貴族令嬢に化けたくノ一、伯爵から婚約を申し込まれる
食器の割れる音が響いた。目の前に丸皿の破片が飛び散っている。
「オーレリア! また皿を割ったわね!」
声の主は義姉のネリッサだった。また始まったか。私は心の中でため息をついた。
「立ちなさい!」
ネリッサは私の髪を掴んで立たせると、平手で打った。
「お義姉様、止めて下さい」
しかしネリッサは何度も私の頬を打つ。彼女の唇は歪んでいた。
「何をしているのですか」
近付いてくる声の主は義母のジュザンヌだ。汚いものを見るような目で私を見ていた。
「お母さま、オーレリアがまた粗相を」
「まあ、これを割ったのはオーレリアなのね」
違う。義姉が、床で食事をとっていた私の前に、いきなり皿を叩き付けたのだ。
私……というより、オーレリアが継母、義姉から暴力を受けるようになったのは二年前のことだった。義母と義姉は当初からオーレリアのことをよく思っておらず、邪険に扱ってきた。しかしオーレリアの実父であるアンドレが生きていた時は、彼女は守られていた。
だがアンドレが死ぬと状況が一変。今の体たらくというわけだ。
私はテーブルの上で食事をすることも出来ず、毎朝一食の貧相な食事を床の上で食べさせられていた。彼女たちのいじめはそれだけではなく、使用人の仕事を私に押し付け、屋敷から離れた庭の隅のボロボロになった小屋に、寝室を移されてしまっていた。
そして何より酷いのが、暴力である。これはもう「いびり」の範疇を大きく超えてしまっている。
「何をしているの、オーレリア、早く皿を片付けなさい」
ネリッサが私を押した。私は静かに頷くと、跪いて破片を拾い始めた。
その左手に、鋭い痛みが走った。
ネリッサが私の手を踏んでいた。踏みにじっていた。皿の破片が手のひらに突き刺さる。
「お義姉様、お辞めください」
私は痛みを堪え、小さな声で抗議する。
「お母さま! オーレリアが全然お皿を片付けてくれないわ!」
「まあ、どんな教育を受けてきたのかしら。これはお仕置きが必要なようね」
義母が取り出したのは鞭だった。彼女は何の躊躇もなく、私の背中に振り下ろした。破裂音、そして鋭い衝撃が背中に刺さる。
「ほら、早く片付けなさい!」
義母は何度も、何度も鞭を振るう。
「申し訳ありません。申し訳ありません」
私は身体を丸めて耐えていた。しかし、よくもまあ続くものだ。お前たちの知っているオーレリアはもう居ないというのに。
気が済んだのか、やっと鞭が終わる。
「ふん、さっさとしなさいよ」
運動不足気味の義母は、口で息をしながら遠ざかっていく。
やっと終わったか。私が再び破片を拾い集めていると、首筋に液体が垂れてきた。紅茶の匂いだと察知する前に、火の痛みが襲う。
「熱っ!」
「ほら、頑張っているあなたに紅茶の差し入れよ? ありがたく飲みなさい、オーレリア」
ネリッサの下卑た笑い声が響く
こんなのはほんの一部だ。酷いときは一日中、暴力を浴びせ続けられるのだから、常人なら死んでしまう。
例え性格の悪い人間であっても、超えてはならない線を知っている。こいつらには善悪を判断する基準が壊れているように思えてならない。
耐えなければ。私にはある使命があるのだから。
やっと皿を片付け終わり、着替えるため小屋に戻った。
私は取り付けていたかつらを取り、ボロボロのドレスを脱ぎ捨て、顔を水で洗い流した。
ひび割れた鏡に映った私は、オーレリアではなかった。東洋人特有の黒い髪に黒い瞳。
私は、ある重要な任務を受けて、オーレリアに化けこの家に潜入している、くノ一だった。
私は背中をさする。
「しかし今日はいつもより荒れていたな」
鞭も、手を踏まれるのも、忍術で無効化するのは簡単だ。だが、そのような暴力を受けて全く応えていないとなると、怪しまれるために使っていない。
私は忍びになる際、特殊で厳しい訓練を受けてきた。このくらいの暴力など余力を持って耐えられるが、しかし痛いものは痛い。
私でこれなのだ。入れ替わる前のオーレリアは本当によく生きていられたと思う。
人の気配がする。靴音が近づいてくる。
音からして、義姉のネリッサだ。
私は素早く身を隠した。この姿を見られるわけにはいかない。
しかし普段は一切訪れてこない彼女が、今日はどうしたのだろう。乱暴にノックする音が響く。
「オーレリア、今日は貴方を舞踏会に連れて行ってあげるわ。喜びなさい」
「舞踏会……ですか」
「寛大な私がお下がりのドレスを貸してあげるから、さっさと屋敷の方にいらっしゃい」
声は言葉を言い終わらぬうちに遠ざかって行った。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
明らかに貧相なドレスを、ありがたくも拝借させて頂いた私は、馬車で舞踏会の会場に向っていた。他の二人は居ない。私だけ、別の小さな馬車に乗せられたのだ。
貸し切りなのだから好待遇と言えなくもない。それにあの二人と同じ馬車で行くくらいなら徒歩で行った方がマシだ。
しかし、私を舞踏会に連れて行くというのは、どういう風の吹き回しだろうか。オーレリアと成り代わってこの一年半、一度も無かったことだ。
どんな風の吹き回しか知らないが、どうせろくなことは企んでいないだろう。
その時、声筒が鳴った。私は指でつまめる小さな小箱を手のひらの上に置いた。声筒は忍びの通信装置で、念を込めることで、そこから離れた場所にいる相手と会話が出来る。
「はい」
私は筒に話しかける。
「やあ、モズちゃん。調子はどうだい」
陽気そうな男性の声が聞こえてきた。
自然と背筋が伸びた。通信の相手は狐塚総隊長だ。総隊長が自ら通信してくるということは、何か重要な用事だろうか、それとも……ただ面白がっているだけだろうか。
「ジュザンヌとネリッサ、あ、君のお義母さん達に関して何か掴めたかい?」
