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四面世界の物語

天を渡る

作者: pueburo

 

 狭い空間に、身体を押し込み、自ら身体を固定する。

 小さな窓、そこから見える外の風景。

 夜だ。数人の作業員が機器のパラメータをのぞいている。

 頭の中、与えられたミッションを何度も反芻して、具体的なプランを数通り想定した。それらは何度も、検討し組み立てたものだ。その中には実際には起り得ないだろうと思われるものもある。例えば、今この場で身動きが取れなくなるといったこと。

「ミル。もうまもなくだ」耳もとのスピーカーからの声。ミルというのは、コードネームだから、本名ではない。

「ええ」

 準備は出来ていた。物質的にも、心理的にも。

「もっとましなものを用意出来ればよかったんだが、補足されるかもしれん」

「心配ありません。分かっていたことです。備えもあります。――それに、これがなければ、私にミッションが与えられることはなかった」

 がたっと音がした。スピーカーの向こう側。

「余計なことは考えるな、ミル」しゃがれた声。聞く者の反論を許さない気魄を含んでいる。

「はい」

「お前は、ただ命じられたことをこなせば良い」

「はい」

「時間です」先のオペレータが割って入った。

「うむ。ミル、もし向こうの連中と接触したとしても、慣れ合うな」

 その声を最後に、通信は切断された。

 揺れる。ミルの乗ったトラクタごと。

 窓の外、こちらを見上げる作業員の凡庸な顔。急に明るくなって、ミルは眼を細めた。揺れは、増していく。

 衝撃が全身をつき抜けた。

 光が弱まり、ミルは窓の外を見降ろした。離れていく。

 あっという間に。

 もう人里離れた施設は、視界の外にある。小窓の視野は広くない。代わりに、大都の明かりが入ってくる。それも見る間に離れて行ってしまうが。この世界において類を見ない巨大な都市も、すっかり小さくなってしまった。

 ズンと、足元で振動があって、トラクタはさらに加速したようだった。

 夜空、さっきまで観えていたそれは消えて、乳白色の霧に窓は覆われている。霧の中には、細かな光の粒がいくつも瞬いている。様々な色。赤、緑、紫、とても綺麗だ。率直に、純粋な気持ちでミルは思った。

 直後、ミルは眼を閉じ、夢の世界を絶った。

 それはマニュアルにある通りの行動だ。しかし、それはなぜなのか、これまで疑問に思っていなかったが、不思議に思った。観ていても良いのではと、魅了するものが霧の中にはあったのだ。

 だが、考えている間に、瞼を通して赤い光が差し込んだ。とても強烈な光だろう。眼を閉じているというのに。

 光を感じている内、少々の変化があった。

 身体の重みを肩に感じた。身体は固定してあるが、一瞬どこかへ飛び出してしまうような感じ。その後に襲ったのが浮遊感。全身が、内も外も関係なく置いていかれているような感覚。

 気持ちが悪い。

 それでも口を開かないようにしていた。もし万が一、一瞬でも開いたら、胃の中のモノが全て出てしまいそうだった。

 耐える。

 それしか、ミルに出来ることはない。

 どれくらいの時間か。手を握り締めて、身体は硬直した。

 轟音。土煙で、窓は用をなさない。

 センサが起動する。温度を測るものでそれによると、辺りには、生き物はいないらしい。尤も、その性能はトラクタから両手を広げた程度の範囲しか測れないので、申し訳程度、でしかない。

 土煙が上がっている間に、ハッチを開いた。同時に身体の固定も解除されるので、頭から落ちる。

 草の感触。首を痛めないよう受け身を取って、身を翻した。瞬間、なにかが飛んだ。ハッチの直下。ミルが降りたところに当ったようだ。

 ナイフ、或いは先を鋭く尖らせた固い物質。どちらにしても攻撃してきてくれることはありがたい。

 飛んできた方向を見定めて、飛び込んだ。草むらの向こう。

 二人の覆面が隠れていた。男女どちらかは分からない。しかしどちらでもよいことだ。片方に右手を突き出した。手首の部分から鋭い針が飛び出して、心臓に突き刺さる。そのまま、横へ引き裂いて、もう片方の首へと走らせる。

 とりあえず、二人。ミルは数を数えた。

 まだ、いるだろう。音は出さなかったが気付かれているはずだ。

 トラクタが落ちた場所は森の中。多少の誤差はあるかもしれないが、予定通りの場所だろう。手首から出した針を逆手に掴んだ。

 補足されるかもしれないというのは、補足されているということだ。初任務に浮かれたミルに、友が言った忠告が蘇る。

 草木の擦れる音がして、そちらを見上げた。枝の上に佇む覆面。

 飛んだ。

 相手も同じように動いた。

 誘われたか? ミルは悟ったが、遅い。

 覆面は何かを投げた。切り払う。武器ではないようで、代わりに斬ったそばから、粉が舞った。

 煙幕?

 考える間もなく、空中で衝突した。手探りで、敵の急所に針を刺した。眼を閉じていても殺せるよう訓練したのだ。

 落下する。

「けほんっ」

 油断していた。あの粉は毒か何かか。いくらか、吸い込んでしまったようだ。足元の覆面はもう絶命している。

 隠密は二人一組で行動する。はじめに教わる鉄則。世界が変われど、同じだろう。どこかでもう一人が観ているはずだ。

 視界が狭まっているのが分かった。身体も思うように動かないかもしれない。一時的なものだろうけれど。

 来るなら、背後。近づいてくれば、対処のしようはある。ひとりを倒し、どこかへ身を潜めればいい。だが、飛び道具を使われるなら、辛いところだ。だが、殺さないという選択肢も敵にはあるだろう。ミルが何者か、知りたいはず。

 そこまで考えて、弱気になっている自身に気付いた。

 ともかく、今は無駄に体力を使わないことだ。身動ぎすることなく、片割れの動きを待った。

 枯葉の割れる、微かな音も聞き漏らさなかった。それはやはり、背後。慎重に近づいてくる。相棒を殺した敵の罠を、警戒しているのかもしれない。或いは毒が回ることを待っているというのも有り得る。

 ミルは待った。

 敵が手の届く範囲に入ってくるのを。

 しかし、突然の無秩序な音に、ミルの集中はかき乱された。くぐもった呻き声。地面に落ちた枝の折れる音。

 また静かになった。背後の殺気は消えている。別の者の血の臭い。

「あんたの敵は、片づけたぞ」

 急な言葉に、ミルはその場を飛びのいた。反転して、木に背をつける。予想した通りの場所に、男が立っていた。隠密。それは装束を見ればわかる。手に武器は持っていないが、傍に倒れている覆面を倒したのは宣言どおり、この男だろう。

「おい、大丈夫か。俺はあんたの敵じゃねえ、はずだ」

 見据えた。男の顔を。まだ、若い風貌だった。精悍な体つき、敵に回すのは不利な相手だ。

「なあ、俺はインファクトマウスの人間だ。あんたも、そうだろう」

 こんなところで何を言うのだ。誰が聞いているかもしれない森の中で。

「この連中は」と男は眼で、覆面を指す。「もう部下が全て片づけた。ここには俺たちしかいない。――分かったら、その警戒を解いてくれないか」

 ミルはほとんど無意識にその申し出に頷いた。そうして頭はそのまま落ち続け、意識はふっつりと切れた。


 ・


 その後、ミルが意識を取り戻した時、暗い一室のベッドの上に寝かされていた。身体を起こし、立ち上がる。身体に不自由はない。それどころか、調子が良いぐらいだ。丸いテーブルがあり、上には水差しとコップが置かれている。

