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後編

   第三章 ひまりの約束



 昨日は何故か、なかなか寝付けなかった。

 理月に血を飲まれた咬み跡が、いつまでもじんじんと心地よい痛みに疼いていて、お腹の奥の方がずっと熱くなっていた。

 真っ暗なベッドの中で、ひまりは、出来ることなら自分のお腹の奥に指を突っ込んで、ぐちゃぐちゃにかき回したいと思うくらいだった。

 高校生になってから、血を飲まれた夜はいつもこんな風になる。

 小学生とか中学生の時は、そんな事なかったのに。

 ようやく眠りに就けたのは、明け方近くになってからだった。

 今朝はとても寝不足で、何故かいくら水を飲んでも喉がずっと乾いていて、頭の奥がもやがかかったかのようになっていた。

 本当は一日中、ずっとベッドの中に縮こまっていたいくらいだった。

 そんな状態のままグラウンドを走っていたものだから、ひまりはもう何も考えずにただただ足を交互に前に出してるだけだった。

 里中くるみはそんなひまりのことを心配そうにずっとくっ付いて見ていたが、ひまりはくるみに、いいから先に行って、と言って、それからくるみはずっとひまりの先を走っていってしまった。

「五十嵐」

 その時、理月の声がかすかに聞こえたような気がした。

 ひまりは、ただただ脚を前に出し続ける。

「五十嵐、引っ張ろうか?」

 風に乗って、少し遠くの方から理月の声が聞こえたような気がした。

 さっき理月は、グラウンドの端の方で転校生の女の子とキスをしていた、と思う。

 だから声が聞こえるわけがない。

 ひまりは、そう思った。

「五十嵐」

 更に近くで、理月の声がした。

 今はもう、ひまりには他のところに視線を送る余裕が無くなっていたし、理月と転校生が何をしているのか、それ以上見たくはなかった。

 だから理月が自分のところに来るなんて、ひまりはこれっぽっちも思ってなかった。

「五十嵐」

 自分の名前を呼ぶ理月の声が、ひまりのすぐ隣で聞こえたと同時に、ひまりは誰かに汗まみれの右手を握られた。

「後何週?」

 すぐ目の前で聞こえた理月の声に顔を上げると、そこには理月が自分の手を引いて、ひまりの前を走っていた。

 理月の手はものすごく冷たくて、ひやりとした冷気が右手の先から肘のあたりまで、すぅっと伝わってきて、ひまりは思わず身震いをした。

「分かんない分かんない」

 ひまりが乱れた息をどうにか言葉にしてそう言うと、理月は赤い瞳をにこっと細めて言った。

「俺、ずっと五十嵐のこと見てたから分かってる。五十嵐は残り一周だよ」

 理月は校庭の端でずっと転校生の結城夜未と話してたくせに、そんなこと分かるわけが無い。

 分かり切った嘘をついて、とひまりは思ったが、頭がぼんやりとし過ぎて、何も言えなかった。

 荒い息が、乱れたリズムで吐き出される。

「さっき見てた時よりもふらふらしてない?」

 可笑しそうに理月が笑って言った。

(だって仕方ない)

 ひまりが呟くように答える。

 理月に手を引かれてから、ひまりはすっかり走り方が分からなくなっていた。

 右足と左足を交互に前に出すのは分かるけれども、そのリズムの取り方がまるでばらばらで、良く分からなくなっていたのだ。

 正しいテンポで走り続ける理月に引かれて、ひまりはよたよたと走り続けた。

 ずっとうつむいて走っていたので、ひまりの視界の中には、白い校庭の土と、引き締まった白い理月の脚が見えるだけだった。

「はい、ゴール!」

 理月が言う「最後の周回」を終え、理月に手を引かれたひまりは、ゴールラインを超えた瞬間に足がもつれてしまった。

「ん!」

 咄嗟に理月はひまりの右腕を引き、その細い体を自分へと引き寄せて、全身でひまりを抱き止めた。

「先生」

 ゴールライン横に立っていた石井先生に向かって、理月が言った。

「保健室に行ってきます」

 他の生徒達が次々とゴールに走り込んでくるのを見届けながら、石井先生は理月に頷き返した。


   ***


 小柄なひまりのな体を抱きかかえるようにして、理月が保健室のドアを開けると、中には誰もいなかった。

 二つある真っ白いベッドの内、窓から遠い方へと理月はひまりを連れて行った。

「もう離して」

 ひまりが言った。

「一人で寝てるから、青山は、もうあっち行って……」

「一緒にいたって別にいいじゃん」

 薄っぺらいタオルケットをめくりながら、理月は言った。

「今日は天気が良過ぎるんだ。これ以上校庭にいるのも辛いから、五十嵐と一緒にいさせてよ」

 そう言うと理月は、ひまりをベッドに押し倒した。

 理月はひまりの細い体の上に重い被さるようにして、その黒い瞳を覗き込んだ。

「気分はどう?」

 理月が聞くと、ひまりがぽそっと言った。

「さっき、転校生の女の子と、キスしてた……?」

 理月は、ひまりの体調が大丈夫かどうかを聞いたのに、まるで見当違いの質問が返ってきて戸惑ってしまった。

「それって大事なこと?」

 理月が聞くとひまりは答えた。

「――別に、大事なことじゃない……ただ聞いただけ」

 最近、五十嵐ひまりは嘘をつく。

 理月ははっきりと答えた。

「俺は誰ともキスしてない」

 ひまりは、黙ったままだった。

「ただちょっと、近付いて話をしていただけ」

「何の話をしていたの?」

 ひまりは、小さな声で聞いた。

「うーん……」

 少し考え込んで、理月は言った。

「まぁ、……男子とかが、良くするような話、かな」

「わたしには内緒なの?」

 ひまりが聞くと、今度は理月は正直に答えた。

「結城さんの胸が大きくて形が良くて興奮するな、っていう話」

「やだ!」

 ひまりは小さな声を上げて、思わず両腕で自分の胸を隠した。

「エッチ!」

 理月は、その言葉が不当な主張だと言わんばかりの口調で答えた。

「エッチじゃないよ。そういうんじゃなくて、ただ、きれいな形をしているな、って言いたかっただけ、だと思う。……違うかな? えと、本当言うと、周りの男子がどういう意味でそんな話をしていたのかまでは知らないんだよね」

「みんな、おっぱいは大きい方が好きなんでしょ?」

 ひまりは両腕で自分の胸を咄嗟にかくし、そう言うと、理月はひまりの顔に自分の顔をそっと近付けて、言った。

「……こんな事話すの、まじで恥ずかしいんだけど――…」

 理月は、改まった様子で言った。

「俺、五十嵐にだけは本当の事言うけど、俺ってどっちかって言うと、胸は小さい方が好きなんだ」

 ひまりが小さく息を吞んだ。

「もちろん、小さ過ぎてもだめだけど。高校生になった五十嵐の胸が、まじで俺の好きな小ささで、俺、五十嵐の胸が好きなんだよね……」

 ひまりは少し険しい顔をして、両腕で自分の小さな胸を更にぎゅっと締め付けて、細い体を小さく縮こめて言った。

「青山、もしかしなくても、わたしのこと、ばかにしてる?」

「えーっ! なんで?」

 理月は驚いて、思わず声を上げた。

「な、なんでそう思った? 俺の日本語、ひょっとしてなにか間違ってる?」

 そして理月は続けて言った。

「俺はこう言ったんだよ? 俺は小さい胸が好きです。五十嵐の胸は俺の好きな小ささです。だから俺は、五十嵐の胸が好きです――って!」

「小さい小さい言わないでよ!」

 ひまりは小さく叫んだ。

 保健室の窓の外からは、最後まで走っていたクラスメイトがようやくゴールラインに辿り着いたことを歓迎する歓声と、とっくの昔にゴールした男子達がバレーボールに興じる音が混じり合い、風に乗って部屋の中まで届いていた。

 理月が言った。

「今は、ひょっとしたら誰か俺以外の人に見られる可能性があるから、五十嵐は胸を両腕で隠していていいよ。だけど夜に五十嵐の部屋で俺と五十嵐二人きりになったら、その腕は絶対外して。俺に五十嵐の裸の胸を見せて」

 ひまりは顔を真っ赤に染めて、小さく驚きの声を上げた。

「なんでなんで?」

 ひまりは言った。

「なんでわたしが青山に胸を見せなきゃいけないの?」

 理月は、ひまりの耳元に囁いた。

「今、五十嵐、一瞬想像したでしょ? 自分が上着もブラも全部脱いで、俺に裸の胸を見せてるところ。恥ずかしいのを我慢して、腕を後ろに組んで、胸をちょっとだけ反らせて俺に自分の胸を見せ付けているところ」

「キモい! ねぇ、キモい!」

 耳までますます真っ赤に染めたひまりが、顔を背けて叫んだ。

「五十嵐は気付いてないかも知れないけど、五十嵐が顔を背ける時って必ず右を向いて背けるよね。必ず咬み跡がある方を俺に向けて顔を背けるんだよ? ひまりの体が俺に血を飲まれたくて、咬み跡を俺に向けるように覚えてるんだ。五十嵐の体は無意識に俺を喜ばせようとしているんだよ? だから五十嵐は、どんなに恥ずかしくても、どんなに嫌がっても、俺に裸の胸を見せたくて仕方なくなってるんだ」

