昔交わした些細な其れは 其れでも確かに約定だった
「確かに彼女は私と契約を交わしました。美しさを手に入れる為の手段と力とを、望みました。私はその見返りとして彼女の傍に、この村の中に身を潜ませる事を願いました。そして、彼女は力を手に入れ、私はこうして村の中にまで入り込む事が出来た――――――その時点で私達の契約は、既に終わっているのですよ」
嗤う蛇の言葉は、まるで芝居がかっている様にも聞こえる。
其処に見える、愉悦と余裕と自信。ランカー2人は太陽光を受け白銀に煌めく片手剣を構え直しながら。
「………………どうして、そんな回り諄い事を」
じりじりと、間合いを取りつつ低い声音でカインが囁けば、シャズラーズは更に笑みを深くした。
「仕方在りませんよ。何せこの街には魔物が侵す事の出来ない、まるで聖都や魔法王国並の、お姫様の強固な結界が施されていましたからねぇ。彼の方の足元にも及ばぬ私一人などの力では、とてもじゃないですが侵入する事など出来なくて」
大仰な言い種。しかし其の内容に、眉を顰めたのは2人のランカーではなく。
「けれど、幾ら強固でも内側から闇を求める者がいれば、そしてその者の声を我等が聞けば、その者が我等を呼べば――――――その魔は結界内に入り込む事が出来るのですよ」
くつくつくつ。嗤いながら語る蛇の言葉に、反応を示したのは魔物と若者を遠目に見ていた街人達。
「…………お姫様…………?そんなヤツ、この街にいたか?」
「…………教会の、牧師様じゃないわよね…………?」
「魔法王国並って…………どういう事だ?」
「…………結界だと…………?そんなモノ、ある筈が…………」
静かに、広がり行き渡る小さな疑問と戸惑い。其れに、シャズラーズは人間を眺めながらくつり、と又嗤う。
「おや、不思議に思った事は無いのですか?近隣の村や町では、魔物に依る被害は日常茶飯事だというのに。しかし此処では・・・・・・此の村では、被害は疎か魔物の姿すら見る事は今日まで無かった筈――――――此処五十年程の間はね」
最後に告げられた言葉は何処か意味深で。
確かに此の街には魔物に依る被害など、一度として起こった事は無かった。
しかし其れは何故。五十年。其の数字の意味に何かが在るのか。
五十年前。此の街に、何が起こった?
符合する出来事は、只一つ――――――
「……………………まさか」
呟く、者がいた。視線を、そろそろと動かす者がいた。
其の先には赤く汚れた黒い羽根。人が、遠巻きに囲う美しき異形。
北の森の魔物。彼の者が彼処に住み着き始めたのも、確か其の頃では無かったか?
しん、と静まり返った広場に、魔獣の嗤い声だけが、響く。
「そう……この村の人間は、ずうっと守られていたんですよ。それが当たり前だと傲慢に。何の疑いもなく。気付く事さえなく。貴方方が忌み嫌っていた『北の森の魔物』――――――」
「………………シャズラーズ」
其の時。硬質な声音が蛇の言葉を遮った。
ふ、と声を切って其方を見やれば、死にかけた人の子を未だ其の腕に抱き傭兵の片割れに抱かれたままの、凍る様なきつい眼差し。
抑揚の無い声は、其れだけ彼の者の琴線に触れ得た事を意味する。
其の言葉に、しかし蛇はくつり、と嗤って。
人の群れに赤い目を向け。幾分顰めた声音で、しかししっかりと最後の言葉を、其の舌に乗せた。
「――――――其処にいる、お姫様の手に依ってね」
***
視線が、突き刺さる。不躾に。疑惑も露わに。
人々の視線。何故、と。どうして、と。其れは言葉依りも雄弁に語る。
俄には信じ難い。だが、所詮人でしか無い者が、たった一人で其の様な強力な結界を施す事も不可能。
だが、何故。もしそうで在るとするのならば、何故。
守ってきたというのか。魔物が。
「…………あんた、が…………この、村を…………?」
「――――――約定が…………在った、からな…………」
ルイの問い掛けに、レイルはそっと眼を伏せた。
しかし、其の答えは必ずしも人の心が納得出来得るだけのものでは無く。
「――――――それだけ?」
本当にたった、其れだけの事で?