 喉は無性に乾いた。とはいえ、水の中に何が入っているかしれたものではない。水差しを取って、鼻を近づけた。異臭は感じない。だが、水には手をつけず、部屋を見渡した。ドアと窓が一つずつ。殺風景な部屋だ。外へ通ずる所には、どちらも木の扉。

 窓へと向かった。扉をそっと押した。ミル自身は壁に身体をつけて外を観る。

 街だった。それも広い通りに面している。往来も豊富だ。

 不意に、ドアが開いてミルはそちらへ振り向いた。

「ああ、やっと目覚めたか。どうだい、気分は」

 入ってきたのはあの時、森にいた男。何やら袋を手にして、入ってくるなり軽い口調で話す。

「悪くない」

「そうか。良かった。俺はオルダ」

「オルダ?」

「名前だ。覚えておいてくれよ」

「空虚な、与えられたものの一つ。覚えておく必要なんて」

「いいや、本名だ。姓はモウロ。何なら調べてくれて構わないぞ。両親は――」

「興味ないわ。そんなこと」

 ミルは窓の傍の壁に居続けた。オルダと名乗る男が味方かどうか、まだ分からない。根を同じくする組織とはいえ、世界が違えば別物だと聞いていた。否、それ以前に、ミルはこちらの世界の人間とは関わることは許されていないのだ。

 オルダは持っていた袋をテーブルに置いた。中はパンや果実といった食料のようだ。

「腹、減ってないか」袋から幾つか出しながら、聞いてくる。

「ここは、なんていう街なの」

「タリン。モラヴィア国の首都、の衛星都市の一つだ」言って、袋から出したばかりのリンゴをかじる。

 タリンと言えば、ミルがトラクタで運ばれた森のすぐ近くにある都市だった。

「昨夜の――」思い出せば、不覚を取ったという悔しさが沸き上がった。

 冷静になろうと努め、言葉を続けようとしたところにオルダがかぶせる。

「二日前だ」

「なに?」

「森で俺が助けたのは二日前の夜だ」

 そう言われて、言葉が出なかった。丸一日、眠っていたということなのか。あの時、浴びせられた毒はそれほど強力なものではなかったはず、それに毒物に対する、高める訓練だってしていたのだ。

「俺たちは変なことはしてないぜ。君の身体がそれだけ酷使されていたってことだろう」

 納得できないことはあった。だが、現在ミルの置かれた境遇にあっては、

「そう」

 と、頷くよりほかにない。

「それで、君に与えられたミッションは? あとそろそろ名前も教えてほしいんだけどな」

「名前は、ミルよ」

「コードネーム?」

「当然よ」

「本名は? 同じ組織の人間なんだから腹を割ってくれよ」

「教えるわけないでしょ、そんなこと」

「俺は教えてるんだけどな」

 妙な男だと、ミルは思った。あの時の事がなければ隠密などとは思わなかった。その上、部下を持っていると言っていた。相当は実力があるということなのか。さもなくば、この男はきっと指揮系統を乱す存在でしかない。

「それで、ミルはあの旧式のトラクタに乗せられて、何しにこちらへ来たのかな」

「言えば、あなたは手伝うって言うの」

「ああ、そのつもりだ」

「馬鹿言わないでよ」

「本当だ。実は、少し前に光伝で連絡があったのさ。――女が行く。助けてやってくれ、ってな」

「そんな嘘を――」

「本当だって。まあ、信じないのも無理はないけどな。そんな連絡に光伝が使われるなんて初めてらしい」

 そう言ったオルダの言葉は、ミルには真実らしく感じた。尤も、熟達した隠密ならそう感じさせることも可能だろう。が、そうであるならもっと真実味のある嘘を吐くはずだ。

 光伝とは本来、危急の時に、他の世界へ助けを求める為に組織が設置したもの。それを私信としか思えない内容に使うというのは、どう考えてもおかしいことだ。

「ともかく話してくれよ。俺はどんな任務であったって、助けるつもりだったんだ」

「それはこちらの世界の、組織総長暗殺でも?」

「ああ、問題ない。そういう任務なのか」

「そんなこと言ってると、反乱分子として殺されるんじゃない」ミルとしては、それでも一向に構わないと思った。

「心配ない。ここには俺の忠実な部下がいるだけだ。どこかで聞き耳を立てていて、誰かに伝えようなんていう輩はここへは近づくこともできない」

 とても自信ありげな言い方だった。

「だから、安心して話してくれ。確実に役目を果たせるよう俺が導いてやる」

 大言を吐く男だ。信頼したわけでは当然なかったが、ミルは話すことに決めた。まずはこの状況を何とかしなければならないのだ。オルダをどうにかしなければ、部屋も出れそうにない。

「光の橋」

「ほう」オルダは腕組をして、先ほどまでミルが寝ていたベッドに座った。とうにリンゴは食べ終えている。

「その鍵の奪取。それが私の任務よ」

 光の橋、それは遠く昔四つの世界に跨って掛っていたという道の事。各世界の人々は橋を渡って各地を旅したそうだ。だが、ある時、外されて今では昔話の一部となっている。が、実在はする。橋は四つに分かたれて、鍵となり四つの世界に封じられた。その鍵を呼応させた時、再び橋が掛る。

「ビルストリルの神殿だな」

「そうね」

 こちらの世界の神殿の場所は、地図を見るまでもなく記憶していた。ここタリンは国境の街でもある。隣国に渡って約二日のところが目的の神殿だった。

「なかなか歯ごたえのありそうな任務じゃないか」

「怖気づいた?」

「まさか」ミルが訊いたこととは正反対に、オルダは楽しそうに笑っていた。「出発は明日でいいよな」

「なぜ? 今からで問題あるの」

「ああ、ある。まず、君の体調はまだ回復しきっていないはずだ。それにモラヴィアの隠密が今も動き回っている。明日になれば、警戒は弱まると、考えているんだが」

「まあ、いいわ。それでも」

 あっさりとオルダの主張を認めた。なるほど、たしかにミルの体調は万全ではなさそうだ。身体は動かしたい、とはいうものの身体を思うように動かせないのではないかという雰囲気が漂う。

「よかった。じゃあ、準備をしておく。それと、今夜はこの部屋からはでないでくれ。食べ物はそこに、十分な量だと思う」

 ミルが了解して頷くと、オルダは安心したという顔で、出て行こうとした。

「ああ、そうだ。何かあったら、俺の名を呼んでくれ。すぐに駆けつける」

「そ。なら、そうさしてもらうわ」

 今度はオルダが頷いて、部屋を出て行った。オルダの足音が聞こえなくなるまで待って、テーブルに寄った。水差しからコップへと注ぎ、一息に飲み干した。次いで、袋からパンを取って食べる。

 次第に頭が生き返ってくるようだ。

 室内はミルの咀嚼する音がある以外静かだが、部屋の外は何かしらの、雑多な音が常にしていた。

 窓の外で物を売る声や往来の話し声。子供の嬌声。

 一つひとつに耳を傾けた。真下からも音は頻繁にあった。ここはオルダの持つ隠れ家の一つなのだろうが、一階は普通の街人が使っているようだ。人家ではなく、店か倉庫。そのようなものだろうと推測した。

