誘惑の蛇は 影に潜む
悔しい。シャズラーズはそう思う。
何故、彼はあんなにも強い力に満ち満ちているのだろう。只の魔物でしか無いのに。この己を、真名を呼ぶだけで縛る事が出来る程に。
何故、あんなにも美しいのだろう。只の魔物でしか無い筈なのに。彼の愚かしく脆弱な人間という生き物に、近い形をしているくせに。
何故。あんなものが存在しているのだろう。まるで奇跡の様に。けれども確かに。
何故。こんなにも考えてしまうのだろう。己の事など、歯牙にも掛けない彼の存在を。
彼の宝石の様に深い紅色の瞳は、人という種族しか映さないと理解しているのに。なのに何故己は彼の存在をこんなにも求めて止まない?
彼の美しさ。彼の強さ。同じ魔の文字を冠した生き物で在るというのに、何故己はこんなにも彼の生き物と違うのだろう。
不公平だ。
悔しい。口惜しい、くやしい。――――――手に、入れたい。
彼の力を。彼の、美しさを。我がものに。
己も彼の存在も。淀んだ魔に侵された存在。人の想いの闇と自然の闇の混合物。手段さえ間違えなければ、己が彼を取り込む事も可能。
そして考える、手段。村に森に手を出しては成らない。ならば。
「――――――誘惑の蛇は、何時でも人間の傍に、いる」
己が台詞に。シャズラーズは、にたり、と嗤った。
***
毎朝、東の地区の共同井戸場へ水を汲みに行く。小さな台車に大きな水瓶を一つ乗せ。誰よりも早く。
其れがユエの1日で最初の仕事だ。何も変わらぬ、しかし穏やかな1日の、始まりだ。
白み初めて間もない空。夜に冷えた大気。汲み上げる水は季節を問わず冷たくそして何処までも透明だ。
何時もと同じ道を通り、何時もと同じ小さな広場を突き抜け。毎朝訪れる井戸場へと辿り着く。
そして何時もの様に、井戸の傍らに置かれた桶を中へ落とす。其れに繋がれた縄を引き、水を汲み上げる。
「…………あら?」
しかし一度目。汲み上げた水には少しばかり、色が付いていた。
其れは本当にほんの僅か。毎朝見ている自分だからこそ、判る様な。
其れは赤い――――――赤く色付いた、水。
いぶかしみながら、二度目。途中何かに引っかかる様な感じがしたが、其れ程力を込めず上げた桶の縄。絡まる、不揃いな赤く長い糸。
嫌な予感がする。恐る恐る井戸の中を覗こうと、身を乗り出す。
見てはならない。己の中で其の行動を止めようとするもう一人の自分。頭の奥で警笛。
けれどユエは覗いた。其の中を。見てしまった。其の中に在るものを。
「………………あ……あ、あ………………」
ユエは一瞬。其れ、と目があった様な気がした。
一歩、また一歩と後ずさり、水瓶に躓いて転倒する。
けたたましい音を立てながら倒れる水瓶と台車。
腰が立たない。血の気が引いて、ガタガタと躰が震え出す。
「…………き、きゃぁぁぁぁぁああああっっっっ!?!?」
白み初めて間もない空。未だ冷たい大気。早朝、とも呼べる時刻に其の悲鳴は良く響き、近くの家の人間は何事かと表へと出る。
そしてユエが見た井戸の中。打ち捨てられた、壊れた人形の様に。
浮かんでいたは、赤い髪の少女の亡骸。
***
からん、と扉に付属されたベルが鳴る。
宿屋を兼ねる小さな軽食屋。昼も当に過ぎた午後三時。夕食には未だ早く、客は疎ら。
其の店の扉を開けた青年は其処で一端足を止め。ぐるりと内部を見渡し目当ての相手を視界に捉え、足早に彼が付くテーブルへと向かう。
此方に気付いた彼が、小さく手を上げた。
「――――――よお、カイン。どうだった?」
そう言って、椅子を勧める相手に頷きながら腰を下ろし。少しばかり嬉しげな其の表情に笑みを向ける。
「ま、ね。色々聞けたよ。シインは?」
カインと呼ばれた青年の、其の笑みにも僅かな期待。其れを認めて、藍い瞳の青年――――――シインもまた、笑う。
「ここいらじゃ結構有名らしいな」
「らしいねぇ。聞く人聞く人に同じ事言われちゃったよ」
「ココから南西。クャールの村?」
恐らく己と此の相手とが仕入れた情報は全く同じもの。其れを確信しながらも、確認する様に聞けば。
「その街の直ぐ北に、人の言葉を解する魔物が住み着いている森がある」
間髪置かずに返ってきた言葉に。二人、笑みを深くする。
「んじゃ、ま。行くとすっか」
言いながら。己が荷物と布に丁寧に包まれた長い物質を持ち、シインが徐に立ち上がる。
「今から?」
カインが笑ったまま訊ねれば、彼は不適な笑みを口元に履き。
「何だ。オメー疲れてるワケ?たったあんだけのコトで?」