「いいえ、まだです。意外と警戒心が強く、中々尻尾を出しません。あと恐らくですが、娘の方はこの件に関わっていないかと」
「そっかぁ、早くして欲しいなあ」
言葉は優しいけれど、氷のように冷たい声だ。私は知っている。狐塚総隊長が、しくじった部下に残忍な制裁を与える鬼畜であることを。
「はい。なるべく早く、オルセイユ家が忘月の密輸に関与している証拠を突き止めて見せます」
私は一定の声質で返答した。我が国、鶴義で新種の麻薬が出回り始めたのは約三年前だった。
その薬物は忘月と呼ばれ、一度の使用でこの世の物とは思えぬ快楽を得られるのと引き換えに、強力な禁断症状を生じ、激しい震え、嘔吐、情緒不安定に襲われる。
二回の使用で完全に廃人となり、薬を求めて徘徊する亡者となる。これが都を中心に瞬く間に広がり、幕府は対策に躍起になっていた。
そして調査の結果、どうやらこのクラインヒルズ王国の、オルセイユ伯爵領の港が出所である可能性が高いと疑われた。
しかし外国のことであるし、表立って介入すれば両国の軋轢を生む。最悪の場合戦争に発展しかねない。
だからこそ、幕府はお抱えの忍び組織である御庭番に調査、密偵を依頼した。
そしてオルセイユ家の娘、オーレリアと入れ替わって調査を行っているのが私、モズだ。
当初は使用人として潜入する予定だったのだが、オーレリアと私の年齢、背格好が近いことを知った狐塚総隊長が、私に彼女との入れ替わりを命じた。
理由は「その方が面白そうだから」だという。
本当に、毎回毎回勘弁して欲しい。こういう無茶ぶりは私だけでなく、彼が介入する全ての任務で行われている。そのくせ失敗すると厳しい罰があるのだから、質が悪いにもほどがある。
こういう時、猿渡さんが居たら守ってくれるのだが……。
話が逸れたが、私は元々変装、成り代わりは得意としているものの、与えられた一月という短い期間の間にオーレリアの声、しゃべり方、歩き方などを完璧に捉えて真似できるようになるのは、かなり大変だった。
ちなみに本物のオーレリアは我が国で保護されている。三食食べられて、色鮮やかな着物を提供され、毎日湯あみが出来て、寝床は清潔。
オルセイユ家で義母義姉にいじめられていた頃より、よっぽど上等な暮らしが出来ているので「もう戻りたくない」と言っているそうだ。
オーレリアと入れ替わって、彼女の気持ちはよく分かった。彼女の生活は人間というより家畜に近い。いや、暴力を受けていないのだから家畜の方がマシかもしれない。
オーレリアを拉致した時は本当に栄養状態が悪くて、骨と皮だけだった。そして不衛生な場所に住まわされ、何か気に入らないことがあると鞭で打たれ、ろくに治療もされない。
彼女は本当の意味で死にかけていた。
私がオーレリアと成り代わる時、一番苦労したのはそこである。背格好は同じでも、彼女と同じくらいに瘦せるのは非常に骨が折れた。断食を敢行し、水も飲まずに10日耐え、何も食べずに1月経ち、ようやくオーレリアと同じ程度の痩せ方になれた。
流石に私もこの状態だと任務に支障をきたすので、今はもう少し食べて体重を戻している。あちらが食事をくれなくても、その辺の鳥や昆虫を狩猟すれば良いので問題は無い。
「で、今日はこれからどうするの?」
「これから舞踏会に向かうところです」
「え? あの意地悪なおばちゃんたちが連れて行ってくれるなんて珍しいね」
総隊長はいびってくる義母や義姉の話を聞くのが大好きらしく、定期的に彼女たちから受ける仕打ちについて詳しく聞きたがっていた。悪趣味である。
「大方、私を出汁に男漁りをするか、恥をかかせて笑いものにしようとでも考えているのでしょう」
ネリッサには婚約者がいるというのに、よくやることだ。実際、私の着ているドレスはかなりみすぼらしい。お下がりというより、この時のために、とっておきの安物で流行遅れのドレスを買ってきたのでは、と考えた方がまだ納得がいく。
最近ではどんなにいびっても、暴力を振るっても私の反応が鈍いことに業を煮やしているのかもしれない。
「よく知らないけど、舞踏会って恋人を見つけるところなんでしょう? モズちゃんも恋人ゲットしちゃえば良いじゃん。その方が面白いよ」
人の気も知らないで、この男は……。
「任務ですので、私は自分の役割を果たすまでです」
私がそう言い終わると突然通信が切れた。
恋人など要らない。だって私は……。
***************
重々しい扉がゆっくり開かれた瞬間、甘ったるい香水の匂いが鼻を突いた。無数の燭台が真昼のように会場を明るく照らし、壁には緋色のタペストリー。床は磨き上げられ、鏡のように人々を映し返す大理石。
会場の中央には広大な舞踏フロアが広がり、貴族たちが優雅に踊っていた。女性たちはみな色鮮やかなドレスをまとい、胸元には大粒の宝石を付けていた。
初めて見る、極彩色の光景に圧倒されそうになる。こんな世界があったのか。
任務が無ければ、一生縁のない場所だったに違いない。
私は首を振る。そうだ、任務だ。せっかくいつもとは違う場所に潜入しているのだから、あの義母や義姉を見張り、怪しいところを探らねばならない。
こんな享楽に現を抜かしている場合ではないのだ。そもそも私は、幸せになるべき人間ではない。
「あら、みすぼらしいドレスね。これから庭のお手入れでもするのかしら」
聞き慣れた声がした。その方を見ると、やはりネリッサが立っていた。側には取り巻きらしい令嬢たちが何人もいる。
「まあ、勇気があるのね。この照明の中でその色を着こなすなんて、わたくしには真似できないわ」
「お仕立て屋さん、大変だったでしょうね。あの生地をなんとか舞踏会用に見せるなんて」
全員、私の格好を舐めまわすように見て、クスクス笑う。私は構わずカーテシーをした。
「義姉様の御友人の方々ですか。お初にお目にかかります。オーレリア・オルセイユと申します」