 袋の中の物をすっかり食べてしまうと、ミルは身体を伸ばした。丸一日寝ていたということもあって、身体がまだ強張っていた。それを少しずつ解消してゆく。毒の後遺症はなさそうだ。身体に隠した武器も使える状態にあった。

 万全とっても良い。

 すぐにでも神殿に向かいたい気分だった。そして任務を果たす。

 それ以外の、余計な考えは持たない。これは初の任務なのだ。慎重でいて大胆に、事をなす。

 一通りの準備が終わると、眼を閉じて待った。

 雑音は少しずつ坂を下り、やがて疎らになった。遠くでは、しばしば声が轟いたが、窓の外は皆無。

 ようやく立った。窓の戸をそっと、音を発てないよう開けて、隙間から抜けだした。正面の通りに人影はない。軒先の屋根を伝って、部屋を離れた。しばらく屋根の上を歩き、路地が見えると、そこで降りる。

 街はまだまだ活気を保っている様子だった。酒場や工場らしきところは明かりが点り、声が聞こえる。そうした活動があれば、歩く者はいるものだ。酔っ払いもいれば着飾った男女もいる。ミルは何食わぬ顔で路地を出た。やや俯いて、襤褸衣を肩から羽織る。それだけで人は観ようとはしないものだ。街の抜けて、人家に変わって草はらが規模を占めるようになると、襤褸を捨てて駆けた。この先、山を二つ越えなければならない。迂回して敷設された街道を通れば簡単ではあるものの、遠回りになるし、補足される危険も大きくなる。

 一度、方角を確認した。小さな円錐形の鉄は先端を常に中天の、世界の中心へと向けた。それは律儀にも常に一定の方向を向く。そして鉄には方位が刻まれていた。

 ミルはただ真っ直ぐと進もうと考えていた。山はさして剣俊でもなく、他に障害になるものもなかった。街を出て、あるところまで街道を走ると、ぐっと逸れた。丁度よいことにそこは背丈のある植物が生い茂る畑だった。ミルをつけている者がいても撒いてしまえる。

 一度も立ち止まることなく、走り続けた。その間には、畑があり林があり牧草地帯と思しき草原もあって、いつしか傾斜がつきだした。草が減り、剥き出しの土と転がる岩の数々。ミルは無心で身体を動かしていた。豊かな植生に囲まれた中、この山が荒れているのはどういうわけがあったかなど、気に留める必要もないことだった。

 街から走り通し、漸く足を止めたのは湧水が発見されたからだった。

 喉を潤し、辺りを窺った。空からの光りは僅かで、見えるのはほとんどが影の様な状態だ。空から、微かに注がれる光を眼にし、天上のトラクタの小窓から観た情景を思い出す。輝く霧に囲まれた、身を焼くような強烈な光。直接観たわけでもないのに、記憶には切り離すこともできないほど刻まれている。

 冷たく濡れた口を拭った。そろそろ休息を入れても良いころ合いだった。ここではない場所で。

 この荒れた山は随分とひらけている。身を隠すのはままならない。もう少し進めば、適当な場所もあるだろう。じき国境を超えるところに来ていた。

 ただ、その前にすることがある。

 ここまで来た道へ振り返った。

 すかさず、水辺で拾った小石を投げた。カツンと、甲高い音。岩に当った音ではない。同時に火花も散ったように見えた。

 直後に、二か所から風が吹いた。一直線にミルへと、迷うことがないようだ。ミルも臆することなく、応戦の構えをとった。

 同時、というわけではなかった。

 まず、一方を受け、逸らし、次の風の合間に立たせた。

 軽く衝撃が走り、独特の臭いが漂う。手をまわし、脇腹を打った。鈍い音と、遅れて生温かいものが手に触れた。

 華奢なミルの身体に凭れた二つの塊は、身体の芯を逸らすことによって崩れ  落ちる。それとともに身体に打った針も抜けた。周囲に他の動くものはいなさそうだ。

 重なって動かなくなったそれは、どちらも死んでいる。上に乗った死体を転がし仰向けにする。

 どうやらそれはトラクタで着いた夜に襲って来たものと同じ。モラヴィアの隠密だった。オルダの言っていた通り、ミルを探していたのだろう。何処からつけていたのか分からないが、その点では優秀だったと言える。ただ詰めが甘かった。確認だけすると、その場を後にした。死体はそのまま。本来は隠すべきだが、こうも見通しが良いとそれをするのは時間の無駄だろう。

 山を下り始めると、すぐに森林が辺りを覆った。十分に距離を取った森の中でしばしの休息をした。

 山での一件以降、ミルの歩みはスムーズだった。

 翌日は丸一日山野を走り、その次の日の昼には神殿の周囲に広がる街が視界に入った。その手前で巡礼者が一様に羽織るローブを纏い、多くの人々に紛れていた。

 神殿に近づくにつれ、物々しく武装した兵の隊伍とすれ違う。一隊ごとの数が十を超えない程度の少数。同じ隊では統一された武装も、隊が変われば違うものとなっている。彼らは各国から神殿へと派遣された守備兵たちだった。古くからそのように取りきめられて、神殿を守ることについては敵味方という対立を挟まない。任務を成すための障害となる者たちだった。だが、この場においては一先ず気にすることもない。

 巡礼者に混ざったまま神殿の城壁を潜った。

 そして驚いたのだが、神殿都市というわりには内側は乱雑な雰囲気に満ちていた。巡礼者を相手に物を売る声。それに輪を掛けて、そこここで屯する兵士。ミルの前にいた一団はそうしたものには一切眼を向けず、道を歩いていてミルもそれに倣った。道は少し傾斜し、やや曲がっていた。神殿はここよりも高いところにあって、しばしば見上げる度、その方向は変わった。すなわち、城門から続く道は神殿をぐるりと囲うように敷設されていた。

 しばらく行くと、また門が見えた。傍には見張りと思しき兵士が立っているが下で見た兵士とは明らかに態度が違った。その眼は真剣そのもので、不埒な侵入者には一切の手加減をしないという表情だった。ミルは先を歩く人々と同じように目線を下げて、見張りをかわした。

 門を潜り、さらにもう一つの門も通り過ぎるとそこは静謐に包まれていた。神殿は間近になり、狭い入口の前には巡礼者が列をなして、定められた印を結んでいる。流れのままに列に並んで、しばらくすると神殿へと入ることが出来た。

 中は広く天井はドームになっている。入り口の正面にはこの神殿が奉じる神の像。周囲ではミルと同じ格好の巡礼者たちが祈りを捧げていた。壁際には神官や帯刀した兵士がいて、神殿内に目を配っていた。そこにおいては祈らないことは目立つ。ミルもほかの多くの人々と同じように跪いた。

 この神の名、司るものがなんであったか。記憶を多少紐解いても出てはこなかった。ビルストリルという神殿の名とは違ったはずだが。

 このような不心得な者が神殿で祈りを捧げているなんていうことは、神にとっては侮辱されているようなものではないか。まして、ミルはただ不心得なだけではなく、安置されているものを盗み出そうと企んでいるのだ。自嘲的に思った。なにしろ、祈りのポーズを取りながらも、実際していることは神殿の観察なのだった。神罰というものがあるならば、間違いなくミルに振りかかると思った。

 左右に四か所、ドームから開いた部屋があった。奥と手前、位置は対称。しかしそこから先はどうなっているのか見えなかった。付近には、神殿の人間がいて、入ることはできそうにない。おそらくは神官たちに与えられたスペースなのだろうと、推測した。

