貴方といると泣きそうです。
お久しぶりです。久しぶりに長めの話を書きました。と言っても、自分の中で長いだけですが。
相変わらずの急展開。でも久しぶりにかけて楽しかったです!
ちなみに名前の読み方ですが、琴音、優馬、健です。28歳なので、少しくらいキラッとしててもいいかなと。なんだか自分の話はたけるが多い気がする…。
※2016.5.22 一部修正しました。
「I love youを訳すならなんて訳す?」
ベッドの上で腕枕をしていた健が当然そう聞いてきた。琴音は小さくくすりと笑う。それは健の癖のようなものだった。純粋というか幼い健は、すぐにいろいろなものに影響される。今度はドラマか映画かな、と考えた琴音の目に、部屋の隅に置いてある少女漫画が映った。ああこれか、と納得したように思う。
「…あなたといると泣きそうです?」
「何それ、皮肉?」
首を傾げて言う琴音に健は苦笑を浮かべた。琴音は笑って首を横に振る。
「大丈夫。健じゃ、泣きたくならないから」
「喜んでいいわけ?」
「いいんじゃない?好きになられても困るでしょう?」
そう言って琴音は再び笑う。「彼女」の持ち込んだ少女漫画に影響されてピロートークする男に泣きたくなったりはしないのだ。
「ま、そうだけどね」
そう言って健が笑う。
好き、なんて戯言がちょうどいい。そんな関係が楽だ。本気の言葉などいらない。寂しい時に、一緒に夜を過ごしてくれる人がいればいい。一番である必要なんてないのだから。
太陽の光がカーテンから差し込んでくる。そのまぶしさで琴音は目を覚ました。遮光カーテンにすればいいといつも言うのに、とまだ寝ている健を恨めしく思いながら琴音は起き上がる。勝手にシャワーを借り、いつもどおり出て行く。朝食を作る、なんてことはしない。健の彼女は料理が好きな人であるため、料理はしないようにしていた。
外に出て、空を見上げる。雲一つない空だった。こんな日は、自分なんかが外に出ていいのか、とふと思う時がある。目を閉じた。首を横に振り、歩き出す。そのタイミングで、お腹の虫がいい声で鳴いた。そんな自分に笑いそうになる。
「ご飯食べよ」
健の家は会社のすぐ近くだった。家と会社の間で朝メニューをやっている店を思い浮かべる。その中でも一番会社から遠い店に足を向けた。
「いらっしゃいませ!」
自動ドアをくぐれば、朝なのに元気な声が聞こえてくる。琴音は案内された席に座った。
「朝倉?」
「……広瀬課長」
名前を呼ばれ琴音が顔を上げる。そこにいたのは広瀬優馬だった。琴音は慌てて「おはようございます」と付け加える。
「やめろよ、敬語なんて。同期だろう?」
琴音と優馬は同じ年に入社した。年齢も28歳で同じである。けれど役職は、違った。優馬は琴音の上司にあたる。優馬は、同期の中で飛びぬけていた。いや、「同期」という枠で縛らなくても飛びぬけている。英語と中国語が堪能で、企画力があった。発想が斬新で、それを形にする力もそれに力を貸す仲間もいた。コミュニケーション能力が高く、スピード出世なのに敵が少ない。
琴音とは世界が違った。「同期」だから声をかけてもらえるが、そうでなかったら目に映ることもできなかったはずだ。
「同期でも、上司だから」
「でも、ここは会社じゃないよ?」
そう言って優馬は笑みを浮かべる。
「あのさ、そっち行ってもいい?」
「え?」
「せっかくだしさ」
優馬は琴音の前の席を指さした。琴音は少し迷い、頷く。断れるはずはないのだ。
「すみません、席移ります」
店員にそう告げ、優馬はコップを片手に席を移る。ついでに琴音はモーニングメニューを注文した。
「あ、俺と一緒」
目の前に座り、まっすぐ琴音の目を見てそう笑った。どこか嬉しそうなその表情に心臓がドクンと音を立てた。きっと誰にでもそうしているのだ。だからこそ、上に行ける。けれど、その目を見て、琴音はほら、と思った。ほら、やっぱり泣きたくなる。
「朝倉はよくここで朝食べるの?」
「え?あ、えっと…時々です」
「…敬語、禁止」
