御山剣璽
生地の薄いカーテンから朝日が緩く差し込む部屋の中で少年、御山剣璽はベッドの上で寝転がっていた。
極めて整っているという訳でもない普通な顔。少しだけ硬そうな短くも長くもない当たり前の髪形。年齢平均に逆に合わせたような平均的な体躯。どこまでも普通で普遍な、否、不変な見た目だった。
そんな彼が横たわるベッドの脇には無骨、というよりは至ってシンプルなデザインの日本刀が立てかけられていた。黒塗りの鞘に、同じく黒染めの糸で巻かれた柄。御山剣璽同様にこれと言った特徴が何もない日本刀だった。
そしてその柄に欠けられているのは同様に無骨な黒色なゴーグルだった。軍用デザインでこそあれ、その使用目的は下手な電子端末以上に広い。現時刻の表示をもちろんとして現在位置情報、心拍、目標位置の表示、メッセージ受信や無線通信。どころか夜間や視界不良にも対応できるように暗視、音感視認状態への変換も可能と来ている。その目的はあまりにも広く、汎用性は大きい。昨今の科学力の粋を集めていると言って良いかもしれない。
そしてそんなベッドの上で横になっている御山剣璽は光に目を細めながら呟いた。
「学校行きたくない……」
……
酷く子供じみた呟きだった。だがこれでも彼はこの世界においては強い。あまりにも。
この世界には二つの顔が存在する。
一つ、平和に何事もない日々を過ごす一般人が生活する顔。
一つ、前者を陰より支え、それを脅かす存在を武力とその命でもって排除する顔。
その二つだ。だがしかし、前者が後者の存在を知ることはないし知られてはならない。無意味だからだ。前者、ここでは『表側』と表現しよう。表側にも軍隊は存在するが、しかし彼らはどうだろうか?戦争は正義か?善良か?否だ。確かに戦争はあくまでも国家のため、国民のために行われている物だ。だがそれでも本質は殺害。いや虐殺による暴力だ。
故に戦争は否定されがちである。それは表側の市民による声だがしかし、そして重ねて故に、それが抑止力となっている。つまり本来通りの戦争が行えているとは言えないのだ。国際法上仕方がないとも言えるが。
だが裏側の者、御山剣璽のような者たちは違う。彼らは表側のように戸籍や国籍などは存在しない。どころかそもそもが存在していないはずの人間たちだ。そんな彼らの存在価値、理由とは何だろうか?殺戮だ。殺すために存在している。そんな彼らには法律は存在しない。上が命令を下さばそれが誰であっても殺害して見せる。言わば、それが法律なのだ。
そして当然そんな中でも彼らは感情や思想を持ち、世界に抗おうとする者が現れるのだ。戦い死ぬだけの人生だ。それを否定したくもなるのだろう。そんな彼らは正規に命令を受けた者とは別の戦力として動き、世界への打撃を目論む。そんな者達を撃滅するのが正規の者たちだ。
そして後出しになるが表側の軍隊、軍人が行っている戦争は極論で言うならパフォーマンスだ。表側の国家は全て協定を結んでおり、裏側の人間により操作されている。そして当然だが表側の人間にも何かしらの個人的思考により世界への反逆を目論む者が現れる可能性もあるのだ。例としてはテロリストや武闘派自警団の様な者か。それに対する抑止力、牽制として存在するのが表側の軍隊や警察だ。昔はどうか知れないが少なくとも今の形はそうだ。だから常に力を誇示するために表側の軍隊は活動を示さなければならない。だから、パフォーマンス、という訳だ。それで死ぬ人間には言葉もないけれど。
戦い、死ぬだけの存在だからこそ彼は呟いた、面倒くさそうに。
「おやすみなさい」
二度寝である。
仕方がないとも言える。彼は昨晩遅くまで、というよりは明け方まで仕事だったのだから。