「そんなワケないでショ。こーみえても俺、シインより体力には自身あるよ」
挑発する様な其の声の響きに、カイルも負けず笑みを向ける。そんな彼にシンクは「だよな」と笑って返し。
「ならさっさと行くぞ。急ぐに越したコトはねぇんだからさ」
「おっけーい」
かろん、と。ベルの鳴る扉を押して。
二人、揃って店を出た。
***
人が、死ぬ。村の人間が。一人。又一人。
初めに見つけられたのは赤毛の美しい少女。
長かった筈の其の髪は一房短く切り落とされ。喉元から脇腹迄を引き裂かれ。井戸の中に投げ捨てられた。
其の次は青年。彼の翡翠の様な瞳は刳り抜かれ何処にも無く。臓物を引きずり出され。其れは頸にかけられていた。
舌を抜かれた声の綺麗な娘。喉元を掻き切られて。暗い裏路地の隅で座っていた。
己の自室で発見された、美しい竪琴の旋律を奏でる楽士の女は其の伸びやかな手指を落とされ。
脚の速かった少年は其の脚を切断され。彼の遊び場で在った広場に無造作に棄てられていた。
全ての屍に、心臓は無く。
そして、今又。
「……あんな小さい子まで……」
「……今度は躰中をずたずたに引き裂かれていたそうだよ……」
「リアも可哀想に……やっと恵まれた子宝だったのにねぇ……」
「本当。とっても可愛らしい、素直な子だったのに……」
赤い屋根の小さな家に、黒服の人が集まる。
小さな小さな棺桶に縋り泣き叫ぶ母親。其の肩を抱きながら、奥歯を噛み砕かんばかりに唇を噛む父親。
彼等の心の内を映したかの様な、重い灰色の空がぽつり、と一滴涙を零し。
其れはやがて、霧の様な小雨へと、変わった。
***
集められた人。否、集まった人。
村一番の屋敷の広間に通され、先程から続けられている、会話。
「アレは絶対に魔物の仕業だ!あの森に住み着いた魔物の仕業だ!!」
若い男が叫ぶ。己の目の前に座る未だ年若い此の村の長へ向かって。
「だが、どうしていきなり?今までこんな事は一度も無かったのに」
別の、年輩の男が疑問を口にする。正確には、今まででは無く彼の人成らぬものが彼の森に住み着き始めてから、といった方が良いか。
他の男がふん、と鼻を鳴らし。
「大方、俺達が警戒心を薄めるのを待ってたんだろうさ」
「そうかもな。如何にも魔物の考えそうな事だ」
嘲る様な、怒りと侮蔑を含む声。其れに同意する者が、言葉を続け。
しかし、其れを否定した声、一つ。
「…………いや、それは決してないじゃろう」
人の視線が、今まで沈黙を保ってきたその人物へ集中した。年若い村長の直ぐ後ろ。其処にいた盲目の老人に。
「…………爺さん…………?」
長が後ろを振り向き、己が祖父である人物を見つめる。
「何故だ最老!!何故そうやって断定できる!?」
「そうだ、あんな……あんなやり方、人間には出来ない!!」
「化け物の仕業だと考えるのが普通だろう!?」
「だったら、あの森の魔物しかいないだろうが!!」
興奮冷めやらぬ若者達が二人に詰め寄ってきた。
そんな彼等を、最老と呼ばれた其の老人は静かな目で見つめ。
「…………取り敢えず落ち着かんかお前達。あの森の魔物は、あそこに住み着く時この村の人間に一つの条件を出した。そしてその当時村長を勤めていた儂は…………儂等はそれを呑んだ」
皆知っているじゃろう?と聞かれ、心持ち静まった空間に響いたのは現村長の声。
「…………あの森に人は手を出さない。その代わりに、あの森の魔物も、この村には手を出さない…………確か、そうだったよな」
「そうじゃ。従って、今回の一連の事件はあの森の魔物の仕業では有り得ん」
最老の其の言葉に、しかし納得のいかない者達は、いる。
「そんな昔の約束など、信じられるか!!」
「そもそも、魔物なんかが約束を守るのか!?」
「絶対破るに決まってる!!騙しや狡猾は、妖魔族の十八番だぞ!!」
「そんな魔物を信じろと!?」
疑心暗鬼に駆られ再び騒ぎ出した人達。其のまま最老にまで掴みかからんとする姿勢に慌てるのは彼の孫。
「ちょ……っ、おいみんな、落ち着けって!」
しかし二人に詰め寄る彼等の熱は、冷めやらず。
「もう嫌だ!!魔物の影に怯えて暮らし続けるのは!!」
一人の、そんな悲鳴めいた言葉を皮切りに続けられる、声、声、声。
「魔物を殺せ!!」
「あの森の魔物を!!」
彼等の爆発した不満恐怖憎悪を、止められる者は誰もおらず。
勢いに負け押される若い現村長の背後。最老は嘆かわしげに一つ溜息を吐いた。
――――――窓の外を見上げれば、新月に近い闇の濃い夜。