 ひまりは咬み跡を理月の目に晒したまま、目をつぶって言った。

「そんなこと言う青山は嫌い!」

 保健室のベッドの上で自分に覆い被さっている理月の腕の間で、ひまりはますます細い体を縮めこめた。

 ひまりの細く白い首に、昨日の理月の咬み跡が赤く滲んでいる。

 汗に濡れたその咬み跡は充血し、白い肌に赤い染みが滲んでいるように見えた。

「昨日はごめんな」

 唇をその首元に近付け、理月は囁いた。

「五十嵐の血が美味し過ぎて多めに飲んじゃった。今朝、体育の授業があるって分かってたんだから、飲むのは少なめにすれば良かったんだ」

「それはいい、それはいいから!」

 ひまりは言った。

「青山、近い! 近過ぎ! 体のあちこちが触れてるし、唇が触ってきそうで首がくすぐったい!」

 ひまりは震える声で言った。

「ねぇ、俺の咬み跡、少し赤く腫れてるけど、平気? 痛くない?」

 ひまりの叫びには構わず、理月が小さな声で言った。

「きょ、今日走ったせいかも……ずきずきする……汗が滲んで、少し染みる感じ……」

 そう答えると、ひまりは続けて言った。

「ねぇ、もう離れてよ……」

 理月はひまりの言葉を無視して言った。

「舐めたら傷の治りも早くなるかな?」

 理月言った言葉をひまりが理解するよりも早く、理月は滑らかな唾液に濡れた舌でひまりの白い首をそっと舐めた。

「ひぅっ!」

 ひまりが小さな悲鳴を上げる。

 ひまりの白い肌にある赤い咬み跡を優しく撫でるように、理月はその傷を舐め上げた。

「どう? 痛くなくなった?」

「分かんない! 分かんないよぉ……」

 ひまりが言う。

 小さく、微かに赤く膨らんだ二ヶ所の咬み跡を、理月はもう一度優しくそっと舐め上げた。

「ふぁ……っ」

 くすぐったさと微かな痛みに、ひまりはまた可愛い悲鳴を上げた。

「いつもありがとう、五十嵐」

「やめて……お願い……」

 吐息の間から、ひまりが聞こえるか聞こえないかの小さな声でお願いをした。

「痛いの? 痛かったらすぐに止めるよ? ねぇ、五十嵐……」

 そう言いながら理月は、舌全体を使って咬み跡とその周りの白い汗ばんだ肌を舐め上げた。

「やだやだやだ」

 ひまりが駄々っ子のように言った。

「ねぇ、痛いの? 痛かったら止めるから、痛い時は痛いって言って? すぐに止めるよ?」

 理月の舌先が、赤い咬み跡を優しく舐めている。

「やだやだ……やだぁ」

 ひまりはそう言って、細く小さい体を微かに震えさせた。

「やば……」

 理月がひまりの白い肌から舌を離し、小さく呟いた。

「お願い、五十嵐……今すぐ約束して?」

「え?」

 耳まで真っ赤に染め、とろんと眠たげにぼんやりとした瞳で理月を見詰め返したひまりは、寝言のように呟いた。

「やばい……まじでやばい……五十嵐が可愛い過ぎて、どうにかなりそう……」

「なに? なんなの?」

 ひまりの問い掛けには答えず、理月は言った。

「今、俺、人生で一番我慢してる……めちゃくちゃ我慢してる……本当のことを言うと、今すぐ学校のこととか家のこととか全部忘れて、五十嵐をこのまま抱きかかえて、飛んで行って俺の部屋まで連れ去りたい……そしてずっと五十嵐を閉じ込めて、五十嵐の服を全部脱がせて裸にして、俺が五十嵐にしたいことを全部したい……」

「え? なに……?」

 理月の言っている事がまるで理解出来ず、ひまりはぼんやりとした頭のまま呟いた。

「――飽きるまで……でも絶対一生飽きない自信があるけど、俺は、五十嵐にしたいこと全部したい……ひどいことも五十嵐を傷付けることも全部したいと思ってる……」

「え? やだ、怖い、怖いよ青山……」

 ひまりは小さな声で言った。

「……だから五十嵐、今、俺に、裸の胸を見せてくれるって、それだけ約束して? もしも約束してくれたら、俺、最後の最後で我慢できる気がする。踏みとどまれる気がする。その約束さえあれば俺は、自分のこの汚い欲望をどうにか引き止めることが出来そうな気がするんだ……」

 しかしひまりは戸惑って言った。

「だけどだけど……」

 ひまりは真っ赤になって呟いた。

「そんな約束、恥ずかしくて死にそうだよ……」

「絶対、いやって言っちゃだめだよ? はい、とだけ答えて? 頼むから、頼むからはいって言って」

 理月の言葉にひまりは息を吞んだ。

 校庭の歓声も、保健室に吹き込む風も何もかも動きを止めて、保健室の中の空気の分子の一つ一つまでもが運動を止めた、そんな気がした。

 しばらくの沈黙の後、震える声でひまりは言った。

「分かった、わたし……青山に胸を見せる」

「約束する?」

 理月が聞くと、ひまりはうなずいた。

「約束する」

 はー、と理月は大きなため息をつくと、ぐったりと全身から力を抜いて、ひまりの横に伏せってしまった。

「ごめん。本当にごめん。俺、最低だな……」

 そう言うと、理月は黙ってしまった。

 ひまりも、心臓が爆発しそうなくらいどきどきして、身動きも、何かを一言言うことも出来なくなってしまっていた。


   ***


 体育の授業が終わり、その次の社会が始まって十数分経ってから、理月はようやく身を起こした。

 ひまりの体にタオルケットを掛けると、理月は黙って保健室をを出て行った。

 誰もいない廊下を歩きながら、理月にしては珍しく顔を赤くして、口元を手で押さえながら歩いていた理月は、何か訳の分からないことを叫びそうになるのを必死で堪えながら、教室に向かった。


















   第四章 結城夜未(と吉野ヶ里すずめ)の計画



 二時間目が終わって三時間目が始まるまでの間の短い休み時間に、ひまりは保健室から教室に戻ってきた。

 里中くるみと吉野ヶ里すずめが心配してひまりに声を掛けたが、どこかひまりは上の空で、二人とも他の誰ともはっきりと目を合わせることなく、淡々と次の数学の授業の準備をしていた。

「青山は?」

 すずめの言葉に里中くるみが教室を見回すと、ひまりの付き添いで体育の授業を抜け出した青山理月の方が、逆にいつまで経っても教室に戻ってこなかった。


 午前の授業が終わり、先生が教室を出て行って昼休みになった途端、今まで転校生に話し掛けたくてうずうずしていたクラスメイト達が、一斉に結城夜未の周りに集まった。

 わいわいと男子と女子が入り混じった声で教室の中が賑やかになっている時、里中くるみがぽつりと言った。

「青山くん、結局戻ってこなかったね」

 いつも女子の血に渇いている青山・コンスタン・理月ならば、すぐにでも教室に戻ってきて転校生に話し掛けそうなものだが、その青山理月はお昼になっても姿を現さず、里中くるみは少しだけ戸惑っていた。

「前の学校で? 部活はそんなに熱心にやってなくて、バドミントン部にちょこっと入ってた。バドミントン、お正月にいとことよくやってたから入ったんだけど、お正月のとは全然違った!」

 今日は朝から体育で散々走らされたし、少しだけ疲れが見える結城夜未は、だけど生徒達の質問に一つ一つ丁寧に答えていた。


 午後の授業が始まった時も、全ての授業が終わった後も、青山・コンスタン・理月は教室に戻ってこなかった。

 一限目の体育の授業が終わった後は教室内に青山理月の姿は見えず、転校生に絡む事も無かった。


「青山、どこ行ったんだろうね」

 吉野ヶ里すずめはひまりに聞いたのだが、ひまりは少し赤くなって、「知らない」とだけ答えた。

 青山理月は結局、ほとんど一日中教室にはいなかった。


   ***


「なんだか今日は色々あって、本当に疲れちゃった……先に帰るね?」

 授業が全て終わり、ホームルームも掃除も終わると、五十嵐ひまりはぽそっとそう言って立ち上がった。

「ん。気を付けて」

 ひまりの斜め前の席に座っていた里中くるみは言った。

「ばいばい……あっ」

 バックパックを背負い、帰ろうと歩きかけたひまりが、軽くよろめいた。

「ひまり!」

 すずめが驚いた声を上げる。

 ひまりの隣の席にいた結城夜未がぱっと立ち上がって、ひまりの体に寄り添った。

「――今日の体育の後、体調悪くなってたよね」

 夜未が続けて言った。

「無理しないで早退すれば良かったのに。……わたし、家まで送っていこうか?」

「……いい」

 ひまりは結城夜未の申し出を断ると、すずめの方を振り返って言った。

「……大丈夫。だいぶ気分も良くなってきたから、一人で帰る。心配しないで?」

「……うん、そうか。本当か? 大丈夫か? そうなのか……」

 吉野ヶ里すずめは、しょんぼりした声で言った。

 ひまりは、くるみとすずめに笑い掛けると、結城夜未に向かって小さな声で言った。

「……平気だから」

「ん、分かった」

 夜未がそっとひまりから離れると、ひまりはゆっくりとした足取りで歩き、そのまま教室を出て行った。

 かたん、と小さな音を立てて教室のドアが閉められた。

「――絶対なんかあった! 保健室で、ヴァンパイアが絶対ひまりになんかした!」

 ひまりが教室を出て行った途端、すずめが叫んだ。

「うーん……」

 結城夜未は一声唸ると、くるみに聞いた。

「保健室で男子と女子が二人で何かしたってなると、何をすると思う?」

 実体験を聞きたくてうずうずしている夜未に、くるみがきっぱりと答える。

「言っとくけど私、学校で何かしたりすることないから」

「んあ?」

 二人が何の話をしているのか良く分からない、という顔をして、すずめは首をかしげて言った。

「くるみの彼氏は、別にヴァンパイアじゃないんだから、保健室で何かするなんてこと無いんじゃないのか?」

「そう! 本当にその通り! わたしの彼はヴァンパイアじゃない!」

「くるみの彼氏なんか別にどうだっていいんだよ」

 吉野ヶ里すずめは、当の里中くるみに向かって言った。

「ひまりが元気なくなったのは、青山が悪いと思う! ヴァンパイアは退治しなきゃだめ! いよいよ決行の時だ!」

 すずめはそう言うと、教室の後ろの掃除用具ロッカーに立て掛けてある太い杭を指差した。

「ついにあれを使う時が来た! 今から作戦会議だ!」

「おー!」

「えー?」

 盛り上がるすずめと、すずめの言葉に拳を突き上げる結城夜未に、里中くるみは一人引いていた。

「成功したら、みんなニュースに出るよ!」

 そんなすずめの言葉に、くるみが言った。

「すずめは『お手柄女子高生!』みたいな街角ほのぼのニュースみたいなのを想像してるかも知れないけど……」

 里中くるみが重々しく予言した。

「絶対違うと思う。事件性のあるニュースになるような気がする……」

 そんな里中くるみを置いてけぼりにして、何故かちょっと乗り気な結城夜未が無骨な杭を指差して言った。

「あんな重い杭、簡単に持ち運び出来ないよ」

「うーん、そうか……」

「どこかで待ち伏せして、仕留めるしかないね」

「わぁ! すごい!」

 すずめが歓声を上げる。

「おびき出して、やる。それだ!」

 我が意を得たり、という表情のすずめを見て、結城夜未もなんだか嬉しくなってしまった。

「ちょちょちょ、ちょっと!」

 一人冷静なままの里中くるみが言った。

「そんな事して! ひまりの気持ちも考えてあげなよ」

「ひまりも分かってくれると思う」

 すずめは厳かに言った。

「血ばっかり吸われて、つらい思いをして。青山をやったら、きっと目を覚ましてくれると思う」

 すずめは断言した。

 えー? と半信半疑な里中くるみをよそに、結城夜未も付け加えて言った。

「青山って男子、わたしにも血を飲ませてって言ってきた。体育の時、声を掛けられたもん」

「ほらあ!」

 すずめが、里中くるみを振り返って言った。

「青山って、こういう奴なんだよ! 女子だったら誰だっていいんだ。浮気をする男って、一生治らないんだから! こんな男と付き合ってたら、絶対ひまり、泣いちゃうじゃん」