勝俣と言われる男からの指令によりとある教育論者の殺害。それが昨晩の任務だった。子供を救う、子供のためといいながら巨額の金を私欲に費やした。勝俣は子供の教育に熱心で表側でも教育委員会において相当な権力を有していると聞く。そんな彼がそんな人間を許容出来るはずもなかったのだ。御山剣璽自身も教育はともかく子供へ対しては極めて優しい。故に彼がそんな任務を蹴れるはずもない。その現状が今の御山剣璽だった。二度寝だった。彼はタオルケットを勢いよく被り直して、瞼を閉じた。
しかし彼が気持ち良さそうに眉を下げて今にも眠りに落ちようとした瞬間、それは大きな音により邪魔されることになった。
「あっはははは!ほらほら花捕まえて見なって!」
「もう、待って。待ってよ樹ちゃん」
扉を勢いよく飛び出してきたのは二人の女児だった。まだ八歳になったばかりな二人の体躯は年相応に小さく姿形が全くもって瓜二つ、まるで鏡のようであった。
西村樹、花。双子である。
やはり年相応、とでも言うのか、姉妹同士で遊んでいるようである。その騒がしさに二度寝を決め込んでいた御山は眠そうな顔でゆっくりと体を起こした。
「んも~お前ら朝からうるさいぞ~。兄ちゃんは寝るんだから遊ぶんだったらリビング行きなさいよ」
「お兄ちゃんも一緒に遊ぶぞ~!」
「……話聞いてた?」
全くもって話を聞かない樹に気だるげな表情を浮かべるがしかし、すぐにベッドから降りて二人の小さな体を抱き上げた。
「よーし遊ぶぞ~!」
「行けえ!お兄ちゃん!」
「高いよぉ……」
御山は二人を肩に乗せ走り出した。自室を飛び出して廊下を突き抜け、リビングに入った。
「どーん!」
「あっはははははは!」
「高いよ~!」
「朝からうるせえ!ああ……頭に響く」
彼らが飛び込んだリビングには多くの人間たちが存在していた。その中の目つきの悪い女性が頭を押さえて怒鳴り散らした。足元に多くの酒瓶が転がっている所を見るとどうやら夜通し飲んでいたらしい。生活習慣が狂っている。
だがそれに対しても御山はへらへらと笑って受け流す。
「やだな~子供は24時間元気なもんなんですよ~」
そう言う御山に女はクソが、と悪態をつくと再びジョッキを傾けた。
女の名前は橘莉桜。女性にしては高めな身長に引き締まった体をタンクトップにショートパンツというラフな格好だ。タンクトップから覗くその肩には大きな銃創があった。20代前半、という若さでアメリカ陸軍特殊作戦群において圧倒的実力を発揮したという過去を持つ猛者である。恐らくその傷も当時の物だろう。もちろんそれも、『裏側』の軍隊だが。
「まあ良いじゃない。彼の言う通り子供はそういうものよ。大人は我慢しなさい」
そんな彼女が座る椅子の、机を挟んだ向かいの席で白髪の女性が御山に同意する様に頷いた。その手には小ぶりのコップが握られている。その中は橘同様酒のようだが橘程呑まれてはいないようだった。
片ノ坂音遠。女性の名前だ。
やはり女性にしては少し高めの身長に細めの体躯。しかしその身体を包む衣装は少し露出度の高い物となっていた。胴体は異常に丈の短い黒のジャケット。その下には胸元にだけゴムの様な生地を巻いているだけで腹部が露わになっている。まるで胸元以外は隠す必要がないかのようである。
そして下半身は橘同様にショートパンツとタイツ。
異質とも言える姿の彼女はしかし、彼女と同様に元軍事だった。ロシア陸軍特殊作戦部狙撃班において歴代最高峰の戦績を残した逸材だ。その戦績は3000m狙撃による敵部隊全滅に始まり、総殺害数は100を超える、超人である。
