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前編

   プロローグ 血が飲みたいから好きって言った



 梅雨晴れの、少しだけ水気を含んだ涼しい風が吹いている日だった。

 十年前。

 同じようなデザインの一戸建てが建ち並ぶ団地の中にある、昼下がりの幼稚園。

 空を見上げると、園舎の屋根の上には真っ青な空しか目に入らなかった。

 きゃあきゃあという幼い子供たちの笑い叫ぶ声が、本当の方のアマゾンに響く原色の大きな鳥の鳴き声のように響いていた。

 少しだけ苦手な太陽の光に朝から照らされて、青山・コンスタン・理月りつきはちょっと疲れていた。

 そして、お腹が減っていた。

 いつものお母さんのお弁当は食べ終わったばかりだったはずなのに。

 いつもと少し違う、不思議なお腹の減り方だった。喉の奥の方からお腹の奥にかけて、からからと干からびてしまいそうな……、ぴりぴりと焼けるような……、ただ単に喉が渇くというのともちょっと違う。

 お弁当の時間も終わって、そろそろお昼寝の時間、という頃。

 理月は、昼下がりの白い園庭をぐるりと見回した。

 すると、女の子が一人、遊び足りなそうな目で理月の方をじっと見ていた。白いライオンのプリントが半分はげ落ちた、黄色い「なかよしサッカーボール」(ゴム製のぶよぶよした小ぶりのボールだ)を胸元に抱えた女の子と、ぴったりと目が合った。

 彼女は、理月の家の近くに建っている高層マンションに住んでいる女の子だ。理月は家の近くで彼女がお母さんと手をつないで歩いているのを何度か見掛けたことがあった。

 小さい体に似合わないくらい長く伸びた黝い髪の毛がきれいなその子は、名前を五十嵐ひまりといった。

 早生まれのため他の子より一回り小さな体をパステルオレンジのスモックで包み、園庭の端にちんまりと立って理月をじっと見詰めている。

 理月はひまりの方にてくてくと歩いて行った。

 そして五十嵐ひまりのすぐ近くに立って、そっと声を掛けた。ひりひりと喉が熱い。自然と声が小さくなる。

「ねぇ、いいもの見せてあげようか?」

 理月は、少し長めの前髪の間から、その赤い目でひまりの黒い瞳を覗き込んで言った。

 ひまりは、ふい、と足元に目をそらし、呟くように答える。

「……別に」

 ひまりはついさっきまで理月のことをじっと見詰めていたのに、いざ理月が近寄って声を掛けたら、急に素っ気ない態度になった。

 理月は戸惑うしかない。

 友達でもない子に、ましてや女の子に声を掛けるなんて、とても勇気のいることだ。

 この子は絶対自分に興味があると思ったのに、勇気を出していざ声を掛けたら、知らんぷりされた。

 理月は、喉の渇きがひどくなるのを感じた。

 だけど、このまま何事も無かったかのように振る舞うことも出来ない。

「ぜったい、ぜったいびっくりすると思うんだけどなぁ~」

 理月はそう言って食い下がったが、ひまりは逆に顔をますます背け、うつむいてしまった。

[びっくりしないし……」

「……」

 そう言われると、元々人と話すのが苦手な理月はそれ以上何も言うことが思い浮かばなくなってしまった。

 黙っているひまりと一緒に、園庭のすみっこで、理月も一緒に黙るしかない。

 炎天下、二人の園児は固まってしまい、身動きが取れなくなってしまった。

 お昼寝に備えて、園庭の子供達が、三々五々園舎の中に戻って行く。

 理月がふとひまりを見やると、かしげた頭から長い黒髪が背中に流れ落ちて、彼女の小さな可愛らしい耳と白く細い首が露わになっていた。

 耳は何故か真っ赤に染まって、白い首はしっとりと汗をかいて昼光に淡く光っている。

 理月の喉が、ごくりと鳴った。

 本能で分かった。

 理月の乾ききった飢えを満たすには、女の子が必要なのだと。

 それにはやはり、この女の子に「いいもの」を見せる必要があると理月は思った。

 沈黙にくじけている場合ではない。

「ね、ね、ね!」

 理月はぱっとひまりの正面に回った。

「いがらし! 見てみて!」

 急に名前を呼ばれて思わず顔を上げたひまりの目の前で、理月はバランスを取るように両腕を広げ、すぅ、と深く息を吸うと目をつぶった。

 そして、右に小さくステップを踏んだ。

 一瞬、二人の周囲の空気だけが夜気を含んだようにひやりと冷えて、一切の風が止まった。


 理月の右足が、わずかに宙に浮いている。


 それから理月は、左にステップを踏んだ。

 驚くことに、つま先だちの左足の先も、やはり宙に浮いていた。

 そして理月はふにゃふにゃの円を描くコンパスのように、微妙にバランスを崩しながらも空中にステップを踏んで、ひまりの周りをぐるっと回り、地上十五センチの空を飛んで見せた。