「あら、見習いの侍女でも、もう少し張りがあるのではなくて?……ごめんなさい、比べては失礼でしたわね」
取り巻きの一人が言うと、全員が笑い出した。成程、類は友を呼ぶと言うが、その通り。性悪の周りには性悪が集まるらしい。
急に会場が色めき立った。
「シャンバル伯爵がお見えになったぞ!」
「先の大戦で魔法剣士として名を馳せたジークフリート・ド・シャンバル様か」
「初めて見たが大きいな」
人々が口々に言っている。目の前の義姉並びにその同類たちも、そちらに向かって黄色い声を上げ始めた。先ほどまでの悪意に満ちた顔はどこへやら。眉を下げてしおらしい顔になっている。
私もそちらに目を向けると、確かに背の高い人物が入ってくる様子が見えた。彼の金髪は、明かりを照らして黄金に輝いて見え、顔は堀が深く整っている。
顔だけでなく、身体は逆三角形で、実用的な筋肉の付き方をしていた。
まるで神が全身全霊をかけて造形した、完璧な美しさを備えているように見えた。
ジークフリート。聞いたことがある。この国と隣国による先の戦争で常人離れした武功を上げたというのは、この国の誰もが知るところだ。著しい戦果を挙げたがゆえに、隣国から取り返した領地の一部と、男爵三男に生まれながら、伯爵の爵位まで授かったという。
彼の英雄的な活躍は今も国内でたびたび話題となっていた。彼が二十五歳でありながら、まだ独身を貫いていることも相まって、子女たちからは注目の的だという。
「ジークフリート様」
そう言って彼の行く手を遮ったのは、うちの義母ことジュザンヌだった。何をやっているんだ、あの女。
血は繋がっていないものの、恥ずかしくて見ていられなくなりそうだった。馬鹿をするのは家だけにして欲しい。
「申し遅れました。私、オルセイユ伯爵家のジュザンヌ・オルセイユと申します」
「これはどうも、オルセイユ伯爵夫人。ジークフリート・ド・シャンバルです」
ジュザンヌの大仰なカーテシーに対して、ジークフリートのお辞儀はかなり浅めに見えた。まあ、迷惑だろうな。
「そしてこちらがうちの娘、ネリッサでございます」
いつの間に移動したのか、ジュザンヌの隣に居たネリッサが前に進み出る。
「初めまして、ジークフリート様。お会い出来て光栄ですわ」
ネリッサは上目遣いにジークフリートの顔を見て、甘ったるい声で言う。おかしいな、毎日彼女の声を聴いているはずなのに、こんな声は初めて聴いたぞ。
「こちらこそ、お会い出来て嬉しいです」
誰がどう見ても社交辞令な挨拶だった。
会場に入っていきなり行く手を遮られたのだから無理も無いだろう。
「オルセイユ家と言えば、オーレリア嬢はどこに? 今日は来ていらっしゃらないのですか?」
いきなり私……扮するオーレリアの名前が出たので驚いた。そして、その名前が出た途端、義姉義母の頬がひくついた。
あまりそんな顔はしない方が良い。小じわが増える。
オーレリアは元々、その美貌で有名になるような令嬢だった。オルセイユ家と言えばオーレリアだと、ジークフリートは連想したのだろう。
「おほほ、こちらに居ますわ。ほらオーレリア、こっちにいらっしゃい」
精いっぱいの笑みを浮かべた義母が、こちらに向けて手招きをしている。会場中の注目が集まっている。
私はため息をつきたくなた。自分たちで目立つのは一向に構わないが、私を巻き込まないで欲しい。これでも潜入任務中なのだ。
しかしここで逃げれば更に好奇の目で見られることになってしまうだろう。ここは大人しく従おう。私は仕方なく、ジークフリートの前まで移動した。頭一つ以上私より背が高い。その瞳は透き通るように青い。
「お初にお目にかかります、シャンバル伯爵。アンドレ・オルセイユ伯爵の娘、オーレリアと申します」
「ごめんなさい、ジークフリート様。オーレリアは、姉のネリッサに比べると少し……いえ、何でもありませんわ」
「見て下さい、妹の衣装、とっても素晴らしいと思いませんか? 彼女自身が『どうしてもこれが良い』と言って選んだのですわ」
相手の返答も待たず、二人は私への攻撃を開始した。自分たちがこれを着せておいて、よく舌が回るものだ。貴族なぞ辞めて詐欺師にでもなったら良い。
しかしジークフリートは全く二人に目もくれず、言葉さえ聞こえていないように、私の目を見たまま、言った。
「君がオーレリア嬢か。こちらこそ会えて嬉しいよ。噂にたがわぬ美貌ですね」
優しく微笑むその瞳は、まるで森の奥に湧き出す清廉な泉のような、透き通った青さだった。義母義姉の殺気を含んだ視線が刺さるのを感じる。そんなに睨むな。厚塗りの化粧が崩れるぞ。
それに、褒められたって嬉しくもなんともない。褒められているのは私が変装しているオーレリアの美貌なのであって、私の容姿ではない。
「まあ、ありがとうございます。お褒め頂き光栄ですわ」
私は笑顔を取り繕って、その場を去ろうとした。
「オーレリア嬢、俺と一曲踊ってくれないか?」
私が振り返ると、ジークフリートは私に手を差し出していた。急に会場がざわつき始める。厄介なことになった。
「じ、ジークフリート様! そんな娘より、ネリッサと踊っていただけませんか!」
「義妹はろくにダンスの練習なんてしていないのです。そんな者と踊ってはあなたに恥をかかせてしまいますわ!」
二人は尚も私を引きずりおろそうと必死だ。地獄の餓鬼とかの方が向いているのではないか。ただ私としても、あまりこの男と踊るのは乗り気ではない。これ以上目立つこととは避けたかった。
オーレリア本人の話によると、義姉義母が幅を利かせるようになるまでは、淑女教育の一環として、しっかりダンスは習っていたという。そのため踊れること自体は不自然では無いだろうが……。
「申し訳ありません、私、あまり踊りが……」
不意にジークフリートが私に合わせて前屈みになった。そして囁く。
「大丈夫、俺がリードするから心配するな」
