総員撤退
男の事情聴取が行われた。男の身元ははっきりしている。指紋も歯型もDNAも“S”の隊員であることを証明していた。だが、この男はあの湖底の原発で任務中のはずである。まずは男から事情を聴くことになった。
「同僚と巡回中に角を曲がったときに、誰かと遭遇した記憶があります。それは一瞬のことで、気がつけば薄暗かった周囲が明るくなり、綺麗な絨毯の上に立っていました。辺りを見回すと扉があるではありませんか。何かの罠かと思い、自動小銃を構えてその部屋に飛び込みました。するとあの男が立っていたのです。あぁ、あの男は総理だったのですね。危なく蜂の巣にするところでした」
誰かがぼそっと呟いた。
「そうすればよかったのに」
「ごほん」という咳払いと共に男の説明が続いた。
「自分の防護服に放射性物質が付着していたとのことですが、それはありえません。あの施設はここよりクリーンな環境だったのです。付着していたとすれば、誰かがわざとそうしたのです」
男の供述は正しかった。男をここに連れてきたのはサンバであり、僅かの放射性物質を付着させたのもサンバだった。だが、急遽設置された諮問委員会では納得されなかった。委員の誰もが、あの原発から総理官邸への移動手段を思いつかなかった。総理もSの部隊長も似たような経験をしているが、誰にも告げていない。告げるには理性の邪魔が大きかったのだ。
男は防衛医大の一角に隔離された。要調査と判断されたためだった。放射線が人体に与える影響はほとんどわかっていない。放射線が有害であるらしく、死にも結びつくようだということは、定説となっていたが、一方で突然変異の原因もこれらしいとも言われていた。男が隔離されたのは、放射線によって突然変異を起こし、超常能力を得たのではないかと推測されたためだった。
男は病室で実験材料と化していた。トランプを裏返しにして、図柄を当てて見ろと言われる。もちろん、当たるはずはない。一度全てを完璧に外したときに驚かれた。
「こうまで見事に全てを外すことは確率的にありえない。これが超常能力の一角か」
しかし、男は思っていた。「俺は昔から運だけは悪いんだ」
あるときは、壁抜けをしろと言われて、何度も壁に突進した。もちろん、壁抜けなどできるはずはない。壁にぶつかれば痛いことは知っている。一度手を抜いて壁に体当たりをしたときに怒鳴られた。
「やる気があるのか!根性が足りない」
このとき、尻にバットも飛んできた。
努力のおかげで壁抜けが一度成功した。それは、壁抜けというよりは壁壊しだった。壁も災難だったが、数え切れない男の体当たりで壁はもろくも敗れ去った。周囲のものは突然に消えた男に「やった」と思った。しかし、すぐにそれは壁と共に男が隣の部屋に移動しただけだとわかって「もういい」と言って病室を離れていった。男には「やった」も「もういい」も聞こえていなかった。
失神している男を介抱していたのは、酷くチャーミングな看護師だった。男を救えるのはこの看護師だけなのだろうか。だが、それを知る術は誰も持っていない。
総理が官邸に戻ったときに、また一人の男がやってきた。またかと思ったのは、服装が前の男と同じだったからだ。
「落ち着いて、そこのソファーで寛いでいてください」
そういい残して、総理は部屋を出て行った。
総理は官邸に戻らずに別の場所に仮の官邸を移した。しかし、それにも関わらずに一日置きに別な訪問者が現れた。8人くらいの訪問者と面会した後に、総理は悲鳴をあげた。
意向もある。嫌がらせもある。総理は原発事故の前とくらべて20歳は老けたようだ。自分のことを「私」から「わし」と呼ぶこともこれと関係しているのだろう。総理はたまらずに決心した。
「あの原発から総員撤退だ」




