其ノ壱・今日蝶―きょうちょう―
――そいつで……本当にそいつで勝ち残れば、どんな願いでも叶うんだな……?
――そういうことになりますね。あなたは一つだけ、願った未来を現実にする力を得られる。
――マジ、なのか?
――世界の平穏のために命を懸けていただくのですから、当然ですよ。
――平穏、ねぇ……。正直かなり眉唾なんだけど。
――あなたは深く考える必要はありませんよ。
――あなたは只、目の前の敵を倒し続ければよいのです。
――そして他の9人の"担手"を殺し尽くした時、あなたの願いは成就されるのですから。
――そいつは余計なことを考えるな、っつぅことか?
――どうとでも?
――胡散臭せぇ奴だな……
――それは失礼いたしました。
――まあ、いいか。今のところは信じてやるよ。否定材料もねぇし。
――ありがとうございます。
――んで、まず何をすればいいんだ?
――まずは、パートナーを。然るべき同盟者をお探しになられては。
――おい、他の九人とは殺し合うんじゃなかったのかよ?
――ええ。
――ですから探してください、"同盟"者を。
――やがて確実に殺し合う、利害関係だけの同盟者を、ね……
その日、実関市は快晴だった。
外を歩くだけでも微かに汗ばみ、耳を澄ませば蝉の声が聞こえ始める。初夏の太陽に照らされた深緑の街路樹が青々と茂り、ビル街の左右に広がるガラス張りの壁が鏡のように日光を反射して、一際眩しくきらめく。照り返しを抑えるよう改良された特殊アスファルトの上を走る自動車たちの流れは絶えずして、その密度に反して滑らかに進んでゆく。流石は人口800000を誇る東北第二の都市と言うべきか、たとえ平日の昼下がりであっても歩道を歩く人々もまた、絶えることはない。白いワンピースに身を包んだ、二十代前半くらいの女性。汗を拭きながら歩く、クールビズのサラリーマン。身軽な服装に身を包み、仲睦まじげに手を繋いで歩いてゆく母子。
皆がこの季節を敏感に感じ取り、自らの役目を精一杯果たしている。
暑いけれども爽やかな、そんな季節――
だが、日高奨平は薄暗い部屋の中にいた。
今や公立高校であっても殆ど全ての教室に省エネエアコンが備え付けられるこのご時世にあって、けれども異常なことに、彼のいる教室の気温は既に30度に達していた。当然ながら、その教室備え付けのエアコンの電源は入っていない。南側にある保温性ガラス窓は完全に閉め切られ、暗幕用ブラインドが降りている。教室の入り口に当たる左右開閉型自動ドアもぴったりと閉じられ、外部確認用モニタは漆黒に沈黙している。明かりとなるものはブラインドの隙間から僅かに差し込む天然の日光のみであり、天井をびっしりと覆う有機ELディスプレイ――普段は白色に点灯することで照明となり、映像教材が必要となる際にはそれ自体が画面となる――もまた、今は塗り固められたように闇に沈んでいる。
これらの設備は、決して最先端技術の結晶というわけではない。2030年現在、一般的な公立高校ならば常識的に備えられているものであり、少なくともブラインド以外の設置については法律で義務づけられてすらいる。
確かに二、三十年前には創作物にしか登場しないようなものであったかもしれない。けれども"あの法則"が発見されてから訪れた人類の技術の進歩は目覚ましいものがあり、それと比較するのならばこの程度の設備しかないのは貧相であるとすら言えるだろう。
そんな中で一つだけ、稼働している機械がある。一世代前のパソコンサーバーのような、無骨で飾り気のない直方体のマシン。低周波の稼働音を響かせながら、"何か"の電波を放っている。厳密に言うならば、この機械を精密に稼働させるために他の電子機器の電源を切っているとしても過言ではない。
だが、いま日高奨平が相対しているのは、そんな科学技術と一切は無縁の、原始的な建築素材――巨大な木材であった。それ自体は何の変哲もない、欅の木でできた長さ一メートル、太さ二十センチほどの角柱。それがキャンプファイヤーの準備でもしているかのように、数十本を要して櫓のように組み立てられている。
部屋の天井の高さは十メートルほど。この学校にある特別教室の中でも、ずば抜けて天井の高い場所である。奨平の高校――珠石北高校でここより天井の高い部屋といったら、後は講堂と武道場、そして体育館だけである。
なぜこの教室にここまでの天井の高さが必要なのか。なぜこの部屋は設備を全て切ってまで、サーバーのような機械を動かしているのか。奨平の目の前に積まれた木材の意味は何であるのか。
奨平は静かに、右手に持った名刺大の電子機器を操作する。かつて"スマートフォン"と呼ばれ、今は個人用高機能携帯用小型情報端末《Personal Superior Digital-data Assistant》――PSDAという名称で知られている電子機器が、バックライトとともに幾つかの項目を映し出した。
真剣な面もちのまま、タッチによるクリックで幾つかのフォルダを開いてゆく。
目当てのファイルはすぐに見つかった。一切日焼けのしていない、白くて細い指でその項目を決定し、プログラムを起動する。
刹那、奨平の頭の中で痺れにも似た奇妙な感覚が駆け巡る。原因についてはすでに了解していた。あのサーバ型機械から放たれる電磁波、である。人間に認識できる周波数ではないものの、確かに人間に影響を与える周波数。PSDAから送られた信号をサーバー型の機械が受信し、指定された周波数の電波を発信しする――それが奨平の脳に作用し、適切な"脳波"を発するように促しているのだ。
昔から奨平はこの感覚が大好きだった。
この感覚を合図として、彼は超越者へと変貌する。否、彼に限らず全ての人間は、コレの力により超越者へとなることができるのだ。
恐らく高校を卒業する頃には、この機械の補助も必要なくなるだろう。だが、まだ高校二年生である奨平には、まだこの機械――"ポータル"の補助が必要なのだ。
奨平はゆっくりと目を閉じる。
準備は完了した。
後は――わずか一節の文言を紡ぐだけ。
そして、公立高校に通う一般的な男子高校生、日高奨平はおもむろに口を開く。
その言葉を――
「"汝"――」
その一説を――
「"我が言祝ぎに従い"――」
その"呪文"を、高らかに詠唱するために。
「"その身に火の穂を纏うべし"――ッ!!」
刹那、奨平の目前の木材が、盛大な炎をあげて燃え上がった。
今――2032年から30年前の2002年、当時の世界物理学学会を震撼させる、世紀の大発見があった。
今まで全く考えられていなかった、新種のエネルギーの発見である。
力学的エネルギーや熱エネルギー、化学的エネルギーといった既存の枠には絶対に収まり得ない、全くの新しいエネルギーの発見。それがどれほどの大事件であるか。それは物理学に詳しくない者でも感覚的に掴めるだろう。何せ今までほぼ疑問を差し挟む余地すらなかった、完全に古典物理学の範疇での新発見である。
欧州合同原子核研究機構――通称"CERN"はこの発見がどれほど世界に衝撃を走らせるかを考慮に入れ、緩やかに情報を開示することで発表すしてゆく予定であった。だが、当時でも十分に発展していた情報化社会がそれを許さなかった。研究者の一人がそれを漏洩したのか、それとも何者かがそれを目ざとく感じ取ったのかはっきりとは判らない。だが、そのエネルギーの存在を仄めかす実験結果が出た時点で、既にそのニュースは世界を駆けめぐっていたのである。遂に証明が為されたときはもう世界中の研究者がその結果に注目していたほどであった。
それにしてもなぜ、エネルギーの種別というレベルの発見がここまで遅れてしまったのか――その理由は、これは非常に独立性が高く、それの存在を考慮に入れずとも大半の物理法則が完全に成り立ってしまう――厳密に言えば、そのエネルギーによる干渉は計測及び計算の誤差レベルである――という、このエネルギーの特異な性質にあった。
そのエネルギーは熱エネルギーとは別の意味での生命活動の根幹であり、全ての生物が必然的にその身に宿しているもの。極めて特殊な状況下に置かれない限り、別種のエネルギーには変化し得ないものである。そのエネルギーを持っているからこそ生命体は生命体足り得、それを持たないものはたとえどんなに精巧に作り上げられた有機物で構成されるロボットであっても、生命体と呼ぶことはできない。
コンピュータ技術と生命工学がいくら発展したところで、人類には模造品、類似品、偽物しか作り得なかった、生命体が生命体である証拠。
即ち、"意志"――"霊魂"と呼ばれるべきエネルギーであった。
だが、やはり当然というか、"霊魂エネルギー"と名付けられた新エネルギーそのものに注目した者は、研究者を除けばごく一部であった。大半の所謂"大衆"は発見そのものにだけは野次馬のように騒ぎ立てるものの、当然ながら専門的な知識を理解できるのは理解できるものは僅か一握りであり、大半はマスコミによる「何か凄いモノが見つかった」「現代物理学を覆す大発見」といったセンセーショナルな報道に踊らされ、騒いでいるだけであった。確かにその一部にはきちんとした興味を持ち、世間を騒がせている"世紀の大発見"について詳しく知ろうとした者もいたが、大半は外国の政治情勢や他県の不祥事問題のように、どこか他人事だという感覚のまま騒ぎ立てているに過ぎなかった、というわけだ。