彼は私の手を引くと、そのまま会場へエスコートしていく。彼がどういう考えなのか分からない。だがここまでされてしまったら、踊らない方が不自然だ。私もこの潜入に際してこちらの国の「踊り」の基本は出来るようになっていた。何とかなるだろう。
管弦楽の調べが、舞踏フロアを包み込んでいた。ジークフリートの大きな手が私に差し伸べられる。手袋越しに指が触れ合う。
観客達の視線が集まる中、私たちの身体は流れるように動いた。ジークフリートの寄り添うような導きは、驚くほど自然で、まるで私の呼吸を熟知しているかのようだった。
この身長差で、しかも初めてで、驚くべき技巧だ。
音楽は次第に高まり、動きも早くなる。それでも私たちの動きにブレは無かった。ただ音楽に合わせて、二人の動きは溶け合っていた。
急に沈黙が降りた。
私は最初、音楽が終わったのだと気づかなかった。目の前でジークフリートが微笑んでいる。拍手が起こっている。そして遠巻きに見ていた義母、義姉が歯を噛み締めて私を睨んでいる。
何だか心が浮ついて、全てに現実感が無いように感じた。
「楽しい」心に浮かんだその思いを、必死に打ち消そうとする。心が高揚しているように感じるのは、適度に身体を動かしたことで、一時的に暖まっているからだ。それ以外の何の理由でもない。
私はジークフリートから目を逸らした。
恋心などでは断じてないと、確信を持って言える。
それに、私が幸せになることは許されない。
「もう一曲踊ってくれないか」
離れようとする私に、再びジークフリートが手を差し伸べてくる。
「申し訳ありません。久しぶりに踊って、少々疲れてしまいましたので……」
私は頭を下げると、足早にフロアから出た。これ以上目立ちたくはなかった。
私は遠巻きに、会食スペースでジークフリートが他の貴族たちと談笑している様子を眺めていた。
あの後、ジークフリートは何人かの令嬢たちと踊っていたし、思った通り、私が特別扱いされたわけではなかった。その事実は少なからず私を安心させた。
そもそも舞踏会とはそういう場なのだ。
ジュザンヌもネリッサも、密輸に関するような怪しい会話は全くしていないようだし、今回は空振りだろう。
私が彼から目を切ろうとしたとき、一人のウェイターがジークフリートの方に歩いていくのが見えた。私の目はその男に吸い寄せられる。
歩き方に違和感を覚えた。うまく言い表せないが、一般人のそれではないように感じたのだ。
そのウェイターは歩いていくと、そのままジークフリートを通り過ぎた。
いや、その瞬間、ジークフリートが置いていたグラスに何かを入れた。グラスの表面がわずかに揺れている。私以外誰も気づいた様子が無い。手慣れている。
そして男は何事も無かったかのように、そのまま人の中へ消えて行った。
私の身体は自然に動いた。
人込みをするすると通り、別のウェイターが運んでいるワインを素早く拝借し、数秒後にはジークフリートの元へ到達していた。
「おや、オーレリア嬢ではないか。どうしたんだい」
ジークフリートが屈託のない笑みを向けてくる。
「いえ、ここに美味しそうなお食事があったものですから」
と言った時にはすでに、私は彼のグラスを交換していた。
「そうか、君はかなり痩せているようだし、しっかり食べると良い」
「はい。ありがとうございます」
私は笑顔で返しながら、そのまま素早く会場の外まで移動した。移動している最中ワインの匂いを嗅ぐ。やはり僅かに異臭がする。恐らくは、毒だ。
私は庭の人気のない場所まで移動して、花壇の一角にワインを捨てた。あの男が何者かは分からない。どうしてジークフリートを暗殺しようとしていたのかも。
しかしそれよりも、、どうして私はジークフリートを助けようとしたのだろうか。
一曲踊ったよしみだろうか。いや、ここで余計な騒ぎを起こされたくなかったのだ。
ただでさえ私は目立ってしまっている。しかも、今まで全く舞踏会に参加していなかった娘が現れたちょうど今日、国の英雄が暗殺されたとあっては、必ず疑いの目が向く。
それはご勘弁願いたいところだ……。
会場に戻ろうとして私は足を止めた。
背中がぞわりと泡立つようだった。
背後。
闇に、点のように感じていた気配。
音もなく近づいてくる。
振り向いた一瞬、その陰の殺気が膨張した。闇夜にナイフが、鈍く光を曳いて迫る。
耳元をかすめた。頬を浅く切り裂かれる。
寸前で急所を避けながら、私はハンドファン(扇)に仕込んでいた刃を、男の首元に突き立てていた。
人体を貫通する感触。命を奪う手ごたえ。
私が口を押さえつけたため、男の断末魔はくぐもったものだった。
私は男を地面に倒してから後悔した。
しまった、つい反応で殺してしまった。生け捕りにして、待機している仲間に引き渡すべきだった。
改めて男を見る。顔には仮面を付けていた。はぎ取ってみると、やはりあの時、ジークフリートを毒殺しようとしていたウェイターに扮した男だった。
鋭い刃筋だった。こんな、いつ人が来てもおかしくないような場所で襲ってきたということは、よほど一撃で決める自信があったのだろう。
いずれにせよ、こいつは片付けておく必要がある。
「朧に沈むは月の檻──
影を喰らいし闇の蛇よ、我に応じて目覚めたまえ。
黒き鱗、全て吞み込め。
血を以て契る──《呑影》」
私が詠唱すると、地面の上を蛇行するように、速やかに黒い影が這いずってきた。
私の近くで、水が噴き出すように、急に影が沸き上がった。深紅の二つの目が私を見つめている。巨大な蛇だった。
「これを食べて」
私が言うより前に呑影は食らいついていた。男の身体は、まるで穴に落ちていくかのように呑み込まれてしまう。
そして蛇は水面に飛び込むように、地面に消えて行った。
もう血の一滴さえ残っていない。
相変わらず、行儀が良いんだか悪いんだか……。
