第45話・近江遷都
僕は忙しくなった。唐、新羅との交渉に加え、律令作成、新京の候補地を決め、京の造成、葛城皇子の即位の準備だ。
そうして度重なる交渉の結果、唐、新羅との和親条約が無事に結ばれ、唐からの大使、劉徳高らが来日した。
驚くことに、大使の船にはかつて日本から唐に渡った遣唐使らも乗っていた。
「定恵が帰ってきただと? 」
秋の日、僕の長男、定恵が、大使たちと一緒に日本に帰ってきたという報せが筑紫から届いた。
「なんと、それは目出度きこと」
僕より先に若爺が言った。
僕が難波に単身赴任していた時も、この屋敷でずっと側にいて教育していたのは若爺だからな。思い入れが深かろう。
「ご無事に戻られて、本当にようございましたね」
鏡王女が屈託なく言う。
「うむ」
「では、どこかの寺に入られるのでしょうか。せっかくですから飛鳥のほうがよろしいでしょう。そうですわ、皇太子に紹介していただきましょうか」
「そうだな。まあ、しばらく落ち着いてから考えよう」
だけど僕は複雑な気持ちだ。なぜこんな時期に帰ってきてしまったのだろう。もっと遅く、できれば葛城皇子がいなくなってから帰ってきて欲しかった。
それから約ひと月後、帰国した定恵ら遣唐使が皇太子への謁見を済まし、飛鳥の屋敷に帰ってきた。
飛鳥の屋敷では、普段は別宅に住んでいるトヨも一緒に、今か今かと待っていた。
「定恵様が帰られました」
下男の声を聞くか否か、トヨは表に駆け出した。
馬を降りたばかりの定恵に、トヨが走り寄る。
「定恵様」
わずか十歳で海を渡り十二年ぶりに帰郷した定恵は、法衣を纏い背も伸びて立派な若者になっていた。
「トヨ……様? 」
「定恵様、よくぞご無事で、うおおおお〜ん」
トヨは定恵の腕にしがみついて、大泣きした。
「トヨ様、ただいま帰りました」
トヨは彼にとって第二の母のようなものだ。
思わず僕ももらい泣きしそうになった。
「立派になられ、うおおおん、安媛様にこのうおおお姿を見せたかっ、うおおお〜ん」
いや、ちょっと引く。
「すっかりトヨ様に取られてしまいましたね」
鏡王女が涙目で笑っている。
定恵も目を潤ませ、嬉しそうだ。
つらい日々だったと思うが、帰国をこんなに喜んでくれる人がいただけ救われたかもしれない。トヨに感謝したい。僕がひどい父親だったから。
「父上、ただいま帰りました」
「たくさん学んだか」
「いいえ、まだまだ学び足りのうございます。途中で帰国せねばならなかった自分に不甲斐なさを感じます」
「しかし、学ぶのはどこでもできる。これからは、この国で学べばよい」
そう言っていたが、叶わなかった。
定恵は帰りの船中で病になり、かろうじて帰って来たものの症状は悪化し、その年の暮れ、トヨに看取られ定恵は逝った。
幼くして母親と死に別れ、異国で見ず知らずの人と暮らし、やっと帰国したと思ったら死ぬ。彼の人生はなんだったのだろう。
初めて「ととさま」と呼ばれた日、覚えたばかりの文字で書かれた手紙が難波の単身赴任先に届いた日、遣唐使として送り出した日。父親らしいことをしてあげられなかったけれど、僕なりに大切に思っていた。
トヨは、定恵が帰国した時のギャン泣きと違って静かに泣いていた。
ささめ雪の中、定恵の出棺を門前で見送るトヨの嗚咽をこらえる姿を見て、僕が二十一世紀で死んだ時、母はこんなだったのだろうかと思ったら、涙が出てきた。
その後、母親の宝皇女と間人皇女の埋葬が終わると、葛城皇子は近江へ遷都した。近江を選んだのは、葛城皇子、大友皇子、それと僕の所領が取り囲んでいるからだ。
比叡山と琵琶湖に挟まれた地、近江に作った宮殿は、難波長柄豊崎宮より全然小さかった。
難波には元々、宮がいくつかあったり、外交施設や省官庁も豪族の住居もある程度あり、街も市場もあったが、全く何もない近江に一から整地をして京を作るのは大変な作業だ。省官庁の施設も取り急ぎ必要な分だけ作ったが、全てを近江に移せなかった。当面、一部の仕事は飛鳥で行なうことになり、これからもっと増築していかねばならない。
いつか請安先生から聞いた唐の京のように、碁盤の目のように整った大路、中央に立派な宮城、そんな京を作りたかったのだが、それには広大な土地を平す必要がある。僕の代ではできそうもない。
僕も、飛鳥の屋敷は長女トメ夫婦に管理を任せ、近江に引っ越すことにした。
引っ越しの準備をしていると、引き出しから軽皇子からもらって大切にしまってあった帯と勾玉の帯飾りが出てきた。
「形見だと思って大事にしまってたけど、こういうのって、日常で使ったほうが故人も喜ぶんだっけ」
僕は勾玉の帯飾りをウエストの帯につけた。
「結局、一度もこれをした姿を軽皇子に見せられなかったなあ……」