 ほんの十秒足らずの「飛行」は、よろけるように地面につまづいて終わった。

 汗だくで転んだ理月は、目を見開いて自分を見下ろすひまりに向かって言った。

「ね! すごいでしょ!」

 しかしひまりの答えは、理月の想像したものとはまるで違っていた。

「……べつにぃ」

「うそだぁ!」

 理月にしては珍しく、思わず叫んでしまった。

 喉の奥がひりひりと焼けて、熱く乾いている。

 ひまりの目には、たった十五センチの空中浮遊は、大したものとは映らなかったみたいだ。

 幼稚園児にとっては、ひょっとしたら駆けっこが速いほうが、もっと驚いてもらえたかも知れない。

 理月の体から、ぐったりと力が抜けた。

 我慢しきれない飢えに、理月は言った。

「もういいから、いがらし、血を飲ませてよ」

 思ってもいなかった急な頼みに、ひまりは驚いた。

「や、やだぁっ!」

「なんでぇ?」

 もっともなひまりの拒否に、理月が文句を言う。

「え~?」

 そんな風に文句を言われるとは思っていなかったひまりが、逆に戸惑ってしまった。

「血とか、だって、こわいもん!」

「怖くないから!」

 何の根拠もなく、理月は言った。

 ひまりが、不安そうな顔で聞いた。

「い、痛くするんでしょ?」

「最初だけ、ちょっとちくっとするだけだから!」

 理月だって血を飲むのは初めてなのに、余りの飲みたさに適当なことを言った。

「……ほかのだれかに頼めばいいじゃん!」

 なおもひまりが嫌がるので、理月は途方に暮れてしまった。

「なんでわたしなの?」

 ひまりにそう言われても、特に理由なんてなかった。

 ひまりの白い首を見て、その首に噛み付きたい、という欲望が湧いてきてしまっただけなのだ。誰でも良かったかも知れない。

 だから理月は、ひまりに向かって、何も言えなかった。

「ねぇ、どうして?」

「え~~っと……」

 梅雨晴れの真っ青な空から風が吹いて、ひまりの長い髪の毛がふわりと波を打った。

 彼女の白く細い首が、再び露わになる。

「……す、好きだから」

 喉をぐびっと鳴らしながら、理月は言った。

 ひまりが思わず声を上げる。

「……えっ?」

「いがらしのことが、好きだから、かな」

「……へぇ~……ふぅん……」

 ひまりは理月から視線をそらすと、俯き、足先で土をざりざりといじりながら言った。

「そうなんだ。ふぅ~ん……」

 理月は、空腹で頭がくらくらしながら厳かに頷いた。

「いがらしのことが、好き」

 ひまりは、こぼれる笑顔を理月に見られないように、更に顔をそらした。

「――まぁ、いいけど。血、飲んでも、いいけど」

「ほんと?」

 理月は立ち上がり、ひまりの手を取って叫んだ。

「うれしい! 今日のことは俺、忘れない! 一生忘れないから!」

「わすれない? いっしょう?」

 理月はひまりの体をぐいっと自分に引き寄せると、彼女の黒く長い髪をかき上げ、その幼い白い首を露わにした。

 理月は言った。

「――ねぇ、いがらしの首、もっとよく見せて……」

 自分の事を好きと言ってきた男の子に抱き締められながら、どっどっどっ、と、今までにないくらい強くひまりの小さな心臓が脈を打った。

 ぎゅっと体を固くし、頭を傾け、ひまりは少し震えながら自分の首を理月に差し出す。

「――こわい」

「最初だけだよ」

「こわいよ……」

「じゃあ、目をつぶってて」

 理月は右腕をひまりの体に回すと、顔の方へ腕を伸ばし、小さな手で彼女の目を塞いだ。

「ね? これで見えない……だから、血を飲んでもいいよね……?」

 ひまりがぶるっと体を震わせた。

「あおやまくんの手、つめたい」

「ほんと?」

 理月は言った。

「いがらしの血を飲んだら、温かくなるかも」

 理月の言葉を聞いたひまりは、口元から笑みがこぼれるのを止められなかった。

 ひょっとしたら、さっき「好き」と言われた時より嬉しかったかも知れない。

「へんなのー」

 くすくすとひまりが笑った瞬間、理月の口から漏れる息がひまりの首をくすぐり、すぐその後にぷつっ、と二本の小さく鋭い犬歯が柔らかい肌を突き通る痛みが襲ってきた。

「ひぅっ!」

 ひまりは小さな声を一声上げたが、すぐにぎゅっと口をつぐんで我慢した。

 園庭の端で理月に全身を抱き締められ、ぎゅっと体を押し付けられて目隠しをさせられ、首に噛み付かれて血を吸われているなんていうこのあり得ない状況を、絶対誰にも見られたくなかったのだ。

 ひまりはすごく恥ずかしかったというのもあるが、何よりこの事は二人だけの秘密にしておきたかった。

「ん、ん、ん……」

 ひまりの首に歯を突き通し、こぼれ出て来る血を夢中で飲みながら、理月は鼻で息をしていた。

 その息がひまりの肌をわずかにくすぐり、首に歯を突き立てられている痛みと混ざり合ってひまりの頭をくらくらと酔わせた。

 どれくらいの時間が経っただろう。

 頭が軽くもうろうとして、とろんと眠いような起きているようなふわふわとした感覚の中、ひまりはようやく理月から解放された。

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 血を飲んでいた方の理月も、少し息が乱れていた。

 ひまりがぼんやりとした視線を理月に向けると、理月が言った。

「――いがらしの血、すごいおいしかった」

 そして理月は満足げな笑顔を浮かべ、ひまりの長い髪を撫で下ろしながら、続けて言った。

「また次も、飲ませてね」

「……ん」

 ひまりは頬を紅潮させ、少し呆けたような目をして、深く頷いた。

 昼下がりのありふれた住宅街の真ん中、市立の幼稚園の園庭の隅っこで、小さな男の子と女の子が秘密の約束を交わしたのだった。

























   一章 クラスの女子の血が飲めない



 五十嵐ひまりが自室の机でぼんやりと高校の宿題をやっていると、七階ベランダに面した窓が、こんこん、と軽くノックされた。

(……無視!)

 ひまりはそう決め込むと、再び机に向かう。しかしどうしても窓の方が気になって、元々気の入っていない宿題に、更に身が入らなくなってしまった。

(むかつく……)

 こんこんこんこん。

 するとノックの方もノックの方で、少しだけいらついたように連打された。

(無視無視。無視ったら無視!)

 ひまりはそう思うのだが、自分でも気付かない内に、視線は何度も厚いカーテンの方へ泳いでしまう。

 夜の十時過ぎ、それまで誰もいなかった七階のベランダの外でノックする男の子が気になって仕方ないのだ。

 それでもひまりが無視を決め込むと、それから後はノックが一切されなくなってしまった。

(……え?)

 五十嵐ひまりは、急に不安になってしまった。

 ひょっとしたら、もう男の子は帰ってしまったかも知れない。

 もしかしたら、もうここには来なくなってしまうのかも知れない。

(別にいいし。あんな奴、来なければ来ないで別にいいし!)

 そう思ってひまりは机の前で我慢をしていたのだが、それも三分が限界だった。

「もう!」

 ひまりは自分でも正体の分からないいらいらを口にすると、ばっと椅子から立ち上がって窓に向かってずんずんと突進し、カーテンをばっ! と引いて窓を開けた。


 がらららっ! とベランダに面した窓が勢いよく開けられ、ベランダで夜空を見上げていた青山・コンスタン・理月は音がした方を振り返った。

 理月の茶色い柔らかい髪が、ふわりと揺れた。

 理月は、少し長めの前髪の間から、深く澄んだ赤黒い瞳で眩しそうに背後を見詰める。

 窓を開け放った五十嵐ひまりが、そこにはいた。

 ひまりは黒髪を短く切ったベリーショートに、学校のジャージ姿というまるで色気のない出で立ちで、逆光の中、仁王立ちしている。

「五十嵐?」

「――いた!」

 不安げな瞳をしていた五十嵐ひまりが理月を見て、ほっと一息吐くと、急に怒ったような顔をする。

 だが理月はひまりの怒りに心当たりが無かったので、学校で何か嫌なことでもあったのかな、と思っただけだった。

「五十嵐、ほら、こっち来なよ」

 理月はひまりの手首をつかむと、ぐいっ、と自分の方に彼女を引き寄せた。

「いたっ!」

 ひまりが小さく悲鳴を上げる。

「あぁ、ごめん。――俺、ハーフヴァンパイアだから力結構強いんだよね」

「もう! 折れたらどうすんの?」

 ひまりが口をとがらせて文句を言ってきた。

「えっ? えーと……、その……、じゃあ、責任取って救急車を呼ぶよ」

「――そんなの、全然責任取ってないじゃん!」

 理月は、そうかな? と首をかしげながら言った。

「そんな事より、ほら見て見て! 月が綺麗だよ。雲が全然無い!」

 ひまりは理月の視線を追って、夜空を見上げた。

 駅から少し離れたこの辺りは高いマンションもそんなになくて、夜の空気に冷えたベランダの手すりをつかんで見回すと、一軒家やアパートや駐車場が広がる地上の上にぐるりと広い夜空が広がっていた。

