辺は大丈夫! 今書いてるお話が完成したら辞めるつもりだったから、退部届も用意してあるんだ。今の文芸部つまんないし、ふーみんもいないし、残る理由は一切ないね! 図書当番しつつ、学校外の部活でも探そうかなぁ」

 文芸部。入学したての頃、雪に誘われて一緒に入部した部活だった。最初は余計な人間関係を増やしたくないと言って断ったけど、雪の熱心な勧誘と、部員も少なくて大きな活動をしていない事実を知って、仕方なく入部してやることにした。

 活動内容は単純だった。本を読み、創作する。部員同士で交換して読み、評価しあって研鑽していく。コンテストに応募して、結果に一喜一憂する。我が校の文芸部は目立たない部活で、細々とした活動でも静かに毎日を過ごしていた。

 しかし去年。当時文芸部に在籍していたある先輩が、逆恨みで吹奏楽部員の楽器を壊すという大きな問題を起こした。それ以来、もともと目立たない部活だった文芸部は校内での信頼を失ってしまった。吹奏楽部からのフォローもあり、文芸部が他の生徒たちから糾弾されることはなかったものの、現在の部長は文芸部の信頼が失われたままではよくないと、極端な活動を行うようになった。

 それは、文芸公募に異常ともいえる量の作品を提出し、結果を収めること。

 毎週の休日は当然返上、学業にも支障が出るほどのノルマ。部員や顧問教師を人格から否定し、残酷な言葉で抑えつけ、部長は結果を出せと繰り返し続ける。今までの雰囲気に慣れていた部員や活動内容に納得できない部員は続々と辞めて、在籍する部員はわずかとなった。残った部員は部長を恐れているか、どうでもいいと投げやりになっているかのどちらかだと思う。

 文芸部の汚名を返上し、信頼を取り戻す。その目標に理解できる部分はあった。でも、部長に恐怖しながら、中身の伴わない作品を作り続けることに納得できなかった。そんな活動で結果が出せるとはどうしても思えない。実際に、送った作品が汚名返上に至るほどの受賞をしたことは一度もない。

 なんてことはない読書や創作活動が、あの部活に所属しているだけで苦しみに変わる。学校生活のすべてが苦痛で嫌になるほどだった。

 一方で、吹奏楽部は去年の大規模なコンクールで金賞を受賞、その後も地方コンクールや演奏会などで一位や金賞を総なめするというすばらしい成果を収めている。華々しい成果の陰では、オーディエンスとして吹奏楽部を支え続けたある先輩の存在があった。その先輩は、放送部のインタビューにこう答えている。

『みんなの思いやりが、結果に繋がったんです』

 先輩は楽器を壊された奏者のそばに寄り添って支え続けた。部員たちは、その先輩をオーディエンスとして受け入れ、たった一人のオーディエンスでもすばらしい演奏を聴かせようと努力し続けた。吹奏楽部と先輩の思いやりは実を結び、輝かしい栄光への道を切り拓いた。

 努力と思いやり。

 文芸部のそれは、努力と呼べるものだっただろうか。

 思いやりと呼べるものだっただろうか。

「ふーみん? どしたの?」

 童顔が私を覗き込んでいた。

 私と雪は、幼い頃から何をするにも一緒だった。同じ地区に住み、同じ学校へ通い、同じ部活、同じ委員会に所属した。同じ時間を共有し続けて、私たちの間にはいつからか、親友と呼べる繋がりが芽生えていた。周囲を疎んで人間関係を最小限にした中で、雪だけは納得して認められる。今回、文芸部の環境が変わって面倒な毎日になったときにも、親友の存在が心の支えになったのは言うまでもない。

 でも、親友という支えがあったのにもかかわらず、私は耐えられなかった。雪よりも先に心が折れてしまった私は、親友を文芸部に残したまま、先に辞めてしまったのだ。

 わずかな人間関係の中、たった一人の親友すら気遣えなかった。

 思いやりがないのは、私も同じか。

「……何でもないよ」

「ふーみんがそう言うときって、大抵何かあるときだよね」

 声量を急に下げて、雪が姿勢を正した。背を少し伸ばして、私を見つめてくる。幼さの残る可愛らしい顔立ちが、いつになく真剣だった。

「ふーみんが小さい頃から悩んでたのは知ってる。だから、今から愛想よくしろとか、友達増やせとか、無茶振りはしないよ。でも、でもね」

 言いながら、身体をひねって黒板の上にある時計を確認する。雪の目が時計を捉えると同時に、親友との時間を断つチャイムが教室に響き渡った。

「ボクたち、幼馴染じゃん。もうちょっと頼ってよ」

 雪が椅子から立ち上がって、カーディガンとスカートを正した。しかし、相変わらずカーディガンのポケットからはイヤホンが覗いている。

「早死にしそうだね、あんた」

「ボクから見ればふーみんの方が早死にしそうだよ。放課後、図書館一緒に行こうねぇ」

 ニコニコと笑い、軽く手を振りながら自分の席へ帰っていく。一つため息をついて、まったく読めなかった本を机の中に片づけた。代わりに授業で使う教科書と筆記用具を取り出していたら、ちょうど背の低い女性教師が入ってきた。

 気持ちを切り替えて、授業に集中しよう。

 棘科のことも、文芸部のことも、考えたって何のためにもならないのだから。


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