「うーん」

 吉野ヶ里すずめの言葉に、里中くるみは考え込んでしまった。

 すずめはすずめで、まだ具体的な計画なんて欠片も決まっていないのに、なんだかもう成功したような気分になっていた。

「ついにやった……目障りな男がこれでいなくなった! 嬉しい!」

「良かったね! なんだか、わたしまで嬉しくなってきた!」

 きゃっきゃと喜ぶ二人に向かって、ただ一人、里中くるみだけが冷静に言った。

「良かったね、じゃあないんだよ」

 くるみは続けて言った。

「二人とも、今、クラスメイトを殺害する計画を立てているんだぞ? 頭おかしいだろ」

 しかしどうやらくるみの正論は、二人にはまるで届いていないようだった。


   ***


 青山理月が目を覚ますと、太陽は大分西の地平線の方へ沈み掛けていた。

(五十嵐は、ちゃんと早退したかな……?)

 学校屋上の小さな倉庫の陰で目を覚ました青山理月は、スマホで今の時間を確認すると全ての授業が終わった後だった。

 校舎周囲の下の方では、生徒達の騒がしい話し声が、屋上の理月の耳元まで響いて届いていた。

 授業が終わり、部活や帰宅の生徒達の騒がしい声が、理月の眠りを覚まさせたようだった。

 うーん……っと一つ伸びをして、青山理月はもう家に帰ることを決めた。

 出入り口が施錠されているこの屋上には生徒どころか先生もほとんど来ない場所だ。

 この屋上は、空を飛べる理月だけの隠れ家となっていた。

 理月はゆっくりと立ち上がると、広く無人の屋上を自分の家の方角へ向けて歩いて行った。

 白い塗装が剥げて、サビがひどく浮いている鉄製の手すりに軽く手で触れると、高さを確かめて理月はふわりとその柵を乗り越えた。

 まるで水族館の巨大水槽の中で魚たちに餌を与えるダイバーのように、理月の体はゆっくりと浮いて柵を乗り越え、そしてまたゆっくりと沈んでいった。

 四階建ての校舎は、屋上から下を覗き込むとはるかな高さに感じられて、普通の生徒だったら足がすくんでしまうだろう。

 しかし理月は何も気にせず、まるでそこに見えない透明な床があるかのように、あくまで自然に空中へと足を踏み出した。

 理月の体は一ミリも空中から落ちることなく、そのまま屋上の端から三メートルほど先に進むと、理月は両足を揃え、まるで水泳の飛び込みのように両腕も揃えて掲げ、何も無い空間へと迷う事なく飛び込んだ。

 弧を描いて一瞬沈んだ理月体は、そのまま空中を滑っていき、ゆっくりと速度と高度を増していくと、大空へと登っていった。

 青みが薄れ、紫が段々と滲んで濃くなってきている夕方の空へ、理月は螺旋を描きながら登っていく。

 広い広い夕焼け空に、理月の体は黒い点となって、街の頭上を滑っていった。


 十分過ぎるほど高度を上げた後、理月がふと眼下に広がる街へと目をやると、沈み掛けの太陽が校舎や周囲の家々に真っ黒な長い影を引いていた。

 ゆっくりと紫色に染まりかけている街の上空の空気は、肌寒さを感じさせた。

 理月の眼下の住宅街には、校舎を中心として網の目のような細い道が広がっていて、アリの群れのような小さな人影の列がその網の目の上をじわじわと伸びていっていた。

 それは、下校している生徒達だった。

 そんな豆粒の一つが、アリの列から離れ、細い脇道をゆっくりと辿っていた。

 理月が鼻をすすると、鼻腔の奥に女の子の甘い汗の匂いを微かに感じた。

 音も無く理月は滑空し、その人影を中心とした大きな円を描きながら、ゆっくりとゆっくりと高度を落としていった。


 学校初日がどうにか無事に終わったらしい結城夜未は、まだ仕事中の母親に、LINEでこれから帰宅する旨を伝えると、少しだけ迷子の不安を感じ、スマホのマップを開いてナビを起動させた。

 しかし夜未のスマホは、今朝、親と一緒に学校に向かった時には明らかに通っていない細道をくねくねと辿るよう指示してきた。

(……嘘でしょ?)

 夜未は自分のスマホが信頼に足る存在かどうか疑ったが、しかし他に頼れるものも無く、仕方無くスマホに言われた通り、家と家の間の細い路地を不安げに歩いていた。

(え? 全然帰れる感じしないんだけど……?)

 結城夜未が心細さにきょろきょろと辺りを見回していると、今日の体育で聞いた声が頭上から聞こえてきた。

「――こんなところにいた」

(?)

 その声に結城夜未が顔を空に向けると、路地に覆い被さるように建っている古い家の屋根を越えて、理月がふわりと目の前に降りてきた。

「ふわっ?」

 生身の人間が、空からゆっくりと降りてくるなんて光景を初めて目にした結城夜未は、思わず変な声を上げてしまった。

 音も無く地面に降り立った青山理月は、何も不思議なことは無かったかのように、落ち着いた口調で夜未に言った。

「どこに住んでるの? 道が分からなくなったんだったら、一緒に探そうか?」

 理月の言葉に、夜未は言った。

「いきなり何なの? ――別に、分からなくなってないし!」

 夜未の答えには構わず、理月が言った。

「ナビ見てるの? 俺にも見せて」

 そう言うと理月は、無造作に夜未に歩み寄り、彼女が手に持っているスマホの画面を覗き込んだ。

「画面見れない。邪魔」

 理月は、一緒にスマホを覗き込んでいた夜未の長い髪の毛を左手でかき上げると、そのまま彼女のうなじの方に手を回し、彼女の髪の毛を背中に流した。

 夜未の体がびくっと跳ねる。

「か、髪の毛触んないで! キモい!」

 そう言って夜未は、理月からさっと身を引いた。

「あのさ、体育の時も思ってたけど、男子のくせに女子に近付き過ぎ。普通に怖いんだけど」

「そうかな?」

 理月はきょとんとして言った。

「俺のこと、怖かったんだ?」

 理月が笑顔で聞くと、夜未は少し考えてから答えた。

「……まぁ、別に、本当はヴァンパイアなんて怖くなかったけど……」

 しかし夜未は言葉を続けた。

「だ、だけど! 距離感が近過ぎてちょっとキモいんだけど!」

「でも女子に近付かないと血が吸えないし」

 理月の言葉に眉をひそめながら、夜未が言った。

「それと、普通にあの時、私、汗臭かったから近付かれるのすごい嫌だったんだけど?」

「本当? 全然汗の匂いなんて不快に思わなかったけど」

 そう言いながら理月は再び夜未に近付き、何気なく右手を伸ばすと、彼女のブレザーのシャツのボタンを一つ二つ三つと馴れた手付きで外していった。

「え? な、何?」

 スマホを手に持っていたので、理月の突然のセクハラを防ぐ事も出来ず、無防備にボタンを外されるがままになっていた夜未は息を吞み、驚いて固まってしまっていた。

「ちょ、や、やだ」

 夜未が何の反応も出来ずにいると、わずかにはだけたシャツの合間から白い胸元が細く覗いた。

 理月はそのシャツに指を掛けると軽く引っ張り、顔を彼女の胸元に近付けて、小さくすんすん、と鼻を鳴らした。

「ほら」

 理月は言った。

「女の子の甘い汗の匂いがする。俺、この匂いを嗅ぐと、めちゃめちゃ血を飲みたくなるんだ」

 そう言った理月は夜未から一歩離れると、シャツの胸元を細く開けたまま固まっている夜未の目を見詰めた。

「ん? どうかした?」

 戸惑う夜未に、理月は微笑みかけた。

「だ、だから近いってば!」

 夜未はそう言うと、赤くなった顔をそらして黙り込んでしまった。

「うん、近いよ。近いから、何?」

「え? なにって……」

「俺、分かるよ」

 理月の言葉に、夜未が顔を上げた。

(あ)

 夜未は、理月とすぐ近くで目が合ってしまった。

 夕闇がじわりと染みる薄暗い路地裏で、理月の赤い瞳だけが小さな炎のようにゆらめいている。

「結城さんが今、何を考えてるか分かる」

「絶対分かんない」

「分かるよ」

 そして、青山理月は言った。

「結城さんって、俺に血を飲まれるのがどんな感じなのか、感じてみたいって思ってるでしょ?」

「思ってない!」

 結城夜未が否定すると、少しだけ青山理月の自信が揺らいだ。

「え? 違った?」

「――五十嵐さんがかわいそう」

 不意に、そんな言葉が夜未の口をついて出た。それは、言った当人でさえ意外に思う言葉だった。

「――なんでここで五十嵐の名前が出て来るの?」

 だから理月には、なお一層その言葉が出て来た意味が本当に分からなかった。

「どうして?」

 結城夜未の目を覗き込んで、理月が聞いた。

「だって……青山くんに血を飲まれて、都合よく扱われて……」

「俺は、五十嵐のこと誰よりも大切に思ってるよ?」

「本当に?」

「うん、だって、お腹が空いた時に血を飲ませてくれるし」

 理月が正直に言うと、夜未は少し怒ったように言った。

「そういうとこ!」

「……だったら、五十嵐の代わりに結城さんが血を飲ませてくれる?」

 夜未の喉が、思わず、こくん、と鳴った。

 そして結城夜未の顔が真っ赤になる。

「で、でも、そんなことしたら、五十嵐さんがかわいそう……!」

「どうして? だって俺が結城さんから血を飲むようになったら、五十嵐は血の飲まれなくて済むようになるんだよ? 五十嵐は、血を飲まれる方がいいの? よくないの?」

「分かんない! 頭がくらくらして、分かんないっ」

 結城夜未は、スマホを両手でぐっと握りしめた。

 そのスマホを、理月はすっと奪い取る。

「結城さんは、もう家に帰って休んだ方がいいよ」

 左手に持った結城夜未のスマホを覗き込みながら、理月は夜未の腕をそっとつかんで、自分の方へと引き寄せた。

「大丈夫? 結城さん、なんかふらふらしてる。――酔ってる?」

「なんか、分かんない……顔が熱くて、ぼーっとする……」

 そう言いながら結城夜未が理月の顔を見ると、理月の赤い瞳が自分をじっと見詰めていた。

(あ……)