 漆黒の空の中、ぽつんと白く輝く月はくっきりとした姿を見せていて、目をこらせばクレーターの一つ一つまで見えそうだった。

「うん、まぁ……」

 涼しく心地よい夜風に、ひまりの怒りが少しだけ収まる。

 月をちゃんと見たのはいつ振りだろうか、とひまりは思った。ひょっとしたら、小学生の時の「冬の空を見てみよう」の宿題をやった時以来かも知れない。

「五十嵐が全然部屋に入れてくれなくて他にやること無いから、月を眺めてたんだ」

 理月は言った。

「そしたら月が思ったより全然綺麗で、普通に見入っちゃってた」

 楽しそうに笑う理月に、再びひまりが頬を膨らませて言った。

「不公平!」

「え、な、何が……?」

 理月が思ってもみなかったひまりの言葉に、ただただ困惑した。

 不公平ってどういうことなのか、理月にはまるで分からなかった。

 確かに五十嵐ひまりは普通の人間だし、その一方で青山・コンスタン・理月はハーフヴァンパイアだ。

 体力も筋力も全然違うし、理月はマンション程度の高さなら空を飛べたりもする。

 不公平と言えば不公平だが、そんな事は今までの十年間ずっとそうだったわけで、今の今になって急に言われても、という思いが理月にはあった。

「不公平って……、どこが?」

「知らない!」

「し、知らないって……。――不公平って言い出したのは五十嵐じゃん……」

 理月は戸惑いながら、そう言った。

「分からないんだけど、俺、何か五十嵐を怒らせることしたかな」

「……怒ってないし」

 むくれてぽつんと言うひまりに、理月は聞いた。

「ほんと? どう見ても怒ってるんだけど」

 いまいちひまりの言葉が信じられない理月は、もう一度ひまりに尋ねた。

「……俺のせい?」

「……」

 黙っているひまりに、理月が言った。

「五十嵐、俺の目、見て?」

 理月は続けた。

「五十嵐が嘘をついてないって言うんだったら、目をまっすぐ見れるよね?」

 理月がそう言うと、渋々といった感じでひまりは顔を上げた。

「……!」

 ひまりが小さく息を吞む。

 理月の透き通った深紅の瞳が、ひまりを見つめていた。

「……んぅ……」

 理月の深紅の瞳に見詰められて、ひまりは目が離せなくなってしまった。

 理月の澄んだ瞳はどこまでも深く、その奥に夜空が広がってるように思えた。

 理月の瞳をじっと見詰めていると、きらめく星々や白く輝く月がその奥に見えるような気がしてきて、ひまりは目を離せないのだ。

「……あ…」

 幼い頃からそうだった。

 理月に血を飲まれた後、頭がぽやっとして、お腹の奥の方がむずむずして、ひまりは理月の目をぼんやり見詰めることがあった。

 自分を見返している理月の赤い宝石が欲しくて、ひまりは指で理月を目つぶししたこともあった。

 今のひまりにはもう、そんな事は出来そうにもない。

 理月にうかつに触れてしまったら、何かを壊してしまいそうな気がして、とても触れられないのだ。

 そういうところも不公平だ、とひまりは思った。

「五十嵐……」

「…………」

 ひまりは、自分の頬が段々と熱を帯びてきているのを感じた。

 その事をごまかすように少し慌てて、ひまりは言った。

「……ねぇ、分かった?」

「……何が?」

 理月が聞き返すと、ひまりが言った。

「わたしが嘘をついてるかどうか、分かった……?」

 そうひまりが聞くと、理月はうーん、と考え込み、そして言った。

「えーっと、分からない……かな……」

 そして、理月は続けて言った。

「目を見ただけで嘘をついているかどうかなんて分かるわけなくない? 超能力者じゃないんだからさ。そんな、非日常的なことなんてあるわけないって!」

 ハーフヴァンパイアが、何かとぼけた事を言っている。

「えー、何それ!」

 ひまりは思わず文句を言った。

「いいから! ほら、こっち!」

 理月はひまりの怒りを誤魔化すように彼女の二の腕をつかむと、スニーカーをベランダの床に脱ぎ捨て、部屋の中に連れ込んだ。

「いたっ! もう、なに?」

 理月は半ば強引にひまりを引っ張ると、そのまま真っ直ぐいつもの彼女のベッドのところまで連れて行った。

「――あ、や……」

 ひまりが小さな声を漏らす。

 理月が言った。

「お腹空きすぎて、俺、もう無理だから」

 理月に腕を引かれ、ひまりはそのまま、ぼふっ! とベッドの上に倒された。

「ひゃんっ!」

 ひまりは小さな悲鳴を上げる。そしてすぐに口をつぐんだ。

 奥の部屋にいる母親に声を聞かれないかだけが心配だった。

 ひまりは柔らかいベッドの上に押し倒され、理月に乗りかかられる。

「……やぁ」

 細い両腕をつかまれて、ひまりの細い体はベッドに押し付けられた。

 一人で寝ている時よりも深く、ひまりの体はマットレスに沈み込んだ。

 ひまりはまるで身動きが取れない。ひまりの鼓動はみるみる早まり、顔は真っ赤に染まっていった。

「え、何、何……?」

 ひまりが聞くと、理月は答えた。

「分かってるでしょ? 今から五十嵐の血を飲むんだよ。飲ませてくれるよね? 俺、お腹が空きすぎて苦しいんだ……」

 理月の言葉に、ひまりはいやいやと首を振って答えた。

「そ、そんな急に言われたって……嫌だよ。こんな無理矢理なんて、いや」

 ひまりの言葉に、理月は驚いて言った。

「え? 本当にいや?」

 理月の下で、ひまりは真っ赤になった顔を見られないように横を向きながら、小さくうなずいた。

「え、だって、こないだまで飲ませてくれてたじゃん……」

 ひまりは血を飲ませてくれるものだと、すっかり安心しきっていた理月は、途方に暮れてしまった。

「前まではそうかも知れなかったけど、今日はいやなの!」

「そんな、急に言われても……」

「急に来たのは青山でしょ!」

 理月は、ベッドの上のひまりを見下ろした。

 顔を背けているひまりは、細い首につけられた咬み跡を、ちょうど理月の目の前にさらしていた。

 少しだけ乱れた呼吸に、白い首がゆっくり上下に動いている。

 理月の喉がごくりと鳴った。

「そんなにいやならさ――」

 理月は言った。

「自分で逃げなよ。俺の手を振り払えばいいじゃん?」

 理月の言い草に、ひまりが反論する。

「――だって、青山の力が強くて出来ない!」

「俺、ほとんど力抜いてるよ?」

「そんなこと無いもん! 馬鹿力だから分かんないだけ!」

「え? そ、そうかな?」

 理月は本当に力を抜いていたので、いくら女の子のひまりでも理月の手を振りほどくことは出来ると思っていたのだが、ひまりが無理だと主張するので理月はうーん、と考え込んでしまった。