「…………魔物は此の街に手を出さない。其れは私だけで無く、他の者にも当て填る」
淡々と語る、其の声音には何の感情も浮かび上がらず。
約定。嘗て此の街の領主と交わしたもの。契約書も無くサインも要らず。其れは只の口約束。
其れを、此の魔物はずっと守り続けて来たというのか。
翼を引き裂かれ、傷を穿たれ、矢を放たれ。満身創痍に成りながら今も尚。
ずっと。同胞から罵られ、人間に忌み嫌われながら。
「………………なんで、だ………………?」
問い掛けは、柄にも無く震えていた。其れに、魔物の答えは、無い。
代わりに、口を開いたのはレイルから離れ立ち上がったシインだった。
「意味なんて、んな大したモンじゃねーよ」
「魔の眷属ってゆーのはさ、存在自体が魔力に縛られてるんだ。必要以上に言葉なんかに縛られる、約定に基づいて行動する生き物なんだよ」
「だからだなー、例えば裏掻いたりする事はあっても、嘘は付かねーしたかが口約束でも破る事はねえ……っつーか、出来ねえのさ」
「そんな事したら、約束事の言葉なんてのがダメージになって自分に返ってくるから……だっけ?」
器用に、交互に、語る。ランカー達の言葉。其れは人が理解しなかった、魔の眷属の知られざる一面。
其れを誰に対してでも無く肯定したのは、緑石蛇。
「正解です。いやぁ、よく御存知ですねぇ。貴方方、もしかして狩人ですか」
狩人。愉しそうに発した其の単語に、再び人々がざわめいた。
其れはランカーの中でも、主に人を害する魔の眷属の退治を生業とする、戦士の名称。
「しかも貴方方のその剣、只の鉄の塊ではない様ですねぇ……魔法剣の、類ですか」
「そこらの魔法剣と一緒にすんな。コイツは――――――ライノエルツさ」
しかし、さらりと返された傭兵の言葉に。値踏みする様に、見ていた蛇の眼が見開かれる。
そして人のざわめきも又、大きくなった。
***
ライノエルツシリーズ。
古代の大魔術士達が、其の力の全てを注ぎ込んで造り出した武器。
邪悪を転じて破魔と成す、魔の殲滅の為に生み出された。大いなる魔力の具現。
自らの主を、己が意志で決める、生ける剣。
其れは伝説。
現存の確認が取れているものは、聖都の聖騎士が携えているという【ザイン】と、魔法都市の宝物庫に安置されている【カルーア】の二体のみ。
其れを、此の若いランカー二人は、持っているという。
「――――――ライノエルツ…………?そんな、まさか…………」
蛇が、其の赤い目を眇める。
しかし言われれば納得せざるを得ない。切り落とされた尾が、再生するどころかその切り口を腐らせて、視界の端に転がっているのが其の何よりの証拠ではないか。
きつく鋭く、気配が研ぎ澄まされ、体躯に似合わぬ敏捷な動きで二人との間に更なる距離を作る。
一気に警戒を強める其の姿に、シインとカインは不適に笑み。
「さぁて……お喋りはこれっくらいにしよーぜ!!」
シインの声に。カインが地を蹴った。一気に距離を詰め、剣を下段から振り上げる。
其れを、シャズラーズは紙一重でかわし。跳躍し、直ぐ様振り下ろされようとする刃に。
忌々しげに、人には発音する事は疎か、聞き取る事すら敵わぬ異様な呪を、発する。
「――――――∈⊃∀∩∮⊿∽!!」
キィンッ――――――!!硬質な音が木霊した。
蛇の頭に狂う事無く叩き付けた筈の、刃が。其の手前で堰き止められる。
衝撃の反動を利用し、其の場からすかさず跳び離れるカイン。其れを、黒い尾が追い掛ける。
「串刺しにして差し上げますよ!!」
蛇の哄笑。宙、という身の自由の効かない場所で。
しかしカインは眼前に迫る凶器をものともせずに。に、と口の端を吊り上げた。
「――――――《炎矢》!!」
其の笑みと同時に、背後から響く凛とした声。
「ぐぁうっっ!?」
突如襲った衝撃と痛みに、ランカーを貫こうとした尾の狙いが外れ。代わりに大地を深々と貫いた。
肉の焦げる、嫌な匂いが立ち篭める。振り向けば、携えた剣は構えず下げたまま、左腕を水平に持ち上げ前へと伸ばしている、もう一人のランカー。
《火矢》。火系の初級精霊魔術。だというのにこの威力は何だ?
「今ので判っただろ?金天狼や銀天琥なら兎も角、テメェみてーな下等魔獣如きが、俺等に勝とうなんざ百万年早ーんだよ」
笑みを履いた口が動く。見下す視線はまるで氷だ。
何という鋭さ。何という威圧。
確かに緑石蛇は、魔獣の中でも最下位の強さしか持たぬ。
人を嘲り、貶める事に至福を見出す其の性質の所為か、悪知恵は良く回るが、純粋な戦闘力は、亜竜より劣る。
其れでも、たかが人に後れを取る事は、無い筈なのに。
シャズラーズは、此の時確かに恐怖というものを感じていた。
狩人といえど所詮は人間。
なのに何故、此の二人は此程までの気配を……殺意を、纏えるのか。
たかが人に。脆弱で愚鈍な、己よりも遙かに劣っている筈の人間如きに。
――――――許せない。ほんの一時でも、己に恐怖を感じさせた此の人間達が。
「無駄な抵抗は止した方が良いよ。時間と痛みが長引くだけだから」
片手剣を構え直した青年の言葉に、カッと頭に血が上る。
「この私を――――――甘く見ないで頂きたい………………!」
蛇が言った、其の途端――――――
地面が、裂けた。