少し頬を膨らますように言う優馬をかわいいと思う。いつもそうだ。いつだって気づけば優馬のペースに乗っている。
「わかった。でも、会社の外だけだからね」
「…」
「さすがに平社員が課長にため口は無理だから」
「……わかった。朝倉にそんな態度取られるなら出世なんてやめればよかった」
「こらこら。万年係長とかに聞かれたら怒られるよ」
「同期の集まりにも呼んでもらえなくなったし」
「…聞いてないし。あのね、働いて6年目で課長の人、呼べるわけないじゃん。それに、皆も複雑なんだよ。出世のスピードが速すぎたから」
「…」
寂しそうな優馬の顔に琴音はため息をついた。
「今度は呼ぶように皆に言っておくから。そんな捨てられた子犬みたいな目で見ないで」
「本当に?」
嬉しそうに優馬が顔を覗き込んでくる。琴音は頷いた。
「モーニングメニューお持ちしました」
店員が2人の間に割って入る。琴音は安堵し、視線を店員に向けた。
「ご注文は以上でしょうか」
「はい、ありがとうございます」
優馬が頷き、軽く頭を下げる。割り箸を2つ取り、1つを琴音に渡した。
「朝倉、お箸」
「ありがとう」
「いえいえ」
黙々と箸を進める優馬を琴音はちらちらと盗み見る。端正な顔立ちだと思う。仕事ができる上に、このルックス。コミュ力も優れているというのだからモテないはずはない。優馬と社長のご令嬢との縁談が進んでいるというのが今、同期の中でもっぱらの話題だ。6年目で課長なんて異例中の異例出世。それほどできる社員ならどうにか手中に入れておきたいと考えるのが普通だ。それに社長のご令嬢が優馬をえらく気に入っているとか。それはそうだと琴音は目の前の顔を見ながら思う。それに社長のご令嬢はとびきりの美人だ。並べばとても絵になる2人。結婚式には呼ばれたりしてしまうのだろうかと琴音は自分の妄想に苦笑を浮かべる。
「…どうかした?」
「え?」
「なんか表情がころころ変わってるから」
「…そんなことないと思うけど?」
「そんなことあるよ」
とぼけようとしたが優馬の目があまりにまっすぐ見てくるので、琴音は誤魔化すように笑みを浮かべた。
「…言いたくないこともあるよな」
「別にそういうわけじゃ…」
「でも、相談なら乗るから」
射貫いてくるような目は、「上司」のものなのだと琴音は思った。自分で「同期」だと言っておいて、結局は「上司」なのだ。なんて優しい「上司」だろう。部下の不安を取り除くために、偶然を利用して、一緒にご飯を食べて、相談する雰囲気づくりをするなんて。
琴音は自分が顔に出ないタイプであると思っていた。けれど、顔に出ていたのだろうか。確かに悩みは尽きなかった。離れたいのに、上司としてすぐ傍にいる。「同期」と言っては気軽に話しかけてきてくれた。それが嬉しく、けれどやめてほしかった。だって、どんなに頑張ったって自分は優馬の視線に入れないのだから。手が届かなくて、足元にも及ばない人との縁談が持ち上がっている。
隣に並びたかった。愚痴を聞きたかった。悩み事を聞きたかった。弱みを見せてもらえる唯一の人になりたかった。けれど、自分では役不足だ。悩みを見せてもらえたところで何もできない。だから、離れたいのに、それすらできない。だから、泣きたくなる。すごく。
「…隠した方がいいと思うよ」
優馬が首を指さしこちらを見た。何のことかわからず琴音は自分の首を触る。そしてすぐに思い出した。
「…好きになってもらっても困るけどさ…好きじゃないってそんなにストレートに言われるのはむかつくんだよね」
そう言って健がしたいたずらだった。首の小さな赤い跡。蚊で誤魔化すには季節が悪かった。琴音はとっさに首を押さえる。そしてすぐに後悔した。キスマークです、と言っているような反応。誤魔化すことさえ無理になってしまった。
「…目立つ?」
自分にため息をついて、恐る恐る聞いた。そんな琴音に優馬は小さく笑って首を横に振る。
「よく見なきゃわかんないよ」
「…」
「絆創膏とか貼ったら余計目立つけど、見えないわけじゃないから、髪で隠した方がいい」
「…うん。ありがとう」