 ただ、ひまりは無理無理言うだけで、全然腕を振り払おうともがいたりしていないことだけは分かった。

 理月は言った。

「ね、五十嵐って、本当は俺に血を飲まれるのを待っていたんでしょ?」

「はぁっ?」

 ひまりは思わず理月を見返した。

「ま、待ってるわけないじゃん! 何言ってるの?」

 ひまりの反論に驚いて、理月は言った。

「え? でも五十嵐って、俺が来る時間には必ず部屋にいるし、体も綺麗に洗って待ってるよね? お風呂に早く入って、髪も洗って乾かして、綺麗な体で、下着だって買ったばかりの新しいの着けて。――で、そうやっていつも俺のこと待っているんだもんね?」

「――そ、そんなわけないじゃん!」

 ひまりは思わず大声を出してしまった。母親に聞かれるかも、という心配はどこかに吹き飛んでしまっていた。

「青山は、自意識過剰なんじゃないの? わたし、いつもお風呂に入るのはこれくらいの時間なんだから! 別に意味なんてないんだから!」

 ひまりにそう断言されて、理月は自分の考えに自信が無くなってしまった。

「そうか、俺の勘違いだったんだ……。なんだ……五十嵐って俺のために綺麗にしてくれてるんだ、可愛いな、って思ってたのに、違ったんだ……」

 理月がそう言うと、ひまりはまた不満気に理月の瞳を見詰めてきた。

「そ、そんなこと言って! 今日はいつも来る時間よりめっちゃ遅く来たじゃん! そんなこと言ってたって、どうせ青山は他の女子のとこ行ってたんでしょ?」

「う~ん、まぁ……」

 理月は悪びれもせず、正直に白状した。妙な正直さは、理月の悪徳の一つではあった。

「ここに来る前に里中さんのとこに行ったけど、血を飲ませて、って頼んだら普通に断られた。お腹が空いてつらかったから、そのまま五十嵐のとこに来たんだ」

「もう! 最低なんだけど!」

 ひまりに非難され、理月は心外だ、という顔をして言った。

「別に変なことしてないだろ! 俺はただお腹が減ったから、食事をしたいだけなんだ。なのに里中さんは、『彼氏がいるから無理』って言うから、俺は『いいじゃん、別に減るもんじゃなし』って言ったら、普通にキレられた」

 理月としては正論を言ったつもりだったのだが、理月の言葉は里中だけではなく、ひまりまで怒らせてしまったようだった。

「五〇ccは確実に減るっての! 青山、普通にくずなんだけど?」

「そ、そこまで言う?」

 理月としては、「帰りにマック寄っていかない?」くらいのノリで言っているのだが、クラスの女子からは意外と受けが悪いのだった。

 その時、理月のお腹がぐるるるるるる、と鳴った。

「もう無理。お腹が減って、お腹が減って、もう我慢出来ない……!」

 そう言うと理月は、自分をにらみつけるひまりの瞳を覗き込んだ。

 ただでさえ赤く頬を染めていたひまりが更に真っ赤になってしまい、思わず顔を背けると、彼女の白く細い首が理月の目の前にさらされた。

 その白い肌は緊張のせいか軽く汗ばんで、まるで白い蛇のお腹のようにてらてらと部屋の明かりを鈍く反射していた。

 ひまりの白い首には、赤い咬み跡がぽつぽつと二つ付いていた。

「俺の咬んだ跡、幼稚園の頃からずっと五十嵐の首に二つだけ付いてるよな」

 理月が感慨深そうに言った。

「え? なに?」

「不思議じゃない? 俺も五十嵐も高校生になって、体だって成長したのに、五十嵐の首に付いてる咬み跡がずっと二つだけって」

「……あ、青山が何を言ってるか分かんない……」

「だからさ、普通だったら、何箇所も跡が出来そうじゃん? 俺の口だって、高校生になって子供の頃よりずっと大きくなってるし、五十嵐の首だってすらって伸びてるし。なのに咬み跡はずっと二箇所しか無いってことはさ、俺たちの体の成長するスピードがぴったり一緒だったってことだよ」

 理月は、何か重要なことを発見した、というテンションでそんな事を言ったのだが、ひまりはいまいち理月の言いたいことが分からなかった。

「――青山が言いたいこと、ちょっと分からないかも……」

「だからさ、俺たちの体の相性って、ずっとぴったりだったってことだよ」

「ねぇ、きもい! 体の相性とか言わないで!」

「え? き、きもい? うそ!」

 理月は、ただ単に自分とひまりが仲良しだってことを言いたかったのだが、そんな言葉をひまりから言われてしまい、とても戸惑った。

 だけどひまりは、相変わらずその白い首を理月の方に向け、赤い咬み跡を露わにしたままだった。

 理月はもう何を言ったらいいのか分からなくなってしまい、一言だけ言った。

「もう飲むね」

「ま、待って!」

「え? 何? どうしたの?」

 何度もお預けをくって、理月は戸惑いながら言った。

「――見えちゃう! 見えちゃう!」

 ひまりは慌てたように言った。

「? 何のこと?」

 理月が聞くと、ひまりはカーテンが風で揺れる窓の方に視線をやって、恥ずかしそうに言った。

「だって、窓が開いてる! 見えちゃうよ!」

 理月は、ひまりが何を気にしているのか分からなくて聞いた。

「だってここ、七階だよ? 誰にも何も見えないよ?」

 理月はそう言ったが、ひまりはなおも恥ずかしがって、言った。

「そんなの分からないじゃん! 近くにはもっと大きいマンションだってあるんだし、もしかしたら誰かが私たちのこと見てるかも知れないし!」

 ひまりが何をそんなに恥ずかしがってるのか、理月には分からなかった。

「だって、俺はただ食事をしてるだけだよ? 別に見られたって構わないじゃん」

「は、恥ずかしいの! 青山はわたしのことぎゅってして、首に口を付けて、そうやって血を飲むんでしょ? そんなところ見られたら、わたし、もう学校行けないよ!」

 訳が分からないという風に、理月は言った。

「何で食事を見られると、ひまりは学校に行けなくなるの? だって俺が五十嵐の血を飲んでることなんて、幼稚園の頃からみんな知ってるし、別に珍しいことでも何でもないじゃん」