 神殿の中に入れる人数は制限してあるようで、しばらくすると出るようにと促された。恍惚な、無防備な表情を浮かべた巡礼者たち。彼らを立たせる神官は慈愛の表情を浮かべながらも、どこか冷淡に見える。

 神殿から出されると、前の広場にはいまだ多くの巡礼者が列をなしていた。

 さて、これからどうしようか。鍵の在り処について事前に知らされたことは無かった。それについては自ら調べるしかないことだった。人に訊くことなどできるはずもなく、真っ先に思いついたのは夜に忍びこむという常套手段だった。けれどまだ、出来ることもあるだろう。

 折しも、広場に杖を突きながらゆっくりと上がってくる巡礼者があった。傍らには、歩みを助けるために支えている人もいる。が、急に杖の先端が滑り、倒れた。助け起こそうとするもうまくいかないらしかった。見張りの兵までが駆け寄った。

 その機にミルは広場を離れた。神殿に沿って一目に付かない影へと回る。そこまで来てしまうと、見張りの眼はほとんどない。街とを分ける内壁に、兵士の姿はなかった。巡回も気紛れのようだ。それでも慎重に神殿の周囲を観察して回った。神殿はドームの中から感じたものよりもずっと大きなものだった。多くは部屋の様で、中ごろには広い部屋がいくつもある。裏の方へと行けば、小さな畑があり隣接するように調理場があった。全体の横幅は中ごろがドームより広い。ひし形のような形をしているのではないか。

 夕暮れ近くになって、広場に戻った。

 神殿の建つ郭を下りて、街の方まで戻ってくると、一先ず宿に入った。巡礼者向けの店は無数にあって、高級なところから寂れたところまで選ぶに事欠かない。ミルが選んだのは下から数えた方が早い部類に入る。けれど、比較的小奇麗だった。向かいがどこかの国の兵舎なのでそういう影響もあるのだろう。小悪党が近づきにくいということ。ミルはどうだろう。

 なるべく目立たないように、近くの食堂で食べる。ひっそりとしていて、ローブを被って数人、或いはひとりで、彼らは喋らない。それは巡礼者に課せられた掟だった。ミルもそうした格好をしている以上、無駄な声は出さずまさに黙々と食していた。

 黄緑がかった白いスープに、小ぶりの鶏の腿肉がついている。――骨付きだ。久々の暖かい食事でもあった。

 これからどんな手を打つべきだろう。今のところ分かっていることは大まかな神殿の形。守備の状況。鍵の隠された場所はこれから調べなければならない。神官として神殿に侵入するという手も考えはしたが、それでは時間がかかりすぎるだろう。

 とはいえ。いずれ神殿に忍びこむことになる。

 そのチャンスは恐らく一度だけだ。二度三度と侵入を許してくれるほど警備は甘くない。一度で鍵を探しだし持ち出さなければならないのだ。

 侵入する前に、鍵の在り処に見当をつけておきたかった。そうすれば、奪取したあとは民家の屋根を伝って城壁を越えて行ける。反対に一度でも見つかってしまうとほとんど困難だ。多数の兵士を警戒させてしまうことは、失敗に等しいことだ。

 そうであるからには、慎重でなければならない。

 心にそう留めて、肉を頬張った。肉は香草を効かせて焼いてあり、普段味を気にしない食事を取っているミルにとって十二分に美味しい。だから、なおのこと味わっていたのだが、こちらへの目線に気がついた。

 それはちょうど食堂の反対側に座っているひとりの巡礼者だった。体格からして、男だとわかる。しかし、深く被ったフードで顔は窺えない。横目で見ていると、男は立ちあがった。そして迷うことなくこちらへ歩いてくる。

 側に来て、男は言った。周囲には聞こえないほどの声。瞬間にミルは何者かを悟る。

「早く食べないと冷めるよ」

 オルダは半ば笑っている。向かいの空いた席に勝手に座った。

「何しに来たの?」

「もちろん手伝いに。まだ手に入れてないんだろ」さも当然という言い方だった。

 自分ならもう奪っている、とさえ聞こえる。

「必要ないわ」

 得体のしれない男に手伝われるなんてむしろ迷惑だと思った。そもそもがミルひとりで成し遂げなければならない任務である。関わるなという命もある。

「そうか? まだ方針も決まってないように見えたけどな。神殿に裏に回って忍び込むかと思ったが、帰ってきたし」

 睨んだ。

 オルダの、不敵な眼と搗ち合った。

 見られていたのか。それを知らされると無性に身体が熱くなった。

「遠慮することないんだぞ。俺は好きでやってるんだから。それに間違いになく役に立つ情報も持ってる。ミルに見せようと思って手に入れておいた」

「なら今ここで渡してちょうだい」

 努めて冷静に言った。が、オルダは首を振った。周りに感づかれないよう振れ幅は微かだった。フードの中で顎が揺れる。

「俺も実際に手を貸す。それが条件だ」

 ミルは溜息しかでなかった。ほとほと厄介な男である。

「いいわ。後で宿に来て。知ってるんでしょ」

 すると、オルダは隠すことなく頷いた。

 それから間もなく出て行くかと思ったが、オルダは変わらずテーブルに両肘を突いて座っていた。フードの中の眼はずっとミルと捉え続けている。

「いつまでそこにいるつもりよ」

 返事は無かった。スープも肉もまだ半ば残っていた。


 宿の部屋は二階にあった。狭い廊下の突き当たり。明かりの届かない角部屋だ。ドアを開けると既にオルダがいた。元々倉庫だったと思しき部屋には、高いところに小窓が一つ、蝋燭を乗せた燭台と、それを乗せたテーブルが一つ。ベッドが一つという質素具合だった。そしてオルダは立つでもなく、ベッドに腰掛けている。

「あなた本当に、組織の人間?」

 第一声に、浮かんだ疑問を口にしていた。

「ああ、俺はインファクトマウスの第二隠密隊を率いている」

 いともたやすく組織の名前を口にする。そんな人間を見たこと自体初めてだった。組織は一部の人間が知る以外、存在も秘密とされていた。ミルも組織の全貌も目的も知らない。当然組織を公言することは認められていない。

 それを事もなげに破ることは男の不気味さを増長させる。

「もう少しまともな部屋を取った方がいいぞ。いつ何時悪漢が入ってくるとも限らない」自分のことを棚にあげたような忠告。それから部屋を見廻して「しかも逃げることも難しい」と真面目そうに言う。

「殺せばいい」

「その手もある。けど、余計騒ぎになる」

 と笑った。

 尤もではあるが、この男に言われたくはない。

「それで私にくれるという情報は?」

「せっかちだな。まあ、いいか」言って懐から取り出したのは折り畳んだ紙だ。

「その紙は――」

「そう焦らない」オルダは紙を蝋燭の明かりが届くところで広げた。「これが俺たちの攻略する神殿の見取り図だ」

 俺たちという言葉に引っ掛かりつつも、見るとたしかに神殿が真上から見下ろした風に書かれていた。祈りの場であるドームと、後ろは神官の生活するための場所らしい。ミルの見立て通り裏の居住空間はドームとその反対側は窄まり、中央が張り出している。そして真ん中には中庭がある。図には部屋の用途まで事細かに書いてある。