しかしまだ全ての証拠を潰せたわけではない。
手鏡で自分の顔を確認して、私は顔をしかめた。切り裂かれた頬に血がにじんでいる。それに髪に返り血が付いてしまっている。ドレスにもだ。
***************
私は庭の裏手の、明かりも灯っていない噴水の近くに移動した。今は月が雲に隠れている。今のうちに用事を済まさなければならない。
「モズ、大丈夫か」
闇の中から一人の男が歩み出てきた。中年で、クラインヒルズ人の顔をしているが、この人も私と同じ忍びだ。馬車を操っていたのも彼で、私と同じく潜入している。主な任務は私の補佐、そして、監視だ。
「私は大丈夫ですが……相手は殺してしまいました」
「気にするな。身を守るためには致し方無かったのだ。それに恐らく、その男は薬の件とは無関係だろう」
「何故?」
「ジークフリートは先の戦争で最も領地を与えられた男。他に武功を上げた者たちの中にも、彼より領地の少ない貴族の中にも、恨みを募らせている連中は沢山いる。暗殺計画を企てる者がいるほどにな」
ジークフリートが幾ら恨まれていても、それはこの国で完結する揉め事。我が国には関係ないということだろう。
「飯田様、衣装に血が付いてしまいましたので、血を落としてから馬車に戻ります」
「分かった。先に戻っておくぞ」
飯田様は、闇に沈み込むかのように消えて行った。
私は不快感に顔をしかめた。
かつらに付いた血が、地肌にまで染み込んできたのだ。私は一度かつらを外し、束ねていた髪を解いて頭を振った。そして、顔にこびりついていた血を噴水の水で洗い流す。
急に人の気配を間近に感じた。
素早く振り返る。飯田様ではない。
「オーレリア嬢、なのか?」
ジークフリートだった。声が少し上ずっていて、目を見開いている。
心臓が早鐘を打つ。見られた。
この暗闇の中、彼がどの程度私の顔を認識しているのかは分からない。だが彼が名うての軍人であることを考えれば、私がオーレリアに成りすました何者かだと気付いても何らおかしくない。
そもそもこの男、私に気付かれずどうやって近づいてきた?
「始末」という言葉が私の中に過る。いや、彼は一般人だ。それにこんな有名人を消せば、毒殺と同じく余計に目立つ。
殺さなくても記憶を操作する忍術はあるのだ。
その時、雲に隠れていた月がのぞいた。淡い光が私たちを映し出す。
私は反射的に彼から目を逸らした。逸らした先で、月明りを反射した噴水の水が幻想的に輝いている。
失望された。
彼は私ではなく、オーレリア嬢の顔を見てダンスを申し込んできたはず。この顔では幻滅されるに違いない。
一番最初に浮かんできたのが、血の付いた衣装を見られたことでもなく、成りすましに気付かれたことへの焦りでもなく、そんな感情だったことに自分で驚く。
こんな気持ちになるのは自分が女だからなのか。
ジークフリートはゆっくり、こちらに近付いてきた。
「もう一曲、踊ってもらおうと思って、探していたんだが……」
私は口の中で詠唱を開始した。この記憶、消させてもらう。
不意にジークフリートは私の前に傅いた。血の付いた私の手をしっかり掴む。予想外の行動に、私は詠唱を停止してしまっていた。
「オーレリア嬢、俺と結婚してくれないか」
噴水の吹き上がる音だけが、静寂を埋めていた。
私が彼の言葉の意味を理解するまでには、少々時間を要した。何度も詠唱を開始しようとしたが、思うように口が動かない。
「何を、言っておられるのです」
詠唱の代わりに口から出たのはそんな言葉だった。頭が混乱していて、それが精いっぱいだった。
「こっちを向いてくれないか」
「駄目です」
「そうか、横顔も美しいな」
私は思わず彼の方を見た。睨んだつもりだった。絶対にからかわれているのだと思った。この国の人の美的感覚は、我が国のそれとは大きく異なるはずだ。彼にとって、私の顔が美しく見えているわけがない。
「嘘を付かないで下さい」
「嘘? それは聞き捨てならないな」
言いながらジークフリートは立ち上がった。私は必然的に彼を見上げることになる。
「俺は好きになった女に嘘など付かない。こんな素晴らしい女性は君しかいないと思ったから、婚約を申し込んだんだ」
こんな話の通じない男と会話などしていないで、さっさと記憶を消すべきだ。頭では分かっていても、口が思うように動かない。
「ジークフリート様は気付いておられるでしょう。私はオーレリア嬢ではありません」
「君の正体が何であろうとも、そんなことは関係ない」
「見られたからには、あなたの記憶を消させて貰います」
「好きにすれば良い。もし記憶を消されたとしても、また君を好きになる自信がある」
「いい加減に……!」
「ワインに毒を盛られた」
私は思わず彼の目をまじまじと見た。月明りに映る泉は光をたたえている。
「それを取り払ってくれたのも、犯人を、その、倒してくれたのも、君だろう」
その目は私の頬の血に向けられている。ワインに毒を盛られたことも、それを私が捨てたことも、最初から気づいていたんだ。
「俺は君のような強い女性が好きだ。俺のピンチを救ってくれて、それでいて恩着せがましくもない。そんなところも好きだが、何よりも」
そこまで言って、ジークフリートは私の顎を優しく持ち上げた。
「その美貌に惚れた」
私は思わず彼の手を振り払っていた。顔も、体の芯も熱くなっている。
「勿論直ぐに良い返事をくれとは言わないさ」
ジークフリートは微笑むと、そのまま背を向けて去って行こうとする。
「待って下さい!」
ジークフリートは遠ざかりながら、右手を上げてひらひらと動かした。
「心配しないでくれ、このことは誰にも言わないよ。後日手紙を出すから、返事を書いてくれると嬉しいな」
ついに私は彼の記憶を消すことが出来なかった。こんな失態を犯したのは忍びになって初めてだった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「だっはっはっはっはっは!」
