其れは 見てはならない 夢だった
――――――夢、を。
夢を、見ていた。甘く、優しい。何処までも穏やかな。
其れは昔。今はもう還らぬ場所への、追憶。
帰りたい。そう思う。
彼処へ。彼の場所へ。優しさと穏やかさと、ほんの少しの哀しさとに包まれた。彼の暖かい日溜まりの中へ。
しかし己が為に造られた彼の地は。森は。
己が脚が其の領域を踏み越え外へと一歩出た途端。役目は終えたとばかりに消滅した。
此の世の最果て。何人たりとも侵入を許さぬ。此の身を守り封じる為に存在していた。
深い、何処までも深い――――――彼の、森。
ずっと彼処にいた。此からも彼処にいるのだと思っていた。
独り。
気紛れに現れる人成らざる生き物を、時折迎え入れながら。只、独り。
狂いが生じたのは、何時からか。
「――――――あの子、か………………」
思い起こす、人。一人。其れは霞む事無く鮮明に。鮮烈に。
不可侵の領域に踏み込んだ人の子。
決して何も入らぬと、入れぬと頑なに閉ざしていた処にするりと入り込んだ、人間。
己が彼の地を棄てるに至った、要因。
何故。強固な結界。複雑な目眩まし。人寄せ付けぬ忌み名まで流し。
だと云うのに。何故、彼の人の子が己の元にまで辿り着けたのか。
――――――決まっている。其れは己が呼んだからだ。
寂しいと。淋しいと。人の手の温もりを求めたからだ。
望んではいけなかったのに願ったからだ。
誰、と指定した訳ではなく。只其の手を。其の温もりのみを。
――――――………………そして迷い込んだ人の子は、望んだもの以上のものを己に与えた。与えてしまった。
何という巡り合わせ。何という、運命の輪の徒。
人は変わる。変わらぬ者などおらぬ。時は流れる。人の子は成長する。心は移ろう。
其れを知りながら尚。更にと羨望した。切望してしまった。此の己の、弱い心は。
地を駆る獣ですら、仕掛けられた罠を回避するだけの学習能力は在るというのに。
其れすら無い、己は何と愚かな。
何度も傷付けられ。幾度も、裏切られ。なのに憎めず。恨めず。期待も望みも持てぬ程に打ちのめされ。其れでも。
只、愛おしいと。其れでも愛おしく想うのだと。だからこそ、更に、と。
――――――その想いは重荷でしかないと、判っていたのに。
「………………バカだな、私は………………」
人の子は青年へと成長を遂げた。そして何故か己に手を差し伸べてきた。
今にして思う。其れに激しく揺れ動いた、己の心は何と愚かで脆いのか。
魂の片翼を見つけて尚、青年は其の片翼と共に変わらず己に手を差し伸べ続けた。求めて止まなかった手は一から二に増えた。
………………だからこそ、欲は増長してしまった。
此処から出ようと言った青年。柔らかな春の日溜まりの様な。
共に行こうと言った青年。優しい夜の蒼い清月の雫の様な。
其の手を、取ってはいけないと判っていたのに。理解していたのに。
年期経った樹木の上。
何処か彼の場所に在ったものに、似た。決して小さくはないが太くもない、枝の上。
座り込み、其の幹に背を預け。
「………………カイン、シイン………………」
零れる、其れは此の手に掛けた、二度と戻らぬ二つの命。
けぶる木漏れ日。何を見るでも無く。深緋の、虚ろの目を其処に向け。
己が背から生え出て久しい羽根の漆黒が。はたり、と揺れた。