「資料窒に修行房、食堂も結構広い。神官はいい生活をしてるのね」

「それはそうだ。日がな一日瞑想をして、暇つぶしに巡礼者の案内をする。俺には耐えられないな」

「けど、鍵の安置場所は乗ってないわよ」

「何でもかんでもは書かないということだ」

「地下は、ありそうにない」

「そのようだ」

「神殿の中――」

 ミルは図を凝視した。神殿のそれぞれ区切られた空間は何かしら名称がついていた。そこのどこかに安置されているのだろうか。鍵は大きなものではなく、簡単に持ち運べると聞いていたので、隠そうと思えば神官の個室にだって隠せそうだ。

「神官長の部屋かしら。詰め所にも近い」

 今はあたりをつけるしか出来ない。忍び込んでから調べるのでは遅いだろう。

「そこで寝込みを襲うという手もある」

「そうね」

 選択肢としては十分考えられた。尤もあたりが外れた時のためだが、そうなるとやはり詰め所の兵が気になる。

 ほかへと眼を向ける。神殿の外畑の側には倉庫があるがそこはさすがに違うだろう。

「俺の感だがいいか」オルダは言った。許可を取るような言い方だが、ミルが応える前に話しだしていた。「見当をつけるならここだ」

 図を指差した。そこは中央、ドームのすぐ裏にあたる。図に記されているとおりならそこはただの修行房だ。

「なぜ?」

 ただ聞いた。この男の場合出まかせを言っている可能性もあると思った。

「それは行ってからのお楽しみだ。だたし、ここへは中庭から行く」

「出鱈目なことを……」

「大丈夫、俺を信じろ。確実に任務を成功させてやる」

 その自信はいったいどこから来るのか。むしろ感心させられるものだった。見取り図はたしかに有用だった。鍵の在り処まで分からなくとも、忍び込む際には役に立つ。だが、この男までついてくるとなると別だった。どこかで災いに巻き込まれる、そんな気がしてならなかった。

「ミルは、こういう任務、畑違いなんだろうな」

「ええ、そうよ」

 ミルが長年訓練してきたのは暗殺術である。それが今回の任務に充てられたのは、偏に旧式のトラクタに乗れる体格であったからだ。近くにいる相手なら、眼を瞑っていても殺せる。どんなに体格の差があろうと、一撃で仕留める自信がある。

 オルダを見た。図に眼を落としている。

 半歩前に出た。

 同じタイミングでオルダは顔を上げた。ミルを見て、少し笑ったように思った。

「明日、忍び込もう」

「え、ええ」

「ローブは別の物に変えた方がいい。神殿近くにいる兵士たちは、今日来た巡礼者を記憶している。一度巡礼した場所には行かないものだからな」

「――そうね。用意しておく」

「なら、俺も準備しておかないと。昼ごろに合おう」

 そう言い残すと、出て行った。

 それからしばらくして、ようやっとミルは身体から息を吐き出した。同時にベッドに座った。固い、とても固いベッドだった。


 明くる日は古着屋でローブを取りかえることから始まった。

 その後は目立たないよう注意しつつ、街を歩いた。

 兵士は何処にでもいた。街なかで油を打っている兵士はしかし、あまり質はよくないようだ。

 博打をしているものもいる。見ていれば、腰に帯びた剣に手がのびていて、腹を立てて、今にも抜刀しそうな兵士がいた。その時は仲間が宥めてどこかへ連れて行ったが、意外と組みしやすそうだ。

 オルダはどうするつもりなのか、忍び込むことに異存はなかった。見取り図があれば、もう外ですることもないだろうという気がする。既にあの図は頭に入っている。

 そういえば、オルダはあれを何処から手に入れてきたのか。聞いておくべきだった。それによって真贋も分かる。その意味でも得体が知れない。

 いっそのこと昨夜の内にひとりで行こうかと、何度と考えた。

 だが――

 昨夜ミルはオルダを殺そうとした。あの距離で、無警戒な心臓を間違いなく一突きに出来たはずだ。

 しかしオルダは生きている。手を出す前に、後から思えば、竦んでいた。

 なぜ止めてしまったのか。ミルにとってそれは、大きく肩に覆いかぶさった亡霊のようだ。

 あれでオルダも隠密だ。無警戒ではなかったということだろう。それを無視したミルはたった一度の牽制で竦んでしまった、ということか。

 あまりにも甘い考えだと、自分でも思った。

 それだけではないはずだ。

 さらに一歩踏み込むと、亡霊は亡霊ではなくなり、実体をもってミルを呑みこもうとする。

 内心に眼を瞑り、代わりに神殿を見上げた。街の通りを少し登り、郭を結ぶ門が見えていた。

「ミル」

 声がした。門の方向。振り向くと神官が立っていた。

「オルダ?」

「ああ、もう行けるか?」

「ええ」

「――ついてきてくれ」

 頷くと何も言わずに歩き出した。なぜ神官に変装しているのか。その意図は測れない。手には革の袋を持っている。門を潜る時、警備に立っている兵はオルダに軽く頭を下げた。それだけ完璧な変装ができているということ。次の門でも対応は変わらない。

 神殿前は昨日と同じく巡礼者が並んでいた。

 淡々と同じ姿の人々が、神殿を出入りするような光景だった。

「そこで待っててくれ」

 そういうと神殿の入り口へとオルダは向かった。睨みをきかせる兵士に何か話しているようだった。

 兵は頷き、オルダは戻ってきた。

「何を話したの」

 二人はドーム横へと歩いた。昨日ミルが入った反対側だ。人の眼を気にせず、そちら行くのはオルダがそちらへ向かったからだ。

 ついてゆくと、神殿と城壁の間――そこには幾つか低木を主とした草むらがある――比較的緑の濃いところに分け入った。

「ここで日暮れまで待とう」それから思い出したように、質問に答える。「私、ウンマの同郷の友人が巡礼にきたのだが、体調を壊した。神殿で治療したい――それだけさ」

 なかなか手の込んだことをすると思った。ウンマという神官がどうなったのか聞かない方が良いのだろう。

 もとより興味のあることではないのだが。

「けど、これから日暮れまで?」

 どうしてそんなことをする必要があるのだろう。そこは隠れるにはもってこいで、よほど近くに寄らなければ見つからないだろうと思われる。

「ミル、お前どうやって忍び込もうと考えてたんだ? 夜、城壁を越えるか?」

「……当たりよ」何事も見透かされているような気がした。「本当のことを言うと、昨夜何度かひとりで行こうと思ったわ」

「それは、思いとどまってよかった。神殿周囲の城壁には、夜歩哨が立つことになっている」

「――そうなの?」

「ああ。街からのこのこと壁を越えてゆくと、必ず見つかるという寸法だ」

 そこまで調べているのか。それも短期間で、周到な用意をしている。

「日暮れから歩哨が立つまでの間に、中庭に忍びこむ。脱出は暗くなってから。それまではのんびり待機だな」

 そして鍵を奪った後は城壁を越えて街の外へ行く。最悪そこで見つかっても構わないというのだろう。

 眼を閉じると、亡霊はまだ居座っていた。囁いていた。耳を塞ぎたくなる。

「食べろ」

 差し出されたのは親指ほどの大きさの干し肉だった。黙って受け取り口に入れた。噛んでいる内に柔らかくなる。

「あなたの部下は? ついてきてないの」

「部下? ああ、他の任務に就いてる。各地で情報を集めている奴もいるが、そいつらは別の顔を持ってるからな。こちらには来ない」

「この街にも?」

「いる」

 やはり、そうなのだ。

 安堵するとともに、当然だという思いもあった。

「本当にあなたも忍び込むの?」

「今更来るなと言っても無駄だぞ」とオルダは意気込んだ。

 ミルももはや来るなと言うつもりはなかった。実質始まっているのだから、ここで妙な行動をされても困る。が、ミルが言いたいのはそういうことではない。

 神殿は世界の住民にとって、不可侵のものなのだ。それだからこそ、国々から防衛の兵を派遣させている。それはミルやオルダの属する組織だって同じだ。あからさまな軍隊を持たないかわりに隠密を派遣している。