琴音は結んでいた髪を降ろした。優馬が小さく頷く。
「彼氏?」
「え?」
優馬は再び首を指さす。どこかふざけた声色なのに、こちらを見つめてくる表情は真剣だった。だから、一瞬躊躇した。頷くことも、首を横に振ることもできない。そんな琴音を見て、優馬は小さく息をついた。
「ごめん、野暮だったね」
頭を下げる優馬に琴音は首を横に振る。再び沈黙が続く。店内にはBGMが流れているのに、それでも妙に箸を動かす音が響いている気がした。
「朝倉、そろそろ出よう。あんまり遅いと遅刻するよ」
「うん。あ、でも、少しずらしていくよ」
琴音の言葉に優馬は首を傾げた。そんな優馬を小さく笑う。
「誤解されたら困るでしょう?」
「え?」
「別にやましいことはないけどさ、噂って勝手に広がるし。広瀬くんはそれが致命的でしょう?だから、時間をずらそうかなって」
「…」
「できる部下を持って幸せでしょう?」
笑いを誘うように言うと、優馬は口角を少し上げ、「そうだな」と答えた。
「ありがとうございました!」
店員の声に押されながら出て行く背中を琴音は見ていた。どんどん遠くなっていく背中に、自分たちの距離を重ねる。泣きたくて、けれど涙は出てこなかった。朝の飲食店で声を出して泣けるくらい若かったらよかったのにと、琴音は思った。
太陽の光はまぶしいほど日々を照らした。空を見上げれば綺麗な青が目に入る。日々は何もなく同じ毎日を繰り返した。外で優馬に合うこともなければ、仕事以外の会話を交わすことはなかった。「同期」と言っても、自分たちにはそれほどの距離があるのだと改めて思った。首のキスマークも知らぬ間に消えている。健は彼女と上手くいっているのか、最近連絡はなかった。と言っても、定期的に会うわけではなく、気まぐれに呼ばれるだけなのだからいつもどおりと言えば、いつもどおりである。けれど、なせが、もう会わないかもしれないと思った。そして、別に悲しいとも寂しいとも思わない自分に琴音は苦笑を浮かべる。
「あ~あ」
「琴音?どうかした?」
小さなため息に立石ゆかりが心配そうに琴音を見た。ゆかりは同じ年に入社した同期で、今も同じフロアで働いている。机は隣同士だ。同期の中で一番仲がいい友だちであり、優馬のことも健のことも知っている唯一の人だ。
「何でもないよ」
「…本当に?」
パソコンのキーを叩きながらこちらを見てくるゆかりに琴音は小さく笑う。小声で会話を続けた。先生にばれないようにおしゃべりをする高校生に戻ったようでそんな一つ一つが楽しい。
「真面目に仕事しなよ」
「指は止まってません」
「さすが、ブラインドタッチできる人は違うね」
「…話題変えようとしてるでしょ?」
バレたか、と琴音が笑う。そんな琴音をゆかりは心配そうに見た。
「無理してない?」
「大丈夫、ありがとう」
「そっか…でも、しんどくなったら言いなよ」
「うん。そしたら飲みに行ってくれるでしょ?」
琴音の言葉にゆかりは大きく頷いた。
「もちろん。…あ、飲みって言えば今度、同期会やるよ。私、幹事」
「そうなんだ」
「来週の金曜のつもりだけど、琴音行けるよね?」
「うん。…ねぇ、それって広瀬くんも誘ってくれる?」
「広瀬って、課長?」
「うん」
「どういうこと?」
「同期会出たいんだって。この前話した時に言われた。だから、お願い」
「…わかった。でも、誘うのは琴音がやってね」
「え?」
「それじゃあ、私は真面目に仕事するかな。あ、人数確認したいから、今日中に聞いておいてね」
そう言うとゆかりは取引先に電話をかけ始めた。
「ちょっと、ゆかり」
琴音の抗議は耳に入らない。琴音はため息をつき、おとなしくパソコンと向かい合った。
太陽は気温を上昇させ、5月だというのに、外を歩けば、うっすらと額に汗が浮かんだ。そのためか、店内は少しひんやりとしていてちょうどいい。おいしいと評判の店は、予約をしなければ入れないはずなのに、それでも琴音は角の一室で腰を降ろしていた。どうしてこうなるのだろう、と琴音は目の前に座る人物を見ながら思う。