初めの頃は、だが。
だが、やがて少しずつ――とは言え、やはり現代科学の発展スピードは凄まじいものがあり、他のエネルギー研究を行っていた時代に比べれば目も眩むような速さである――霊魂エネルギーについて研究が進んでゆくにつれ、このエネルギーについて恐るべき発見が為されたのである。
人間は誰しも、霊魂エネルギーを投射する能力を持っている――
霊魂エネルギーを投射し、"意志の力で物理現象を発生させる力を持っている"――
そして――
その力とは、古来より"超能力"や"魔術"の名で呼ばれてきた力のことである、と――
「ふいーっ」
部室の扉を開けると、涼しい爽やかな空気が奨平を包み込んだ。その心地よさに、彼はつい息を吐き出してしまう。額や喉元をぬらす汗の気化熱が、彼に爽やかな涼しさを与えてくれる。
「あー、涼しい。なんでわざわざエアコン切るかなぁ」
既に今日の授業は全て終了し、放課後と呼ばれるべき時間帯。奨平は傍らの椅子の上にスクールバッグとエナメルバッグを投げ出すようにおくと、部室に備え付けてあるエアコンの吹き出し口の前でへと駆け寄る。暫く風を浴びてもなかなかひかない汗の滴が、白いのどを伝ってゆく。当然である。初夏も初夏、しかも今年初の真夏日となった今日この日に、空調設備を始めとした全電子機器を切って締め切った教室の中で、キャンプファイヤーレベルの火を焚いたのだから。
「だよなぁ。いい加減ボロいんだから、さっさと魔術教室のポータルも新しいの買えばいいのに」
奨平と全く同じポーズで冷風を浴びながら、彼のすぐ隣にいるクラスメイトにして部活仲間、北本晃太もまた、同じ様なぼやきを漏らした。二人して天井にある吹き出し口を天を仰ぐように見上げながら、お互い顔を向けるでもなくだらだらと会話を続ける。
「しかも発火魔術の授業だぜ?」
「真夏にはないよね……」
苦笑する。奨平の艶のある黒髪が揺れた。
「どうせならさ、うちの部室でやればいいのに」
「いやいや、お前の発火魔術をあの狭っ苦しい魔術部の部室でやったら、学校が全焼するだろ」
「じゃあ競技場?」
「あっちには机がないから座学ができないじゃんか」
「それもそうかぁ」
再び無言で風を浴び始める二人。涼風が二人の髪を巻き上げ、ふわふわと宙に浮かせている。そうやって晃太と奨平が並んでいる様子は、まるで仲睦まじい兄弟のようであった。
勿論、彼らは先程告げたとおり二人とも県立珠石北高校二年生である。ほんの数分前に木曜日六時限目の授業である"魔術"の授業を終え、教室へと戻ってきたばかりだ。更に言えば晃太は五月に、奨平は六月に誕生日を迎えたため、本当の意味で全くの同い年である。
だが、既に身長が180近い晃太とやっと160へ届いたばかりの奨平との身長差は歴然であり、一度見ただけでは同い年には見えづらいだろう。しかも体格もかなり違う。晃太の方は骨太で筋肉質なシルエットであるのに対し、奨平は細身だけれど引き締まったアスリートタイプの体型だ。
暫く吹き出し口の前で涼んでいた二人だったが、やがて奨平がびくりと体を震わせた。
「っと、ちょっと涼んじゃったけど、そろそろ練習しなくちゃ」
「ん」
奨平の提案に晃太は鼻で返事をする。既に教室で体操着に着替えてきたので、わざわざ着替える必要はない。別にユニフォームで練習してもよいのだが、メリットは特にないので体操着のままで十分である。廊下からの入り口とは反対側にあるドアにタッチすると、ドアは直ぐに指紋認識により該当部活に所属する生徒であると認識し、音もなく下へと沈み込んだ。
"霊魂エネルギー"が発見されて既に30年あまりが経つが、未だに魔術について詳しく知らない大人は少なくない。そういった大人たちは「魔術」という単語自体に少々陰湿な、もしくは奇跡的なイメージを持っている者が殆どで、それ故に今や現実に存在している"魔術"についても、鉤鼻の老女がおどろおどろしい色の液体の入った鍋をかき回す様子や、逆に華やかな衣装を身に纏った少女が、先に星形の装飾が着いたステッキを振っている様子を想像することが多いのだ。それが理由であるのかよく勘違いされるのだが、奨平と晃太が所属する部活――『魔術技能部』は文化部ではなく運動部である。
『魔術技能競技』、通称"魔技"。既に若者達には広く認知されはじめており、そのファンタスティックかつエキサイティングな競技スタイルに惹かれる者も数多く存在する。一方でやはり新興スポーツである事には変わりなく、競技人口はかなり少ない。その数と言えば、高校の大会も初めからいきなり県大会であり、その上はブロック大会を飛ばしていきなり全国大会に出場できてしまうレベルなのだ。故にこの珠石北高校のように部活まで置かれている学校に至っては実に稀なのである。とは言っても実関市自体が近年急速に発展した都市であるため、市内にある16の高校のうち、12校には魔技部がきちんと置かれているのだが。
奨平がドアをくぐると、小体育館ほどの大きさのある魔術競技場が目に飛び込んできた。床には柔道場のような衝撃吸収性マットが敷かれ、両壁及びガラスには魔術妨害電波発信機が等間隔に貼り付けられている。当然ながら競技中に放たれた失敗した際の暴発を防ぐための装置で、魔術競技場への設置が義務づけられているものだ。当然ながらここは魔技部専用の練習場だが、たまに学年集会などで使用されることもある。
とりあえず競技場の真ん中を横切って、反対側のロッカーへ向かう。晃太は部長なので一番右、奨平は副部長なのでその隣だ。30年前と変わらないらしいペコペコとした金属の扉を開けると、彼専用の競技用武器がその姿を見せた。両手で掴み取り、軽く振り回してみる。
武器といっても、長さ1.8メートル程のただの木の棒である。別にルーン文字が刻まれていたり先端に宝石が付いているわけではない。円柱状に切り出した後にニスと防腐加工程度を施した、単純なる木の棒だ。
魔技には大きく二つに分けて、魔術のテクニックそのものを競う『技術部門』と、魔術と武器を組み合わせて対人形式で試合を行う『戦闘部門』がある。そして、奨平と晃太は二人とも基本的に『戦闘部門』の選手なのだ。
この『戦闘部門』はちょっとした異種格闘技のような形式を持っており、様々な種類の武器と魔術を組み合わせて戦闘を行うのである。勿論武器同士の相性もあり、特定武器のみにしか参加資格のないような大会もあるが、如何せん競技人口が少ないため、現在の時点できちんと大会の形をなし得るのは合同競技だけしかない。
そしてその多種多様な武装の中で、奨平の武器は"杖"に分類される。魔術と言ったら杖だろうと安直な考えで選択したのだが、正直言って失敗だった。その戦闘方法は実質的には杖術というより棒術であり、身長の低い奨平が長物をきちんと扱えるようになるには少々時間がかかったためだ。これなら中学までやっていた剣道にあわせて"剣"や"太刀"にしておけばよかったと後悔したほどである。
因みに大柄な晃太が用いるのは"短剣"。正直奨平は、選ぶべき武器が逆だったのではないかと薄々思っていたりする。
とりあえず軽くストレッチをすると、ウォーミングアップとして鏡の前で型を練習する。『魔術競技』の名に騙されやすいが、実質高校生レベルの魔術は殆ど横並びのため、武器を扱う技術で勝敗が決定するといっても過言ではない。唯一例外があるとすれば、去年のインターハイにおいて女子部門を圧倒的な魔術技能で制覇した"昂垣瞳佳"選手位のものだろう。因みに話題になった割には彼女のことがあまりマスコミに取り上げられなかったのはきっと幻惑魔術を使ったからではないかと奨平は踏んでいる。新聞で何度も見たはずの彼女の姿をきちんと思い出せないほどなのだから。
鏡の中の自分をまっすぐ見つめながら、奨平は杖を長めに持ち、剣道における中段の構えのように構える。棒術としては邪道だが、彼は杖をかの佐々木小次郎の"物干竿"のごとく長太刀のように用いるのが得意だった。対して一般的な棒術はそこまで上手ではないが、この方法と試合中に急に切り替えることで相手の意表を突けることもよくある。タイミングを間違えて痛い一撃を食らうことも少なくないが。
大きく息を吸い、真っ直ぐ杖――ではなく、彼にとっては長太刀だ――を振り上げる。ほぼ左手のみの力で持ち上げ、右手で行く先を制御。低すぎず、けれど振りかぶりすぎない然るべき位置へと持ってゆくのだ。そこで一瞬静止し、そして裂帛の気勢と共に振り下ろす。ブン、と空気を裂く音とともに両腕をかすかに伸ばし、面を打つ。鏡の中の自分の動きがおかしくない事を確認し、再び中段の構えへと戻る。と、すぐ隣を晃太が歩いてゆくのを感じた。
「お先」
一言だけ声をかけて、鏡より少し奥に用意されている白黒の的の方へ向かう晃太の背中を見送る。小刀を武器にしている晃太は、刺突の他に武器自身の投擲も攻撃手段として有している。それの練習へと向かったのだ。程なくして、短い小さな気勢とともに練習用の小刀が空を裂き、的に当たって落ちる音が聞こえてくる。