 結城夜未が、息を吞む。

「ここなら知ってる。すぐそこだよ。家まで送ってあげる」

「ん」

 理月の瞳を覗き込んでから、なぜか頭がぼーっとしてしまった結城夜未は、まるでお酒に酔っているかのようになってしまった。

 青山理月に支えられ、結城夜未はふらふらと歩き出した。


「着いたよ?」

「ふぁ?」

 青山理月の肩に頭を預けていた夜未が顔を上げると、そこは自分の家だった。

 きれいにリフォームされた中古の一軒家で、洋風の出窓が可愛らしい白い家だ。

 以前は一室をピアノ教室として使っていたらしく、その部屋はグランドピアノを入れてもびくともしない頑丈な床下と、しっかりとした防音工事が施されていた。

 ピアノが趣味の結城夜未の母親が気に入って、この家に決めたのだ。

「……ありがとう」

 まだ少しぼんやりした頭で夜未はお礼を言うと、バッグの中をごそごそと探った。

「鍵? 家に誰もいないの?」

「うん」

 結城夜未が、無防備に答える。

「お父さんもお母さんも、仕事で夜まで帰って来ない」

 やっと見付けた家の鍵を、青山理月に奪われた。

「俺が開けてあげるよ」

 理月が言った。

「まだ、調子悪いでしょ?」

「ありがとう……」

 赤い顔をしてお礼を言った結城夜未に、理月が尋ねた。

「家に入っても、いい?」

「いいよ」

 結城夜未は、ぼんやりした頭で答えてしまった。


 家の中は、夕闇に沈み始めている外よりも薄暗かった。

 二人は玄関を上がり、暗い廊下を歩いて行く。

(よその家の匂いだ)

 理月は思った。

 嗅ぎ慣れた五十嵐ひまりの家の匂いとも違う。結城夜未の家の空気には、貼り替えたばかりの壁紙の匂いも微かに残っていた。

「ただいま」

 結城夜未はそう呟くと、手に持っていたバックを玄関先にすべり落とした。

 夜未の空いた手に、理月が指先で撫でるようにふれると、行き先を失っていた彼女の手が理月の指をぎゅっと握った。

 結城夜未は、理月手を引かれて、家の薄暗い廊下を奥の方へと歩いていった。

「……苦しい」

「どうしたの?」

 理月が聞くと、夜未が答えた。

「息がうまく吸えない……」

「ん?」

 結城夜未は、どこから来てるのか分からない不安で、家の中の空気が薄くなったように感じられた。

「いつまでも制服なんて着てるからだよ」

 青山理月は、笑いながら言った。

「ね、脱いで楽になろう?」

 理月の声が、夜未の耳元で囁いた。

「うん」

 夜未は顔を真っ赤にしながら、まるで催眠に掛かったかのように、とうなずいた。

「可愛い声」

 理月が言った。

「結城さんの声って、初めて聞いた時から明るくて元気で好きな声だったけど、今の声が一番可愛かったよ?」

「本当? 変な声じゃなかった?」

 夜未が、くすぐったそうに言った。

「本当だよ? 俺、嘘なんてつかないから。嘘は嫌いなんだ」

 青山理月はそう言いながら、結城夜未の制服のボタンを全て外した。

「腕、後ろに回して」

 そう言いながら青山理月は、夜未のブレザーの襟元をつかみ、ゆっくり制服を下ろしていった。

 制服を廊下に脱ぎ捨てた夜未の腰に、理月は手を伸ばすと、今度はスカートのホックを外し、ファスナーを下ろした。

 夜未のスカートは、まるで力が抜けたように、夜未の腰からするりと廊下の床へと落ちた。

 結城夜未の白く引き締まった脚と、白いパンツが誰もいない暗い廊下の中に現れた。

 結城夜未のパンツは、白い生地にうっすらと花が刺繍された、何の変哲もないパンツだった。

 理月は、クラスメイトの男子が見たくてもなかなか見られない同世代の女の子のパンツには興味を示さず、ただその少し汗ばんだ白い喉元を見詰めながら、夜未のシャツのボタンも全て外していった。

 結城夜未がぼんやりしながら、再び両腕を軽く後ろの方に回すと、理月はその腕を滑らせるようにシャツも脱がせた。

「え、恥ずかしいかも……」

 今日初めて会ったばかりのクラスメイトの男子の前で、夜未は白いブラとパンツを身につけただけの姿になった。

「恥ずかしがらないで。とても可愛いよ」

 青山理月が言った。

「思い切り血を吸いたくなるくらい可愛い」

「やだ」

 結城夜未が言った。

「やぁだ」

「少しだけ試してみようよ」

 夜身の耳元に、理月が囁いた。

「実際に試してみないと、本当に嫌かどうか分からないよ?」

「そっか……」

 理月の言葉に、結城夜未はうなずいた。

「そうかも……」

「そうだよ」

 そして、青山理月は夜未に尋ねた。


「ね、結城さん、部屋の中、入っていい?」


「わたしの部屋……?」

 結城夜未が聞いた。

「うん。結城さんの部屋、入っていいかな?」

「……え、部屋……?」

 ぼんやりした頭で結城夜未が、少しだけ考え込む。

「……どうしよう、かな……」

 結城夜未が考え込んでいた時、薄暗く静かな廊下に、突然、キン・コンとLINEの通知音が鳴り響いた。

 脱ぎ捨てた夜未の制服のブラザーのポケットの中のスマホが、どきっとするくらい大きな音を立てていた。

 はっと夢から覚めたように、夜未は自分の脱ぎ捨てた制服を振り返った。

 青山理月はゆっくりと脱ぎ捨てられた彼女の制服のところへ歩いていくと、夜未のスマホをポケットから取り出し、ちょっと驚いた顔をして立っている夜未に手渡した。

 理月からスマホを受け取り、何度か画面をタップした結城夜未は「わぁ!」と驚いて大きめの声を上げた。

 吉野ヶ里すずめからLINEが来ていたのだが、そこには「百害あり・一理なしヴァンパイア・青山理月ハンティング計画について」という言葉が踊っていたのだ。

「みみみ、み、見た?」

 打って変わって軽く青ざめた結城夜未が理月の顔を見ると、理月は首を横にを振って答えた。

「見てないけど?」

 それから、結城夜未は自分の体を見下ろした。

 驚いたことに自分は、白いブラジャーとパンツだけを身に着けた姿だった。

「きゃあっ!」

 結城夜未は悲鳴を上げると、夢中で胸を隠し、その場にしゃがみ込んでしまった。

「なんでなんでなんでなんで!」

 青山理月が、戸惑いながら言った。

「どうしたの?」

「どっ、どうしたって! どうしてわたし、こんな格好なの!」

「だってそれは……」

 理月が言った。

「俺が脱がせたから」

「――なっ、なんで脱がせたの!」

 非難を向けてくる夜未に、理月は言った。

「血を飲もうと思って」

「え――――っ!」

 結城夜未が叫んだ。

 そんな夜未には構わずに、理月が言った。

「さ、部屋の中行こうよ」

 理月が続けた。

「ベッドの上でゆっくり相性を確かめよう?」

 夜未が聞いた。

「え? な、何の相性」

 理月が即答する。

「血を飲む相性だよ」

「やだぁ!」

 夜未が叫んだ。

 そんな夜未には構わず、理月が言った。

「早く部屋の中に入れてよ」

「やだ! 出てって!」

「な、なんで?」

 戸惑う理月に向かって、夜未が叫んだ。

「わたしの家から出てって!」

 ふんす! と鼻を鳴らして玄関を指差し、夜未が叫んだ。

「なんで!」

 理月はそう言いながらも、ゆっくりと後ずさり、そして結城夜未の家から出て行った。

 家に入る許可を取り消されてしまった以上、理月はそうせざるを得なかったのだ。

「結城さん、次は血を飲ませてね?」

「――出てって!」


 ばたん。

 閉じられた玄関ドアを見詰めながら、下着姿の結城夜未は真っ赤になって、ぎゅうっと両膝を抱えながらもう一度呟くように言った。

「やだぁ……」
































   第五章 次の日



 翌朝は、曇天だった。

 昨日とは変わり、今日は朝から曇り空で、空には薄灰色の雲が一面に広がっていた。

「いい天気だな」

 理月は窓から空を見上げて呟いた。

 太陽は出ていなくて、少しじめっとした空気がそこら中を満たしている。

 雨が降りそうでなかなか降らない、そんなはっきりしない天気だった。

 理月は窓辺から、自分の寝ていたベッドの方を振り返った。

 枕元にはスマホが置いてあって、今朝早くLINEの通知があった。

 五十嵐ひまりからだ。

「今日は学校休む」と、一言だけ送られてきた。

 まぁ、昨日のずっと体調が悪そうだったし……と、理月は思った。

 だから特に返信はしなかった。

 午前五時よりだいぶ前。ひまりがその時間まで眠れなくて起きていたのか、それともいつもより早く目が覚めてしまったのか、それはよく分からない。

(――――)