「朝倉、何食べる?」
「…同じの」
「それじゃあこのパスタを2つお願いします」
店員に極上の笑みでそう告げる優馬に琴音はため息をつきそうになる。
「…予約してないのに、よく入れたね」
「ああ、ここの店長と顔見知りでね。時々、打ち合わせの時にも使わせてもらってるんだ」
「さすがだね」
「…それで話って?」
どこか心配そうな表情の優馬に琴音は苦笑いを浮かべる。
「気を使ってもらって悪いんだけど、別に相談とかじゃないんだ」
「え?そうなの?」
「…来週の金曜日に同期会やるから来ない?って話だけなの。なんか、ごめん」
軽く頭を下げる琴音に優馬は少しだけ驚いた表情を見せ、すぐに首を横に振った。
「謝ることないよ。俺こそ、勘違いしてごめん。あまりに深刻な顔だったから相談事かと思って。…でも、そんなことなら社内メールでもしてくれればよかったのに。話したいことがあるなんて言われたからてっきり…」
「ごめん、紛らわしい言い方して。メールしようと思ったんだけど、なんか…していいかわかんなくて」
「え?」
「ほら、同期って言っても課長でしょ?そんなに気軽にメールしていいかわかんなくて。だから、ちょこっと話して聞いちゃえば楽かなって」
それにもう1つメールをしたくない理由がある。後に残るのが嫌なのだ。他愛無いそのメール1つにすがってしまいそうだから。
「…そんなこと気にしなくていいのに。社内メールが嫌ならラインでいいよ。俺の知ってるでしょ?次からラインにして」
優馬の言葉に琴音は「わかった」と頷く。相談だと優馬が思っていたからかどこか重苦しい雰囲気が流れていたが、それがいつの間にか消えていた。琴音はほっと胸をなでおろす。
「でも、さすがだね」
「何が?」
「ランチに連れて行って、部下の悩みをちゃんと聞いてあげるなんて上司の鑑だよ」
「…そんなんじゃないよ」
「え?」
「あ、応えてなかったけど、もちろん俺、参加だから。同期会」
「うん。了解。場所が決まったらまた伝えるね」
「お願い」
他愛無い会話が楽しかった。楽しいと思っていけないと思うのに、それでも、楽しいと琴音は思った。おいしいと評判のランチは評判どおりで、こんな時間がいつまでも続けばいいのにと思った。けれど、1時間しかない昼休み。実質は45分の決してデートではない時間だ。目の前にいるのは、上司で、異例の出世で、もしかしたら未来の社長かもしれない人。その人とランチしている平社員の自分が不釣合い過ぎてどこか笑いたくなる。それでも幸せを感じてしまう自分が悲しかった。
会社に近い居酒屋で同期会が開かれることになった。初めはその場に優馬がいることを不思議がっていた同期たちも時間が過ぎるにつれて、普通に話をしていた。その様子に琴音は少しほっとする。会社の中では見られないどこか幼い表情に、初めて好きだと感じた時のことを思い出していた。
初めは少し前を歩いていただけだった。研修の時、みんなが考えない角度から物事を見られる人だと思った。けれど、気取ることなく、研修終わりの飲み会では男子高校生のようにはしゃいでいる姿がかわいかった。研修の時、席が隣だったからか、同期でゆかりの次に仲がよかった。わからないことがあると、すぐに気づいて、話を聞いてくれた。完璧なのに、整理整頓が下手で、机の上は、書類で埋もれていた。いつの間にかそれも克服して、今では前のようにどこに書類があるのかわからないなんてことはないけれど。
笑う顔が仕事の真面目な顔と違って、そのギャップに目が奪われた。真面目で、でもノリがよくて、くだらないことで笑ってくれて、いつも助けてくれた。初めての社会人。その隣で不安を取り除いてくれる人がいる。好きにならないはずがないのだと琴音は小さく苦笑する。
琴音は優馬の斜め前の席に座った。こっそり優馬の顔を見る。整っているなと改めて思った。隣に座る同期の女子がさりげなく優馬に寄りかかる。そんな風に素直に行動できる彼女が羨ましかった。
「なあ、広瀬。そう言えば、お前、結婚するんだよな?」