「――もう最悪!」

 ひまりがそう叫んだが、理月は彼女の耳元で我慢出来なさそうに言った。

「本当に最悪なのは、今ものすごく腹が減ってることだよ? 余計な心配なんかしないで。とにかく俺は、誰が何と言おうと、今から五十嵐の血を飲むから。いいよね?」

「……っ」

 理月はそっと口を開け、鋭い犬歯をむき出しにして、ゆっくりとひまりの首に近付けた。

 ひまりはその気配に息を吞み、ぎゅっと目をつぶる。

 直後、ひまりの首の薄い皮膚を理月の歯がぷつっと突き破る感覚があり、ひまりは思わず声を漏らした。

「あっ……」

 そして、びくっと軽く身震いしたひまりの首を、理月はその口で抑え込んだ。

 温かい血が、首に開けられた小さな二つの穴からどくどくと漏れ出しているのをひまりは感じた。

 理月はひまりの首にむしゃぶりついて、その流れ出る血を夢中ですすった。

 理月に全身を押さえ付けられたひまりは、段々と頭がぼーっとしてきて、酔っ払ったようにくらくらと気持ちよくなっていた。

 幼稚園児の時、初めて理月に噛みつかれ、血を飲まれた時も、不思議な気持ち良さがあったけど、ずっと血を飲まれ続けてきて、その気持ち良さも段々と強くなってきているような気がする。

 そして今、高校生になって、その気持ち良さが急に強くなってきていた。

 理月に血を飲まれる度に、感度が上がっているような気がするのだ。

 ひまりは、その内自分の方から、理月に自分の血を飲んで欲しいと言ってしまいそうな気がして、怖くて怖くて仕方がなかった。

 そして今日、いつもより少しだけ深く歯を突き立てられた首の傷は、痛いというよりなんだか気持ちよくて、もっと深くまで突き刺して欲しいとさえ、ひまりは思った。

 その痛みは軽い電流となって、首から体の奥の方にぴりぴりと走って行き、特にお腹の奥の方に、じんじんと響くような熱がこもっていった。

 ひまりは恥ずかし過ぎて止めたいのに、両脚が勝手にびくびくと痙攣して、それが理月にばれてしまわないかとますます顔が真っ赤に染まっていった。

「……やぁ……やだぁ」

 ひまりの部屋にはしばらくの間、ひまりの口から漏れる甘い息遣いと、理月が彼女の血を吸う微かな水音だけが静かに流れていた。


「……ごちそうさま……」

 どれくらい時間が経ったのか、ひまりが気が付くと、すぐ目の前に自分を見詰める理月の顔があった。

「ふぁ……」

 声にならない吐息のような声を上げて、ひまりは理月の目を見詰め返した。

「……大丈夫?」

 理月は理月で、夢中で血を飲み終わってみたら、ひまりが汗をかいてぐったりと眠り込んでしまったので心配になっていたのだ。

 最近、こういう事が多い気がする。

 ただ、ひまりはいつも「平気」と言ってくれるので、理月はひまりのその言葉に甘えてしまっていた。

「大丈夫? いつもより少し多めに血を飲んじゃった……」

「ん……平気……」

 ひまりは、ぼんやりとした瞳で頷いた。

「その……、すごく美味しかったよ? ありがとう」

 理月はそう言うと、ひまりのショートカットの髪の毛を丁寧に撫でた。

「やめて……」

 ひまりは口ではそう言ったが、頭を撫でられても嫌がる素振りは見せず、両手を高鳴る胸の前で組んで、照れたような、我慢しているような、不思議なくしゃくしゃの笑顔になってしまった。

(このまま撫でてても、怒られないかな……?)

 理月は少し迷いつつ、それでもひまりの頭を撫で続けた。

 しばらくベッドの上で二人が見詰め合っていると、突然部屋のドアがこんこん、とノックされた。

「理月くん、来てるー?」

 ドアの向こうから、ひまりの母親ののんびりとした声が聞こえてきた。

 ひまりは、ばっ! と理月から離れた。

「晩御飯を多めに作ったから、一緒にご飯食べていきなさいよ。お母さんのところにもライン送っておいたから! お母さん、食べてきていいよって言ってたよ?」

 そんな母親に向かって、ひまりは真っ赤になって叫んだ。

「――お、お母さん! わたしが部屋にいる時、急に声を掛けないでっていつも言ってるじゃん!」

 ひまりの言葉に、ひまりの母は言った。

「だからノックしたじゃない。怒らないで、ひまりちゃん。いつもそう言われてるから、今日は二人がし終わるのを待って、しばらくの間、声を掛けないでおいたんじゃない」

「し、し終わる? し終わるってなに!」

 ひまりはますます顔を赤らめてしまった。

「で、時間的にそろそろいいかなって思ったから、ノックしたんだよ? お母さん、ちゃんとひまりちゃんの言うこと守ってたんだからね?」

「タ、タイミング計らないで! キモい!」

 理月は、そんなひまりに頭から布団をぼふっ、とかぶせ、言った。

「血を飲まれて、くらくらして、気分悪いでしょ? しばらくここで一人で休んでなよ。お母さんの相手は、俺がするからさ」

 そう言うと理月はベッドから立ち上がり、ドアの方へと向かった。

「ゆっくりしてて」

 理月はひまりを振り返ってそう言うと、ドアを少しだけ開けた。


 ドアの前には、五十嵐ひまりのお母さんが笑顔を浮かべて立っていた。

 きれいな黒髪を胸元まで伸ばし、ラフな紺色のTシャツに白いロングスカートをはいている。

 ひまりは今ではショートカットだが、小さい頃のまま髪を伸ばし続けていたら、きっとこんな黒髪ロングの似合う美人になっていたんだろうな、と思わせるくらい若いお母さんだった。姉妹と言っても通じそうなくらいだ。

「こ、こんばんは。僕が来てるって、よく分かりましたね?」

 理月は少し緊張しながら言った。

 いくら幼稚園からの幼馴染みで、小さい頃からひまりの家に時々遊びに来ていたとはいえ、年頃の女の子の部屋でその親と面と向かって話すというのは少なからず緊張するものだ。