 理月は窓を開け放つと、窓の桟に足を掛け、二階の窓から外へ向けて飛び出した。

 曇り空の中へと飛び出した理月は、体をひねってイルカのようにくるりと螺旋を描いて泳ぐと、そのまま 両腕で大きく空気を掻いた。

 理月の体はまるで摩擦のない海の中を泳ぐように、音もなく速さも全く変わらず、最初の伸びやかな運動のまま、するすると空高く上がっていった。

 じめっとした小さな下層雲を抜ける。

 はるか足の下に、Googleeアースのような街のパノラマが広がっていた。

(五十嵐のマンションと……結城さんの家)

 理月は、左手の斜め下の方に建っている少し大きめのマンションと、正面ずっと先の家々が立ち並ぶ中にある白い家を見詰めた。

 そして理月は、ゆっくりと飛び、空に大きな円を描いた。

 体を傾けて、緩やかなカーブを描いて湿った空の中を泳ぐ。

 理月が体を傾けると、目の下に広がる地球も大きく斜めに傾いた。

「もう少しだったな……」

 理月は、昨日の酔ったような様子の結城夜未の姿を思い出した。

「もう少しで血を飲めたのに……」

 薄暗い家の廊下の中、服を脱がせて下着姿になった結城夜未の体を思い出した。

「もう少しで飲めたのに……結城さんの初めての血を」

 結城夜未は、理月の音も無く燃える赤い瞳を覗き込んで、理月の言うがままになっていた。

 ひまりの体とは違う、同世代の女の子よりも少しだけ大きめの張りのある白い胸が、少しだけ子供っぽい素朴な白いブラに収められて目の前にあった。

「もう少しだったよな……」

 夜未の白い肌はすごく透明感があって、その下の青い血管が微かに透けて見えていた。

 理月はその肌に牙を突き立てて、血管から溢れ出てくる彼女の温かい血を飲みたいと、本当に思った。

「もう少しで飲めたのに……」

 目をつぶって、自分の体に理月の牙が突き立てられるのを待っている夜未を押し倒し、血を飲んでしまえば良かったのだ。

「もう少しだったんだけどな……」

 結城夜未の部屋の中に入りたいと、その時の理月は思ってしまった。

 彼女の部屋の中に入って、彼女のベッドの上に彼女を押し倒して、いつも結城夜未が寝ているベッドを、「理月が彼女の血を飲む場所」にしたかった。

 理月が結城夜未から、彼女の部屋に入る許しの言葉を得ようとした時、彼女のスマホが鳴ってしまった。

「もう少しだったのに」

 酔っているかのような夜未は、スマホの音で目を覚ましてしまった。

 眠りから覚めた人のように、急に結城夜未は理性を取り戻して、理月に対する許可を取り消してしまった。

 そしてそれっきり、青山理月は彼女の血を飲むことは出来なくなってしまった――。

 今にも雨が降りそうな湿った空の中を、理月はゆっくりと滑るように飛んでいた。

「――今日飲もう」

 理月は思った。

「今日、結城さんの血を飲もう」

 理月はスピードを落とし、朝の空に大きな円を描きながら、ゆっくりと自分の家の方へと降りて行った。


   ***


 少し早めの学校の教室は、まだ生徒がまばらにしかいなかった。

 運動部の生徒たちは、まだ朝練から戻ってきていなかったし、帰宅部の生徒たちは余り早い時間からは学校に来なかったからだ。

 人の気配が少ない教室は、まだ朝の冷気がひんやりと漂っていて、少し早足で学校に来た結城夜未の熱くなった頬を心地よく冷ましてくれた。

「――おはよう」

「「おはよう」」

 里中くるみと吉野ヶ里すずめが挨拶を返してきた。

 結城夜未は、そっと教室の中を見回した。

 青山理月は、まだ来ていない。

 五十嵐ひまりの姿も見えなかった。

 結城夜未は、何故か少しだけほっとした。

 教室を見回した結城夜未の姿を見て、里中くるみが言った。

「ひまりはまだ来てないよ?」

「う、うん」

 結城夜未がうなずいた。

「青山も来てない」

 吉野ヶ里すずめが言った。

「うん」

 再び夜未はうなずいた。

 その時、結城夜未の頭にふとした考えが浮かんだ。

(あの二人って、いつも一緒に登校するんだろうか……?)

 何故か夜未の胸が少し痛んだ。

「ね、あのね……」

 結城夜未が、少しかすれた声で聞いた。

「ん? 何?」

 里中くるみに、夜未が聞いた。

「五十嵐さんと青山くんって、いつも一緒に登校するの?」

「しないよ」

 すずめが答えた。

「家とかちょっと方向違うし。ひまりはちょっと早めに学校に来るけど、青山はいつも遅刻ぎりぎりで来るんだ」

「そうなんだ」

 少しほっとしたように夜未が言った。

 だけど、自分がこの学校に来る前、二人がどれだけ仲良くしていたのか、自分の知らない二人の時間を思うと、夜未は何か焦りのようなものを感じた。

「ひまり、今日は休むって」

 吉野ヶ里すずめが言った。

「今、LINEきたんだ」

 里中くるみが続けて言った。

「これはチャンスだ!」

 吉野ヶ里すずめは、可愛らしい邪悪な笑みを浮かべて言った。

「いくら青山がヴァンパイアだからといって、ひまりの目の前でやるのは忍びない」

「や、やるって……。すずめ、まだそんなこと言ってるの?」

 里中くるみが、呆れたように言った。

「当たり前だろ? くるみは、ひまりはかわいそうだって思わないのか?」

「確かに時々思うけど……」

 里中くるみは呟くように言った。

「でも、青山くんに血を飲ませてあげるのは、ひまりが決めたことだから」

 里中くるみは続けた。

「すごい難しいことだと思う。すごい難しいけど、ひまりの気持ちを思うと……」

 その時なぜか、ちょっと胸が痛んでいた結城夜未が口を開いた。

「わたし、昨日、青山くんに血を飲まれそうになって……」

「えっ!」

 吉野ヶ里すずめが、驚いて声を上げた。

「どういうこと?」

 里中くるみが夜未に聞いた。

「昨日、わたしが慣れない道に迷っていたら、青山くんが助けてくれて……それで、家まで送ってくれたの」

「やばいやばいやばいやばい! それってやばいよ!」

 すずめが言った。

「家に着いたら、青山くんが、家の中に入っていい? ってわたしに聞いてきたんだ」

「うん、それで?」

 くるみが聞いた。

「――それで、わたし、家の中に入っていいよって言ったの」

「だ、だめだよ、そんなこと言ったら! それはだめ!」

 すずめの言葉に、結城夜未は首を横に振った。

「そういうんじゃなくて、きっと青山は親切で言ってくれたんだと思う。その時わたし、なんだか体調が――」

 ここでなぜか結城夜未は言葉を飲み込み、言い淀んだ。

「……体調が悪くなっちゃって、それで青山くんはわたしのことを支えて、家の中まで連れて行ってくれたの」

「でもそれって、青山はただ女子の血を飲みたいから親切にしてるだけだと思う。そんなの信じたらだめだと思う」

 吉野ヶ里すずめが主張した。

 しかし結城夜未は再び首を横に振って言った。

「青山くんは、ただ親切なだけなんだと思う」

 夜未は続けて言った。

「――でもなんだか、その時二人きりで家にいたら変な気分になっちゃって、それでわたしも送ってくれたお礼に、少しだけなら血を飲ませてあげてもいいかなって思っちゃったし、それで青山くんもわたしの血を飲みたいって思っちゃったんだと思う……」