そこまで彼の様子を見送ったところで、奨平は再び鏡の中の自分へ向かい合った。再び太刀を正中線に構え直す。そして素振りを再開しようと左手に力を込め――ふと、彼の動きが静止する。
鏡の中で、少女と見紛うかのごとく色白で小柄な、細身の少年がこちらを見返していた。他の誰でもない、日高奨平自身である。
クラスの男子の中では一番背が低く、身長が高めの女子にすら負けることもある、実に小柄な体躯。体つきもまた、いやにほっそりとして華奢だ。真珠のように大きくて丸い目の中で、黒曜石のような瞳が頼りなさげに自分を見つめ返している。基本的に下がり気味な薄い眉と、子犬のように低い鼻。薄い唇。もう17になるのに、あどけなさは顔つきから一向に抜ける気配もない。声変わりはよく分からないうちに終わってしまい、髭もあまり生えない。実に子供っぽい容姿だ。小さく、幼く、弱々しい。
奨平は、そんな自分の容姿が嫌いだった。
いつまで経っても大人になることができず、だからといって子供のままでいることも許されない、そんな年齢。そんな時、人間は早く大人になりたいと思うと同時に、いつまでも子供でいたいいと思うものだ。自らを雁字搦めにする制限から解き放たれたいと思う一方で、どこかまだ誰かに保護されていたい、幼かった頃のように可愛がられてみたいという願望もまだどこか捨てきれない。当然ながらそれは同時には成立し得ない二律背反であり、そのために少年たちは未来へ漠然とした不安と期待に心を揺らめかせるのだ。
だが、奨平は違う。
彼は自らが子供のように見られることに、子供のように扱われることに、子供のように言われることに、どれほどの不快感を、頼りなさを、情けなさを感じるかを知っている。別に馬鹿にされたり苛められていたりしたわけではない。相手にだってそんな意図は全く介在していないであろう。だが、日々の生活の中で起こる年下と間違えられること、年齢について確認されること、言葉遣いを変えられること。一つ一つは小さな事に過ぎなかったのだとしても、その"小さな事"が少しずつ、だが確かに積み重なってゆく。ちょっとした困惑や戸惑いに過ぎなかったことが、次々に積み重なってゆくうちに、"劣等感"という大きな塊と化してしまう。
自分は、もしかしたらいつまで経っても大人になれないのではないか――
自分の精神は、とっくにその領域に到達しているつもりなのに――
自分の姿を見る度に、いつもそんな不安に苛まれてしまうのだ。
一度、少し色気付いたように演出してみようと思い、染色は禁止されているものの髪の毛を伸ばしたこともある。髪色こそ濡れたような漆黒のままだったが、テレビで見たタレントのように長めの髪の毛を整髪料で整えてみたのだ。結局クラスメイト達から「寧ろ女子に見える」と言われてすぐ切り、今は当たり障りのない髪型になっているのだが。
また、筋肉質な体型になりたいと、筋力トレーニングに励んだこともある。だが結局鍛えてつけた筋肉も、彼を格闘家ではなく長距離陸上選手のようなほっそりとしたタイプの体型にしかしてくれなかった。羨ましく思う者も少なくないだろうが、奨平自身にとっては全くの期待外れだった。別に奨平は筋肉質な体型に憧れていたからでもダイエットをしたかったわけでもなく、ひとえにこの子供っぽい容姿から脱したいが故の行動に過ぎなかったのだから。
だが、結局彼はいつまで経っても単なる少年に過ぎず、青年になることはできなかったのである。
コンプレックスを前々から薄々と感じてはいたのだが、本格的に気にし始めたのは高校へ入学してからだ。それから約一年と数ヶ月が過ぎようとしている。だが、結局彼の容姿は変化していない。身体測定の結果も、去年と0.5センチしか違わなかった。
いつまで経っても、彼の容姿は子供のままだ。
心は、早く大人になりたがっているのに。
心は、もう大人になっているはずなのに。
変わらない、変われない。
だからこそ、変わりたい。
そう、思っていた。
「なーにボーっとしてんだよ、奨平」
と、不意に奨平の肩に何か重いものがのしかかってきた。わざわざ振り返って確認するまでもない。晃太が肩を組んできたのだ。息がかかるほど間近に彼の顔が接近する。
奨平は一瞬びくりと体を強ばらせて驚きの表情を見せると、取り繕うように呟く。
「う、ううん、別に」
「どうせまた『僕って子供っぽいな……』なーんて思ってたんだろ」
否定はしない。というより図星である。自分の顔がみるみるうちに曇ってゆくのが分かる。
奨平は感情を隠すのが苦手だ。更に相手がいつも一緒にいる友人となれば、もはや隠さない方が難しい。奨平が微かに俯くだけで、肯定の意図すら晃太には簡単に伝わったようだった。んー、と一瞬考え込むような様子を見せてから、晃太は明るい声で口を開く。
「俺から見たらさ、奨平みたいにちっこいのも羨ましいけどな」
「ちっこいの言うな……」
そう言って口を尖らせる奨平をまあまあ、と宥めてから、
「俺みたいに身長が高いのも結構苦労したりするんだぜ?少し低いドアをくぐるときはいつも不安になるし、人混みの中でも簡単に目立っちまう。美容院で社会人と間違えられてて、学生証提出したところで店員がびっくりしてレジを打ち直した事もあったしな」
晃太は気さくに微笑み、穏やかな口調で続ける。
「まぁ、さ。基本的にみんな、自分より他人の境遇の方が羨ましいと思うもんじゃねえの?"隣の芝生は赤い"、だっけ?」
「"青い"、ね。赤いのは花。芝生が赤かったら隣で殺人事件が起きちゃってる」
「はは、そうだそうだ。間違った」
照れたように晃太が頭を掻く。それにつられて、自分の唇も微かに上がったような気がした。
「気にすんなって、奨平。自分に満足してる人間なんて、ほんの一握りだけだろうしな。大抵は、みんな何か悩みとかコンプレックスを持ってる。でもそれを感じながらも、みんな日々生きてんだからさ。鏡見る度に気にしてたら気が参っちまうぞ」
「……うん、そうだね」
今度こそ本当に、奨平の唇に笑みが戻る。そうそうその意気だ、と晃太が背中を叩いてきた。少々痛かったが、今の奨平にはその力強さが心地よかった。
「ところでさ、奨平」
「うん?」
晃太が奨平の肩から腕を外す。彼が奨平から少し離れるのに従って、奨平もまた晃太の方へ向き直った。
「三年生は先月引退したし、一年生は強化学習合宿。今日は二年の俺たちしか居ないわけだし、どうだ奨平、久しぶりに試合でもやんねえか?」
少し逡巡する。まだウォーミングアップが足りないような気もするが、まあこの程度してあれば怪我をするようなことはないだろう。
「うん、やろっか」
そう判断した奨平は、笑顔で首を縦に振る。三年生が引退した後は基礎の練習を重視してきたメニューを実施してきたので、試合は殆ど行ってこなかったのだ。このくらいで一度くらいはやっておかないと、試合の感覚自体が鈍りかねない。
「でもその前に、もう少し体を温めさせてよ」
「おう」
晃太がニヤッと笑った。
「今日も俺の勝ちだろうがな、槍遣い」
「今日こそは僕に勝たせてもらうよ、短剣遣い」
奨平も強気な笑みを返して、それぞれの準備へ向かう。
その途中で、ふと奨平が何かに気づいたように振り返った。
「晃太、僕の武器は槍じゃなくて杖だよ?」
試合の準備はすぐに完了した。
競技場脇の魔術妨害電波発信機は全て電源がオンとなり、装置から放たれる微かな低周波が開戦前の穏やかな劇伴となる。同様に奨平と晃太はそれぞれ自分の体の要所要所に小型タイプの同じ機会を取り付ける。こちらは魔術の威力が一定量を越えた場合のみ作動する仕組みになっており、魔術戦における安全装置の役目を果たすこととなる。また同じく安全のための措置として、奨平の杖と晃太の短剣全て、その両方の先端に衝撃吸収用のクッションを巻き付ける。同時にクッションに仕組まれたマイクロチップが発信機と反応し、当たり判定をしてくれる。
二人は体に取り付けた補助機器の作動状況に異常がないか確認すると、PSDAを取り出す。少し操作して、アプリケーション『魔導書』を起動させる。
魔技のルールは実に単純明快だ。一定威力以上の魔術攻撃及び武器攻撃を相手に五発以上直撃させればよい。当然細かい制限や決まりは存在する――過剰に殺傷力の高い特定の魔術は使用禁止、など――が、真面目に正々堂々戦おうと心がけ、あくまでも競技でありスポーツである事を忘れなければ、そこまで重要な反則を犯すこともないだろう。それこそ場外反則位だ。
小さく一礼して、コートへ足を踏み入れる。形は円形で、レスリングコートのような円形。直径は十メートルほど。この外へ出ることは反則となる。意図の有無は問われないので、それ故に衝撃系統の魔術を用いて対戦相手に強制的に反則を取らせる戦法も存在しないわけではない。だが与えられる反則ペナルティは最低のレベル1であり、勝敗に関連する"DP"に届くためには四回も場外に出す必要がある。余りに非効率的かつ卑怯な戦法であるため、それを用いる選手は少ない。大抵は相手への威圧として用いられることが殆どである。
「ポイントはハーフでいいよな」
「うん」
