月が欲しいと泣く子の様に 叶わぬ夢と知りつつも
其れは。カインの足下でも、シインの足下でも無く。
遠く離れた、村人達の、足下。
「………………なっ!!?」
「てめ……っっ!!」
思いも依らなかった、事態に。二人のランカーは吠えた。
地中を這い進んだ魔物の尾は、其の先を幾本にも分裂させ、人々を襲おうとする。
「うっ、うわぁ!!?」
「きゃあああっっっ!!」
「あぐうっっ!?」
悲鳴を上げ、逃げ惑う人々。
其の数人の脚を、無数に別れた細い蛇の尾が、捕らえ。人の腕を、脚を、或いは胸を貫く。
「――――――ちぃっ!!」
カインが奔った。シインは既に、次の魔法の詠唱へと入っている。
しかし其れも。
「この人達がこのまま死んでも宜しいんでしたら、どうぞ魔法なり何なり、私に嗾けてきて下さい」
其の言葉に、止まらざるを得なかった。
「きたねーぞ、てめー!!」
「卑怯は緑石蛇の専売特許ですよ」
ぎり、と歯を軋ませるカイルに、蛇はくつくつと愉しげに嗤う。
其の、時。
「――――――馬鹿か、貴様は」
誰の耳をも引き寄せる、冷涼な声が。楽の様に美しい音が。辺りに響いた。
「………………何か仰いましたか?お姫様」
ぎらり、と蛇の赤い目が其の声の主を見据える。
其の視界の先で、もう一人の人成らぬ生き物は蛇を見るでも無く、しかし確かに鼻でせせら笑った。
「馬鹿か貴様は、と言ったんだ。物覚えだけでなく、耳まで悪い様だな」
嘲りを含む其の言葉に、蛇の険が鋭さを増す。
「私の機嫌を害したく無ければ、言葉には気を付けた方が宜しいですよ。思わず力を入れてしまって、彼等の首の骨をボキリ・・・・・・と折ってしまうかもしれませんからねぇ」
此以上の失言は許さぬとばかりに、脅迫紛いの台詞を喋る。
しかし相手は、其れに大きな溜息を吐いて見せた。
「――――――矢張り、馬鹿だな。しかも救い様の無い、大馬鹿だ」
ふらり、と其の場に立ち上がる。その拍子に、又ぼたぼたと鮮血が落ちて地面に赤黒い染みを作り。
腕に抱いていた幼子を端にいた少年に預け。蛇の方へと躰を向けた。
其の、細い体躯。半身以上を赤く染め。
背には未だ矢が突き刺さったままの翼と、毟り落とされたもう半分の、裂傷と。腹部や肩の深い傷。
全てが、彼の背後にいた人々の眼に晒される。
血と肉の生々しさに息を呑み、或いは目を逸らす人達の前で。緩慢に広げられる、残された片翼。
其れは血に汚れていながら、陽の光に照らされて輝いている様にも見える。
「おや、私に牙を向けるおつもりですか?そんな躰で?人が、死んでも良いと仰るんですね?……貴方も所詮、私と同じだったという訳だ」
嘲る様に蛇が言う。其の言葉に、捕らわれた人達は顔色を無くす。
しかし人型は、意味深な深い笑みを浮かべ。
「やるが良いさ――――――出来るものならな」
其れこそ侮蔑を含んだ其の声音に、蛇の怒りは最高潮に達した。
「では………………お言葉に甘えて!」
最早触手、とも呼べる様な幾本もの尾に、力を込める。骨の砕ける音と、人間達の断末魔が響く――――――
筈、だった。
しかし、其れ等の音は疎か、捕らえた筈の人間の感触も、尾は蛇に伝えてこず。
「っ!?な………………うがぁっっ!!!?」
どんっっ、と奔った衝撃に視線を下へ向けると――――――胸部と背部から、深々と己の身に突き刺さる二本の刃。
そして、其の柄を握る、二人の狩人。
「私は言ったな、シャズラーズ?――――――人間には手を出すな、と」
少し離れた場所から、冷たい炎の様な目が己を見据えていた。
***
「………………な、ぜ………………?」
傷口は、流れる血すらも見せず。只、腐食していく。
確かに己は彼等に恰好の人質を、取っていた筈だった。なのに。
「ナニ、ほんっとーに判ってないの?やっぱ馬鹿だねアンタ」
ずるり、と剣を引き抜いたカインが、笑む。
「力じゃレイルに敵わないって、判ってたんだろ?だからあの女の子を取り込んで、人質にしたんだろ?だけどアンタは、俺達の目の前であの子を殺して食べてしまった。その時点で、レイルがアンタを倒せない理由ってのは、なくなっちゃったんだよ」
「………………しか、し……そうだとしても………………!!」
息も絶え絶えの、蛇の声に。次に答えたのは背後にいるシインだった。
「てめー、状況確認できてねーのかよ………………自分の回りに、何があんのかも」