 なぜか里中くるみは、顔を真っ赤にして言った。

「そ、その雰囲気は分かるけど! だけど成り行きで飲ませたりしたらだめだよ! 嫌だったら全然断っていいんだからね?」

 しかし結城夜未は言った。

「本当に血を飲まれるのが嫌かどうか、分かんない……。ひょっとしたらわたし、嫌じゃないかも……」

「えーっ?」

 吉野ヶ里すずめが驚いて言った。

「全然分かんない! 変な気分って、なに?」

「まぁ、そうだね。すずめには分かんないね」

 里中くるみの言葉に何かちょっと引っ掛かるものを感じ、すずめは「は?」と聞き返した。

 結城夜未は言った。

「わたし、今日、青山くんに血を飲まれちゃうかも……どうしよう……」

 里中くるみは、困って言った。

「……難しいね」

 しかし吉野ヶ里すずめは、何か名案を思い付いたように言った

「それだ!」

「な、何が?」

 そう尋ねる里中くるみに、すずめが言った。

「計画の完成だ。今、決まった」

 すずめは続けた。

「どうやって青山理月を待ち伏せ場所まで連れてこようか。その方法が思い付かなかったけど、今、ひらめいた。結城さんを囮にして、やるんだ!」

 吉野ヶ里すずめは自信満々に言った。

「え~~~? 本気? 本当の本当に、本気?」

 里中くるみは、嫌そうな声を上げた。

「えっと……え?」

 突如として計画の中心人物に祭り上げられてしまった結城夜未、戸惑うしかなかった。


「おはよう」

 三人の女子がきゃいきゃい話している時に、理月が教室に入って来た。

 結城夜未はどきっとして、つい目で理月の姿を追ってしまう。

「――普段通りにするんだ」

 横に立っている結城夜未の袖をつんつんと引っ張り、吉野ヶ里すずめが小さな声で言った。

「――殺害計画を悟られないように!」

「すずめ、お前、まずいぞ?」

 苦い顔をして、里中くるみが言った。

「今、はっきりと殺害って言ったからな?」

「おじいちゃんが始めたヴァンパイアハンター……」

 突然、吉野ヶ里すずめは語り始めた。

「いよいよ私はその第一号を屠ることになる……。きっとおじいちゃん、驚くぞ!」

「ま、まあな……」

 里中くるみが、苦々しげに言った。

「孫娘がクラスメイトを殺したら、それは驚くって。驚き過ぎて、死んじゃうかも」

 二人が計画についてあれこれ言い合っている中、登校してきてすぐに机に突っ伏して眠り始めた青山理月のことを、結城夜未はずっと見詰めていた。


   ***


 SHRの朝の読書会が終わり、一限目までまだちょっと時間があるという時。

「ちょっとトイレ行こうかな」

 里中くるみがそう言って、席を立った。

「うんちか?」

 吉野ヶ里すずめが聞いた。

「おしっこ」

 里中くるみが、簡潔に答えた。

「ね、付き合ってよ」

 後ろの席の結城夜未に、くるみが言った。

「え、でも」

 結城夜未はちょっと言い淀んで、青山理月の方を見た。

 理月は相変わらず机に突っ伏して眠っていた。

「いいから」

 里中くるみが余りに熱心に頼むので、結城夜未はとうとううなずいた。

「うん、分かった。わたしも行くよ」


 里中くるみと結城夜未はしばらく黙って並んで歩いていたが、女子トイレの近くまで来た時、くるみはそっと夜未に聞いた。

「大丈夫? ひょっとして結城さん、体調悪い?」

「え? どうして?」

 夜未は驚いて、くるみに聞き返した。

「……だって、結城さん、朝から様子が変だったから……」

 それから里中くるみは、少しだけ間を空け、聞きにくそうにして言った。

「……本当は昨日、青山に何かされた?」

 心配そうに尋ねてくるくるみに、夜未は首を横に振って答えた。

「ううん、何もなかった……大丈夫だよ?」

 そして結城夜未は、ほんの少し沈黙した後、思い切ったように里中くるみに聞いた。

「……ね、里中さんて、彼氏、いるんだよね?」

「ん? うん、まぁ、ね……」

「その、こんなこと、会って間もない女の子に聞くの、ちょっとどうかなって思うんだけど……」

 ただならぬ結城夜未の様子に、里中くるみは戸惑いながら聞いた。

「え、何のこと? わたしが分かることなら、答えるよ?」

 その言葉に、結城夜未はほんの少しの勇気をもらい、思い切って聞いた。

「その、やっぱり……」

「うん?」

「その、やっぱり……、里中さんて、彼氏といると濡れちゃうのかな、って……」

「ん?」

 夜未の言ってることが理解出来ずに、里中くるみは「?」の顔になった。

 いや、正確には理解出来なかったわけではない。くるみは理解出来なかったわけではないのだが、唐突過ぎて話に付いていけなかったのだ。

「里中さんて、彼氏が近くにいると、濡れる?」

「うん、濡れないよ?」

 結城夜未が、心底驚いて言った。

「そうなの? やっぱりわたしの体、おかしいのかな……?」

「どういうこと?」

 里中くるみは夜未のことが心配になって、聞いた。

「昨日わたし、青山くんに会って、迷子になっていたのを助けてもらった、っていう話をしたよね?」

 結城夜未が言うと、里中くるみはうなずいた。

「まぁ、なんだかんだ言って青山って、女の子には優しいし、嫌がることはしないし、親切なところあるしな……」

「やっぱりそうなんだ……」

 こんなところにいるわけはないのに、結城夜未は誰かの姿を探すように廊下を振り返って、少しだけ頬を赤く染めて言った。

 里中くるみが慌てて付け加えた。

「だ、だけど最終的には女子の血を飲みたいだけだと思うけど!」

 里中くるみの言葉に、夜未は言った。

「そうかな?」

「そうだよ」

 里中くるみは断言した。

「わたしたち、それこそ幼稚園の頃から知り合いだから。あいつは幼稚園児の頃から、隙あらば女の子の血を飲もうとしてるやつなの!」

「他の女の子のことは知らないけど……」

 結城夜未は言った。

「でもわたしには、ひょっとしたら違うかも……」

「いーや」

 くるみの言葉も耳に入らず、結城夜未は続けて言った。

「わたしには青山くんは、ただ優しいんだと思う……」

 里中くるみは、黙って夜未の瞳を見詰めた。

「青山くんは、家までわたしのことを連れてってくれて、そのまま家の中まで付き添ってくれて……」

「うん」

「部屋の中に入っていい? って何度も聞いてくるから、わたしは、もういいかなって思って……、いいよ、って言おうと思ったの」

 結城夜未の言葉に、里中くるみが驚いて聞いた。

「えっ、部屋の中入れちゃったの?」

「うーん……まだ返事はしてなかった……だけどわたし、部屋の前まで歩いていく途中で服も脱がされて、いつのまにか下着姿になってて……」

「えっ?」

 里中くるみは、結城夜未の顔を思わずじっと見詰めてしまった。

 大きな濃い栗色の瞳が、少しだけ濡れて柔らかい光を宿している。

 小振りだけど形のいい鼻と、その下の薄桃色の柔らかそうな唇が、とても可愛らしかった。

 長く少し茶色がかった髪の毛は、さらさらと真っ直ぐに胸の上まで流れて、うつむいた彼女の白く可愛らしい顔を半分隠していた。

 少し幼さの残る可愛らしい顔とは対照的に、ちょっと大きくてきれいな胸と、細い腰が女の子の里中くるみから見てもちょっとエッチで、今から修学旅行でこの子と一緒にお風呂に入るのが秘かな楽しみではあった。

 そんな可愛い女の子が、青山理月に脱がされたのだ――っていう話を聞いて、何故かくるみはちょっと嫉妬を感じたのだった。

「これからわたし、とうとう青山くんに血を飲まれるんだって思った時……血を飲まれてもいいかもって思った時……すずめちゃんからLINEがきて、それでびっくりして、急に恥ずかしくなって……」