奨平は晃太の提案に頷きで応えると、胸当てからPSDAを取り出す。ホログラフィカルに浮かび上がるメニューから起動させるのは、『魔導書』という名のアプリケーションである。名称こそ"書"と名付けられているが、特別な呪文などが掲載されているわけではない。実際には"魔術使用の為の脳波発生自己暗示補助アプリケーション"といった方が正確だろう。
基本的に人間は魔術現象を引き起こす特殊波長の脳波――"魔術波"を意図的に発生させることはできない。数多くの偶然が重なることによってポルターガイストや人魂のような怪奇現象――現在は"不随意魔術現象"と呼ばれ、原因はその場にいる人間の無意識的な魔術使用であることが判明している――を発生させることこそあれ、何の訓練も心得もない人間が意識的に魔術を使用することは不可能に近いのである。
それ故に人間は"ポータル"と呼ばれる機械から発せられる特定波長の電波を脳に受けることで特殊なトランス状態となり、特定の文言――即ち"呪文"で自己暗示を掛けなければ随意的に特定の魔術を発生させることはできないのである。そう、つい先ほどの魔術の授業で奨平が木材を燃え上がらせたように。
PSDAの画面に「固定ポータルに接続しますか?」と表示されたので決定をタッチし、再び胸当ての中へとしまう。当然ながら、競技中のPSDAの破損を防ぐためである。同様に晃太が設定を終了するのを見届けると、表情を強ばらせて簡易審判ロボットの合図を待つ。
基本的に魔術に対して未熟であるほどポータルの補助は重要性を増す傾向にある。高校卒業程度の魔術技術を身につけていれば『魔導書』に付属する小型ポータル機能で十分なのだが、奨平や晃太のようにまだ知識も修練も足りない者については、魔術教室やこの競技場にあるような、大型ポータルの補助が必要不可欠となるのである。
やがて、胸当ての下から聞こえるくくぐもった電子音が、PSDAとポータルの接続の完了を知らせる。それは同時に、簡易審判ロボットが試合開始のカウントダウンを始めたことをも意味していた。
奨平と晃太は一瞬互いの視線を交差させ、小さく笑みを浮かべると――その表情を鋭く尖らせる。久しぶりの試合だ。そのためにともすれば戦闘感覚は鈍っているやもしれないが――手を抜く道理はない。晃太は腰に差した数本の短剣から一番右の一本を抜き、逆手に構えた。それに対して奨平も杖の中程を両手で掴み、右腰に触れさせるようにして低めの構えをとる。
ポータルの静かな稼働音以外の音が、競技場の内部から消失する。グラウンドで練習をしているのであろうサッカー部員たちの声や、個々が自由に練習をしているためにかえって奇妙な音楽を奏でているように聞こえる吹奏楽部員たちの楽器の音が遠くに聞こえた。
片目で相手を見やりながらも、もう一方の瞳は審判の方へ。簡易審判といえど出来る限り人間が行う本来のものに近づける為に、開始の合図をするタイミングは双方のPSDA-ポータル間の同機が終了してから2〜30秒後の間で乱数的に決定される。それが為されるまでの間は、審判と試合相手の両方に同時に注意を払い続けねばらならない。どちらへの反応が遅れたとしても、試合においての致命的な出遅れへと直結するからだ。平均して試合開始直後数秒間が最もポイントを失いやすいというデータも出ているほどだ。
息を飲み、真っ直ぐに晃太を見つめる。それと同時に、視界の端にはきちんと審判ロボットの腕が捉えられている。両手で握る杖から伝わってくる、暖かな木の感触。薄くニスを塗っただけの表面には木目に併せて微かな窪みが走り、小さな自分の手のひらにもしっかりとなじむ。その感覚を楽しみながらも、心は張りつめさせ、開始の時を待つ。
これを、この瞬間を奨平は大好きだった。只一心にこの空間を、相手を、世界を認識する。意識が向くのは全て外側だ。知覚が鋭敏に周囲へと集中し、自らの方向へは発散する。この瞬間だけは、自らの矮小さを忘れられる。大抵は自分より大柄である選手と相対することで、自分も本来よりも強くなれるような気がする。試合が始まれば、また視点の差や歩幅の差などで体格差を無理矢理にでも意識させられてしまう。だがこうして相手を見つめている間だけは、奨平は他の者達と同じ立場に立つことができるのだ。
もしこういったことを今相対している相手、親友の晃太に知られたのだとしたら、彼はいつも通りの穏やかな笑顔で"気にしないでいい、自分が思ってるほどお前は小さくも弱くも無いんだから"、などと言ってくるだろう。実際そうなのかもしれない。周囲の人間から見たら、自分は変わった存在でも何でもないのかもしれない。しかし、それは問題ではないのだ。自分を否定しているのは周囲ではない。日高奨平を否定してしまうのは、日高奨平本人なのである。
だからこそ、ただ競技のみに集中し、自分という存在のマイナス面へ意識を向けなくなる、この瞬間が大好きなのだ。
そして、試合開始を告げるブザーが鳴り響いた。
「音速!」
「拡散!」
刹那、晃太と奨平の声が同調した。魔術により爆発的に強化された瞬発力で小刀を突き立ててくる晃太。空気を引き裂く鋭い音ともに突き出されたそれは、奨平の胸当ての僅か数センチの直前へと迫ったところで静止する。奨平が唱えた"拡散"の魔術により運動のベクトルを平面方向へと拡散させられたためである。晃太が驚愕に目を見開く。奨平は僅かにできた隙を見逃さず、晃太が腕に力を込める前に杖を振るい、小刀を腕から叩き落とす。残念ながらその前に我に返った晃太が手を引いたため手首を打ち据えることは適わなかったが、振り下ろされた杖の勢いは彼の手の中から小刀を追い出すには十分すぎるほどだ。板張りの床の上に木製の小刀が転がる。そのまま打ち下ろした杖を回転させ、前へ踏み込んだままの晃太へ足払いを仕掛ける。だがそれを読んだ晃太は、無理な体勢ながらもその場で飛び上がっていとも簡単にそれをかわし、右手で腰から二本目の小刀を抜き放つ。まるで居合のような、抜刀の勢いを活かした振り上げる形での斬撃。奨平はそれを杖の手元側で
受け止める。彼が防御に集中している間に晃太は足元から先ほど叩き落とされた小刀を蹴り上げ、左手で受け止めた。視線が交差する。互いに素早くバックステップをかけて、試合開始時と全く変わらない位置へと戻る。
一定の時間睨みあった後、仕切り直しとばかりにどちらともなく表情を和らげた。
「驚いたな、"拡散"まで短略詠唱できるようになったのか」
「晃太こそ、相変わらず凄い反射神経だよ」
打ち合っていたのは僅か数秒に過ぎなかったにも関わらず、両者の額にはじんわりと汗が滲んでいた。
今まで創作物に描かれてきたものと相違なく、魔術を行うためには呪文の詠唱が必要となる。だが現実に存在する魔術の場合、その言祝ぎには微塵たりとも意味や意図、由来は存在しない。なぜなら実在する魔術の本質は「自らの脳に自己暗示を掛けることで一定のパターンである霊魂エネルギーの波動を脳から放出させ、それを利用して物体及び運動に物理的または科学的変化をもたらすこと」に過ぎず、呪文とは効果的な自己暗示を行うために自らに語りかける言葉に過ぎないためだ。それ故に、魔術の初心者は教科書に掲載されている、先ほど奨平が木材を発火させるのに用いたようないかにも"魔術"している詠唱を用いることで、"自分は魔術を発動しているのだ"と強く意識させる必要がある。実際、珠石北高校の大半の生徒はこの段階から脱してはいないだろう。だが、これはあくまでも魔術を発現させる詠唱の中の初歩の初歩である一種類に過ぎない。ナイフとフォークでも箸でも自らの両手のみでさえ人間は食事を採ることができるのと同様に、魔術を行
使するのに決められた方法はない。"魔術"という名の大鍋から具を掬い出す方法は無数に存在するのだ。それぞれが魔術発動に求める条件によって、詠唱の方式もまた多岐にわたり変化するのだ。ある者は正確性を求め、ある者は規模の大きさを、またある者は効果範囲の広さをを求める。華麗さや壮麗さを求める者や、逆に隠密性を求める者も少なくない。もっとも、魔術を使用した際はその場に"魔術痕"という残存エネルギーを残こすことは避けられない上に、これのパターンは個々人により異なってくる――最近にはこれを活かした個人認証システムすら開発された程だ――ため、隠密性を維持できるのは本当に発動した"瞬間"のみではあるが。
そんな中、魔技部である奨平や晃太に求められる詠唱特性は"即効性"である。。
魔術競技は対人戦である以上、魔術の迅速の発動もまた、勝敗の明暗を分ける重要な要素となりうる。それ故、試合中の魔術発動は即効性が命なのだ。最低限の詠唱で物理現象を発現させる魔術。それが"短略詠唱"である。その名称の通り、望む効果を表す最低限の単語のみの詠唱で魔術を発現させる技術である。そのためには、使用する単語について自分の無意識下にまで魔術の使用イメージを染み込ませる必要がある。高校へ入学してから授業と部活で訓練してきたが、奨平も晃太も短略詠唱が可能な魔術は十数種類に過ぎない。その上達ぶりは教師からも驚かれるほどであると書いておけば、短略詠唱を拾得するのがどれほど困難なことなのか解るだろうか。