 ミルが言いたいのはそういうことだった。同じ組織同士で殺し合うことも十分に考えられる。

「管轄を犯すってことか」

 と、言ってからオルダは鼻で笑った。

「関係ないな。ここの奴らには悪いが鍵は奪う」

 そのとおりだ。ミルもわずかに頷いた。だが、同じ状況にミルが置かれた時、出来るだろうか。後々組織の中で危うい立ち位置に追い込まれることは容易に想像できる。オルダはそれも考えに入れているのだろうか。そこまでの犠牲を払って、鍵の奪取を手伝おうという理由も分からなかった。オルダの上にいる人間が必要だと考えているのか。

 まだ陽は高かった。時折近くの窓縁に神官が見えたが二人に気付かないようだった。今日は敷地の奥にまで兵士は入ってこないようだ。武装していない神官だけならどうにでもできる。素早く口を封じてしまえば良いのだ。

「ミル。人間ってのは元々なんでもできるものだ」

「――そうかしら」何を言い出すのかと思ったが、一先ず相槌を打った。

「万能って意味じゃない。自由ってことだ。何かをするのに、誰かの許可をもらう必要はない」

「そういうことなら、そうね」

「だが、実際はそうはいかない。自由に動けるのはごく一握りで、他はその一握りを助けている。――と、いうのは聞こえがいいが命令されて動いているだけだ。与えられた命令にどんな意味があるかなんて知らない」

 真剣な表情のオルダに、短く頷いた。

「私たちのことを言ってるの?」

「――俺は、そうはならない。誰かに使われるだけで終わるなんでごめんだ」声色も変わり。これまでの有りようとは、まったく別の人間のようだった。「ミル。お前はどうだ」

 どこまでも使われるのか。オルダは言った。

 隠密であれば、終わりはどこかで殺されるということ。

「何のためかも分からない任務で?」

 それこそが、栄光だ。

 頭に響く、言葉。

 トラクタのマイク越しに聞いた声と同じ人物から発せられる。絶対的な存在。組織の中心に立ち、ミルが任務に選ばれた時はじめて対面した。その時に掛けられた言葉。

 オルダとは正反対だ。

 そして――そうトラクタの発射場で言われたのだ。

 余計なことは考えるな、と。

 神殿の周囲は静かで、広場の方では当然人の気配が濃いが、しかし遠いものだ。二人は黙し、時は過ぎる。

「そろそろだな」

 空は陰ってきていた。

「まず中庭に入る。それから――」

「決める必要ないでしょ。私の思うようにするわ」

「……それでもいいが。――でも、無駄な殺しはするなよ」

 近づいてくる気配がないことを確認して、ミルは駆けた。壁面に足を掛けて飛び上がる。ひし形になった居住部の屋根は概ね平らだ。身を屈めた。中庭、そしてドアもなく直接に通じた廊下。全体を見渡した。城壁にはまだ兵士は見えない。左手にあるドームの上部には窓があった。

 オルダも上がってくる。

「さっさと降りよう。ここは見通しが効き過ぎる」

 気にせず、ドームの方向へ走った。半周したところで、真下を窺う。ここが神官長の部屋の上だった。

 音を立てずに下りた。

 背後の扉。押すと開いた。鍵は掛っていない。一瞬後ろを見たがオルダも中庭に下りたようだ。

 中は薄暗く、無人だ。彫りの入った机に、幾つかの調度、壁際に棚があって文書が収まっていた。見立ては外れたようで、鍵が安置されていそうな場所はない。ただ、安置場所も書かれた完全な見取り図はどこかにあるのではないか。でなくとも、手がかりになりそうなものは見つけたい。

 机周り、棚の中の文書を手当り次第にあたった。

 そうしている内に外は暗くなった。

 それらしきものは出てこない、が代わりというのか、奥にもう一つ扉があることに気付いた。今まで気付かなかったのは部屋の最奥にあり、いくつもの家具の影になっていたからだ。入り口からではまず見えない位置に、あった。

 取っ手に手を掛けた。ここも鍵は掛っていなかった。開けると、カビ臭さと次いでインクの臭いが立ち込めた。部屋に付随した資料庫のようだ。狭い縦長の部屋の両壁には棚が備え付けられ、書類が溢れんばかりに積まれていた。

 この中にはあるだろう。予感はした。が、あまりにも量が多い。これならば手当り次第に神殿を探した方が早いかもしれない。そんな憂鬱な気分ありながら、手近な書を取った。サッと流し見ては別の物を手にする。

 それを数十して、いくらか倦んできた頃隣りで物音がした。様子を窺うと、部屋には神官らしき男がいた。ただ装束は少し違う。装飾を身につけ、色のついた帽子を被っている。年は初老か。神殿の長と考えられた。ミルのいる資料室に背を向けていた。

 素早く部屋を移り、背後に回った。左腕で首を抑える。

「橋の鍵は? どこにある?」

 首を締めあげている。大きな声は出せない。呻くような声で言う。

「……賊か。あれは、お前たち持ったところで、なんの意味も、ないものだぞ」

「関係ない。早く言いなさい」

「中庭だ」掠れた声でそう言った。だが、力を緩めなかった。「ドームに隣接した、泉がある」

 そこまで聞いて、オルダが昨夜言っていたことを思い出した。身を正面に回し、すかさず腹を打った。引くような呻きを残し崩れ落ちる。死んではいない。ただ気を失っているだけだ。

 急に、出くわすことの無いよう気をつけて部屋を出る。陽は落ちていて、わずかな松明の明かりによって向かい側の廊下が見える。中庭に入ると、ドームに向かって歩いた。水の流れる音が聞こえる。

 細い溝から水が流れて、ブロックに囲まれた泉に落ちている。上部には既にオルダがいて、背中を向けていた。

「遅かったな」

「悪かったわね。けど、本当にそこにあるの」

 壁が垂直に立ち、屋根まで、窓もない。修行房となっている部分。その下は窪みになって、水はそこから流れてきていた。奥の石壁をオルダは引き剥がした。裏には鉄の扉が隠されている。赤茶に錆び、引けば金切り声を鳴らす。

「ほら見つけたぞ」

 言う通り、中には台座に置かれた四角い物体があった。

 ほのかに光っているのか、暗い中でも鍵の文様や、台座の浮き彫りがはっきりと見てとれる。

「ずいぶんあっさりとしているのね」

「単体では何の意味もないからな。さ、後は脱出するだけだ」

 オルダは手を伸ばす。

 だが、ふと疑念が生じた。

 やはり、あっさりしすぎている、というのは不思議だった。何の意味もない、長もオルダもそうは言ったが、しかし神殿に安置されているのだ。隠されているとはいえ、中庭に入れば誰でも手にできるという状態は不自然だと思った。