だがしかしだ。それに対し平然と言葉を投げる彼、御山剣璽はそれをすらも凌駕する、否、この世界の『人類』がすら超越した存在『人類最強』の名で呼ばれている。世界中のありとあらゆる国家に御山剣璽らのような存在は派遣されている。そんな要員は常日頃から戦いに明け暮れ、命を果たしている。そんなこの世界、表裏の存在する世界において裏側に生きる全ての『人間』を差し置き、最強の名を冠するのが彼、御山剣璽だ。だがしかし、彼はやはり、まだ子供だった。
「遊びに行こ~!」
「お~!」
「学校は~!」
そのまま御山は寝間着のスウェットのまま、更には二人の姉妹を肩に担いだまま再びリビングを飛び出した。そして玄関に着くや否や直ぐに腰を下ろしてブーツを履き始まる。
「さーてそれじゃあどこ行く?釣りかゲーセンか。買い物でも良いな!」
「キャッチボール!」
「オーケー!んじゃあグローブとボールだ!」
ブーツを履き終えると御山は下駄箱の横を弄り、グローブらを取り出した。
「よーし行こ~!」
「っこ~!」
樹は勢いよく、花は渋々といった風に靴を履き終え今にも飛び出さんとした瞬間、玄関の扉が開いた。
「おお?」
御山と樹が出鼻を挫かれたとばかりに訝しげにゆっくりと開く扉を見つめると、そこから一人の少女が現れた。
「……こんにちは」
肩ほどまで届く少し色が抜けたような茶髪。小さな体躯を包むセーラー服と学生カバン。如何にも学生然とした彼女の顔は何とも気だるげだった。真っ直ぐ前を見ているのに明後日の方向を見ているかのように焦点が合っていないというか、気が抜けているような、そんな印象を受ける少女だった。
彼女の名前は音無鈴美、少年の同級生だ。
「お~おはよう鈴美!今からガッコ?あ、もしかしたら迎えに来てくれた?ごめん俺今からキャッチボールしに行くんだ。良かったら来ない?」
御山が明るくそう誘うと、「ん~」と考える仕草を取る。が、しかしすぐにゆっくりと首を振った。どうもタイムラグがあるように感じる。緩やかな性格のようだ。
「行かない。私はやっぱり学校行くよ」
「そっか」
「……二人も明日は学校行くんだよ?」
腰を下ろして姉妹と目線を合わせた彼女はあまり感情のなさそうな顔をして言う。だがそれに対しても姉妹は、というか樹の方は知らぬ顔で「気が向いたらね」と言って玄関を飛び出した。
それを見届けてから音無は再び何かを考えるかのような仕草を取る。
「音遠さんいる?」
「ん?いるよ~?何か用事?」
「ううん。挨拶だけしていこうかなって」
「そっか。じゃあ俺行くね。せっかく迎え来てくれたのにごめん」
「いいよ。また明日ね」
「うん、また」
御山は音無に大きく手を振って走り出した。音無もそれを見送って玄関の奥に消えていく。恐らく言ったように片ノ坂に会うのだろう。
とは言え、音無鈴美は一般人である。本来であれば関わり合いになる事すらないはずだ。しかしやはり御山剣璽の人柄なのか。不思議と彼の回りは人が多い。彼の性格は一言で言えば社交的、それに尽きた。職務上はもちろん、学校や地域住民においても彼を知らない者は少ないかもしれない。少なくとも近所では彼の名前は極めて有名である。裏では戦いに明け暮れ、表では一般人としての生活を「普通」以上に送っている。これはこの世界においては酷く珍しい。戦いに明け暮れる者、明け暮れた者というのは往々にして一つの帰結に至る。『それ』が当たり前過ぎて今更別の『普遍』に至ろうとは思えない、だ。
当然とも言えよう。何故なら今までがそれしかなかったからだ。例えばの話をしよう。今まで貧困に苦しみ、その日の食にすら困ったものがある日突然巨額の富を得たとしよう。一生遊んでもまだ余るほどの金だ。
さてここで一つ問題だ。彼はそれを豪遊に使うだろうか?