酒も進めば、気も大きくなる。琴音の隣に座る同期の一人が、ビールジョッキを片手に、優馬にそう尋ねた。顔を赤くして、楽しそうに笑う彼にはきっと他意はない。ただ、聞いた噂の真偽を確かめたいだけなのだ。決して大きい声ではなかったのに、各々雑談をしていた声は、一斉に止んだ。皆が聞きたくて聞けなかったことだったのだろう。聞き耳を立てるようにちらちらと優馬を見る。琴音も同じように優馬を見た。
「何の話?」
「とぼけるなよ。社長令嬢との縁談が持ち上がってるんだろ?」
「…どっからそんな情報入れるんだよ」
「同期の情報網舐めるなよ」
自信満々に言う彼に優馬は小さく笑った。
「確かに、今度会うことになってる」
優馬の言葉に、一気に周りが声を上げた。
「いいよな、さすが課長。社長令嬢とびっきり美人だもんな。社長なんてハゲ散らかしてるのに」
「確かに綺麗だよな~。異例出世ともなると社長になれるのか」
「同期が社長かよ。いいのかやりにくいのかわからねぇな」
各々が感想を口にした。男性陣は盛り上がり、女性陣は見るからに肩を落とす。琴音はただ小さく頷いただけだった。噂があることは知っていた。ただ、それが本人の口から出ただけだ。だから悲しくなることはない。それなのに、涙が出そうになった。
「大丈夫?」
皆に聞こえない声でゆかりが声をかけてくれる。琴音は小さく笑った。
「もちろん」
「先に出る?」
嬉しい申し出だったが首を横に振る。
「知ってたことだから」
そう言って残っていたカクテルを一気に飲み干した。
ほろ酔い気分で店を出た。空を見れば街灯の向こうに星が見える。街頭に邪魔されながらも星は綺麗だった。腕を伸ばし伸びをする。吸い込んだ空気を一気に吐き出した。
「朝倉」
聞き覚えのある声に、琴音は振り返る。
「……広瀬くん」
驚いて足が止まった。そんな琴音に優馬は小さく笑う。
「そんなに驚く?」
「だって2次会に行ったんじゃないの?」
「誰かさんが一人で帰ろうとするから」
「え?」
「夜道の一人歩きは危ないよ」
「…」
「俺たちアパート同じ方向だろ?前はよく、一緒に帰ったよな」
「そうだね。でも、せっかく同期会に久しぶりに来たんだし、気にせず行けばよかったのに」
「朝倉いないのに行っても意味がないよ」
そう言って優馬は笑みを浮かべる。やめてほしいと思った。諦めようとしているのに、その笑顔は反則だ。琴音は少し早歩きで歩く。優馬は難なくついてきた。
「…誤解されるよ」
「誰に?」
「社長令嬢。…結婚するんでしょ?」
「しないよ」
「……え?」
琴音は横を見た。優しく微笑む優馬の顔がある。
「しないよ。結婚」
「……だって、今度会うんでしょ?」
「会うけど、でもしない」
「なんで?」
「好きな人がいるから」
「……そうなんだ」
「誰か気にならない?」
「プライベートだもん。聞けないよ」
「聞いてよ。そしたら答えるから」
「…もしかして、すごく酔ってる?」
どこか雰囲気が違う優馬を琴音は心配そうに見つめた。優馬は嬉しそうに首を横に振る。
「さっき、泣きそうだったね」
「え?」
「俺の結婚話出た時。…俺が結婚したら嫌?」
「…どうしたの?なんか変」
「変、かな?ちょっと嬉しかったから」
「え?どういう……健?」
言葉の途中で琴音はアパートの前に立っていた人物の名前を呟いた。琴音の声に、健は手を振って応える。
「琴音、遅いよ。何、今日、飲み会?」
「え?あ、うん。同期で飲んだの」
「その人も同期?」
そう言って健が優馬を指さした。
「そうだよ。アパートが近いから送ってくれたの」
「ふ~ん」
どこか不機嫌なその声に琴音は小さく首を傾げた。そもそも健が琴音のアパートに来ることはほとんどない。健の都合で、健の部屋に呼ばれることがしばしばだった。
「朝倉。…そちら、誰?」
顔は笑顔なのに、声はどこか低い。不穏な空気を感じ、琴音は場を紛らわすように明るい声で言った。
「えっと、田中健さん。……友だちなの」
「ベッドの上のね」
いらない情報を付け足す健を琴音は睨みつける。いたずらに成功した子どものように健は舌を出した。