私の報告を聞いた総隊長はケタケタと笑い始めた。これからの指示を仰ごうと報告したらこれだ。てっきり死ぬ寸前まで詰められると思っていたので、少し安心する。いや、それはそうと
「あまり笑いごとではないとは思いますが……」
「いやいや、モズちゃんがまさか結婚を申し込まれるなんてねえ。良いじゃん、結婚しちゃいなよ!」
「ですが、このままでは」
「ああ姿を見られたこと? 多分大丈夫だよ。僕の勘。
「勘って……」
「まあ仮にその男が言いふらすようなことがあれば、モズちゃんには腹を切ってもらうけどね」
明るく軽やかに切腹を匂わせてくる。それでこそ狐塚総隊長だ。
「それに記憶を消さなかったのってさ、モズちゃんもちょっとはその男のこと、意識しちゃってたからだよね? そうだよね?」
「違います」
「えー! 絶対そうだよ! だって今までそんな失態したこと無いじゃん!」
「それは……」
返す言葉もない。
「あー、今後の方針のことだけど、たった今決めた。正式決定した」
「はい、どうすれば良いでしょうか」
「モズちゃん、その婚約を受けなさい」
「はい…………へ?」
私は耳を疑った。最初の結婚しちゃいなよは恐らく冗談だ。だが、狐塚総隊長が言うこの正式決定というのは、てこでも動かせない、絶対の任だった。
「何故、結婚しろと」
「だって、そっちの方が面白そうだから」
また始まった……。私はその身勝手さに閉口する。断りたいところだが、私の失態のせいでこうなっているせいで、強く言えない。
「それに、そのジークフリートってのはとんでもない資産家だろう。良かったね、玉の輿だよ」
玉の輿になど微塵も興味が無い。私は幸せになるべき人間ではない。
「ですが総隊長、もし私が仮に婚約を受けたとしたら、オルセイユ家での潜入任務はどうするのですか」
「ああそれね」
急に総隊長の声が落ちた。
「モズちゃんが届けてくれたジュザンヌ宛ての書類、解読が終わったよ」
「それで、内容は」
「真っ黒」
総隊長のねっとりと絡みつくような声を聴いて、スッと海面から沈み込んでいくように、私の心が落ち着きを取り戻すのが分かった。
「では、あの二人はどうしますか?」
「二人とも捕らえて、ちょっとお話聞かせてもらおうよ。やり方はモズちゃんに任せる」
総隊長の声は不気味なほどに明るかった。
「御意に」
私はゆっくりと言葉にした。
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「オーレリア! この縄を解きなさい!」
「こんなことをして、どうなるか分かっているの?!」
椅子に縛り付けられたジュザンヌとネリッサが、身体をゆすりながら口々に喚いている。ここはオルセイユ家の地下室。外に声の届かない、「お話」には最適の場所だった。
「二人には聞きたいことがあります」
「ふざけるな! ここから出さないと酷いことになるわよ!」
「そうよ、それに話すことなんて何もないわ!」
私はつかつかと義姉の方に近付いていって、鼻っ面を拳で殴った。
「ぎゃっ!」
ネリッサはカエルが潰されたような声を発する。
「私の手を踏んだり、熱い紅茶をかけてくれてありがとう。これはほんのお礼です」
私はネリッサの髪を掴んで、もう一度同じ場所を殴った。鼻血が噴出する。恐らく鼻骨が折れているだろう。
「ちょっと私の娘に何をするの! この出来損ない! お前なんかさっさと殺しておけば良かった!」
私は鞭でジュザンヌの胴を打った。
「ゔぁっ!」
獣のような悲鳴を上げるジュザンヌ。
「義母様も、散々鞭で叩いてくださってありがとう」
私はもう一度鞭を入れる。
鞭というのは、非常に優れた拷問手段だ。
細長く全体に分散された力が、当たる瞬間一点に集中し、皮膚を抉るような強烈な痛みとなるのだ。私は特殊な訓練を受けていたので耐えられたが、オーレリアは、本当に痛くて痛くて溜まらなかっただろうと同情する。
同情すると、また鞭を入れたくなる。
「ああっ!」
三度目の鞭を受けて、ジュザンヌは苦悶の声を上げる。
「そろそろ、お話をする気になって頂けましたか?」
「止めろって言ってるでしょ、このサディスト!」
どの口が言うのか。私は笑った。笑いながら、今度は顔に鞭を振るった。
「ひっ!」
ジュザンヌの悲鳴が甲高くなる。
「これが楽しんでいるように見えますか?」
今度は足に鞭を入れる。何度も、何度も。私が、オーレリアがやられたように。
「あなた達のような、人をいたぶって喜んでいた変態と、私を一緒にしないで下さい」
「分かった! 話す! 話すから止めて!」
ジュザンヌの目には怯えが宿っている。ようやく素直になっただろうか。
「これ、知っているでしょう」
私が取り出したのは紙の包みだった。広げると、白い粉末が中にある。
一瞬ジュザンヌの目が見開かれた。
「知らないわ」
ジュザンヌは目を逸らした。だが明らかに目が泳いでいる。しらじらしいことだ。
「そうですか」
私は食い切り(ペンチ)を取り出した。そして、ジュザンヌの靴、靴下を脱がせていく。
「な、何をする気なの! 止めなさい!」
ジュザンヌはジタバタもがくが、しっかり固定されているので、ほとんど足は動かせていない。
「これからお義母様の爪を剝がさせて頂きます」
「な、何を言っているの? 冗談よね……?」
「爪というのは神経が集中していて、剥がされると、この世のものとは思えない痛みが走ります」
私はペンチを彼女の足に近づけていく。
「や、止めなさい!」
「剥がされた後は息を吹きかけられるだけでも痛みに狂うほどです。皆寝る間も惜しんで『殺してくれ』と泣き叫び……」
「止めろって言ってるだろ!」
私はジュザンヌの脛をペンチで強打した。骨の折れた感触。
「ぎゃあっ!」
ジュザンヌの顔から涙が溢れてきた。