更に上位に存在する技術として呪文を発声させずに魔術を行使する"無発声詠唱"と呼ばれるものが存在するが、それを行うことができる者は、世界でも数えるほどしか存在しない「魔術のプロフェッショナル」という意味合いでの"魔術師"のみであると言われている。
二人は互いに得物の先端を相手に突きつけながら向かい合う。互いの賞賛を噛みしめながら、素直に感謝の表情を浮かべる。
「こっちは寝ずに練習したからな」
「僕だってそうだよ」
普段であったら恥ずかしくなってしまうような台詞も、試合中の高揚感とともに味わえば心地よい。本来試合中の会話はマナー違反だが、公式の試合でもないので、二人とも言葉を交わすことで自らの闘争心を高めてゆく。
「でも、まだ俺の方が速いぜ。お前が"拡散"させる前に少なくとも3ポイントは奪ったはずだ」
「どうかな?杖が晃太の短刀を叩き落とした時。間違いなく僕もポイントを奪ってたと思うけど」
魔技の勝敗は、物理的および魔術的ダメージを数字に換算した"ポイント"によって争われる。格闘ゲームのように、時間内にできるだけ多くのポイントを奪い合い、終了時にポイントが多かった方が勝ちとなる。当然ながら、相手のポイントがゼロになったときもまた然りだ。因みに、ポイントは競技者には開示されない。その点の読みもまた勝敗を決定する重要なファクターたりうるのだ。
ゆっくりと歩み合い、互いの武器の先端を交差させる。両手で杖を掴み突きの姿勢をとる奨平と、鳥が翼を広げたように大きく手を左右に開いた晃太。その左手に掴まれた小刀の先端が僅かに杖と接触し、かん、と軽く小さいながらも鋭い音が静まり返った競技場を振るわせる。
一瞬の空白の後、空気を裂く音を立てて、晃太が素早く切り込んだ。口を堅く閉じたまま、即ち魔術を行使することのないままでの、靴底のグリップと自らの脚力のみを用いた踏み込み。摺り足のように、地面を滑るように音もなく奨平の懐の中へと入り込む。魔術の補助なしの、純粋な肉体的動作だった。それは最高スピードは劣るものの、奇襲ならば瞬発力こそ重要となるが故に、晃太の選択は適当であったと言えよう。その実、奨平は完全に虚を突かれていたのだから。
見逃すはずもなく、とっさの出来事に膠着した奨平の杖へと左の刃をあてがう。その上で滑らせながら、接点を支点として回転し――
「ぅらあああッ!」
逆手に持った右の刃をがら空きとなった奨平の脇腹へと突き立てた。回転式加速器のごとき神速の突きである。
「――ッ、す、"拡……ぅぐぅっ!?」
安全性を考慮した器具を利用したとしても完全には排除できない、物理的攻撃による身体的ダメージ。内臓が揺すぶられ、両眼が見開かれ、喉が塞がる。防御のためであった"拡散"の詠唱が、その効果を発揮する前に断ち切られる。まっすぐに奨平の肋骨の隙間に激突した木製の短剣が、彼の体力とポイントを貪欲に奪ってゆく。もしもこれが現実の殺し合いであったのならば、間違いなく勝敗は決していただろう。
肺腑に轟く衝撃に耐えながら、奨平はとっさに、杖を、鋭く閉じるように振り払う。それは無意味にも空を切ったが、彼の長い武器は晃太に一定距離後ろへ退くことを強要する。またしても初めの位置へと戻ると、奨平は喘ぐように空気を吸い込んだ。間違いなく今の攻撃で奪われたポイントは決定的なものだろう。この一撃で勝敗が決しなかった方が奇跡だと思えるほどだ。二つの意味を持つ冷たい汗が、息を荒げる奨平のこめかみを走っていった。顔を上げると、晃太が得意そうな顔でこちらを見ている。頬には間違いなく「どうだ」と書いてあった。
「っ、いつも、通り、容赦がないね……晃太……っ」
「いつも本気、それが俺のモットーだ!――なんて、な!」
歯並びの良い口を剥き出しにして、晃太がニヤリと笑顔を見せる。
「――じゃあ、僕も、新技を出そうかな……?」
「はん、所詮貴様ごときの攻撃など高が知れるわ!」
「……それ、死亡フラグ、だよ……」
芝居じみた晃太の反応に、奨平もつられて笑みを浮かべる。先ほど腹部に受けた一閃によるダメージは間違いなく大きく、未だに体の中では鈍痛が渦巻いている。その上肺に受けた衝撃の為に息も上がっていた。ポイントよりも肉体的消耗の方が大きそうだ。だが――
「いいの?僕が、晃太を……倒しちゃうよ?」
強がって笑えないほどには、奨平の体力もポイントも消耗していない。
「敢えて言ったんだよ!さあ、フラグを成立させてみろ!」
実に楽しそうな笑顔で、晃太が飛び出す。不意をつく気などない、真っ直ぐで愚直な突進。だが相手の間合いに入ってしまうこと事態が長物を持つ奨平には不利になりうる。自分と晃太の体の間に杖をはさみ、回転扉の容量で晃太の接近をいなす。相手の勢いを削ぐことなく、あくまでも運動の方向ベクトルを変更することを重視した、長くて堅い獲物を巧く活かした回避方法である。その最中、奨平は互いの体がすれ違う瞬間を警戒したものの、晃太がそこに攻撃を加えてくることはなかった。微かに安堵が心に染み入るが、それと同時に彼がこのような甘い踏み込みをしたのには何か意図があったのではないかという予感がわき起こる。再び二人の体が離れる瞬間に、フロントステップも兼ねた後方への蹴りを繰り出す。今度こそ不意を突くのに成功したようで、思いも寄らぬタイミングにおいて背中に衝撃を受けた晃太は、少しだけ前へとよろめいた。
十分相手と離れたところでくるりと身を翻し、晃太の方へと振り返る。僅かに遅れて、彼もまた奨平へ向かい小刀を構えた。
静止する。
そして、奨平がゆっくりと口を開いた。
――我は二重の影を持つ者《I have a double shadow.》、
――故に我は単一ではなく《So I'm not only one.》 、
紡ぎ出されるは冗長な詠唱。それはこの魔技において致命的な隙となる上に、奨平自身が自らがこれから行使せんとする魔術に対してまだ使いこなせてはいないことを意味する。ポイントをほぼ全て失っているであろう奨平にとっては、自殺行為も甚だしい。魔技の試合中にこのような無駄に長い詠唱を始める者は、競技の特質を知らないというよっぽどの愚か者か、もしくは――
「――それほどその"新技"に自信があるってことだな……奨平!」
晃太が閉じたままの歯の間から絞り出すように声を漏らす。
――並び立つ影は我の双璧を意味し《And double shadow means my two shields.》、
たとえ返答が無くとも、詠唱を続ける奨平の瞳は自信に燃え、晃太の疑問に肯定の回答を与えんとしていることは明らかだった。
――マズい……な……
試合中にこれほどまでの長さを持つ詠唱を始めておきながら、それでも奨平の瞳から消えることのない自信。それは即ち、彼がこれから発動させんとしている魔術が勝敗を決するほどに強力なものであろうことを意味している。
ならば、止めねばなるまい。晃太は思う。確かに気弱な奨平にこれほどまでの自信を与える魔術ならば見てみたいような気もするが、魔技のうちでは練習試合であろうと本気で挑むのが彼のモットーだ。この試合では詠唱を失敗させ、試合終了後に改めて見せて貰うとしよう。
「叩け!」
衝撃魔術。魔力波を直接運動エネルギーへと変換し相手に強い衝撃を与える、もっとも単純な魔術である。細かい調整も技能も必要ない、初歩の初歩、基本中の基本。二時間でも授業を受ければ、どんなに不器用な初心者であろうと八割はマスターできるであろう基礎魔術だ。
だが、それ故に即時性と汎用性においては右にでる術はない。
緊急回避的に相手の攻撃のバランスを崩す。ラッシュとラッシュの隙間を繋ぐように衝撃を与える。試合開始直後に怯ませる。意味もなく不意打ちとして。そういった様々な用途において、衝撃魔術は重宝される。その中でも、最も多用される使い方が――
詠唱の妨害、なのである。
晃太が呪文の一音目を発する頃には、彼の脳は既に魔術波を発生させることができる状態へと入っていた。
奨平の詠唱は終わらない。
晃太の脳から発せられた魔力波が空気を振るわせ、衝撃波となって奨平へと迫る。
それは未だ呪文を唱え続ける彼の胸の中央へと衝突し――
"その体をすり抜けた"。
「っ!?」
晃太が息を飲む。
彼が発した衝撃魔術は対象に何ら効果を与えることなく、競技場の奥の壁へと着弾し、保護障壁に阻まれて雲散する。
奨平が俯いていた顔を上げ、いたずらっぽく――いや、最早したり顔に到達する勢いで唇を上げていた。
「一足、遅かったよ」
今度こそ完全にしたり顔となった奨平の唇の間から、笑いを堪えきれない声が漏れた。
透過魔術の一種だろうか、と晃太は推測する。いや、詠唱の内容から推測するに幻惑魔術の可能性の方が高いだろう。奨平の得意分野で、今までの魔技の試合でも数多く使用している。だが、それにしても彼にできるのは大半は別の軌道を走る武器の影を浮かび上がらせたり、ダメージを受けたと錯覚させる程度の幻惑が殆どで、明確な幻のイメージを相手の脳に投影できるほどの技術は持っていなかったはずだ。それに――
「どう?凄いでしょ、僕の新技」
そう得意気に笑う彼の言葉は、間違いなくそこにいる日高奨平の口から発せられている。