答えは否である。
過程が過程だっただけに彼は恐らくそれを使用することに対し躊躇を覚えるはずだ。いや恐怖か?金の使い方を知らないのだ。これではまるで貧乏人が無知のような言い方ではあるがしかし事実そうであるとも言える。金の使い方を知っている者は金で金を増やせるものだ。だが彼はそんなことは出来ない。出来ていればそんな状況には陥っていない。だから彼はそんな巨大とも言える富を得ても困惑するだけだ。
極端な例えではあったがつまりはそんな感じだ。今更戦いの無い日々など考えられない、という事。
先の例えでももちろん金の使い方を考え、あるいは覚えて、上に登っていける人間はいるだろう。限りなく少ないだろうが、つまりその限りなく少ない人間が、彼という訳だ。
故に彼はこの世界、裏側の世界で置いては異端として知られている。慕われる異端。
異端。
異常。
最強。
そんな彼はグローブ片手に楽しそうに階段を駆け下りる。その後ろでは今にも気絶しそうな表情で花が息を切らせていた。子供とは言え体力は弱いようだった。
そもそもが西村花は大人しい、というか臆病な性格なのだ。故に姉である樹に連れ回されない限りは滅多に外出もしなければ動きもしない場合があるのだ。それ故動くのには慣れないのだろう。それでも付いてくるのはやはり御山剣璽の人柄か。
「樹ちゃ~ん……待って~……うええ」
どうやら違うらしい。
しかし双子だが性格の不一致がある、という例は多いがしかしこうも違うというのも面白い。樹は花とは正反対だ。奔放その物で余りある体力の発散場所を常に探しているような行動ばかりしている。学校でも男児相手に喧嘩は絶えないし、それでいて休み時間の度に走り回っている。近所の空手道場にも御山剣璽の意向から通っているがそこでも持ち前の体力を発揮しているようだった。
おそらく花はそんな姉の事が心配なのだろう。だからいつも離れずにいると。なかなか姉思いな女の子らしい。
「よいしょ~!」
「ナンバーワ~ン!」
樹と御山剣璽は階段を飛び降りると手を高く突き上げた。子供のように楽しそうだった。
だが直ぐに樹が「うげっ」と鼻を押さえた。
「どったの?」
「煙草臭ーいぞ」
「んん?」
御山剣璽が顔を上げると確かに煙草らしき煙が流れていた。見ると少し離れた喫煙所にて男が煙草を吸っていた。その臭いだったようだ。
樹と花をその場で待たせて御山剣璽がその男に手を振りながら近付くと、男はそれを見て鼻を鳴らして煙草、ではなく、キセルというのか、キセルを吹かした。
「おはようさん銑司さん」
「お前か、御山。ふん、おはよう」
男の名前は樋渡銑司。
年の頃は三十手前と言った所か、長身な男だった。その身体を着崩した袴で包んでいる。そしてその脚には背の高い下駄。風変わりな、時代や季節の一切を無視しているかのような格好だった。しかしそれ以上に目を引くのはその両目を覆っている真っ黒な布だろう。いや真っ黒ではない。何かの呪いだろうか?丁度両目の中心辺りに漢字で『目』と筆で書かれていた。それでしっかりと見えているのだろうか?生地が薄いのか。
「先ほどお前の女が来ていたではないか。迎えに来てくれたのだろう?良いのか?」
「あ~まあせっかく来てもらって悪いなあとは思ったんですが、ま、子供と遊ぶのも大事でしょう」
御山がそう言うと樋渡はふん、と鼻を鳴らして煙を吸って、吐いた。
「煙草、樹たちが臭いって」
「喫煙所で吸っているというのに文句を言われる時代か。いよいよ肩身が狭くなってきたな」
「そのうち煙草無くなるんじゃないっすかね」