「えっと…とりあえず、家、ここだから。送ってくれてありがとう」
そう言って健の背中を押し、家に入ろうとした。その腕を強い力で掴まれる。
「そっち中に入れるの?」
「え?」
「部屋の中に入れるのはそっちなの?」
「…おっさん、何?」
不機嫌な声。優馬も睨みつけるように健を見た。
「君とそう歳は変わらないと思うけど?」
「琴音と同い年?」
「ああ」
「じゃあ、2つも上だ」
「じゃあ、朝倉は君にとっておばさんなのかな?」
「そうかもね。知ってた?琴音、最近二の腕の肉、落ちないんだ。でも、触ると気持ちいいから俺はそれでいい」
「ちょ、ちょっと、何言ってるの!」
「何って、別に?琴音の近況教えてあげただけ。だって、この人は知らないんでしょ?」
苛立つように優馬が健を見る。どこか勝ち誇ったような健は笑った。空気が悪い。沈黙が痛かった。困ったように琴音は健の背中を押す。
「とりあえず、中に入ろ。ね、健」
身体の向きを変え、健は琴音の目を見た。軽く首を傾げる。
「ねぇ、琴音。結婚しよ?」
「…………え?」
突然の言葉に言葉を失った。目を丸くする琴音を健は面白そうに見つめる。
「彼女と別れた。ケータイとか覗かれるの面倒だし、琴音ならそんなことしないだろ?やっぱ、琴音の隣が一番いいから、もうこの際、結婚しようよ」
何を言えばいいのかわからなかった。時々冗談で「結婚しよう」と言われることはあった。その延長なのだろうと思ったが、それにしては声色が真剣だった。冗談のように言うのに、いつものように一蹴できない。
健は琴音を見た後、優馬を睨みつけた。それを見て少し納得する。おもちゃを取られた子どもと同じ理論かと。そう思うと少しかわいく思えた。
「あ~、はいはい。わかったからとりあえず、今日はこの辺にしよ、ね?」
「本気なんだけど」
「わかったから」
「わかってないだろ」
健は琴音の腕を引いた。抱き寄せ、キスをする。あまりに突然で思考が追い付かなかった。奪うようなキス。視界に優馬が映った。それに気づいて、必死で離れようとするが、びくともしなかった。息継ぎをさせないそれに、苦しくなる。降参だと言うように、健の胸を叩いた。少しだけ離れた2人を銀色の糸が繋ぐ。琴音は慌てて口を拭った。
「……」
顔を上げると優馬と目が合った。琴音は慌てて視線を逸らす。何がどうなって今の事態が起こっているのか、考えようとして、けれど頭は回らなかった。
「君は若いね」
静かな、けれどどこか冷たい声が響くように通った。
「…は?」
「独占欲だけで、そんな子どもじみた行動ができて。自分のことだけ考えていられて羨ましいよ」
「おっさん、何が言いたいわけ?」
「一番に考えなきゃいけないことがあるだろう?」
「…」
「朝倉の気持ちは?会社の人間の前でキスするなんて、朝倉の立場は?そんなことも考えられないのかい?」
「…」
「それに、今まで彼女がいたのに、朝倉と付き合ってたんだろ?それで、彼女と別れたから結婚?…ふざけるのもいい加減にしろよ」
怒鳴るわけではない。静かに、けれど確実に怒っていた。その声が怖くて、琴音はびくりと肩を上げる。
「あんたに関係あんの?ただの同僚だろ?」
「そうだよ。でも、関係はあるさ。俺も朝倉を好きな男の一人だから」
「…え?」
予期せぬ言葉に琴音は優馬を見た。健を見る目とは違う優しい表情の優馬が琴音を見る。言葉の意味を理解し、頬が赤くなるのがわかった。
きっと、健を諦めさせるための嘘だ。そう思うのに、早くなる鼓動を止められなかった。
「……こいつが泣きたくなる相手?」
そんな琴音を見て、健が言った。どこか悔しそうな声。
「え?」
「この前言っただろ?」
健に言われ、少し前の言葉遊びを思い出した。「I love you」を訳すなら、「あなたといると泣きそうです」とする。琴音はそう言ったのだ。
どこか泣きそうな健が目の前にいた。もしかしたら、この人は自分の事を本当に好きなのかもしれないと思った。だから、琴音は目を逸らさなかった。そして頷く。