「待って」

 もう少し調べた方がいい。そう考え声を出したが、遅かった。

「ミル、お前が持っておけ」

 言葉が届かなかったのか、躊躇なく取り上げて、鍵をミルへと放り投げた。

 受け取る。見た目よりも、重たさを感じる。

「さて」

 一先ず袋に詰め、身体に縛り付ける。これで邪魔にならず、自由に動ける。

 その間オルダは何故か、空を見ていた。何も見るべきものはない、暗い夜空である。

 不意に、挽き臼を回すような鈍い音が響きだした。誰かが挽いているというわけではないようだ。音の源は次々動き、特定が出来ない。ただ言えるのは、泉のある壁面から音がしていること。そして少しずつ、音の源は高くなった。

「何?」

「台座が下がってる」

 オルダの指摘どおり、台座は彫刻が見えなくなるまで沈み込んでいた。それが音の原因か。つまりは鍵を取ったことで何かに仕掛けが作動した、と考えられた。

 鐘が鳴った。

 神殿の上部。ドームの上に備え付けられているらしい。

 鐘の音は夜を引き裂き、再び陽を昇らせようかというほどに凄烈だった。

 ドアはいくつも開いた。神官の姿。

「賊だ」

 誰彼ともなく、聞こえた。鎧のかき鳴らす音も近づいていた。

「逃げるぞ」

 オルダが言った。その声には焦りは一切感じられない。

 廊下に兵士が現れた。迷うことなく泉を見、ミルを見つける。それは門に立っていた眼の鋭い兵士だった。

 窪みに足を掛け、屋根へと上る。オルダは先に上がっておいた。

「門を押さえられる前に抜けましょう」ミルが言った。

 この郭の城壁は他よりも少し高く、越えることは難しいと考えた。この郭さえ突破すれば後は、障害となるようなものはない。

「いや、それだと東に出てしまう。西から突破しよう。準備する。そこでしばらく引きつけてくれ」

 返事を待たずに、オルダは西側の城壁の方へと下りる。

「何をするつもり」叫んだが、返答はなかった。

 鐘は今も鳴り響いていた。兵士は続々と中庭に集まってきていた。ただ、屋根に上る手段がなければ屯しているだけでしかない。家具を持ち出し、上ろうとしているが、重い鎧を着ていれば難しいだろう。眼の鋭い兵士がミルを睨んでいた。

「屋根に上がった」誰かが叫ぶ。「賊は女だぞ」

 準備とは何なのか。腹が立った。手間どれば、手遅れになりかねない状況なのだ。すぐさま門を封鎖するだけの機転の利く者がいるのかが問題だった。

 屋根に上がる影があった。兵士ではない。迅風のように距離を詰められる。見覚えのある装束。

 一撃を躱した。

「貴様、組織を裏切ったのか」

 そんなことはない。ただ、仕える相手が違うだけ。思ったが言葉に出すだけの余裕はなかった。攻撃は素早く、的確だった。

 ミルはじりじりと後ろに下がるしかない。それはオルダが下りた方向だった。ミルの使う武器では、打ち合うことができない。ただ、一瞬があれば反撃はできる。

 隙を窺い、下がる。

 しかし、相手は巧者だった。

 すぐに屋根の端まで追い詰められた。

 刃は横に振られる。その動きに合わせて、横に飛んだ。

 同時に腕を振るう。眼を狙った。

 が、しかし寸で躱される。思わず舌打ちをした。

 着地。その衝撃のせいか屋根の一部が崩れた。膝をつく。

 相手は勝ち誇った眼差しをミルへと向けた。たとえ、躱すことが出来たとしても、どこかの負傷は免れないだろう。

 手が動き、刃も極短い予備動作に入る。

 だが、ミルへと向けられる前に短く痙攣をした。手からは力が抜け、刃は落ちる。胸に突き出た、鋭く細い切っ先は血の雫を垂らす。引き抜かれ、支えを失った身体は屋根から落ち、その背後にはオルダが立っていた。

「耳を塞げ」短く言った。

 それから間をおかず、轟音と熱気を含んだ猛烈な風。そして全身は、否、周囲の全てのものが揺れた。焦げた臭いを遅れて感じた。

 衝撃はほんの一瞬で終わった。

 あたりの草木は所々に火を点らせて、岩が崩れる音は時々続く。背後の中にはからも怒声が上がった。今の衝撃に混乱していることが聞き取れる。

「城壁を崩した。ここから出るとしよう」

 オルダの言うとおり、城壁の一部は爆破されて、高さが半分ほどの土の山と化していた。

「あとは俺についてきてくれないか。素早く街の外まで出るルートは把握している」

 驚きのあまり言葉も出ず、ただただ頷いた。

 木を伝って城壁を上り、民家の屋根へと下りる。足元の街は少しばかり混乱しているようだった。鐘は鳴り続け、あの轟音だ。無理もないことだろう。よく見ると屋根には、ポツポツと穴があいている。それも新しく出来たばかりらしい。あの爆発でここまで飛んできたものがあったのだ。

 時に飛び、街を区切る城壁はすぐに見えてくる。遮るものは存在しない。走っている内に、段々と冷静にものを考えられるように回復した。

 城壁に達し、見張りの兵士をオルダは容赦なく殺した。手甲に鋭い爪が仕込んであるようだ。ミルの武器とも幾分似ている。街を脱しても走り続けた。

「しばらく休む必要はないよな」

 併走しながら、頷いた。二人ともとうに変装していたものは捨てていた。

「この近くにトラクタの発射場があるはず」

「ああ、真っ直ぐ走れば行き着く。ちょうど神殿の西だからな」

 すでに分かっているというもの言いだった。そういえば崩した城壁も西向きだったのか。そこまで考えて計画していたのか。しかし、西の発射場を使うことは話していないことだった。

「どこまで予想していたの?」

「どこまで? この先の発射場を使うことか」

「違う。敵に見つかること。あの後、何事もなければ門を抜けていればよかった。入ってきたときと同じように嘘を使って」

「見つからなければ、城壁を崩す必要はなく、その用意も要らなかった。――しかし何事も想定だ。中庭の、あんな場所にあれば何か仕掛けがあるかもしれないと考えるだろう」

 オルダの言うとおりだった。ミルもかなり遅れたが、気付いたのだ。だが、気付いているのならばなぜ回避しようとしなかったのか。不自然なことだった。あの時、オルダはまるで警戒しているように見えなかった。

 暗闇の中、光が見えた。

 トラクタの発射場は隠されるように森の中にあった。ぐるりと囲った金属の壁。それを見ながら、思案した。トラクタを奪取して元いた世界へ鍵を届けなければ任務は達成とはならない。如何すれば、うまく事が運ぶだろう?