御山が茶化すように言うと「そうなれば日本は終わりだな」と頭を押さえた。
「日本の経済は煙草で救われている面も多いというのにな。もし本当にそうなれば日本は更なる貧困へと陥るよ」
「大袈裟ですよ。他にだって色々あるじゃないですか。日本なら例えばアニメとかのオタク?文化ってやつですよ」
「俺はそういう物は解さん。だからどうでもいい」
「そっすか」
御山がそう言ってその場を離れようとすると銑司はそれを呼び止める。
「まあ待てよ最強。少し忠告しておくぞ」
御山が振り返ると樋渡は右手で目元の布を持ち上げて御山を横目で見つめていた。
その目には影が入っているかのように濁っていた。感情がない、というよりは何にも関心を持っていないかのような目立った。
「忠告?学校の事っすか?」
「む?それもあったな。お前がその権力でもってガキどもを学校に通えるようにしたことについて俺はとやかく言うつもりはない。無意味だとは思うがな。だがまあせっかくガキどもにその立場を与えてやったんだ。お前くらいはしっかり通えよ。それが筋だ」
そこで一度言葉を区切って樋渡はキセルを喫煙所の灰皿に叩き付けた。草を落としたらしい。
「そうっすね。明日はちゃんと行きますよ」
「そこは今からでも行くと言う所だと思うがな。まあ良い。次だ」
「はい」
右手で布を押さえながら樋渡はその濁った眼で御山を見つめる。そのまま一度鼻を鳴らして。
「あまり、浸るなよ」
そう、呟くように言った。
その目は変わらず何にも興味を持っていないようであったがしかし、横目でだが真っ直ぐに御山剣璽を見つめている。
それを受けて御山気まずそうに頬を掻いた。
「お前は危うい」
樋渡は御山から視線を外さずに懐から草を取り出し、キセルに詰めた。それにマッチで火をつけ、言葉を紡ぐ。
「お前は誰にも好かれ、愛される。お前自身も誰もを好いて、誰をも愛している」
樋渡は煙を吸って、吐く。
「様に見える」
御山剣璽は更に気まずそうに目線を逸らす。だがそれについても樋渡は意に関せずといった風に煙を吐いた。
「お前は確かに誰からも好かれている。不本意ながら俺もお前は気に入っているよ。だがお前はそうじゃない。向こうでお前を待っている姉妹もそうだし、お前を迎えに来た彼女もそうだ。お前は誰も愛しちゃいない。愛し方を知らないんだ」
「ははは……。そんな事はないんじゃないっすかね」
「自覚がないのかとぼけているのか、どちらでもいい。だが事実だよ。お前は誰も愛せないんだ」
御山は視線を下げたまま拳を握り、震わせる。
「お前の昔を考慮すれば致し方無しとも言えるが、しかしだ。だからこそ、浸るな。お前は今に、多くの人間を巻き込む事になる。大勢が、死ぬことになるぞ」
樋渡はそこで初めて、面倒臭そうに眉を寄せる。それを見て御山は驚愕したような顔になる。
樋渡銑司、彼は滅多にその顔に表情を出すことはない。その顔を覆っている布も相まって何を考えているのか一切感じ取れない。だから、驚愕。というよりも意外、か。
「銑司さんがそんな顔するなんて珍しいですね。何かありました?」
「ただちょっと面白そうな奴を見つけただけだ。俺の人生が面白くなりそうなんだ。だから、邪魔するな。さしものお前でも俺の邪魔をすれば」
樋渡は再び灰皿にキセルを叩き付けてから、御山に向き直った。
「潰す」
その顔を見て、今度こそ御山は驚愕する。樋渡が御山を睨みつけていたからだ。
繰り返すが、樋渡銑司は滅多に表情を動かさない。そんな彼が、明かな怒気を表している。故に驚愕。困惑。
