#プロローグ 「生贄の兎」
「……“魔法のシチュー”?」
王国の西端、ピュエルヴァ山麓にある王国軍廃兵院。
マーカス・バグウェル退役軍曹は傷だらけの顔を歪め、うっとりした表情で笑う。
「……ああ、懐かしいな。あれは本当に美味かった」
マーカスはかつて“猛牛”と怖れられた叩き上げの下士官で、ぼくらの命の恩人だった。いくつかの奇跡にも恵まれたとはいえ、マーカスの支えがなければ、ぼくらは生きて故郷の土を踏むことはなかっただろう。
だが、敗残兵二十二名の生還と引き換えに、彼は右腕と右目……そして心の一部を喪ったのだ。
二年前の戦役で、王国は南部領の大半を奪われた。ぼくらは最前線のベルカ砦で取り残されたまま孤立し、帝国軍に包囲され絶望的な篭城を続けることになった。
敵からの攻撃はなく、投降勧告もなかった。ベルカ砦は辺境にあって、さほどの戦略的価値を持たないが、天然の要害に護られ過去一度も落ちたことがない。良くいえば難攻不落、悪くいえば、「価値に見合わないほど」堅い。
帝国軍にとってみれば周囲は既に自国領となって補給の問題もない。攻城側は近付けないが、篭城側も出られないのだ。そこに残された百にも満たない敵兵などに無駄なリスクを割く必要はなかったのだろう。
友軍の助けは望めず、兵も武器も糧秣もない。騎兵の全軍突撃が壮絶な討ち死にに終わり、白旗を掲げた軍使は門前で砲撃を受け粉微塵に吹き飛ばされた。夜陰に乗じて逃げようとした一団は翌朝、旗竿の上に首を晒された。ぼくらには戦う術も逃げ道も行く先も縋るべき希望もなかった。それはもう、面白いくらいに、なにも。
食料が底をついてから二週間。傷病兵でいっぱいの病室から姿を消したガーランド准尉が、どこからか“野兎と薬草のシチュー”を持ってきたのだ。戦線を突破して食料を調達してきたらしい彼女は、簡素な皮鎧を身にまとったまま笑った。
「魔法使いも、たまには役に立つでしょう?」
大鍋いっぱいのシチューを、敗残兵たちは初めはおそるおそる啜り、やがて貪るように食い始めた。
生き残った者たちは口を揃えていう。
あんなに素晴らしい味は、後にも先にも体験したことがない。
ぼくもあの味は、いまでも鮮明に思い出せる。嗅ぎ慣れない香草の香りと、見慣れない赤緑色の植物片。雑草としか思えない葉の残骸は苦くて辛く、死にかけの味蕾を力づくでこじ開けてくる。ぶつ切りの小さな肉は痩せて身が少なかったが柔らかく、甘くとろけるようなそれを食べると信じられないほど全身に力が漲った。
滋養というものが形を持つとしたら、それはきっとあのシチューに似たものになるのだろう。
黄金色のスープがのどを滑り落ちると熱は胃から体中に広がり、惨めに丸められていたぼくらの背筋にヤケクソめいた芯を通した。
状況はどうにもならない。それは逆に、雑兵たちから浮き足立つ余裕も、焦りや弱気の虫も消した。諦観であり、達観でもあった。
「……さあ、お腹があったまったら出かけましょうか」
絶妙のタイミングで、准尉がぼくらを戸外へと誘った。楽しげな声で軽く手を叩き、何の気負いもなく、何の迷いもなく。軽い散歩にでも出かけるように。
「何も持つ必要はありませんよ、武器も旗も甲冑も、余計なものは、みんな置いていきましょう」
武器や装備が余計なものというのは首を傾げる部分もあったのだが、反論する者はいなかった。彼女のおかげで敗残兵たちは身ひとつで立ち上がり、マーカスの指揮の下で敵陣を突破した上に自軍支配地域までの40哩を歩き通したのだ。
――それはまさに、魔法だった。
「ガーランド准尉は、ご健勝か」
「ええ。いまは昇進して大尉ですが、王立技術院の主任研究員として活躍されています」
「……そうか。彼女は優秀だったからな。その程度の出世は当然。むしろ、評価が遅過ぎたくらいだ」
誰もが怖れた野戦の鬼が、好々爺然とした笑みを浮かべる。疑問に思いつつ、違和感はない。あれからまだほんの二年しか経っていないのに。
「懸念事項があるとすれば、そこだな。彼女は無自覚に優秀すぎた。老いた国では優れている者ほど敵を作る。だが、政治的に利口になることは良いことばかりではない。そこは周りが支えてやればいい。……それで?」
まだ生きている彼の左目が、ぼくを見据える。
「わざわざこんなところまで俺を訪ねてきたのは、まさかシチューのレシピでも聞きに来たわけじゃないだろうな?」
「当たらずとも遠からず、ですね。ぼくらの命を救ったあの素晴らしい魔法のシチュー。ですが、疑問がひとつだけあるのです。彼女はどこからそれを手に入れたのか。魔法で作ったといわれて当時は深く考えませんでしたが、魔術は食材を生み出したりしない。戦死者は敵味方ともきちんと記録され埋葬されていたし、軍馬や軍用犬にも不審な員数外は存在しない。野生動物を狩りに行くには城塞を取り巻く帝国軍の軍勢を抜けていく必要があった」
「必要があったんなら、彼女はそうしただろうな。ガーランド准尉は自分の行動に迷いがなかった。だが……」
「“そうする必要はなかった”と? 実際、帝国軍の包囲を抜けてまで兎狩りに行く体力も時間も、おそらく彼女にはなかった」
「お前は答えを聞きたいんじゃない。そうだろう? 自分の答えを、確認がしたかっただけだ。要点は何だ?」
ぼくは溜息をつく。最初から正直に打ち明けるべきだったのだ。逡巡などするだけ無意味だ。このひとは何もかもお見通しだ。
「ガーランド大尉は、あの日から兵の前で一度も……鎧を脱がないのです」