「動かないで下さい。うまく剥がせないじゃないですか。これは善意で言っているのです。失敗したら余計に痛いんですよ?」
「助けて! お願い! 何でも話すから!」
ここに来て、ようやく私が本気だと悟ったらしい。彼女は半狂乱になっていた。
「では薬の出所を教えて下さい」
「それは本当に知らないの! 私は組織の指示に従っていただけなの!」
ジュザンヌの語ったところによると、その組織との繋がりが出来たのは、オルセイユ家に嫁いだ後からだったという。組織からの誘いは、ジュザンヌが嫁ぐ前から、オーレリアの実父であり、オルセイユ家の当主であったアンドレ・オルセイユが度々受けていた。
オルセイユ家の保有する領地には規模の大きな港があり、世界中に向けて輸出が行われる一つの拠点となっていた。麻薬を密輸するには非常に都合が良かったのだ。
ところがアンドレはむしろ麻薬の取り締まりに厳しく、組織は手を焼いていた。そこで白羽の矢が立ったのが、アンドレの後妻ジュザンヌだった。
元々浪費が旺盛で離婚された過去があり、オルセイユ家に再度嫁いできてからも、借金を重ねていた彼女は、二つ返事で了承する。そして、邪魔になったのがアンドレだった。
「だから、殺したと」
「……」
ジュザンヌは俯いたままだった。成程、麻薬の密輸に加担することで莫大な資金を得ていたのか。その金をも殆ど浪費していたのだから、とんだお笑い種だが。
「で、お義姉様は組織について何か知っておられますか?」
「知らない! 組織って何? 密輸なんて初めて聞いたわよ!」
ネリッサは恐怖に囚われた表情で、私とジュザンヌの顔を交互に見ている。まあそうだろう。恐らくこいつはアホ過ぎて何も知らされていないのだ。
「で、お義母様、組織の名前は? どこに本拠地があるのですか?」
「そ、それは本当に知らないの!」
私はもう一度、ジュザンヌのすねをペンチで打った。
「ぎゃっ! やめてください! 本当に知らないんです!」
涙と鼻水だらけになった顔、そして声の高さ、本当に何も知らないのかもしれない。
「そうですか、なら仕方ないですね」
一瞬、安堵の表情が浮かんだジュザンヌの口に、私は丸薬を突っ込んだ。激しくむせるジュザンヌを尻目に、同じ形のものをネリッサにも飲ませる。
「げほっ! これは何! 今、何を飲ませたの!」
「寄生虫です」
「き、寄生虫!?」
「まあ正確にはその卵ですが……卵から孵ると、お二人の肉という肉を食いつくします」
二人の顔がどんどん青ざめていく。もはや死人と見紛う程に血の気が引いている。
「これに寄生をされると激しい痛みを伴い、それでいて、虫がギリギリまで養分を吸い取るために長期間死ぬことも出来ず、最後は腹を……」
「助けて!」
「お願いします! 何でもしますから!」
二人の泣き叫ぶ声が地下室に反響する。
「安心して下さい。その寄生虫は私の合図があるまで卵から孵りません」
「じゃあ、私たちにどうしろと……!」
「今まで通り生活をしてください」
「それだけ……?」
「ただし、組織から連絡があれば即座に私に伝えること。そしえ私が物資や資金を要求したときは必ず応じること。そして絶対、このことを誰にも話さないこと。もし一つでも破るようなことがあれば……」
「破らない! 破らないわ!」
「本当にごめんなさい! 謝るから許して!」
私はペンチで二人の横っ面を打った。
甲高い悲鳴を上げる二人。
「お前らのやったことは謝っても許されることではない。アンドレ氏を手にかけ、オーレリアを死ぬ寸前まで暴行し、私の国では罪もない人が何万人も廃人にされた。本来ならもっと激しい痛みと苦痛を与えるところだ」
二人の顔が再びこわばる。
「だが喜べ。お前たちにはまだ利用価値がある。働きに期待しているわ」
私は満面の笑みを作って二人を交互に見た。つられて二人も愛想笑いを作る。その頬は、これまでにないほど引きつっていた。
二人の拘束を解いて、軽く手当てをしてから小屋に戻ろうとした私を、使用人が呼び止めた。
「オーレリアお嬢様宛てに手紙が届いております」
私は手紙を受け取って、思わず眉をひそめた。手紙の主が、ジークフリート・ド・シャンヴァルだったからだ。
「後で受け取るから今は預かっていて」
さっきまで血に濡れていた手で、私は彼からの手紙を掴みたくなかった。恐らくはまた求婚か、恋文。
拷問をした直後だったので余計に思う。私は幸せになるべき人間ではない。ジュザンヌは極悪人かも知れないが、私も同類だ。
今まで数多くの人を、任務のためとはいえ拷問してきた。殺してきた。そんな私が幸せになれるなんて、都合の良いことは思っていない。
このまま地べたを這いずるように生きて、死んで地獄に落ちるのだ。それが一番私らしい。
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招待されたのは、王都にあるシャンバル伯爵領の別邸だった。これは某公爵から買い取ったものらしいが、別邸とは思えないほど豪奢な作りは、かの男の勢いをものがたっているかのようだった。
早速貴賓室に通されると、既にジークフリートが待っていた。
「やあ、来てくれて嬉しいよ」
ジークフリートは立ち上がり、屈託のない笑顔を向けてくる。
「お招きいただきありがとうございます」
私が挨拶を返すと、ジークフリートは待機していた使用人たちを見回した。
「みんな、少しオーレリア嬢と二人にしてくれないか」
その言葉に少し嫌な予感がする。
使用人たちが一礼して出て行くと、ジークフリートは早速と言わんばかりに「では」と切り出した。目をキラキラさせている。
「本来の姿を見せてくれないか、あの夜の」
「出来ません」
「それはそうだ。ま、座ってくれ」
ジークフリートはあまりにあっさり引き下がると、私にソファを勧めた。もしかして冗談だった?
