スノー ~それでも春はめぐる~
それは、ある国の寒い寒い冬のことでした。
いつもよりもずっと寒い一日の始まりでした。
小さな王子さまは、期待に胸をふくらませながらお城の窓を開けました。
昨日はとても静かな夜だったのです。
こんな晩のあとには、いつも雪が降りつもっているのでした。
王子さまの予測通り、窓の外は銀世界。見慣れた町の景色が、今日は違って見えます。
真っ白に光り輝くうつくしい光景に、王子さまは胸をおどらせました。
王子さまは雪がだいすきなのです。
王さまは、流通が滞って大変だと言いました。
王妃さまは、寒くていやだと溜息をつきました。
けれど、それでも王子さまは嬉しかったのです。
痛いくらいに冷たい雪ですが、あの真っ白な世界を見たかったのです。
触って、かじかんだ手が真っ赤になっても、なぜだか幸せな気持ちになれるのですから。
そのあとで迎え入れてくれるあたたかなお城と、冷たくなった手を包み込んでくれる王妃さまがいるからなのかもしれません。
とにかく、王子さまは雪がだいすきです。
そんな王子さまのもとに舞い降りたのは、小さな小さな、『雪の精』と名乗る妖精でした。
舞い降りたというのは、少し違ったかもしれません。
王子さまがまっさらな雪を両手ですくい上げたそのなかに、妖精はいたのです。
最初は、何が動いたのかわかりませんでした。
妖精は、雪とおんなじ雪色で、真っ白だったのです。
短い髪もつるつるの肌も、ひらひらの洋服も。
ただ、瞳だけは夜と同じ色でした。
よく見ても、男の子なのか女の子なのかよくわかりません。
それでも、とってもかわいい妖精でした。
けれど、王子さまの両手の上から、妖精は王子さまをにらみつけました。
「よりによって、どうしてこんな子供に見られてしまったのかな」
そう、ひとり言のようにぼやきながらため息をつくのです。
それでも、王子さまはうれしくて笑顔でこういいました。
「どうしてって、ぼく、雪がだいすきなんだ。だからじゃないかな」
毎年毎年、王子さまほどに雪を楽しみにしている子供はいません。
だから、王子さまはそのことを誇らしげに妖精に語りました。
きっと、喜んでくれると思ったのです。
ムスッとしたその顔をほころばせて笑ってくれると思ったのです。
けれど、妖精は笑いませんでした。
雪の冷たさよりももっと、刺すような冷ややかさで、変わらずに王子さまを見上げているのです。
「だいすきだって? 馬鹿なことをいっちゃいけない」
その一言に、王子さまはショックを受けました。
王子さまは本当に雪がだいすきでした。どうして信じてくれないのか、わかりません。
そのことが、ただ悲しかったのです。
「本当だよ。ぼくは、本当に――」
「ねえ、君のお父さんやお母さんはどうだい。わたしたちが降れば、喜んでいるかい?」
王子さまは妖精の問いかけに、すぐに答えることができませんでした。
今朝の二人の会話と、浮かべた表情を思い起こして、王子さまはただしょんぼりとしてしまいます。
そんな王子さまの反応を、妖精は予測していたのでしょう。
「ほら、わかっただろう? 雪は、人から迷惑がられる存在なんだよ」
なんて、悲しいことをいうのでしょう。
王子さまの言葉だけでは埋められない寂しさが、妖精に難しい顔をさせるのです。
「迷惑だって押しのけられて、無理矢理溶かされるだけ。みんな、春が来るのを心待ちにはするけれど、雪がいつまでも溶けずに残って喜ぶなんてことはない」
雪のけをしなければ、誰もお城に入れません。食べ物を運びこむこともできず、お城の人々は飢えてしまいます。ですから、お城へ続く道を開けるため、雪をどけて、消さなければなりませんでした。
つまり、王子さまも、だいすきだといいながら、雪をのけ者にして来たのです。王子さまはそのことに気付いてしまいました。
呆然とした王子さまに、妖精はようやく笑いました。
けれど、それは皮肉な笑顔でした。
「わかるかい? 雪はね、消えるためだけに生まれるんだよ」
はかなく溶けて、水になって流れるだけ。
妖精はそういうのです。
「消えるためだけに――」
春になってあたたかくなる頃には、雪はいつだってなくなりました。
一年中が冬の国でもなければ、雪は消えてしまうしかないのです。
王子さまは、妖精の言葉を否定してあげたかったのに、できませんでした。
なぜなら、王子さまの手のひらの熱が雪を溶かし、しずくとなって、ぽたりと落ちてしまったのです。
消える運命しかないと知りつつも、雪はただ降りつもり続けます。