唇を噛む晃太。確かにこれはトリックが分からない。冷静に考えれば思いつきうるかもしれないが、試合中に、しかも相手が得体の知れない術を用いているこの今では、冷静な判断は難しいだろう。
奨平が手を前に突き出し、叫ぶ。
「叩け!」
間違いなく目の前にいる奨平から放たれた衝撃魔術は、容赦なく晃太の胸の中央を突く。晃太がバランスを崩すと同時に奨平の姿が掻き消え、右舷から杖が叩き落とされてきた。とっさに左の小刀で受け止めるが一歩遅く、僅かしか軌道が変化しなかったそれはしたたかに彼の肩を打った。衝撃緩衝装置に弱められながらも一定の威力を保った一撃が肩に鈍い痛みを染み込ませ、ポイントが減少していくのを感じる。
だが、ここまで大振りの攻撃ならば隙が生じざるを得ないだろう。そう読んだ晃太は左の小刀を短く持ち、溜を行わないで無造作に突き出す。奨平が身を翻す。小刀の先端が彼の腹をほんの少しだけ掠めた瞬間――再び奨平の姿が掻き消える。
「なっ!?」
先程の姿が幻であったかのような、唐突な消失。それも、一度ならず二度までも。一度くらいならば奨平が高度幻惑魔術を身につけたのではないかと考えることもできるが、二回は流石に不自然だ。しかも二体目の幻影を用意するような詠唱を彼は行っていないし、事前に準備していたとも思えない。第一、杖の攻撃を受けたことからも分かるように、あの奨平は間違いなく実体を持っていた。それならば、どうやって消えたのだ?空間転移を魔術を用いて行うのは人間の脳のキャパシティから考えて不可能である、という結論は既に出ているため、本当に消滅したはずもないのだが。
――ちくしょう、分からない……っ!
晃太が歯をぎりりと鳴らす。今度は真正面に出現した奨平に対応しきれず、胸当てに力強い一撃を食らう。そのまま反撃されるのを待つはずもなく、彼の姿はまたも消失する。
ポイントもそこそこ食われているだろう。まだリードを奪い返されるほどではないと思うが、このように一方的な展開が続けば逆転されるのは時間の問題だろう。どうにかしてこの渦から脱しなければ。
晃太の額を一筋の汗が伝い、頬を流れ落ちてゆく。随分体も熱くなってきている。そのためか、身体的パフォーマンスも落ちてきているようだ。
暑い。競技場内は28度に保たれているはずなのに……。奨平に翻弄され、かなりの体力を消耗してしまっているようだ。
「だああああっ!」
「っ!」
今度は正面からの突きだったため、なんとか身を翻してかわす晃太。整った顔は既に汗によって濡れそぼり、体を動かす度に汗が霧のように舞う。おかげで遂に彼の視界まで曇り始めた。
――いや、それは流石におかしくないか?
いくら魔技が激しいスポーツだとはいえ、気温の低い日に体から湯気が上ることこそあれ、初夏の今に雲ができるほど体温が上昇することなどあり得ない。第一彼は変幻自在に飛び回る奨平に翻弄され、その場から一歩も動いていないのだ。そんな晃太でさえ暑くて仕方がないのだから、奨平が激しく動けるはずがないのだ。
更に突発的に消える奨平の挙動。ここから推測すると……!
「はあああああっ!」
右脇腹を薙ぎ払うように振り払われた奨平の杖を杖を、あえて受ける。但し、ダメージの小さい側腕部で。そして迸る衝撃にその身を預け、ニス塗りの木製の床から、自らの足を放す。奨平の細腕からの一撃では、衝撃緩衝装置と晃太の体重に威力の殆どを食われてしまうが、それでも彼の肉体を一メートル飛び退かせるには十分だった。
そして宙を舞う彼の吸った息が、肺の中で炎のように燃え上がる。それは即ち、彼の周囲に高熱の空気層が広がっていたことを意味していた。
遂に掴んだきっかけに晃太の唇が歪むのを見て、奨平の顔にこの魔術を行使し始めてである"焦燥"の表情が浮かぶ。
それにつられてか、奨平は今まで呟くように発していた、消失の秘密を握る詠唱を大声で行ってしまった。
その文言とは、即ち、
「――っ、曲がれっ!」
またしても奨平の姿が消滅する。だが、もう晃太が焦ることはない。
「一度崩れたら簡単なもんだな――渦巻け!」
刹那、晃太を中心として空気が高速回転を始め、凄まじい旋風が発生した。それは回転しながら外へと展開して行き、彼の周囲を取り囲んでいた熱風の層を雲散させる。
そして、日高奨平の姿が視界に現れた。
その姿は奇妙に歪んではいるが――既にこの"擬似"高難易度魔術の論理を見抜いている晃太にとってはとるに足らないことに過ぎない。
「ちょっ、ま――」
「速くッ!」
必死に体を捻る奨平。
だが、奨平の懇願の声が発せられ終わる頃には、亜音速で投げ放たれた晃太の小刀が彼の胸板に直撃し――
――その残存ポイントを、全て刈り取っていた。
「ちくしょー、いい考えだと思ったんだけどなぁ……」
奨平は額に浮かぶ玉の汗をタオルで拭き取りながら、それを掴んでいない方の手で最後の一撃を食らった左胸を撫でさすっていた。と、その後ろから晃太が近づいてくる。
「光学操作系魔術では隠しきれない自分の姿を、熱量操作系魔術で発生させる高温の大気によって生じる光の屈折率の差を利用して補う――普通は思いつかねぇよ。声は残響魔術か?」
「そうだよ。結局バレちゃったけどね」
後ろから聞こえてくる声に、苦笑混じりに返答する奨平。
「実際、あそこまで暑さを感じなかったら気づかなかったっつーの」
通り過ぎざまに奨平の背中をポンポンと叩きながら、晃太も苦笑した。
「プロの試合でも見た事ねぇ組み合わせだぜ?売り込めば有名人になれるかもだぞ」
「初使用で見破られちゃうくらいの技だからだよ、きっと。だからみんな思いついてるけど使わないんだ」
そう謙遜する奨平だが、晃太はそんな親友の顔の裏にどこかまんざらでもない表情を読みとっていた。そんな奨平の様子に、ずいぶん長い間練習していたのだろうと推測する。
晃太は奨平のこんな顔が――勿論友人としてだが――好きだった。普段の自信なさげな表情の彼はどうにも近づき難いと共に会話するのに非常に気を使ってしまう。奨平とは高校入学してからの知り合いであるため、そこまで長い付き合いでもない。初めて知り合ったときには、思ったことをずけずけと言ってしまうタイプの晃太は会話に随分注意を払ったものだ。今では奨平の方も彼のことを理解してくれるために気兼ねせずに話せるのだが、それでもたまに話しかけづらい瞬間がある。
だからこそ、晃太は奨平にいつもこんな表情でいてもらいたかった。
だから、
「じゃあ……プロじゃねぇけど、俺に教えてくれないか?」
晃太はそう提案する。
「えー、晃太に教えたらまた僕の勝機が減っちゃうじゃないか」
「そこをなんとか!俺ら、チームメイトだろ?」
パシン、と手を打ち合わせる晃太。そんな彼の様子に、奨平は遂に得意げな笑みを表に出した。
「そ、そう……そこまで言われたら、仕方ないなぁ……」
そう、この表情だ。試合中も見せたように、自分に自信を持った笑みを浮かべていた方が、奨平にとってもプラスになるに違いない。
あわあわと説明を始めようとする奨平の様子を眺めながら、晃太は穏やかな笑みを浮かべた。
まるで、弟を見守るかのように。
簡単だと思っていたことでも、いざ教えるとなると説明しづらい、というのはよくあることだ。ならば元来難しいと思っていたことを他人に教えるという行為が相当な困難をもたらすことは想像に難くない。
「え、えと、つまり、一端高熱を武器の先端に発生させてから、」
「さっきは腕って言ってなかったか?」
「あ、そうだ、晃太の場合は武器の射程距離がそこまでじゃないから、腕の方が扱いやすいんだった……。それで――」
簡単に言い切ってしまえば魔術では屈折させきれない自分の像を、空気の温度差により生じる屈折率の変化などで補う、というものだが、やはりその使い方まで教えるとなると時間がかかってしまうのだ。既に説明を開始してから十分が経過していた。急ぎすぎて説明が滅茶苦茶になってしまう奨平の癖は相変わらずで、今では寧ろ晃太が奨平の説明に訂正を入れるレベルになってしまっていた。
そんな奨平の様子を穏やかに見つめていた晃太だったが、何か気になることでも見つかったのか、不意にその穏やかだった表情を曇らせた。
「そうしたらここで一度"湾曲"をかけて――って、どうしたの、晃太?」
すぐにその変化に気づいた奨平が、怪訝そうな表情で見上げる。晃太は一瞬"気づかれたか"というような表情を浮かべた後、その視線を彼方へと泳がせた。
「いや、ほんの取るに足らねぇことなんだけど……」
「何?」
「ううん、いいや。別に重要なことでもねぇし」
「水臭いなぁ、言ってくれよ」
しつこく食い下がる奨平に、晃太は一瞬ためらいを見せながらもおずおずと口を開く。
「いや、確かにプロの魔術師レベルじゃねぇけどさ……、お前が教えてくれたレベルの熱量操作系魔術は相当の難易度だぜ?いつの間にそんなに上達したんだ?六時間目の発火魔術の時も違和感を感じたんだが……。お前、熱量操作系そんなに得意だったか?」
「あ、それね」
思い詰めた様子の割には軽い内容だった質問に少々肩すかし感を覚えながらも、別に隠すことでも何でもないのでありのままを返答する。