「ま、まじでそんなタイミングだったの?」

 里中くるみは愕然として言った。

 吉野ヶ里すずめが、ヴァンパイアハンティング計画をLINEで送った時、里中くるみはすずめの隣ですずめの嬉しそうな様子を見ていたのだ。

「わたし、急に恥ずかしくなって……」

 夜未が言った。

「――青山くんには帰ってもらった……。結局、血は飲まれなかったし、何もなかったんだけど――」

「いやいやいや、脱がされたんでしょ? そこそこあったと思うけど……」

 里中くるみはそう呟いたが、その呟きがまるで聞こえていなかったのか、結城夜未は続けて言った。

「――青山くんが帰った後、見てみたらすごい濡れてて、めちゃくちゃびっくりした……」

「ん?」

 里中くるみは、再び「?」となった。

「わたし、やばいかも……」

「う、うん……」

「……このままだと、青山くんに血を飲まれちゃう……五十嵐さんにあわせる顔が、なくなっちゃう……」

「お、落ち着け、落ち着けって」

 そう言う里中くるみに、結城夜未が聞いた。

「やっぱり本当は里中さんも濡れちゃうでしょ? 彼氏と一緒にいたら一日中濡れちゃうでしょ?」

「濡れないよ!」

 顔を真っ赤にして里中くるみが否定すると、結城夜未に言った。

「今日はもう、帰った方がいい。青山とこれ以上、会わない方がいいかも」

 くるみは夜未の瞳を見詰めて言った。

「結城さんの今のテンション、絶対やばいから!」

 里中くるみはそう言ったのだが、結城夜未は意外と冷静だった。

「別に大丈夫」

「本当に?」

 うん、と頷いて、結城夜未が言った。

「でもさっき、青山くんが来て、わたし少し濡れちゃったかも……」

「だめじゃん!」

 里中くるみの声が、廊下に響いた。

 トイレに行っている時間は、もう無かった。


   ***


 里中くるみは吉野ヶ里すずめを説得し、クラスメイト殺害計画をやめさせようとしたのだが、すずめはくるみの言うことをまるで聞いてくれなかった。

 それとは別に、朝からずっと様子がおかしかった結城夜未のこともなだめなければならなかった。

 夜未は、授業中ずっとちらちらと青山の方を見てしまうのを、どうしてもやめられなかった。

 意外と青山理月は、そんな結城夜未の様子は気にしていないようで、ただただ放課後になるのを待っているかのように授業を普通に受けていた。

 結城夜未のことが心配だった里中くるみは授業中も、「大丈夫?」とだけ書いたメモを夜未に回した。

「どうしよう」夜未からメモが返ってくる。

「今もずっと濡れてる」

「ふぅ」

 こっそりとため息をつき、里中くるみは夜未にメモを返した。

「濡れるな」

「教室でメス堕ちすな」

 しかしそれは無理な願いだった。

 決して叶えられることのない願いだった。

 里中くるみの後ろの席で、結城夜未はずっとそわそわしていた。


   ***


 今朝の天気予報では夕方から夜にかけての降水確率は六十%だったし、いつ降るかと思っていた雨だったが、結局一日中雨は降らなかった

 スマホで天気予報を見ると、いつの間に予報が変わったのか。夜は晴れるということだった。

 西の方に太陽が傾いてからは空を覆っていた雲も消え、今日は暑過ぎず寒過ぎない気持ちのいい気候となった。

 そして、待ち望んでいたような待ち望んでいないような放課後になってしまった。


   ***


「早めに帰った方がいい」

 吉野ヶ里すずめが青山理月の偵察に行った隙に、里中くるみは夜未にこっそりと耳打ちした。

「え、でも……」

 夜未が戸惑って言った。

「吉野ヶ里さん、なんて言うかな……」

「そんなこと気にしなくていい!」

 くるみが言った。

「なんだかんだ言って青山は友達だし、すずめも大切な親友なんだ。すずめの馬鹿な計画に乗ったら、二人とも不幸になる。――っていうか、絶対不幸にしかならない」

 結城夜未はうなずいた。くるみが続けて言った。

「そんなの嫌だから。絶対嫌だから。だから、わたしのことを助けると思って、先に帰って欲しい」

 くるみがそう言うと、結城夜未はうん、とうなずいて言った。

「分かった。帰るね!」

 そして夜未が教室を出て行くと、それとほとんど入れ違いで吉野ヶ里すずめが教室に戻ってきた。

「あれ?」

 教室の中をきょろきょろと見回しながら、すずめが言った。

「結城さんはどこ行ったの?」

「そ、それよりさ!」

 里中くるみが、慌ててごまかすように言った。

「あの杭、どうするの?」

 里中くるみの視線の先に、掃除用具を入れロッカーに立て掛けられた無骨な杭恋があった。

「あんなの持って歩いてたら目立って青山くんにばれちゃうし、第一、一人じゃ運べないよ?」

「うん」

 すずめがうなずく。

「目立たないようにスポーツバッグで隠そうかと思うんだ」

 里中くるみが驚いて言った。

「これ、すずめの背と同じくらいの長さがあるよ? 絶対バッグに入らないって!」

「だから、先のとがった部分だけでもバッグの中に入れれば」

 すずめは言った。

「少しは目立たなくなるんじゃないかな。杭じゃなくて、ただの丸太を運ぶ女子に見えると思う」

「目立つだろ」

 里中くるみが呆れるように言った。

「まぁ、試しにやってみてよ」

 里中くるみがそう言うと、すずめはスポーツバッグの中身を全部机の上に出し、空っぽになったバッグを杭の先端にかぶせた。

「くるみ! 手伝って!」

 物騒な計画のことを何も知らないクラスメート達は若干引いて、そんな二人の様子を遠巻きに眺めているだけだった。

「結城さん、どこに行ったんだろ?」

 杭を相手に奮闘しながら、すずめが再び結城夜未のことを思い出した。

「うーん……」

 本当は心苦しかったのだが、里中くるみはすずめに嘘をつくことにした。

「青山くんのことをおびき出すために、先に校舎を出て行ったよ」

「ほんと?」

「……今頃、囮になってるんじゃないかな?」

「そうか!」

 すずめは、嬉しそうに言った。

「もうすでに、計画が成功したような気がしてきた! 楽しい!」

 すずめは嬉しそうに笑った。

 里中くるみは、もう本当はこんなことに関わりたくはないのだが、これ以上事態を悪化させないために、すずめに付いているのがいいような気もしてきた。

 目を離したら、何をするか分からないのだ。

 先っぽにスポーツバッグをかぶせた杭を前後に並んで小脇に抱えて、二人は教室を出ると、昇降口に向かって歩き出した。

「お、えらいぞ。ようやくそのごみを片付けるつもりになったんだな」

 廊下ですれ違った先生に、杭を抱えた二人は褒められた。

 吉野ヶ里すずめが、溌剌として答えた。

「はい! 社会のごみを、今から片付けてきます!」

 里中くるみは、暗澹たる気持ちになってしまった。


 校門を出て、住宅街へと続く真っ直ぐの道を見晴らした吉野ヶ里すずめが、嬉しそうな声を上げた。

「あっ、結城さん、もう囮になってくれてる!」

「えっ!」

 里中くるみが驚いてすずめが指差した方を見ると、急いで帰ろうとしていた結城夜未に青山理月が声を掛けていた。

(断れ断れ断れ断れ!)

 里中くるみが必死で念じたにも関わらず、二人は肩を並べて歩き始めた。

 後ろ姿だけ見ると、それはまるで恋人たちのようだった。

 何故か二人は手をつなぎ、二の腕や肩を時折触れさせながら、並んで歩いている。

「行こう!」

 吉野ヶ里すずめが、杭を抱えながらくるみを振り返って言った。

「行くぞ!」

 里中くるみが応じる。

 今日、五十嵐ひまりが休んでて良かった。

 あんな二人の姿を、ひまりに見せることなんて、到底出来ない。

 里中くるみは、いっそ青山理月は殺した方がいいんじゃないかと、そんな風に段々と思えてきてしまった。


   ***


 十分も持たなかった。

 そんなに体力も探偵のスキルも無い女子が、二人がかりとはいえ杭を抱えて誰かを尾行するなんて、所詮無理な話だったのだ。

 あっと言う間に理月と夜未の二人を見失った吉野ヶ里すずめと里中くるみは、丸太を抱えたまま右往左往する羽目となった。

「どこ、ここ? どこなの? 全然分かんないんだけど!」

 泣きそうな声で、すずめが言った。

「こんなの計画でも何でもない!」

 汗だくになりながら、里中くるみは文句を言った。

「なんで結城さんの住所を聞いておかなかったの? 先回りとか出来たはずじゃん!」

「だって完璧だったから! 絶対成功する気がしたから!」

「だからそれは気のせいなんだって!」

 すずめにつられて、里中くるみも泣きそうになってしまった。

「結城さんに何かあったら、すずめは責任取れるの? ねぇ!」

「だ、大丈夫! 変なことは起こらない! ……多分」

「起こるんだって!」

 今日一日の結城夜未の様子を知っている里中くるみは、泣きそうになりながら叫んだ。

「起こるんだから! まずいんだから!」

 二人は、丸太を抱えて住宅街をいつまでも右往左往していた。


   ***


 結城夜未の家に向かって二人並んで歩いてる間、理月と夜未の二人は、ずっと黙ったままだった。

 風の音の中に自分の心臓の音が混じって聞かれてしまうような気がして、結城夜未は顔が真っ赤になってしまっていた。

 握り合った手がひどく汗ばんで、手のひらがとても湿っていた。

 こんなに汗をかいて、変な子だと思われないか、それだけがずっと夜未には気がかりだった。

 あと五分もしないで家に着く。

 吉野ヶ里すずめと里中くるみは、果たしてこの後来るんだろうか。多分来ないと思う、と夜未は思った。

 時々そっと後ろを振り返ったけども、二人の姿はほんの最初に見えただけで、それからは見ることがなくなってしまった。

 あと五分もすれば結城夜未は青山理月と二人きりになるのだ。

 昨日は下着姿になったまでで済んだけれども、今日は体の全部を見られてしまうかも知れない。

 夜未はそう思いながら、そっと横目に青山理月の顔を見た。

 この男子が、わたしの血を吸う男の子なんだ、と思った途端、夜未のお腹の奥がきゅんとして、腰の辺りにぴりぴりと痺れるような電流が走った。


「家に入ってもいい?」


 理月の囁きに、夜未がはっと顔を上げると、そこは夜未の家の玄関前だった。

「入っていい?」

 玄関のドアの前に立った青山理月が、夜未に優しく聞いてきた。

(あ……)

 青山理月の赤い瞳を見詰めながら、結城夜未はこくん、と唾を飲み込んで、言った。

「いいよ」

 青山理月の赤い瞳が、嬉しそうに細くなった。

 それを見た結城夜未も、とても嬉しくなってしまった。

 昨日のように、夜未の脳が段々とお酒に酔うようにとろけていくのを、夜未は感じた。

 二人は家の中に入ると、玄関のドアを静かに閉じて、かちゃり、と鍵を閉めた。

「嬉しい……」

 その途端、結城夜未は青山理月に、ぎゅっ、と抱きしめられた。

(あ)

 吐息のような一言を漏らすと、結城夜未は目をつむって青山理月の体にぎゅっと抱き付いた。

 そして二人は黙ったまま一分以上、ハグをし続けた。

 ひょっとしたらもっと短い時間だったのかも知れないし、もっと長い時間だったのかも知れない。

 ブレザーの制服を通じ、結城夜未は青山理月の体温を感じた。

 二人の体温は混ざり合って、段々と同じ温度に近付いていった。

 それから二人は体を離すと、靴を脱ぎ、廊下へと上がった。

「こっち」

 顔が真っ赤になりながら、それでも結城夜未は青山理月の手を引いて、階段を上っていった。

 小学六年生の時にお母さんに作ってもらったお気に入りのクリスマスのオーナメントが飾られているドアの前に、二人は立った。

「結城さんの部屋、入りたいな」

 青山理月が、その赤い瞳で夜未の濡れた瞳を見詰めながら聞いた。

「部屋に入ってもいい?」

 すると結城夜未は、何か厳粛な呪文を唱えるかのように理月に言った。


「わたしの部屋に入ってもいいよ」


 さっき見た理月の笑顔を、再び夜未は見ることが出来た。

 その笑顔を見てるだけで結城夜未は幸せな気分になることが出来た。

 結城夜未は、自分で部屋のドアを開けると、理月の手を引いて部屋の中に招き入れた。

 そして夜未は自分で部屋のドアを閉めた。

「ねぇ」

 理月が、背後から夜未の耳元に囁いた。

「もう我慢できない」

 理月の筋肉質な体が、背後から夜未の細い体に抱き付いてきた。

 筋肉で引き締まった理月の腕が、結城夜未の体に絡まってくる。

 大きく開いた理月の手のひらが、ブレザーの制服の上から夜未の胸やお腹や腰の辺りを這い回った。

 ぞわぞわぞわっ、という今まで感じたことのない感覚が、夜未の体の奥を走る。

「我慢しなくていいよ……」

 結城夜未は、思わず湿り気を帯びた声で言ってしまった。

 その言葉を言ってしまったら、自分が理月に何をされるのか、どう扱われるのか、全く想像がつかなかったけれども、でもそれでも構わない、と夜未は思った。

 自分の体にヴァンパイアの欲望がぶつけられるのを想像して、結城夜未の脳は、くらくらと熱く酔ってしまった。

「こっち」

 青山理月の筋肉質の腕に抱きかかえられ、夜未は強引にベッドまで連れて行かれると、その上に押し倒された。

 青山理月は左手だけで夜未の両手首をつかむと、彼女の頭の上で押さえ付けた。

 万歳をしたまま身動きがとれなくなってしまった格好の結城夜未は、自分の上に覆いかぶさっている理月の赤い瞳を見詰めながら、息を吞んだ。

「あ……っ」

 鼓動が早くなり、呼吸が上手く出来ない。

「迷うな……」

 理月が言った。

「結城さんの首って、細くて長くてきれいだから、どこから飲んでも美味しく血を飲めそう」

「やぁ……」

 夜未は理月に褒められたように感じて、嬉しくなってしまった。

「それとも、首じゃなくて、どこか違うところから飲もうか……」

 理月は右手を広げると、夜未の体の柔らかい凹凸を確かめるように、ブレザーの上からゆっくりと手のひらを這わせていった。

 結城夜未は、本当は反応なんてしたくないのに、理月の手のひらに撫で上げられて、その細い体がびくっ、と小さく跳ねてしまった。

「可愛い」

 理月の言葉に、夜未は真っ赤になった。

 理月は右手だけで器用にブレザーのボタンを全て外すと、前をはだけさせた。

 そしてその下のスクールワイシャツのボタンも、上から下へ全て外していった。

「やだ……」

 シャツの合間から、てらてらと汗に濡れた夜未の白い肌が現れた。

「……汗の匂いがしちゃう……」

 嫌がって体を小さくくねらせる結城夜未に、理月が言った。

「いい匂い」

 理月は続けて言った。

「結城さん、処女でしょ? 処女のいい匂いがする。とても美味しそうな匂い」

 そして理月は鼻を夜未の胸元に押し付け、すんすんと鼻を鳴らした。

「早く結城さんの血が飲みたい。本当にいい匂いだから……血の味だって、めちゃくちゃ美味しいに決まってる」

「分かんない分かんない」

 夜未が言った。

 ボタンを全て外したワイシャツを、理月は強引に引き下ろした。

 昨日の素っ気ない真っ白なブラジャーとは違う、小さな可愛らしい花がたくさんプリントされたパステルピンクのブラに包まれた、ちょっと大きめの張りのある胸が理月の目の前に現れた。

