憎悪を育んだモノと手を差し伸べたモノ
「っっ!!」
其れは本能とでも言うべきか。
咄嗟に地を蹴り後方へと跳び去ったシインの目の前で、濁った白刃が煌めく。
紅い、飛沫が飛んだ。
(ちっくしょう……っっ、利き腕を……!!)
長い、布に包まれた獲物を持った右の二の腕に、走った痛み。左手で其の傷口を押さえながら、目の前の女を睨み据える。
何の変哲もない、只の女だ。一人の、人間の女。内気そうな、弱そうな。
其れが何故。渇いた、古い血糊のこびり付く短剣を手にして。自分に斬り掛かってくるのか。
「動かないでちょうだい。わたし、あなたの顔に傷を付けたくはないの」
だってもうすぐその顔が私のものになるんだから、と無邪気に笑う女は、既に正気ではない。
「………………アンタの顔に?俺のこの顔がか?んなもんなるワケねーだろ」
夢物語だ。そんなものは。
魔族ならばいざ知らず。何の力も持たない魔力の知識もない高々人間に、普通の女に。そんな芸当が出来得る筈がない。
しかし。
「なるのよ。わたしが、あなたの心臓とその顔を食べれば。わたしのものになるの――――――こんな、ふうに」
そう言って嗤った、女の姿に。瞬時にして、その色彩を変えた其の姿に。
シインは、目を瞠り驚愕した。
***
突如右腕に走った、痛み。
相も変わらぬ人の群れの最後尾。思わず足を止めたカインの姿に、気付いた街人数人も足を止めた。
「おい、どうした?」
「やっぱりランカーでも、デカい魔物相手となると足も竦むか?……まあ、仕方ないと言えば仕方ないだろうが」
「俺達だって魔物は恐ろしいが……それよりも今は憎しみの方が勝っているからな」
「何、男手がこれだけいれば、何とかなるさ」
口々に勝手な事を言って。自分達よりも年若い姿の此の己を、見た目通りの少年だと思い込んで。
しかしカインは其れ等全ての声に耳を傾けず、来た道を振り返った。
「………………魔物………………」
「何だって?何処に!?」
呟きは、大きくもないのに其の場にいた全ての人間に届き。
「俺の片割れが怪我をした、たった今だ!魔物は村に出てきている!!」
「なっ……!?」
「っ、お……おいっ、何処行くんだ!?」
「決まってるだろ!戻るんだよっっ!!」
言い捨てて、駆け出したカインの姿に残された若者達は慌て。そして跡を追う様に走る。
感じた痛みはかなりの深手。不意でも付かれたか。若しくは其れだけ強い相手なのか。
「…………だからっ、油断大敵って言ったのに…………っっ!」
ぎり、と奥歯を噛み締めながら、カインは急いだ。こんな時、転移の魔術を拾得しなかった己が恨めしく思う。
其の目が見据えるのは目の前の、町並み。
暗く澱んだ闇の気配、二つ。
***
どうして私はこんななのだろう。そう女は思っていた。
小さな頃から。同年代の子供達よりも成長が遅く。器量も良くは無く。
灰色の此の髪も眼も大嫌いだった。何を食べても丸くならない骨身が嫌だった。
醜女、阿婆擦れと罵られ蔑まれ。まともに女として扱われた事も、殆ど無い。
しかし唯一己に優しくしてくれた隣家の一つ年上の青年。口は悪いながらも、何時も面倒を見てくれた。
妹、として可愛がってくれているのかも知れない。そう感じていた。其れでも良かったのだ。其れでも。
恋をすれば女は変わると言う。自分も、変われるかも知れない。直ぐには無理でも。
何時か。彼に釣り合う様な女になりたい。彼に見初められる様な、綺麗な女に。
其れは確かに恋慕だった。ゆっくりと。しかし確実に。己の中で優しく暖められていった、純粋な想いだった。
――――――なのに。
『俺だって、好きであんなのの面倒見てるわけじゃねぇ』
何時だったか。友達達と話している彼のそんな言葉を聞いた。
『仕方ねーだろ。あっちの親と俺んトコの親が親友だっつんだから』
押し付けられちまったんだよ、と話す彼の声は、本当に嫌そうで。
『ああ?趣味じゃねーってあんなブス。ってか、あんなのが好みの男が此の世にいたら奇跡だぜ』
違いない、と哄笑する周りの友人達に釣られて共に笑い出す彼。
『やっぱ、恋人にするなら美人だって』
そう言った彼が、本当に綺麗な女の人を隣に連れ添う様になったのは、其の暫く後。
憎かった。親に頼まれたからと、嫌々己の面倒を今迄見てきたのだという彼が。
悔しかった。見目が美しいというだけで、彼の隣に立つ事を許された女が。
口惜しかった。そんな彼等に何も仕返せない己が。
たかが皮一枚。其れを剥げば誰もが変わりない血と肉と臓物なのに。
其の、皮一枚。其れだけで己はこんなにも蔑まれる。
美しく成りたい。そう、思った。何よりも強く、思った。
そして――――――其の願いを聞き入れてくれる存在は、直ぐ傍にいたのだ。
***
小さな漆黒の羽根一枚。其れを枕の横に置く様になってから、母の具合は大分良くなった。
その具合に反比例する様に、羽根は徐々に艶を失い始めている。今は枯葉の様な手触り。
しかしきらきらと粒状の様に白が輝いて。其れは其れで美しい色だ。
寝台の横に置かれた椅子に座り。横たわる母と枕の端から覗く其の灰色を見つめていた子供は、意を決した様に微笑む母の目を見返すとずっと心の内に溜めていたものを吐き出す様に告げた。
「…………お母さん…………ぼく、ぼくね…………北の森に住むヒトに、会ったんだよ」
しかし、てっきり兄同様に怒るだろうと踏んでいた母の言葉は、余りにもあっさりとしていて。
「あら……じゃあ、彼の森に入ったのね?お兄ちゃんにあれだけダメだって言われてるのに……で、どんな、ヒトだったの?お母さんにも教えてちょうだい?」
興味津々、といった風体で母が訊ねれば、子供は楽しそうに笑みを綻ばせる。
判ってくれる。其れがとても嬉しくて。
「あのね――――――とっても、優しくて綺麗なヒトでね。あ、枕の下のね。コレあのヒトの羽根なんだ。お守りなんだよ。こーゆーふーにしてれば、羽根が悪い気を吸い取ってくれて、病気も早く良くなるって教えてくれた」
「そうなの。だからこの頃調子が良かったのね……綺麗な羽根。お母さんも触ってみてもいいかしら?」
「だめー」
「ちょっとくらい良いじゃない」
「だめったらだめー。コレはぼくのだもーん。お母さんが良くなったら返してもらうんだから」
くすくすくす。二人して笑いながら、じゃれ合い。羽根を持ち出した子供の手と、伸ばされた母の指が触れる。
其の、刹那。
「「っっ!?」」
ぼろり、と羽根が形が崩れたかと思うと、其れは子供の手の中で小さな欠片と成り。
そして、風に乗った砂の様に跡形も無く消え失せた。
其れはまるで、毒に侵され死滅した様な。
「…………な、何…………?」
驚く母の横で、子供は顔面を蒼白にさせる。
嫌な感じだ。途轍もなく、嫌な。
「…………ぼく…………ぼく、ちょっと行ってくる!!」
「イサ!?待ちなさい!!?」
驚き制止の声を掛ける母の言葉も聞かず。
子供は椅子を蹴り立ち上がると外へ飛び出した。