「なんか最近調子いいんだよね。コツを掴んだ、っていうのかな?熱量操作系――それも火とか高熱とかをコントロールする類の魔術が妙に得意になってさ。理由なんかは全然分かんないんだけどね」
そう気さくに答え――晃太の表情が更に険しくなっていることに気がつく。
「ち、違うよ!?脳構造高機能改造薬物とか使ってないからね!?」
手をぶんぶんと振って近年世間を騒がせている魔術用脳改造麻薬の未使用を主張する奨平だったが、どうやら晃太が気にしているのはそんなことではないようだ。
無言のまま、じっとこちらの方を見つめてくる。
いつも明るくて朗らかな彼がこんな表情を見せるのは初めてだ。
先程までの和やかな空気はどこへやら、二人の間に気まずい沈黙が落ちる。
「ど、どうしたの?ごめん、僕何か悪いことしたかな?」
答えはない。
ただ真っ直ぐに、緊張を帯びた眼差しで奨平の顔を見つめてくる。
ごくり、と唾を飲む音が聞こえた。
「な、何?」
晃太は意を決したように表情をさらに堅くすると、おもむろに口を開く。
「――お前、"火"か?」
「……へ?」
まるっきり訳が分からなかった。
その質問に対する回答を持ち合わせていないだけでも、その質問にふさわしい回答が用意できないだけでもない。
北本晃太の発した問いかけの意味自体が、奨平には理解できなかった。
"火"とは何だ?
問うまでもない。
物質が急激に酸素と結合する際に発せられる激しい光と高熱の総称だ。基本的には赤や橙色のものが殆どだが、温度や燃焼する物質により色彩は蒼、翠、紫、白、果てには透明と様々に変化する。人類が人類として発展できたのはひとえに火を使いこなす技術を学んだことが由縁とされ、しかし科学が大きく発展した今も完全に制御下に置くことは適っていない、まさに大自然の"力"に相応しい化学現象である。
つまり、「誰々が"火"ある」という文章は成立しえない――普通ならば。
まさか日高奨平の肉体は今現在進行形で燃焼しているとでもいうのか?
それとも人間の正体が火だといってしまうような黒魔術的な世界へと迷い込んでしまったのか?
もしかしてこの日高奨平の肉体の中には先祖代々受け継がれてきた宝物のうちの一つ、"火"が封印されているとか?
実は自分の心の奥底にはもう一人の――
――って。
どんどん突拍子もない方向へと進んでゆく思考を、なんとか元の道へと戻す。考えても答えが出そうなものでもない。とりあえずは晃太の回答についての意思表明をしよう。つまりは、
「い、いや、訳分かんないんだけど」
きょとんとした顔で。首まで傾げて。
少々過剰に見えてすらしまうほどの大袈裟な身振りだったが、実際そこまでしてしまいたいほどに、晃太の質問は理解の範疇の外だった。
「"火"って何?質問の意味すら分からないよ」
「――そ、そうか……。なら、いいんだけどさ」
素直に返答を返すと、晃太は不自然な笑みを浮かべながら、安堵の溜め息をついた。とりあえず"火"が何を意味するにしろ、奨平はそれではないことが証明されたようだ。
とはいっても、断片的な知識のみが与えられたままという状況のままでいるには、奨平の好奇心が許さない。一度話題に出されたら説明して貰わないと気になって仕様がないのだ。
だが、その旨を晃太に伝えたところで、帰ってきたのは、
「あ、気にしないでくれよ。ちょっと昨日、ネットで気になる記事を読んでてさ。何も魔術痕を巧みに隠す連続放火魔らしいんだけど」
「う、うん」
「ま、詳しくは検索してくれ、っつうことで」
「ええっ!?」
というはぐらかされるような返事だけだった。
しかも、既に晃太の表情からはあの真剣なものは完全に消滅し果て、いつも通りの気さくな笑みが帰ってきている。これは答えを引き出すのに難儀しそうだ、と考えながらも、作戦その一を実行する。いつも通りに戻った彼の様子に、どこか安堵を感じながら。
「何でだよー、教えてくれてもいいじゃんかよー」
作戦その一。
ストレートにねだる。
以上。
「やだね」
「ねぇねぇ、いいじゃん別に」
因みに作戦その二はない。
ただ、ひたすらにねだるだけ。
相手が鬱陶しく思い始めるほどに。
相手がもう教えた方が手っ取り早いと思うほどに。
それが、北本晃太の攻略法だ。
だが、今回は勝手が違ったようだ。
「んなら、俺から自力で情報を奪い取ってみるか?」
「へ?」
グッ、と晃太が右腕を上げる。
「もう一戦やろうぜ。俺に勝ったら教えてやんよ」
だが、結局再戦は適わなかった。
互いに武器の確認を終わり、簡易審判ロボットの調整を行っていた時、不意に晃太の胸元から賑やかなポップスが流れ始めたからである。
PSDAは携帯電話の後継ともいえる高機能通信機器だ。それ故に、時代遅れだと揶揄する者が後を絶たずとも需要のあり続ける音声通信機能は備わったままである。現在は既にヘッドギアタイプのテレビ電話機器の普及率は90%を越えているが、やはり手軽さではPSDAを上回ることはない。
晃太は胸当ての安全ポケットから木製のストラップをジャラジャラ言わせながら自らのPSDAを取り出すと、一度画面をタッチして――恐らくは"通話開始"の表情だ――耳に当てる。
「もしもし」
そして、飛び上がった。
「っちょ、小山先生っ!?なんで俺のID知ってんっすか!?」
晃太の間抜けな叫びが、競技場内に反響する。奇妙なエコーがかかったせいで、奨平にはよりマンガチックに聞こえた。
小山先生――恐らくは英語教師の小山齋先生のことだろう。奨平と晃太の隣のクラスの副担任を勤める女性教諭だ。既に齢30を越えているが、それが逆に年齢の重みを感じさせる美人だ。美人なのだ。美人なのだが、魅力が皆無な女性である。例えば街中で小山先生を初めて見かけたとして、殆どの人は美人だ、という印象を抱くだろう。だが、彼女から目を離した直後には、ほぼ間違いなく彼女のことを忘れてしまっているだろう。そういった印象の薄い女性なのだ。
「――誰か失礼なことを考えている生徒が居る気がしますが」
「ひぁぁぁっ!?」
今度飛び上がるのは奨平の番だった。
「ちょっ、先生!?何で来てるんすか!」
訂正。同時に晃太も同時に飛び上がっていた。
「何でって……北本、あなたにはこちらへ向かっていると通信で伝えてあるはずですが」
「普通音声通信掛けてきた人がこんなに直ぐ来るとは思いませんよ!」
「到着時間の規定はしていなかった筈ですが」
「でも!」
小山は白いブラウスと濃紺のタイトスカートという、女教師の模範のような服装をしていた。几帳面な性格を反映してか、着衣に無駄なしわは一つも見て取ることはできない。
雪のように白く滑らかな肌に、墨を垂らしたような漆黒の髪。胸元ほどまで垂れているその黒髪は頭を傾けているために偏り、切れ長の瞳のうち右側を隠している。反対側の黒い目が、銀縁の眼鏡の下でやや鋭い視線を送る。
と、不意にその視線が奨平へと向いた。
「日高、北本を借りていきますが、よろしいですか?部活の途中だったようですが」
確認を取るような台詞ではあったが、口調には有無を言わせぬものがあった。基本的に教師に逆らうような性格でもなく、これからやろうとしていたことも大したことではなかったので、素直に首を縦に振る。"火"だの何だのについての好奇心が消滅してしまったわけではないが、今すぐに分からなければ我慢できないほど子供でもない。それこそ家に帰って調べれば良いだけである。
「ありがとう。では借りていきますが」
つかつかと晃太に歩み寄る小山。晃太が何かにすがるような目線をこちらに向けているのに気づいて、初めて奨平は彼が小山を苦手としていることを思い出した。が、もう後の祭りである。
「北本」
「ひゃいっ」
「ちょっと来てください」
晃太が大きな図体に似合わぬ情けない叫び声をあげた。彼には悪いが、完全に萎縮している様子はかなり滑稽だった。
「な、なんか俺、悪いことしましたか?俺、心当たりなんて何も――」
うろたえる晃太の目前に、自分のPSDAを突きつける小山。無色な彼女のイメージに近い、銀色一色の、何の飾り気もないデバイスだ。目立つのは、フラッシュメモリ大の木製のストラップくらいである。目立つといっても、京都のお土産屋ならばどこにでも売っていそうなものではあるが。
だが、
「っ……!」
それを突きつけられた瞬間、晃太の表情が強ばった。両眼を見開き、唇が微かに開く。少し身を引いたようにすら見えた。
奨平から見ると反対向きであるためよく見えないが、小山のPSDAの画面が点灯しているのが解る。恐らくは、何か画像を見せつけられているのであろう。
それが、晃太に衝撃を与えたのか。
「――先生。そういう……ことですか」
晃太が緊迫した、けれどどこか諦念を込めた呟きを漏らす。小山が無言で頷いた。
僅かな時間のあいだ逡巡の表情を見せる晃太だったが、やがて彼もゆっくりと首を縦に振った。
小山に何事が告げると、奨平に振り返る。いつにない真剣な表情で、いつにない真剣な口調で。
「ごめん、奨平――俺、ちょっと小山先生と用事ができたからさ、」
「いいよ、別に。じゃ、再戦はまた今度ってことでいいよね?」
「おう。悪りぃな」
そう愛想笑いを浮かべる晃太だったが、細められた瞳には奇妙な光が灯っていた。
――あれは……恐怖?悲しみ?覚悟?