 だが、オルダはひとりゲートへと歩いていた。

「ミル、来いよ。話しは通してある」

 初めこそ訝しんだが、ゲートの奥へと入っていったオルダの様子に後を追った。組織の部隊長を任されていればこのような権限もあるということか。

「最新式を手配させた。これで着いてすぐ襲われるなんてことは無い」機器を操作し、トラクタを発射台へと運んでいる。

 辺りを観察したが作業員といった人間は見当たらない。ここまでにもひとりとして出くわすことはなかったのだ。何かしらの原因はあり、きっとオルダは知っているはずだ。許可を取っているわけではなく、一時的に制圧しているということも考えられる中の一つ。

「ミル。ひとつ聞いてもいいか」機器を弄くりながら、オルダは言った。返事を返すと続ける。「この段階をどうするつもりだったんだ。トラクタの発射は一人では出来ない。必ず、発射の操作は外でしなくちゃならない。かといって、作業員を脅してやらせるのも恐ろしい。――なあ、もしかして」

 オルダも気付いているのだろう。

「運搬用のトラクタに鍵を入れ、操作は私がする。それで任務は終了よ」

「やっぱり、そうか」少しの間があった。「――よし、入ってくれ」

 ハッチが開き、ミルは発射台に上がった。オルダを見れば、いつもは自信に満ちていた顔が、どこか感傷的な表情。

「私は、命令通り動くだけの駒。それ以上にはなれない」

 ハッチは閉じられる。身体は固定した。しばらくして、揺れが始まった。頭上からの力が全身に掛る。急激に離れ、昇る。

 きっとオルダもますます地位を上げるだろう。それだけの力量を持っている。だが、気がかりもあった。神殿で殺した組織の隠密。そのことがオルダの足を引っ張ることになりはしないか。ミルが殺しておければよかったのだが。それが原因で足を掬われるということがあれば――それはミルにとっても辛い可能性だった。

 なにしろ、オルダに感謝していた。これでまだ当分の間、ミルの組織の絶対者に仕えることができるのだから。自らに言い聞かせるように思った。

 トラクタは淡い光の霧の中に突入した。眼を閉じる。そこにはもう、亡霊の姿はなかった。


 ・


 約一年後。

 暗く無数の松明に囲まれた中、大仰な手振りと拳を固めて舌鋒を飛ばす姿があった。約十段、石の段差を重ねた舞台の上で男は幾度も言葉を轟かした。普通なら反響する壁もない外の事、暗い空へと吸い込まれていったはずだが、まるで聞いている者の間近で叱咤するが如くだった。男は手にも顔にも皺が目立つ、老齢であったが、発する言葉はすさまじく、段の下に集まった鎧姿の男たちを鼓舞するのにまったく不足はなかった。

「世界の望む正義を成すため、集まった勇者たち。今こそ、力を発揮する時だ。あらゆる間違いを正す、剣を与えられた」

 誰一人として、異論は挟まない。誰もが聞き入っていた。暗い空気を絶えることなく響かせる。

 舞台の中央には鋭い牙を持った獣の意匠が彫られ、後ろには、幾人もの女官がその様子を見守っていた。彼女らとて、熱心の聞き入る聴衆だ。この舞台の周囲において、舌鋒を飛ばす男こそが絶対者であった。女官の中には、かつて別の名で呼ばれていた女もいた。そして今、彼女に与えられた責務は、舞台にいる絶対者の命を自らの命に代えても守ることだった。

「ついにこの時が来た。歴史に埋もれ、はるか昔に消し去られた道は我が名によって、再び蘇る。これぞ宿命である。神が今この時、正義を果たせと我に命じたのだ」

 その言葉を合図に、女官が一人進み出た。両手で恭くに持った正方形の塊を、絶対者に捧げた。それを受け取り、舞台の中央へと向かう。

 そこには祭壇が設けられ、すでに同じ形の物が安置されていた。並べるように置いた。刻まれた文様は波打ち呼応する。淡い光を放出した。それは一瞬のことである。誰もが意識しない内に、舞台から光の帯が空高く延びていた。

 舞台の下からは歓声が上がった。盾と剣を打ちならす音が沸き上がった。

 絶対者は言葉を発することなく、帯へと近づき、足を掛けた。すると、掛けた部分から、そこが下となった。両足をつけ、歩けば絶対者は天へと昇る。

 その間、周囲はしんと静まり返った。驚きすらも忘れて、宙に立つ姿を見ていたのである。

「さあ、ついて来るがいい。我の後を続く資格がお前たちにはある。これぞ、始まりだ」

 舞台の下で慌ただしく動き出した。

 我先にと段を上がり、同じように帯に乗った。全ての人間が乗るのにさして時間はかからなかった。絶対者の後に、鎧に身を包んだ戦士が続く。女官たちはその外側に並んだ。

 光の橋を歩む速度は地上のそれとは比べ物にならないほどに、速かった。わずかな時で、樹齢を数百年とする大木の高さを越えた。そして地上の物はまるで見えない高さに至り、橋は霧に覆われた。見る度に霧は色を変える。

 そして次には、全てを焼いてしまうのかというほどの火球だった。それはあまりにも眩しく直視できない代物であるが、橋の上においては気に留める必要はないのだった。

 再び霧となり、抜けると大地が迫った。

 橋は同じ形状の舞台へと導いた。絶対者がおり立ち、後へ続く。構造こそ同じだが、細部はことなった。その最大の点は、舞台の中央に彫られた二本の角を持った獣の意匠である。

 舞台に下りた戦士は指揮者によって整然とならんだ。

「これからはお前たちの力を振るってもらう番だ。まずこの南のキスラを攻略する。それこそが正義を成す第一の歩だ」

「それはただの独善でしかない」

 正面の段を一人上がってきた男は言った。声は自信に溢れ、揺るがない。

「その空虚な言葉で操り橋まで渡すなんてな。だが、この世界は俺の管轄だ。勝手なことはしないでもらおう」

 男は段を上がりきると、冷たい眼差しを絶対者とその後ろで整列する戦士に向けた。

「ほざくな若造。管轄? ずいぶんと大言を吐いたものだ。――賊だろう。殺せ」

 この言葉で手前にいた数人が動いた。それを見た男はただ片手をあげ、振り下ろした。

 瞬間、軽く乾いた音が舞台の周囲から浮かび上がった。遅れて、呻き声とともに全ての戦士は倒れた。彼らは皆、頭に兜ではなく、総じて川の帽子を被っていた。そして倒れた彼らの頭には、精確に矢が射立てられていた。

 男は走った。

 真っ直ぐと立ち尽くす老漢へ迫り、拳を突きつけた。目前で、女官の一人が飛び込んだ。

「お前には勿体ないな」

 呟き、突いた腕を少し下げると女官は血を吐き出し倒れた。

 その後ろには、もう一人同じ任を与えられた女が立っていた。一人が命を捨てたが、未だ手甲から突き出た爪が向けられていた。そして今にも、首を掻き切ろうとしている。

 だが、身体は動かなかった。

 彼女の眼は、老漢の絶対者ではなく、襲う男へ向けられていた。一瞬、男も彼女を見た。

「お前はここで死んだ方がいい。もう、どこにも行き場はない」冷たく、しかし穏やかに告げた。「敗者は敗者らしく殺してやる。その方が幸せだろ?」

 老漢は否定も、また頷きもしなかった。微動だにせず、男が腕を振るうと血飛沫を飛ばし、果てた。

「オルダ」と女が言った。

 呼ばれた男は笑みをこぼした。

「久しぶりだな」

 女は堅く頷き、そしてオルダの足元に伏す、かつての絶対者を見た。その身体はずっと小さくなってしまったかのようだった。

「後追い、するか?」血に濡れた爪を掲げる。

「――まさか。私は、私のものよ」

 二人は歩み寄った。死体を飛び越えて。自然と手が伸びた。



読んでくださってありがとうございます。

気になった点、間違い等ありましたら遠慮なくコメントしてもらえるとうれしいです。


今後、いくらか連作短編のような形で書こうと思っています。

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