 ひまりの母は、くすくすと笑って言った。

「理月くんが本当に来てるかどうか分からなかったけど、今日は朝からひまりちゃんがずっとそわそわしてたから。理月くんが来るタイミングなのかもなって思ってたんだよ」

 母親の言葉を聞いていたひまりは、布団から顔を出して大きな声で言った。

「そわそわなんて、してない!」

 ひまりの母は、そんな娘の反論なんて気にせず、理月を見上げて言った。

「理月くん、また少し大きくなったんじゃない? かっこよくなって、ひまりちゃんがそわそわするのも分かるな」

「だから! そわそわしてない!」

 理月は二人の女性に挟まれて、微妙な居心地の悪さを感じながら言った。

「あの、本当にご飯をお呼ばれしていいんですか?」

「もちろん! 今日は餃子をたくさん作ったの。にんにくが入ってない、特製野菜餃子」

「うわ、ありがとうございます!」

 理月がお礼を言うと、その背後で布団の中から顔を出したひまりが文句を言ってきた。

「またあの美味しくない餃子?」

 しかし理月は、ひまりの言葉には構わず彼女の母親に向かって言った。

「僕、あの餃子大好きです」

「冷めない内に、どうぞ」

 ひまりの母はそう言うと、理月の手をぎゅっと握って理月を廊下へ引っ張り出した。

「さぁ、機嫌の悪い子は放っておいて、あっちへ行きましょ」

「あ、はい」

「ばぁか!」

 ひまりの部屋のドアが閉じられる瞬間、二人に悪態をつくひまりの声が廊下まで聞こえてきた。


   ***


 かちゃ、とドアが開く音がして、理月が背後を振り返ると、そこにはひまりが立っていた。

 ひまりは、ダイニングキッチンで餃子を頬張る理月一瞥すると、ぼそっと言った。

「まだいた」

「餃子、美味しいよ?」

 理月がそう言ってひまりを食卓に誘うと、ひまりの母が続けて言った。

「理月くん、たくさん食べてくれて嬉しい。ひまりちゃんも早く食べないと、餃子無くなっちゃうよ?」

 ひまりは黙ってテーブルに就いた。

 理月はひまりの前に置いてあった茶碗を手に取ると、椅子を立ってテーブルの横にあった炊飯器からご飯をよそい、ひまりの前に置いてあげた。

「はい、どうぞ」

「人んちの炊飯器、勝手に使わないで」

「よそってもらって、何、その言い方」

 ひまり母が注意したが、ひまりはぷい、とそっぽを向くと、むすっとした顔で椅子に座った。

 その時ひまりは、母親にさっき出来たばかりの赤い咬み跡が見えないように、少しだけ顔を背けて食卓に着いた。

「いただきます」

 ひまりは小さな声で言った。

 そして、男の子向けのちょっと大ぶりの野菜餃子を半分頬張った。

「ね、美味しいよね?」

 理月がそう言うと、ひまりはぼそっと答えた。

「知らない」

 そんなやり取りを笑顔で見ていたひまりの母が、言った。

「そんなふてくされた顔して食べないの! ほら、理月くんが見てるよ?」

 母親の言葉に、ひまりが思わず大きな声を出した。

「いちいち、理月理月言ってくるの、うざい!」

 ひまり母は、くすくすと笑いながら言った。

「ごめんごめん! あんまり言い過ぎると、ひまりちゃん、素直じゃなくなっちゃうもんね」

「ん――…っ!」

 ひまりは、また何かを言いたそうに口をもごもごさせたが、ぐっ、とその言葉を飲み込んだ。

 代わりに理月がぼそりと言った。

「五十嵐でも、素直にならない事ってあるんだ……。俺、五十嵐って、いつも素直で明るくて、でも怒る時は真っ直ぐ怒ってきてくれてっていうイメージがあるんだけどな……。あ、でも、最近は思ってもいないところで文句言われること多いかも……」

「普段のひまりちゃんは、ちっちゃい頃から変わらない、素直ないい子なんだけど……」

 ひまりの母が言った。

「だけど、理月くんのことになるとちょっと違うかも。理月くんの名前を出すと、途端にひまりちゃんって――」

「もう黙ってて!」

 ひまりが我慢出来ずに言った。

「何にも分かんないくせに、ごちゃごちゃ言わないで!」

 そう言って、むすっと黙ったひまりを見詰めながら、理月が言った。

「俺、うちの母からは、お前は何も考えてないくず野郎だっていつも言われてるんですよね……」

 そうなの? と笑うひまりの母に、理月は言った。

「で、お前といるとひまりちゃんが不幸になるから、金輪際関わるな、っていつも言われてます」

 理月の言葉を聞いたひまりの母は、可笑しそうに笑いながら言った。

「おかしい! 理月くんのお母さん、そんな事言ってたんだ!」

 続けてひまりの母は言った。

「だけど理月くんが来なくなったら私が寂しいから、これからも家には来てほしいな」

「いいんですか?」

 思わず理月が聞いた。

「もちろん。私も理月くんに会えるの楽しみにしてるから。理月くん、イケメンだし」

「そうでもないんです」

 理月は真面目な顔をして言った。

「ヴァンパイアって普通はかなりなイケメンなんですけど、俺、ハーフだからか普通の顔なんです。母からは残念イケメンって言われてます」

「え――――?」

 ひまりの母は、笑顔のまま驚きの声を上げた。

「絶対そんな事ないと思うけど! 理月くんのお母さんは、自分がヴァンパイアと結婚したから見る目が肥えちゃってるんだと思うな!」

 それから少し落ち着いた声音で、ひまりの母が続けて言った。

「理月くんは、とても魅力的だよ? 私、理月くんの顔は好きだな」

「あ、ありがとうございます……」

「ひまりちゃんは、理月くんの顔も中身も大好きだから。ね?」

 ひまりの母は、ひまりに向かって言った。

「――――――…!」

 ひまりが、「黙れ」と言わんばかりの殺気を込めた視線を母親に送った。

 ひまり母は娘の視線は気にせず、再び理月に向かって言った。

「ね、いっそのこと、理月くん、うちに来てひまりと同棲しない?」

「げほがはごほげへっ!」

 突然の母の提案にひまりは激しく咳き込んだ。

「え? えぇっ!」

 理月も戸惑い、ひまりの母に聞き返した。

「きゅ、急に何を言い出すんですか!」

「今、夫が単身赴任で家にいないから、色々と困ることとかあるんだ。理月くんは力もあるし、頼りになるから、女二人の我が家に来てくれたら心強いなぁと思って」

 悪びれもせず、ひまり母は言った。

「理月くんだって、喉が渇いたら好きな時にひまりの血が飲めて、ウィン・ウィンの関係じゃない。絶対そうした方がいいと思うよ?」

「やめて!」

 思わずひまりが悲鳴を上げた。

「本当にやめてよ! わたし、血を飲まれるだけでメリット何もないじゃない!」

 ひまりの母は、そう言うひまりを見詰めながら、悪戯っぽく笑って言った。

「本当は嬉しいくせに」

「全っ然嬉しくないっ!」

 言い合う親子二人の横で、理月はうーん、と考え込んで言った。

「だけど俺、五十嵐と一緒に住んだら歯止めきかなくなっちゃいそう」

 ぼそっと言った理月の言葉に、ひまりが真っ赤になって言った。

「なっ、何それ? は? はは、歯止めとか、普通にキモいんだけど!」

「そっか。それだとひまりちゃんがもたないか」

「やめて!」

「じゃあ――」

 ひまりの母は続けて言った。

「じゃあ、家に来てくれたら、私の血も飲ませてあげようか? それならひまりちゃんの負担も減って、血もたくさん飲めて、一石二鳥じゃない?」

「お母さん!」

 ひまりは叫んだ。

「あ、でも、ヴァンパイアの人って、処女の血しか飲まないんだっけ? こんなおばさんの血じゃ美味しくないか」

 はぁ、とわざとらしくため息をつくひまりの母に、理月は真面目な顔をして言った。

「うーん……昔から、処女の血は美味しいっていうけど、お母さんも美味しいと思う。何となく、匂いで分かる気がする」

 ひまりの母は、少し嬉しそうに微笑んだが、ひまりは嫌そうな顔をして言った。

「キモ」

「えー? そんな事言うなよ。お母さんは、五十嵐の体を心配して言ってくれたんじゃん」

 理月がひまりに言った。

「俺だって、五十嵐のこと心配してるし」

 疑い深そうな目をして見詰めてくるひまりに、理月が言った。

「俺、五十嵐にこれ以上迷惑を掛けたくないっていう気持ちは、真剣にあるんだ。だから俺、今まで五十嵐以外の女の子から血を飲んだことないけど、これからめっちゃいろんな女の子に声を掛けて、ひまり以外の女の子から血を飲めるように頑張るから! だから、俺がたくさんの女の子から血を飲めるようになるまで、我慢してくれる?」