「うん」
「…そっか」
「ごめんね」
「謝るなよ」
「うん、ごめん」
「……もう、一緒にいられない?」
寂しそうな表情。健と一緒にいるようになって、もうすぐ2年だが、そんな表情は初めて見る。もっと早くに見られたらよかったのに。いろんな表情を見れたら、何か変わっていたのかもしれない。ただ、身体を合わせるだけの関係ではないものになっていたかもしれない。けれど、それはあくまで可能性で、今言ったところで、遅すぎるのだ。
「うん。もう一緒にはいられない」
「…俺には泣きたくならないから」
「そうだね」
「…ひどいな」
「うん。でも、お互いさまでしょ」
「……今までごめん。でも、たぶん…好きだった。俺は琴音のこと、好きだったよ」
「…」
「今さら気づいたって遅いけど」
「…」
何も言えない琴音に苦笑いを浮かべ、健は、優馬を見た。
「おっさん、泣かすなよ」
「泣かしてない」
「知らないところで泣いてるかもしれないだろ?」
「…」
「健、今までありがとう。一緒にいてくれて、ありがとう」
そう頭を下げた琴音に健は小さく笑った。そして一歩近づき、小さなキスを送る。その可愛らしさに、琴音は笑った。
「寂しい夜は、いつでも呼んで」
そう言い残して健は背を向けて去っていく。最後なんだと思った。いつも会うのは健の都合だった。けれど、いつもさみしい夜は傍にいてくれた。不思議と繋がっていたのだと思う。一緒にいられて幸せだったのだと今更になって思った。別の形で出会って、時間を紡いでいったら、何か変わったのかもしれない。
しばらく健の背中を見ていた琴音の手を優馬が引いた。
「もういいだろ?」
「…変なところ見せっちゃったね。ごめんね」
「いいよ」
「……そ、それに、あんな嘘もつかせてごめん。私を好きだなんて、…でも、さすがだね。守ってくれる上司で助かったよ。頼れる上司は違うね。それが同期なんだから本当にびっくりする。同期の鑑だね。それに…」
さらに言葉を続けようとした琴音の口は、優馬の大きな手で塞がれた。
「ちょっと、黙って」
「…」
素直に頷けば、優馬が手を離す。琴音はゆっくり顔を上げた。怒っているような、悲しんでいるような優馬の顔がそこにはあった。どうしてこんな顔をしているんだろう。だって、優馬は同期で、上司で、それだけだった。ただの会社の人。仲はいいかもしれないが、それも会社の中だけの話だ。2人だけで食事に行ったことすらない。それなのに、どうしてこんな、本当に、好きだと言っているような顔をするのだろうか。変に期待してしまう。それが嫌で、琴音はまた、顔を落とし、地面を見つめた。
「嘘じゃないよ。好きだって言ったの」
「え?」
「好きな人って朝倉のことだよ」
「…」
「信じられない?」
そう問われ、素直に頷いた。だって、理由がない。自分なんかを好きになってくれる理由が。優馬は息を小さく吐き、そして、琴音に手を伸ばした。右手で琴音の左手を握る。琴音はゆっくり優馬を見た。
「朝倉だけだった。評価される俺に普通に接してくれたのは。取り入ろうとするわけでもなく、肩書目当てで近づいてくるでもなく、変わらず、俺を見ててくれた」
「…」
「朝倉って、初めから俺のこと好きだったでしょ?」
優馬の言葉に、驚いたように目を開く。それを見て、優馬が小さく笑った。だって、気づかれないと思っていたのだ。それなのに、ずっと前からの感情を当の本人が知っていたなんて。
「人の視線には結構敏感でさ、大体わかるんだよ。でも、なんて言うか、朝倉はほかの人と違った。研修の時から俺たち、仲よかっただろ?それなのに、距離を縮めるでもなく、ただ、俺のこと見てたよね。俺を好きだって言う目をするのに、必要以上に距離を取って、変な奴と遊んで。それがどうしても嫌だったんだ。」
「…なんで、健のこと知ってるの?」
「部下のこと知るのも上司の仕事」
「そうなんだ」
素直にそう言う琴音に優馬は苦笑を浮かべる。
「…なんてそんなことだけ簡単に信じるんだよ。知りたかったの。俺が、朝倉のこと。んで、色んな情報網使って調べたの。顔は広い方だから」