それに一瞬御山は顔が強張り、その頬に冷や汗が落ちる。が、直ぐに御山はそれを押し隠し、笑顔を浮かべる。
「やだな~銑司さんの邪魔なんてしませんて。それに銑司さんが言ったような何かが起こるなら、俺が『何とか』しますよ。絶対に」
「ふん」
樋渡は布を元の位置に戻して鼻を鳴らした。
「それが危うい、と言っているんだがな。まあ良い。ガキどもが待っているぞ。行け」
言って樋渡はキセルと一緒に両腕を袴の袖に仕舞った。
「それじゃあ、また」
「また」
御山は樋渡に背を向けて歩き出した。その先で樹が飛び跳ねながら手を振っている。
「『誰も愛せない』、か……」
御山剣璽。人類最強。あるいは、害悪善意。
彼は最強だった。全ての人類の頂点に立つ実力、戦闘力を持ち、それだけでなく、彼は守るべきものを持ちすぎている。
彼の性格は社交的、と前述したがしかし実際は違う言い方が正しいだろう。
八方美人。
それが的確だろう。誰に対しても何に対しても笑顔を忘れない。常日頃からはもちろん戦闘中もそうだった。どれだけ追い込まれようと、危機的状況に陥ろうと、誰もが諦め、膝を折ろうと、彼だけは屈しなかった。どころかそんな状況すらも、覆して見せたのだ。笑顔で。
誰に対しても優しげで、それでいて、それが一番残酷なのだ。誰にも優しく、しかし自身は誰も愛さない。故に害悪。
確かに危うい。狂気的だとも言える。凶器的か。
どんな状況でも笑える人間はどこかおかしいだろう。誰からも愛される人間など狂っているだろう。そんな人間は、確実に、物の価値感が乱れているのだ。狂っているから、乱れているから、誰からも愛され、誰をもにも親しげに振る舞える。でなければ個性を持った人間、感情を操る人類の全てから好かれるなど、有り得ないのだ。
そんな人間は、誰も愛していないのだろう。全ての人間から愛されてなお、その愛を、拒絶しているのだろう。
彼の過去はわからないし、世間的にも不明となっている。おそらく、遠い未来、語られることもないのだろう。だから何故彼がそんな人間になってしまったのかは、限られた者しか知りえないのだろう。
しかしそれで良いのだ。御山剣璽の望みは過去にはない。ただ一つ。
安寧なのだから。
誰からも好かれ、しかし誰も選ばない彼は、世界の平和を望んだ。
だから彼は戦い、強さを手に入れ、最強へと昇り、誰からも愛された。笑顔で。笑いながら。
今の日本は世界的にもかなり強い立場にあるのだ。それは全て御山剣璽の功績と言っても良いだろう。諸外国にそれぞれ配属された戦闘員達は生き残る日々が長ければ長い程、あるいは乗り越えた戦闘の数だけ強くなっていくのだがそれすらも御山剣璽は凌駕し、超越した存在へと成り上がった。
だから彼は、それを一人で、背負い、はしなかった。
全てが皆を率い、協力しあって成し遂げてきた。当たり前の視点で見ればそれは極めて善良な結果のように見えるし、正しい。だが見方によってはこうも見えないだろうか?
一人で背負うつもりが、ない、覚悟がない、と。だから彼は好かれ、愛されながらも極少数からは害悪善意、と、そう呼ばれているのだ。それに対しても御山剣璽は笑顔を向けるだけだったが
だから危うい。
故に狂気。
おそらく樋渡銑司もそれを言ったのだろう。彼が御山剣璽をどこまで理解できているのかはわからない。だがそれはやはり的を射ていたのだろう。だから御山剣璽お得意の笑顔も、出遅れたのだ。
だがそれでも、御山剣璽は笑顔を浮かべ、姉妹の下へ足を進めた。
御山剣璽。誰にも優しく、誰をも守る男。それでいてどこか狂っている、これはそんな男の、短い生涯を残す物語だ。