「この前は俺の命を救ってくれてありがとう」
座るなり、ジークフリートは頭を下げた。
「いいえ、礼には及びません」
そもそもこの男は毒を盛られたことに気付いていたのだから、私が助けるまでも無かったとは思うが。
「ジークフリート様、お願いがあるのですが」
「何だい?」
「結婚のことですが、諦めて頂くわけにはいきませんか」
狐塚総隊長に、この件を諦めてもらうにはジークフリートに「やっぱり婚約やめた」と言わせるしかない。
ジークフリートは優しい微笑みを向けてくる。
「いきなり結婚が難しいなら、先ずは友人からでも良い。でも結婚自体を諦める気は無いよ」
折れるつもりは微塵も無いようだ。私は混乱する。これまで、変装して男を惑わせたことは何度かある。だがこの男は素顔の私を見て、それでいて婚約を申し出ている。全く初めての体験だった。
「何故私なのですか」
「俺は強い女が好きだ。まさに君のような」
「はあ」
「先日の件でも分かる通り、俺は命を狙われることもある。それが嫁探しに慎重になっていた理由でもある」
「つまり、奥様となられる方にも危害が及ぶことを恐れられていたのですね」
「でも君ならば」
「襲われても大丈夫、と」
信頼されているんだか、都合よく思われているんだか。
「その言い方は少し語弊があるな」
ジークフリートは苦笑いをした。
「あの時も言ったけれど、俺は何より君の美貌に惚れた。君以外との結婚を考えられなくなってしまうほどに」
「私はあなたが思っているような良い人間ではありません」
「良い人間ではなくとも、良い女だ」
何言ってるんだこいつ。
ジークフリートは私の前に歩いてきて、傅いた。そして手のひらを差し出してくる。
「俺と一緒になろう。何の不自由もさせない。君の心を毎日満たしてあげる。世界中のどんな女性よりも、君を幸せに出来る自信がある」
私は目を逸らした。どうしても、彼の手を直視することが出来なかった。心が、揺れてしまう。
「私は人殺しです」
「あの夜のことなら、仕方なかったのだろう?」
私はジークフリートの目を見た。
「あの夜だけではありません。私は今まで沢山の命を殺めてきました。私は幸せになる気はありません。この業を背負って這いずるように生きて、死んだら地獄に落ちるだけです」
声が上ずった。
他人の前で、自分の口からこんな言葉が出たことに驚く。同じ忍びにさえ、こんな考えを口にしたことなど無かった。ましてやジークフリートと会うのはまだ二度目だ。
彼の目をみていると、何故か嘘を付けなくなってしまったのだ。
「人なら俺も殺した。戦争で。おびただしい数だ」
ジークフリートはゆっくりと話し始めた。
「侵略者を払いのけるには、誰かがやるしかなかった。やらなければ、侵略者の蹂躙は止まらない。もっと多くの民が犠牲になった。だからこそ俺は、この国の民を守るという使命を背負った」
思わず私は彼の顔を見た。その瞳は相変わらず、淀みのない泉のようだ。
「だからといって、殺しを全て正当化出来るとは考えていない。俺は毎朝、自分が殺してしまった人達のために祈る。それでちゃらになるとは思っていないが、俺も君と同じく、業を背負って生きているんだ」
ジークフリートは一度俯いたあと、再び顔を上げて何度か瞬きをした。
「君がどんな使命を背負っているのかは分からない。だが君は好き好んで殺しをする人だとは思えない。そんな人間なら命を奪うことで悩んだりしない。君が業を背負って歩むというのなら、一緒に背負おう。君が地獄に落ちるというのなら、共に落ちよう。だからこそ、生きている間は、俺と一緒に幸せになろう。精いっぱい生きようじゃないか」
心が、音を立てて動いた。
まるで雨雲から俄かに太陽が照らすように、灰色がかっていた視界が、色鮮やかに照り映えたようだった。
「俺と結婚してくれないか」
私は改めてジークフリートの手を見つめる。ごつくて、大きな手。
「……後悔しても、知りませんよ」
私はそっと彼の手に自分の手を重ねた。
そしてこの日、私オーレリア・オルセイユと、ジークフリート・ド・シャンヴァルの婚約が成立したのだった。
だがこの時の私は、シャンバル伯爵領でも、組織との抗争に巻き込まれることになるとは思ってもみなかった。そして何より、自分の心が、このジークフリートという男に、より深く囚われてしまうとは、全く思ってもみなかった。
おわり