雪が何を思い、存在するのか、王子さまは考えたことなどありませんでした。
王子さまはしょんぼりと悲しい顔になってしまいました。それに気付いた妖精は、少しだけ困ったような表情になり、やさしい声音でつぶやきました。
「人もまた、死ぬために生きている。そういえるんだよ」
「死ぬためにって」
王子さまはまだ、本当に子供で、そういわれてもピンときませんでした。
「死なない人間なんていない。それと同じだ。わたしたちも、消えるために降る。そんなことはわかっているんだ」
わかっているといいつつも、妖精はうつむきました。
「消えることは避けられない。最初からわかっている。なのに、どうしてこんなにも悲しいんだろう」
王子さまは答えを探しました。
でも、小さな王子さまには、まだまだそこにたどりつくことはできません。
だから、王子さまは自分にとって一番悲しいことを探してみました。
そうしたら、妖精の気持ちに触れることができるかもしれない、と。
まず、王さまと王妃さまに会えなくなること。
これが一番いやなことです。
「ねえ、君のお父さんとお母さんはどこにいるの」
そう訊ねた王子さまに、妖精は首をかしげました。
「しらないよ。わたしたちが生まれたときにはもういないから」
あっさりと、そういうのです。
悲しそうではありませんでした。
次にいやなことを考えます。
「友達はいるの」
「なんだい、それは」
妖精に友達という言葉が通じませんでした。
それなら、友達と離れ離れになることもつらくはないのでしょう。
でも、そうすると、もう何もわかりません。
大切なひとがいないのなら、消えてしまうことを悲しくなんて思えないと、王子さまは思ったのです。
誰との別れも、何も感じずにいられて、誰も悲しまないのなら。
ただ、そう考えた瞬間、王子さまはとてもむなしい気持ちになりました。
誰も自分を気にしてくれず、消えることを惜しんでくれない。
だとするのなら、存在する意味は、価値はどこにあるのかわからないのです。
いずれ消えるのだとしても、確かにここにいたのだという意味がほしいと、自分の存在が無駄ではないと思いたいのではないでしょうか。
「ねえ、妖精さん。それなら、今日ここでぼくと出会ったことは、意味のあることなんじゃないかな」
妖精は再び首をかしげました。
「ぼくは、雪が溶けてしまっても、君に出会ったことを覚えているから」
「覚えて――」
「そう。また、次の年にも会おうね」
すると、妖精さんは小さな頭をぶんぶんと振りました。
「次の年に降る雪は、わたしとは別の雪だ。わたしに次はないよ」
悲しいことですが、そうなのです。
人間も死んでしまえば、次に生まれてくる赤ちゃんがその人ではないのですから。
「それなら、なおさら忘れないよ。いつも、雪を見るたびに君を思い出すよ。君がちゃんとこの世界にいたんだって、ぼくはしっているから」
そうして、王子さまは妖精を雪の上に下ろすと、そのまま小さな手とほほを真っ赤にして雪を丸め出しました。大きな雪玉をこしらえて、そこにいくつかの小さな雪玉をはりつけます。妖精は、そんな王子さまをぼうっとながめていました。
「ほら、できたよ」
王子さまが作ったものは、雪のドラゴンでした。
上手ではありません。なんとなく、そう見えるというだけの、つたないものです。
それでも、王子さまは笑っていいました。
「ぼくは毎年、雪で像を作るよ。でも、このかたちは君の。二度と同じかたちは作らないよ。そうしてぼくは、死ぬまで毎年違うかたちを作って、それぞれに生まれてくる雪を覚えていくから」
妖精は王子さまを見上げました。戸惑いと不安がその目にやどっています。
「こうして君と話したこと、別の雪を見るたびに思い出すよ。君は確かに存在して、ぼくに幸せな気持ちをくれたんだから」
たったそれだけのことといわれてしまえばそれまでです。それでも、王子さまは真剣に、心を込めた言葉でした。この出会いを大切に思うからこその。
妖精は、そっと微笑みました。それは淡雪のようにはかなくも、やさしい微笑みでした。
「本当だ。君とわたしが出会ったことに、ちゃんと意味があったんだね。――ううん、意味を、君がくれたんだ。ありがとう」
雪の精は、素直になれない寂しがり。
王子さまの“だいすき”は、本当はうれしかったはずなのです。
信じることが怖くて疑っただけなのです。
春はあたたかな季節。
そして、別れの季節。
それでも、春はめぐるのです。
一度きりの出会いを胸に。
王子さまは次の冬も、その次の冬も、雪で像を作るのでした。
【おわり】