「どうして?」
「知りたかったから。もう俺を好きじゃないのかとか。どんな奴と一緒にいるのかとか」
「…」
「そしたら、変な奴と遊んでるし。彼氏だって言うなら引こうと思ったけど、朝倉が幸せになれない相手なら、奪おうと思って」
そういう優馬の表情は真剣で、目を逸らせなかった。必死で伝えようとしているのがわかる。それが嬉しくて、けれど少し、怖かった。信じて、手に入れて、そうしたらどうなるのだろう。
「好きなんだ。初めは純粋な気持ちが嬉しくて、何かしてくれるのかなって期待した。でも、ただ、見てるだけで。それもなくなるのかなって思ったら怖くなった。見ててほしいって、好きでいてほしいって思った」
「…」
「…好きなんだって思った。朝倉が俺を好きだから、とかそんなの関係なく、俺が朝倉を好きなんだって気づいた」
「…」
「そう思った矢先に、首にキスマークつけてきて、苦しくなった。…だから、取り戻そうって思ったんだ」
「でも、だって…。世界が…違うじゃない。広瀬くんと私じゃ、世界が違うよ。だって、あなたは、同期なのに、もう課長で、社長令嬢との縁談が持ち上がってて。どんどん離れていく人だもん。一緒にいたら苦しくなる。いつか離れる手を…心配しながら一緒にいるのはつらいよ」
自然と涙が浮かんだ。こぼれそうになる前に上を向く。目の前の優馬が霞んでいた。
「手を離さないって俺が言ってもダメ?信じられない?」
「…だって私とあなたは違うから。私には何もできないから…」
「結婚しよう」
「え?」
突然の言葉に琴音は目を丸くする。思考が追い付かず、けれど、優馬は待たなかった。信じてもらえるよう、必死で言葉を繋いでいく。
「この先の俺の人生、全部かけて、証明するよ。俺は朝倉…琴音が好きだって。愛してるって。手を離さないって。約束する。だから、結婚して。俺の隣にいて。…俺のこと、見ててほしい。ずっと」
「…」
「一緒に、いろんなことを見ていきたい。隣にいてほしい。きっとこれから、いろんなことがあると思う。つらいことも楽しいことも。そのどれも、琴音と一緒に見ていきたい。つらいことは半分に、楽しいことは2倍に。きっと琴音といればできると思う。だから、傍にいて」
「なんで私なの?だって、私は、きれいでも性格がいいわけでもない。仕事ができるわけでもないのに、なんで…」
「俺にとっては、一番きれいで、一番優しい人だ」
琴音の言葉を遮るように、優馬が言った。その表情があまりに優しくて、琴音はまた泣きそうになる。
「……私でいいの?だって、私は、何もできない。広瀬くんが傷ついても、きっと助けてあげられない。困っても、何もできなんだよ?」
「じゃあ、話を聞いて」
「え?」
「俺が困ったら、話を聞いて。俺の隣で。それで最後に、笑ってくれればいい。そしたら俺はもっと頑張れるから」
「…それでいいの?」
「それがいい。そうやって琴音に隣にいてほしい」
再び泣きそうになる琴音を優馬は思い切り抱きしめた。髪に小さくキスを送る。
「俺は、琴音がいい」
その声があまりに優しくて、だから、琴音は優馬の広い背中に腕を回し、力を籠めた。
ずっと言っていいかわからなかった。伝えたくて、でも、自分なんかがと諦めていた。でも、それでもいいと言ってくれるなら。
「好き。…広瀬くんが好き」
自然と言葉が口から出た。その言葉に、優馬は腕の力を緩め、右手で琴音の頬に触れる。その手に倣うように琴音は顔を上げた。近づいてくる端正な顔に静かに瞼を閉じる。
「琴音、愛してる」
ああ、やっぱり。やっぱり、あなたといると泣きそうになる。
琴音の頬を涙が一筋流れた。幸せの涙だった。
読んでいただき、ありがとうございました。
本当は健をもう少し悪い人にしたかった。相変わらず、最後はちょっといい人なんだよな~
でも、久しぶりで本当に楽しかったです。
読んでいただき、ありがとうございました。評価や感想頂けたら、本当に嬉しいです。
※2016.5.22 一部修正しました。