奨平はぶんぶんと首を振った。さっきから発送がおかしい。というかイタい。きっと昨日ダウンロードしたファンタジーノベルに影響されているのだろう。かつて昔の人々が想像し、憧れ、そして現在発見されている"魔の術"でも実現不可能とされた、"魔の法則"が支配する世界。"魔術"が現実となった今でも途絶えることなく数多くの人々が憧憬の視線を向ける、"魔法"の世界。昨日の夜はそんな物語にどっぷりと浸かってしまった。そのためだろう。
奨平は先ほど晃太の瞳の中に見たものを頭の奥底に追いやるように、笑顔を浮かべてうなずいた。
「そこそこかかるらしいから、先に帰っててくれよ」
「分かった。それじゃまた明日だね、晃太」
ひらひらと手を振る奨平。
晃太はサムズアップで返した。
「んじゃ、また明日な、奨平」
「戻れ」
県立珠石北高校、魔術技能競技競技場の屋根の上。本来は人がいるはずのないその場所で、小さな声が囁かれた。
それと同時に、競技場から出てきた小山齋の頭上を旋回していた"何か"がその軌道を変え、競技場へと飛んでゆく。
鮮やかな橙色の光を放つ"何か"だが、世界そのものが明度の高いオレンジに染め上げられてしまう黄昏の中では、誰もそれに目を留める者はいない。
誰にも認められることのないまま"何か"は夕陽に染まる空を横切り、
――一対の手のひらの中へと収まった。
「お疲れ」
競技場の屋根の上で再び呟きが放たれる。それと同時に、橙に輝く"何か"は一瞬にして消滅した。まるで、蝋燭の火を吹き消すかのように。
後に残ったのは、微かに"白い煙"を上げるボイスレコーダーだけだ。
現在においては、レコーダー技能はPSDAを初めとする小型情報デバイスの殆どに備えられているため、わざわざボイスレコーダーそのものを購入するような人間は殆どいない。
特殊な機能を備える必要性がある場合を除いて、だが。
その両手は、"何か"がもたらした"超耐熱"ボイスレコーダーを操作してゆく。やがて、若い男性と女性の声が、ごく小さな音声で再生され始めた。
もし奨平がこれを聞いていたならば、それがつい先ほど交わされた、晃太と小山の間での会話であることが直ぐに分かっただろう。
再生時間は、僅か五分足らずだった。数十バイトほどの情報を音声へと変換しただけで、ボイスレコーダーは沈黙する。
だが、その持ち主にとっては、それだけの情報を得られれば十分だった。
ボイスレコーダーを上着の胸ポケットへ投げ込むと、胡座をかいていた足を解いて立ち上がる。
刹那、初夏の熱っぽい風が、"彼女"の周囲に吹きすさぶ。
適当に纏めたようにしか見えない、彼女の微かに茶色がかった黒髪のポニーテールが、その風を取り込んで大きく膨らみ、乱雑に乱してゆく。
元々上は胸元が見えそうな程までボタンを開け、下はスカートから出しっぱなしである彼女のブラウスが、その風によって大きく捲れ上がり、下の白い肌を覗かせた。
校則の指定より10センチ以上も短い濃紺のプリーツスカートも、その風に巻き上げられ、その下に穿いているダークカーキのホットパンツの殆どを露わにした。
風が通り過ぎた後も、ぼさぼさになったまま戻らない髪。手入れなどされていない、痛みっぱなしの髪の毛の下にあるのは、不良じみた彼女の服装とはあまりにかけ離れた、可憐な容姿である。
眉は墨で引かれたように細く繊細だ。穏やかな笑みを浮かべればどれほど様になるだろうそれは、攻撃的に釣り上がっている。
大きな瞳もまた、黒真珠のように美しい輝きを放つ漆黒。だがよく見れば、その中にチョコレート色のエッセンスが入っているのが分かるだろう。無邪気な光があればどれほど可愛らしく見えるだろうその中には、獣じみた野性的な輝きが灯っていた。
鼻はまるで生まれたばかりの子犬のように低く、小さく、丸い。母親の作る美味しい夕食の匂いを求めていればどれほど純粋に見えるだろうそれは、獲物を焼く匂いを期待して膨らんでいた。
さくらんぼ色の、小さく、滑らかでぷっくりとした唇。まるで花開く前の蕾のように儚げだ。優しげな微笑みを浮かべていればどれほどあどけなく見えるだろうそれは、割れたように開いて勝ち気な笑みを作っていた。
肌は荒れ放題の髪の毛に逆らうかのように白く滑らかで、白玉のようにつるりとしていた。
全体の顔立ちは、幼い。狩りを前にした肉食動物の子供のような、身の程をわきまえぬような笑み。だが、何故かその表情はどこか達観したような、大人びた雰囲気を感じさせた。
大人のようで子供っぽい、子供のようで大人っぽいその容姿は、彼女の年齢を悟らせない。
唯一年齢を判断できる要素があるとすれば――
それは、彼女が着崩しているその服装は、珠石北高校の女子夏服だということのみだった。
「――始まる」
その呟きは、またしても彼女を包み込む風によってかき消される。人が立ち入ることなど想定されていない競技場の屋根には、安全設備など一つもない。そんな場所で、強風は彼女の矮躯を吹き飛ばさんとばかりに吹き荒れる。
だが、彼女は決して揺らぎはしない。
小さな足でトタンの屋根を踏みしめ、
燃え上がる炎のように輝く、夕陽を見つめ続ける。
太陽と対峙しながらも、その姿は負けはしないほどに凛々しかった。
「あたしは、取り戻してみせるんだ」
彼女の、微かに痛みの篭もった呟き。
それを聞いているのはきっと、
赤く燃え上がる夕陽だけだっただろう。
――始まる。
"彼女"の言うとおり、"それ"は直ぐに始まる。
非日常が日常であるこの世界の中で、
それでも非日常と呼ばざるを得ないほどの非日常が。
それは人間の、
願望を、
欲望を、
体裁を、
本性を、
信頼を、
疑心を、
憧憬を、
嫉妬を、
贈呈を、
依存を、
好奇を、
執着を、
愛情を、
憎悪を、
尊敬を、
嘲弄を、
期待を、
失望を、
始点を、
終点を、
真実を、
虚偽を、
理性を、
感情を、
夢想を、
悪夢を、
希望を、
絶望を、
その全てを、白日の下に曝し出すだろう。
失う代わりに、得るものは何か。
得る代わりに、失うものは何か。
――始まる。
だが、まだ早い。
少年は知らない。
嵐がすぐ其処まで迫っていることすら知らずに、ただ日々を平凡に過ごしてゆく。
≪了≫
というわけでプロローグ+第一話、いかがでしたでしょうか。
――と訊かれても答えづらいですよね……。まだ何も始まっていませんし。基本世界観説明と用語説明、そしてこの世界での魔術はどう扱われているかについての描写に終始してしまいましたし。
これでも第一話にしようと想定していた話のうちの三分の二程度だったりすることで、自分の文章がどれほど冗長かを実感している次第でございます。
面白い!とまでは行かなくとも、続きが気になる!と思っていただければ、明暗としてはうれしい限りです。
第二話の投稿は暫く先になると思いますが、もしお暇な時間がございましたら読んでいただければ、と思います。
それでは。