出立の日、すっかり中臣の若殿様っぽくなった意美麻呂とトメが、一昨年生まれた女子と共に屋敷前まで見送りに来た。
「お父上、鏡の上、お元気で」
「うむ、そなたらもな。近江の京が整ったら、そなたらも近江に住むことになろうが、しばらくはお別れだな」
「近江は遠いですからね。そうそう行き来できませんからね」
意美麻呂が笑った。
トヨも若爺に支えられて来た。若爺とか言ってもそれなりの高齢になって、最近では息子が主に仕事をしている。
トヨは近頃体調がよろしくない。長旅はキツいので一緒に連れて行かないことにした。
「殿様、どうぞ、お元気で」
「うむ、トヨも、身体を大切にいたすのだぞ」
「私たちが近くにおりますので、頼ってくださいね」
意美麻呂が婿らしい言葉をトヨにかける。
「殿様、本当に、今までありがとうございました」
「何を言う。今生の別れじゃないんだから、これからも、頼むぞ」
「はい……」
トヨは涙を浮かべながら頷いた。
トヨとはこれが今生の別れになった。
今回は鏡王女とその娘ヒカミ(氷上)、イオエ(五百重)の二人と、トヨの次女ミミモ(耳面)も一緒に引っ越しだ。
女性と子連れの旅だ。無理はできない。僕らは一旦難波の屋敷に行き、難波で数日休息してから舟で川を上って近江に行く。近江に向かう天皇の列につき従って行くのは、今回わがままを言って勘弁してもらった。
僕らは、桜が散りゆく飛鳥を後にし、春草生い茂る近江へと旅立った。
飛鳥からは不便だが、近江の土地は悪くない。狭いけれど目の前に琵琶湖があるせいで、ゆったりとした気分になれる。
難波遷都の時のように、近江にも群卿や要職に就いている人間の屋敷を作り、必要な官人の宿舎を作ったりした。まだ、あちらこちらで工事をしていて、工人や引っ越しの荷物を運ぶ人夫やらがひっきりになしに行き交っている。
「わあ、大きい池」
三人の娘たちは初めて見る琵琶湖にはしゃいでいる。
「池ではないよ。淡海という湖だよ。皇太子は、淡海が宮殿の池のようなものだと言っていたけれどね」
「淡海にお日様が沈むのが見られるかしら」
「それはどうだろうね。方角が違うんじゃないかな」
「夏は舟遊びもできますわね」
「舟遊び、したいわ」
「したーい」
「美味しいお魚をいつでも食べられるよ」
「食べたーい」
みんな、案外ここを気に入ってくれたようで安心する。
近江の屋敷には次女ミミモのための離れを作った。ミミモはそこで大友皇子の妻となる。ちなみに大友皇子の正妻は、大海人皇子と額田王との娘、十市皇女だ。十市皇女は鏡王女の姪になる。
天皇の宮もそうだが、僕の屋敷も飛鳥よりだいぶ小さい。
「長旅、大変でしたでしょう。すぐにお食事の支度をいたします」
先に来て新居の準備をしていた家令が言った。
「いや、もう少し後でいい。舟の上で握り飯を食べたから」
「お舟で川を上って、景色を見ながら食べたのよ」
「食べたの」
「そしたら、イオエ、川におにぎりのかけら落としちゃって、お魚がいっぱい来たの」
「お魚、パクパクってして、きゃはは」
「おもしろかったねー」
「ねー」
娘たちは非日常の旅を味わえて楽しかったらしい。
「何か変わったことは」
「ええ、それが」
家令は僕を隣の部屋へ導いた。
「近頃、火事が多くて、昨晩も宮の材木置き場に火がつけられ、幸いすぐに消し止められ大事には至らなかったんですけど」
「犯人は捕まったのか」
「いえ、でも、先頃の宮門のボヤでは、宮の工事現場で働く人夫だったとか。過酷な労働に嫌気が差した、と言っていたそうです」
「ふうむ。飛鳥でも遷都を歓迎していない人間は大勢いるからな。それでなくとも、ここ数年の防衛施設の建設続きで人民は疲弊している」
「私どもも注意しておりますが、殿様も、お気を付けくださいませ」
「うむ」
葛城皇子の即位を喜んでいる人間ばかりではない。人民は度重なる遷都に不満を抱き、宮の造営工事の妨害も数多くあった。
大友皇子のために作った近江京だが、その遷都が葛城皇子・大友皇子政権に対する反発を生むことになるとは、皮肉なものだ。
もう歴史は変えられないのだろうか。
翌正月、葛城皇子は近江大津宮で即位した。
古人皇子の娘である倭姫王を皇后とし、大海人皇子を皇太子に任命した。
軽皇子が即位した時は、僕の心は達成感と希望に満ちていた。改新の詔をする軽皇子の姿を、感動を持って見ていた。
けれど今回は、やっと厄介な仕事が終わり肩の荷を降ろしたという安堵と、軽い不安で、感動はなかった。
今度こそ長く続く京にしてもらいたい。 近江京がある程度完成したら、大友皇子を天皇にする作戦でも考えようか。壬申の乱がどれくらい後に起きるのか、本当に起きるのか、防ぐことができるか、僕にはわからないけれど。




