空の音色
好きな人ができるって、どんな感じなんだろう。
オレンジジュースが入ったグラスのなかの透明な氷が、カランと高い音をたてた。
隣で首を回す扇風機の風が、髪の毛をなびかせる。
八月のとある日。暑い暑い中二の夏休み。
『彼氏ができたんだ』
『あの人、結構いいよね』
友達の間で交わされる恋バナの数が、急に増えてきたのは今年の春。
恋愛のレの字も知らない私にとっては、遠い世界の話で、そんな遠い世界の話をする友達が遠くへ行ってしまったように感じていた。
その河原を通りがかったのは、母親から頼まれていた買い物から帰る途中のことだった。
暑い午後の日差しの下で、河原の草むらの向こうになにかが光ったのが見えた。
なんだろうと目を凝らしてみると、揺れる下草の間に誰かが立っていた。そしてその手に持っているものがまたきらりと光を反射した。
なにげなくその光景を見つめていると、次の瞬間、驚くべきことが起こった。
高らかに響き渡る管楽器の音。
時に誇らしく。
時に力強く。
突然なんの前触れもなく、その音色は私の心の奥底に響いてきた。
びっくりしてその場で立ち止まり、しばらくその音に聴き入る。
荒削りながら、なにか心を捉えて離さない響き。私はなぜかそこから離れることができず、誰がその音色を奏でているのかが無性に気になった。
河原のほうへとおりていき、音の主のほうへとそっと近づいていく。
黄金色に光るのは、トランペットだろうか。それを空に向けて掲げていたのは、私とそう年の変わらなそうな少年だった。
私が様子を眺めていると、しばらくしてふいに管楽器の音色が止まった。その音に聴き惚れていた私は、音が止まったことに気づいて少年のほうをまじまじと見つめた。
少年はどこか痛みを堪えるような顔つきで、顔を伏せるようにしていた。なぜかその姿から私は目を離せず、足が地面に縫い付けられたように動かなかった。
どうしたのだろう。どうして吹くのをやめてしまったのだろう。
そのとき、生暖かい風が私と彼の間を吹き抜けていった。風に煽られ、私の持っていたビニールの買い物袋がカサカサと音を立てた。その音で、初めて少年も私がそこにいることに気づいたようだった。
不思議そうにこちらを見詰める彼の様子に、私は気まずくなり、辺りに目を泳がした。そんな私の耳に、次の瞬間思っていたより低い声が聴こえてきた。
「今の……聴いてた?」
はっとして視線を彼のほうへと合わせると、どこか真剣な表情でこちらを見る少年の姿があった。
「う、うん」
それだけ言うのに、ひどく緊張している自分がいた。返事を聞いて、彼は少し間を空けてから重ねて問うてきた。
「どう……だった? 今の」
「え……」
まさか感想を聞かれるとは思わず、どう答えるべきか戸惑う。
なかなか答えない私を、しかし彼は我慢強く待っていた。
「なんていうか……空と会話してるみたいな音色だった……」
そう答えた私に、彼は大きく目を見開いてみせた。
「空と……?」
「うん。でも、途中からは少し元気がなくなってしまったみたいに感じられたかな」
悩んだ末に、正直な感想を述べていた。彼の演奏は、ものすごくうまいというわけではないことは、素人の私にも分かった。けれど、それでも人の心を掴んで離さないなにかをその音色に感じた。
だからこそ、こうしてこの場に私は留まっているのだ。
けれど、途中からその音色が迷いを帯び、勢いをなくしてしまったことに気付いていた。
それがなぜなのかはわからない。けれど、彼が演奏をやめてしまったことが、ひどく残念に思えた。
彼は私の感想を聞いて、しばらく黙ったままなにかを考えるように唇を軽く噛んで川の方向に目を向けていた。そして、しばらくしてようやく、彼はこう口を開いた。
「わからないんだ。自分がどう吹けばいいのか」
彼はまだ視線を川に向けたままだった。
「今までは楽しければいい、自分が気持ちよければいいって思って吹いていたんだけど、それだけじゃ他のうまいやつらに追いつけないってわかって……」
彼のその言葉で、私はようやく理解した。最初の楽しそうなトランペットの音色と途中からの迷いを帯びた音色の違いに。
私には本当の意味で彼にアドバイスなどはできないだろうということも。
きっと私が想像するよりもたくさんの努力を彼はしているのだろう。思い通りにならない悔しさを知っているのだろう。
楽器のことなんてなにもわからない。私の薄っぺらな感想なんて、きっとなんの役にも立たないだろう。
だけど、それでも。
これだけは伝えたいと思った。
「でも、私はあなたの演奏、とても素敵だと思った」
すると、彼はまた私のほうを向いて大きく驚きの表情を浮かべた。
「もっと聴きたいって思った」
彼はしばらくじっと私の顔を見詰めていた。
そして、太陽のきらめきを浴びながら、ゆっくりと笑みを浮かべたのだった。
「ありがとう」
眩しくて目が眩みそうに感じたのは、きっと夏の日差しのせいばかりじゃない。
心がキュッと音を立てそうな。なんだか少し苦しいような。
そんな感情を私は生まれて初めて感じた。
ただ、彼が微笑んだこと。そのことがこんなにも嬉しいなんて。
私はそのときはっきりとそれを自覚していた。
今初めて会っただけの少年に、どうしてだかとても心が惹きつけられている。
きっとこれが私にとっての――。
「ねえ、またここに来る? ときどき俺、ここで練習してるから、よかったらまた感想聞かせてよ」
そう言う彼に、私はドキドキしながらもこくりとうなずいていた。
「あ、そうだ。まだ名前聞いてなかったよね。俺は……」
空がどこまでも青かった。
透き通るような美しい青に融けるトランペットの音色。
空色の伸びやかなその音色をまた聴きたい。
「私の名前はね」
この日の空の色を私はずっと忘れないだろう。
彼の奏でるトランペットの音色とともに。
<終わり>
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