 弾力のある白い胸のふくらみには、細くて青い血管が、網の目のようにうっすらと見えた。

「ここに俺の牙を刺して、血を飲んでもいいかも知れない」

 乱れた鼓動で、結城夜未の胸が上下に大きく動いている。

「……ねぇ」

 突然、夜未が聞いた。

「――青山くんって、五十嵐さんと付き合ってるの?」

 理月は少しだけ考え込んだ。

「付き合ってる……? 多分、違うと思う」

「……どうして多分なの?」

「付き合う、っていうのはどういうことか、いまいち分からないんだ」

「じゃあ、青山くんは、五十嵐さんのこと、好き?」

 理月が答えた。

「……どうかな。好きかも知れない。好きじゃないかも知れない。……嫌いではないと思う。多分ね」

「じゃあ、青山くんは、わたしのこと好きになってくれる……?」

 理月は言った。

「結城さんは、可愛いと思うよ。美味しそうとも思う」

「そうじゃなくて」

 結城夜未は言った。

「わたしを、青山くんの特別にしてほしい」

 顔を真っ赤にして、泣きそうになりながら結城夜未は言った。

「特別にしてくれたら……わたしを青山くんの特別にしてくれたら、どれだけ血を飲んでもいいから。私が死ぬまで血を飲み尽くしてもいい。だから、一度でいいから、一言でいいから、わたしに好きって言ってほしい……」

「どうしてそんなこと言うの?」

 青山理月は、少し混乱してしまった。

「昨日会ったばかりなのに」

「分からない。自分でも分からないけど、そう言ってほしい」

 処女の甘い匂いを漂わせて、理月の目の前に血管を透かした真っ白な肌を露わにして、結城夜未は息苦しそうにそう言った。

 青山理月が力を込めたら、あっという間に折れて死んでしまいそうな女の子。

 理月は結城夜未をじっと見詰めた。


   ***


 あれから一時間は経っただろうか。

 ようやくLINEで夜未と連絡を取れた吉野ヶ里すずめと里中くるみは、理月を殺すための杭なんて道端に打ち捨てて、送られてきたURLで示された家に急いで走った。

「――お邪魔します……」

 二人は恐る恐る玄関のドアを開けた。

 玄関には女の子の靴が一足だけ、転がるように置いてあった。

「結城さん……」

 結城夜未の名前を呼び掛けながら、二人は玄関を上がった。

 吉野ヶ里すずめと里中くるみが二階の開けられたままのドアを覗くと、ベッドの上に寝ているクラスメイトが一人いた。

「結城さん……?」

 里中くるみは夜未に声を掛けた。

「……どうしたの? 青山にひどいことされた?」

「……ううん」

 両腕で顔を隠したまま、仰向けに寝ている結城夜未が震えるような小さな声で言った。

「何もされなかった……青山くん、わたしには何もしなかった……」

 里中くるみは小さく息を吞んだ。

「……血も飲まなかったんだよ……」

 そう言って小さく震えている結城夜未の傍らに座り、里中くるみは夜未の髪を優しく慰めるように撫でた。







   第五章 そして、夜



 夜になり、辺りはあくまで静かで、そして闇に包まれていた。

 小さな雑木林のほとりにある幼稚園の入り口で、鉄柵を両手で握りしめながらぼんやりと中を覗き込んでいた五十嵐ひまりに、彼女の背後から青山理月はそっと声を掛けた。

「やっぱりここにいた」

 びくん、と小さく体を震わせて、ひまりは理月を振り返った。

「帰ろうか。お母さんも心配してたよ?」

 ひまりはしばらく黙って理月のことを見詰めていたが、静かにこくん、とうなずくと幼稚園の鉄柵から手を離し、ゆっくりと歩き始めた。

 青山理月は、ひまりと並んで歩き始める。

 二人並んで、黙って歩き続けた。

 十分くらい経った時、我慢できなくなったひまりが理月に聞いた。

「……結城さんの血は飲めたの?」

「飲まなかった」

 理月はそう答えたが、ひまりはきゅっと黙ったままだった。

 しばらく二人は黙って歩いていたが、理月がぽつりと言った。

「結城さんに、俺と五十嵐が付き合ってるのか、って聞かれたよ」

 ひまりは黙って理月の瞳を見詰めた。

「分からない、って答えた」

 理月は続けて言った。

「それから、五十嵐のことは好きか、って聞かれた。――正直、誰かのことを好き、っていう感じはよく分からないんだ。……だから、分からないって答えた」

 前を向いて歩く理月の横顔を、ひまりはじっと見詰めた。

 そして再び黙り込んだ理月に、ひまりが尋ねた。

「その後は? 何か聞かれた?」

「よく覚えてない」

 理月はそう答えた。

「……ただ、結城さんの血を飲むのをやめた。そして、ひまりに会いに来たんだ。そしたら家にいなかったから、ここに来た」

 そして理月はひまりに向かって聞いた。

「どうして俺がひまりに会いに来たか分かる?」

 ひまりは静かに首を横に振った。

「……分からない」

「うん」

 理月も言った。

「俺も、なんでひまりに会いたくなったのか分からない……」

 ひまりは黙って理月の言葉を聞いていた。

「もしかしたら」

 理月は言った。

「もしかしたら、これが好きってことなのかな?」

 ひまりは、理月から目をそらした。

 理月は、ひまりの伏せた顔を覗き込みながら言った。

「ねぇ、五十嵐。俺がいつも五十嵐に会いに行く時のルートを、一緒に辿ってみようか」

「えっ?」

 ひまりが返事をするより早く、理月はひまりの小さな体を抱きかかると、ふわっと空中へ浮かび上がった。

 そのままするするするっ、と一直線に月を目指す。

 ずっとずっと高く。はるかな高さまで飛び上がると、そこから大きく円を描くように理月はゆったりと飛んだ。

「いつもこうやって、夜の街を眺めながら飛ぶんだ」

 大きく目を見開いて理月の首に抱きついてるひまりの顔を間近に見詰めながら、理月は聞いた。

「怖い?」

「怖くない」

 ひまりは答えた。

「今なら、死ぬのも怖くない」

「そう」

 理月は笑顔で言った。

「ひまりは偉いね」

 そして視線で地上の一点を指し示して言った。

「ほらあそこに」

 そこには周りより少し高いマンションが建っていた。

「ひまりのマンションが見えるよ」

 町を一つ囲むくらいの大きな大きな円を描きながら、理月はゆっくりとゆっくりと高度を落としていった。

「マンションの五階のあの部屋の明かり」

 理月が言った。

「あの明かりを目指しながら、俺はいつも飛んでいるんだ」

 夜の風が強く吹いて、耳元でごうごうと大きな音を立てていた。

 その風の音の中に紛れている理月の声を聞き漏らすまいと、ひまりはぎゅっ、と理月の首に抱きついて、一生懸命耳をそばだてた。

「――小さい頃、ヴァンパイアの血に目覚めて、空を飛べたり、血を飲んだりするようになったけど……。それから太陽の光が痛くなって、あんなに好きだった青空が苦手になった。もう俺はこの先一生、直接太陽を見上げることが出来できないから……。だから、今の俺の太陽は、ひまりのあの部屋の明かりなんだよ」

「だけど今は消えてる……」

 ひまりが呟くように言った。

 だけど理月は、その言葉を聞き逃さなかった。

 笑いながら理月言った。

「それはそうだよ」

 理月は続ける。

「今、太陽はあの部屋にいない。俺の太陽は、今、俺のこの腕の中にいるんだから」

 ひまりはもっともっと強く、理月の首に抱きついて、顔を伏せて黙り込んでしまった。

「どうしたの? 体が冷えた? お腹痛くなった?」

「ばか!」

 ひまりが叫んだ。

「なんでそんなこと言うの? なんでそんなこと、言うんだよ!」

 理月は笑いながら、ひまりを抱いて飛び続け、ゆっくりとひまりのマンションの玄関前に降りると、「おやすみ」と一言だけ言って、再び夜の空へと飛び立った。

 暗い暗い夜空の中へ、段々と点になっていく理月の姿を、っひまりはずっと見つめ続けていた。










   エピローグ



「おはよう」

 昇降口で里中くるみの声に振り返ったひまりが、笑顔で立っている友達桟人の姿を見付けた。

「おはよう」

 ひまりが三人に挨拶を返す。

 今日は三人とも、ほとんど同じ時間に登校した。

 他愛もない話をしながら、四人は教室に入った。


 クラス担任の石井先生が、ホームルームよりも全然早い時間に突然教室に現れた。

 そして、吉野ヶ里すずめと里中くるみを呼び出した。

 丸太を路上に不法投棄した件を問い詰めるためだ。

 先生に連行される様子を呆気にとられて見詰めていたひまりに、結城夜未が声を掛けた。

「昨日、思ったんだ」

 ひまりは夜未を振り返る。

「わたしたち、きっと一番の友達になれると思う。お互いの気持ちが、とてもよく分かる気がする」

 ひまりはうなずいた。

「そうだね。わたしもそう思う」

 ひまりが窓際に行って、校庭のの上空を見詰めた。

 雲の多い、ちょっとだけ曇り空、っていう感じの今日の天気。

 その中を、ゆっくりと大きな円を描いて飛んでいる人影があった。

 夜未も窓辺に行って、ひまりと並んで空を見上げた。

「一つ、秘密を打ち明けてもいい?」

 ひまりが、誰にも聞こえないくらいの小さな声で言った。

 結城夜未がひまりを見ると、ひまりはじっと夜未の瞳を見詰めていた。

 ひまりの顔が、みるみる赤くなる。

「わたしね、青山に血を飲まれてる時――」

「うん」

「めちゃくちゃエッチな気分になってた」

「分かる!」

 結城夜未が、笑顔で言った。

「あれ、やばいよね」

「うん、やばい!」

 空からゆっくり、大きな円を描いて、青山理月が学校へ向かって飛んできていた。

 あれだけたくさん飛んだのだ。きっと喉を乾かしているだろう。

 二人の可愛い処女の女の子は、理月に血を飲まれるところを想像して、可愛らしい悲鳴を上げた。

                                    了



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