 理月はひまりのためを思って言ったつもりだったのに、その言葉はどうやらひまりの機嫌を大きく損ねてしまったらしい。

 ひまりは、理月に向かって言い捨てた。

「最っ低!」

「う~~ん……」

 ひまりの母も、困り顔になって言った。

「ひまりちゃん、間違った男の子を好きになっちゃったのかも知れないね」

 何となく居心地の悪さを感じてきた理月は、急いで茶碗に残ったご飯をかき込むと、ごちそうさま、と呟くように言って自分が使った食器をシンクに持って行って水に浸けた。

「ごちそうさまでした」

 理月は改めて、ひまりの母にもう一度ご飯のお礼を言った。

「あ、最後に一つだけ教えて?」

 理月を呼び止めて、ひまりの母が声を掛けた。

「何ですか?」

 ひまりの母は理月に小声で聞いた。

「ひまりちゃんって、処女?」

「処女です」

 理月は断言した。

「五十嵐の血は、いい匂いがして、めっちゃ美味しい!」

「出てって!」

 とうとう我慢の限界を迎えたひまりが、手元にあったウェットティッシュの箱を理月に向かって投げ付けた。

 ひまりの攻撃を両腕で防ぎながら、え、何で? 俺、ひまりのことすごい褒めたのに、何で? と理月は訳の分からないまま、玄関とは反対方向のひまりの部屋に逃げ込み、七階のベランダから飛び立って、夜の空へと去って行った。


















   第二章 転校生の血が飲みたい



 翌朝、枕元に置いてあったスマホのアラームが鳴る前に、理月は目覚めた。

 とても清々しく、気持ちのいい朝だ。

 上半身を起こして、理月はぼさばさの髪をかき回した。

 緩めの黒いTシャツの長袖が、白い理月の肌を滑って腕が露わになる。今朝は肌も張りががあり、肌理も滑らかだ。

 真っ暗な寝室の中、理月の白い腕がぼんやりと輝いている。

 ベッドから降りた理月が窓に下げられた遮光カーテンをほんの五センチだけ開けると、空は青々と晴れ渡っていた。

 天気だけは気分の滅入るものだった。

 体が全く受け付けない、ということは無いのだが、それでも理月は日光が苦手だった。

 理月は、Tシャツ短パン姿のまま部屋を出た。ちょうどその時、夜の仕事から帰ってきたばかりの父親と廊下で鉢合わせた。

 細身の体にフィットした、仕立てのいいスプライト柄のチャコールグレーのスーツに身を包んだ理月の父が、気だるげに声を掛けてきた。

「久し振り。元気そうだな」

「うん、まあ……」

 理月は、なんとなく言葉を濁した。

 しかし理月の父は、理月の健康そうな顔色を見て、軽く笑みを浮かべながら言った。

「昨日、ひまりちゃんの血を飲んだな?」

「……そうかもね」

 理月は、少し誤魔化すようにして答えた。

 理月の父は、「まぁ、いい」と独り言のように呟き、それから理月の目を真っ直ぐ見て話し掛けてきた。

「いいか、理月、お前はたくさんの女の子の血を飲むんだぞ!」

「は? きゅ、急にどうしたの?」

 父のテンションの変化に追い付けず、理月が戸惑って言うと、理月の父は何故か滔々と語り続けた。

「いいか、お前の今の年頃の方が周りに処女の女の子は多い! お前はその血をたくさん飲むといい」

 うんうん、と一人うなずいて、父は語った。

「色んな血の味を知って、色んな女の子を落として、そして自分の舌と体に合う血の女の子を見付けなさい。それはヴァンパイアとして幸せなあり方なんだから」

 父の言いたいことは分かる。理月は言った。

「分かってる。クラスの女子にも、小学生とか中学生の頃からずっと何度も声を掛けてるんだ。だけど女の子ってすごい警戒して、なかなか血を飲ませてくれない」

 理月は天井を仰ぎ、思い出すようにして続けた。

「――中には、五十嵐の事があるから、みたいな事を言う女の子もいたけど、別に他の女の子の血を飲む事を五十嵐から了承を取らなきゃいけないなんて事無いのに」

 理月がそう言うと、話を聞いていた父も大きくうなずいて同意した。

「そうだ。たった一人の女の子の血だけを飲み続けるなんて事は、その子の健康にとっても良くない」

 父は理月の目を見て言った。

「俺たちヴァンパイアは、たくさんの女の子、たくさんの処女の女の子から血を飲む、というのがあるべき姿なんだ」

 朝から妙なテンションの父は、理月の肩に手を置いて、言った。

「お前は、みんなに誇れるヴァンパイアになりなさい」

「何をこそこそ話してるの?」

 その時、ダイニングキッチンの方から理月の母が姿を現した。

 途端に、理月の父の表情が固まった。

「ねぇ」

 理月の母が言う。

「さっきから何を話してたの?」

 理月の母は、ラフにまとめたポニーテールを揺らしながら二人に近付いてきて、父に聞いた。

 理月の父は長身だが、それに負けないくらい理月の母も背が高かった。高校生の時は、女子バス部のキャプテンもやっていたと聞いたことがある。

 気が強く、曲がった事が大嫌いな、江戸っ子気質の女性だった。ちなみに出身は福島県だ。

「ねぇ、ヨゼフ」

 母が父の目を覗き込んで言った。

「それとも、私に言えないような話をしていたの?」

「い、いや、そんな訳無いじゃないか」

 父はぎこちない声で答えた。

「理月から、彼の将来についてちょっと相談を受けていたんだ」

(は?)