呆れの混ざった眼差しと声音に、ゆるり、と視線を巡らせる。だが何も変わった処は無い。静かな広場。傭兵二人。彼の美しき異形。怯える人々。
そして己が引き裂いた、舞い飛ぶ――――――
「………………は、ね………………?」
血で汚れた赤黒い羽根。己を囲う様に。
否。己の周りだけでは無い。何時の間にやら広場全体に。風も無いのにゆたりと宙に浮く。幾重にも、幾重にも。
一枚の羽根が、蹲っていた人間の男の脚の傷の上に落ちた。其れは血に触れると淡く発光し、光の飛沫を飛び散らせて直ぐ様消える。
同時に消えたのは、男の苦悶の表情と、負っていた筈の傷。
また、力無く大地に伸びた己の尾の上に落ちた羽根は。音も痛みも無く其の鱗を溶かし、蒸発させ。
「………………く、くくっ………………」
蛇が、嗤った。其れは暗く、何処迄も暗く。
「………………そう……そうやって……あなたは……また、人間を、選ぶのです……ね――――――同胞、よりも………………」
判っていた事だ。そんな事は。己が、何の変哲も無い、只の蛇でしかなかった頃から。
彼の者の穏やかな笑みも、哀しげな眼差しも。馳せる、想いすらも。全て、人という生き物に向けられていた。
一度でも其れが己に向けられれば、自分もこんな事はしなかったのかも知れない。こんな、勝てぬ喧嘩を売る様な事は。
ふとそう考えて、蛇は更に自嘲する。
愛とか情とか、魔獣で在る己には理解出来ぬ感情で在るが。其れだけの力で、惹かれていたのも又、事実なのかも知れぬ。
カインの剣が振り上げられた。日に映える銀の煌めきが、視界を灼く。
向けられる事が無いのならば、手に入れようと思った。全て。彼の者の、生命優しさ憂い全てを。
しかし其れも叶わぬ夢。此の身には余り在る、大それた、夢。
其れに破れたので在るならば、せめて最期は潔く。そう思い目を伏せる。
振り下ろされる刃。ひゅん、と小気味の良い音を立てて空気を切る――――――其の時、其れが聞こえた。
「お休みシャズラーズ――――――良い、夢を」
殊更優しい声音に、ハッと顔を上げ。そして、瞠目した。
其処に在ったのは、痛々しい程に、綺麗な微笑。
一度で良いから向けられたいと、願って止まなかった、彼の者の笑み。
蛇の赤い目が、驚愕から歓喜へと変わる。一瞬後。
其の首が、ごろりと切り落とされた。
***
ざぁっ、と。
小さな羽虫の群が飛び交う様な音と共に、魔物の黒い肉体が散り崩れる。
其れを最後まで見届けていた人型は。ほう、と詰めていたらしい息を吐くと、ぱちり、と一つ指を鳴らした。
瞬間、宙に舞っていた全ての羽根が赤い炎に包まれ、跡形も無く炎上する。
其の、一見幻想的にも見える光景に、誰もが目を奪われ。
「………………終わった、のか………………?」
何処からか、誰かの洩らした一言に。緊張が幾分解れた其の場は歓喜へと包まれようとする。
二人の狩人も。そんな街人達を端から見て安堵にも似た吐息を漏らしたが。
「――――――ま、まだだ!もう一匹は、まだ生きているぞ………………!!」
其の声に、再び緊張が奔り。向けられた視線の先には、翼をもがれた美しき異形。
彼の二の腕に。一本、弓矢が掠める。
「ちょっ――――――ちょっと待った!!」
カインが叫んだ。しかし街人達はその制止の声を聞き入れず、更に弓を番え、矢を射放つ。
「ヤメロって!!レイルは敵じゃない!!」
言いながら、レイルの前へと身を乗り出す。全身を盾にして守る様に。
「――――――《風牙》!!」
そして飛来してきた矢のその事如くを、ち、と舌打ちしたシインが次に発動させた魔法が、叩き落とした――――――しかし。
「何故だ!?ソレは魔物なんだぞ!?さっきのヤツと同じ!!そんなモノ、生きていたって害にしかならない!!」
「お前達狩人なんだろう!?魔物を狩るのが仕事なんじゃないのか!!?」
「弱っている今なら容易く殺せるかもしれん!!」
怒鳴り出した彼等に、二人は言い様の無い不快さを覚えた。
美しき異形はピクリとも動かない。口々に殺せ、と連呼する街人達の声を彼にはどう聞こえているのだろうか。
「………………《爆煙破》!」
殺せ、と。何時までも止まない其の声に、気の短いシインが終止符を打つべく《力在る言葉》を解き放つ。
其れは人々の目と鼻の先、大地を破裂させ大きな爆発音と共に大仰な煙幕を作り出した。
其の威力に、人々の勢いは削がれ。向けられた蒼い瞳は底冷えする程の鋭さ。
「――――――てめぇら、今まで守ってもらっておいて、良くそんな事が言えるな」