 俺の方から話を振ったわけじゃないんだけど、と理月は思ったが、ここはだんまりを決め込むことにした。

 ふーん、と鼻で返事をしながら、母は父のことをうろんな者を見るような目付きで見詰めた。

 そして母は理月に視線を移した。

「また昨日、ひまりちゃんのところに行ったね?」

「うん、行った」

 理月は誤魔化さず、正直に母に答えた。

「またひまりちゃんの血を飲んだよね?」

「うん、飲んだ」

 理月は正直に答えた。

 理月の母は小さくため息をつくと、理月に言った。

「私、本当はひまりちゃんに迷惑を掛けて欲しくないんだけど、でもひまりちゃんは理月に甘いからなぁ……」

 そうかな? と理月は思った。

 昨晩だって、ひまりはなかなか血を飲ませてくれなくてやきもきしたのだ。だけど最後は結局飲ませてくれたし、ここで母に余計な事は言うべきではないことも理月は分かっていた。

「もしも理月がこれからもひまりちゃんの血を飲みたいって思うんだったら、絶対、他の女の子に浮気とかしちゃだめだからね? ただでさえひまりちゃんに迷惑を掛けてるのに、その上ひまりちゃんを泣かすような事があったら、私はお前を殺すから」

 そ、そんな大げさな、と横で母の言葉を聞いていた父が呟いたが、理月の母は父の言葉を完全に無視した。

「理月、お前がこれからもひまりちゃんの血を飲みたいっていうんだったら、一生そうし続けて。もしも他の女の子の血を飲みたいって思うんだったら、たった今、ひまりちゃんにラインして、これ以上ひまりちゃんに迷惑は掛けないって宣言して」

 理月の母はそこで言葉を区切ると、理月の瞳を覗き込んで言った。

「分かった?」

「分かった」

 これ以外は母は認めなかったであろう言葉を言って、理月は己の母の殺意に包まれながら震え上がっていた。

「はい、朝ご飯出来てるから、早く食べて」

 そう言うと、母はダイニングキッチンの方に去っていった。

 理月が父を振り返って言った。

「お父さん、よくあんなお母さんがいたのに他の女の子から血を吸うことが出来たね」

 理月は信じられない思いで父に言ったが、理月の父は意外な言葉を言った。

「いや、結局俺は人生の中で母さんの血しか飲んだことがない……」

「え?」

「母さんしか、俺は知らないんだ……」

「はぁ?」

 理月は素っ頓狂な声を上げた。

「俺は……ヴァンパイア失格なんだ……お前だけは、お前だけはまともなヴァンパイアになってほしい……俺の分も……処女の血を飲んでくれ……」

 そう力無く言うと、父は真っ暗な自分の部屋へと消えていった。

(あほな父親はほっておこう……)

 理月は、さっさとご飯を食べてさっさと学校に行こう、と、思った。


   ***


 生徒がまだ半分も来ていない朝の教室は、コンクリートの建物特有の涼やかな空気が隅の方に潜んでいて、どこか清々しさを感じさせた。

 特に部活をやっているわけではないけれども、いつも他の生徒よりちょっと朝が早めな五十嵐ひまりは、友達二人のいつもの会話を聞きながら、再び緩やかな眠気に襲われて、少しうとうとと船を漕いでいた。

「クリームいっぱいなのは嬉しいんだけど、飽きる! 飽きる味! ね、飽きるよね。あ……」

 一生懸命、昨日コンビニで買ったチョコクリームたっぷりシュークリームの味の批評を舌足らずな声でしていた吉野ヶ里すずめは、居眠りをしているひまりに気付き、不機嫌に頬を膨らませた。

 一生懸命話しているすずめと、聞いてる風で居眠りをしているひまりの二人の様子を見ていた里中くるみが、くすくすと可笑しそうに笑った。

 くるみは、とんとん、と指先でひまりの肩を叩いて言った。

「ひまり、眠ってないですずめの話を聞いてあげて?」

「んぁ? あー……」

 あくびのような声を出して、ひまわりがようやく目を覚ました。

「ごめん。わたし、いつの間に寝ちゃったんだろ……?」

 その言葉を聞いたくるみが、再びくすくすと笑いながらひまりに言った。

「ひまり、昨日、青山くんに血を飲まれたでしょ?」

 その言葉にひまりが顔を赤くして、思わず里中くるみに振り返った。

「え? な、何で?」

「だって……」

 と、微笑みながらくるみが言った。

「だってひまりって、いつも青山くんに血を飲まれた次の日には、一日中眠そうにしてるんだもん。昨日血を飲まれたんだなって、もうばればれなんだから」

「そ、そそ、そんな眠そうになんてしてない!」

 ひまりは、真っ赤になって言った。

 しかしすずめが更に頬を膨らませ、ひまりの首元を指差して言った。

「咬み跡が赤い! まるで血が滲んでるよう。また血を飲ませてあげたんだ? もうやめようかなってこないだ言ってたじゃない!」

「だ、だってだって!」

 ひまりは左手で首元を隠しながら言った。

「だって、昨日の青山、血を飲まないと苦しそうだったし、飲ませてあげないと帰ってくれそうになかったから! だから!」

 ふぅ……と、里中くるみは一つため息をついて言った。

「ひまりは青山くんに甘いからなぁ……。惚れた弱みだよねー?」

「ほ、惚れてないっ!」

 ひまりが思わず大きな声を出したので、教室の中にいた数人の女子の注目を集めてしまった。

 女の子たちは、またやってる、とくすくす笑っていた。

「ねー! ほらぁ! 笑われちゃったじゃん!」

 ひまりが文句を言うと、くるみは微笑みながら言った。

「んー、それって私のせいかなぁ?」

「ね、ね、ね」

 その時、二人のやり取りを聞いていたすずめがひまりに声を掛けた。

「本当に青山に血を飲ませたくなくなったら、わたしに言ってね? ほら、あそこ!」

 すずめが、教室の隅にある掃除道具入れのロッカーの横を指差した。

 そこには教室に似つかわしくない丸太が一本、立て掛けてあった。

 その丸太の片端は、手斧か何かで荒く削られ、無骨な鋭い先端を形作っている。

「わたしがあの杭を、青山の心臓に打ち込んで殺してあげるから。そうすればみんな問題は解決するよね?」

 吉野ヶ里すずめが、本気でヴァンパイア狩りを提案していた。

 吉野ヶ里すずめの家は、この街では唯一のヴァンパイアハンターの家系なのだ。

 代々神社の神主を務めていた曾祖父が、戦前にヴァンパイアハンターの資格を得て、副業で神社の境内にヴァンパイアハンターの看板も掲げるようになったのだ。

 因みに、実績はまだ一件も無かった。

 ぶんぶんとひまりは首を大きく横に振った。

「何も殺すことないから。ちゃんと話をすれば分かってくれるから。青山はいいやつだから」

 ひまりはそう言ったが、すずめは不服そうな顔を崩しはしなかった

 里中くるみは、やっぱひまりは青山くんに甘いな、と呟いた。

「何の話をしてるの?」

 突然三人の傍らで発せられた男子の声に、ひまりの体はびくっ、と反応した。

 三人の横に立っていたのは、当の青山・コンスタン・理月だった。

「おはよう、里中さん。昨日はだめだったかも知れないけど、今度はきっと血を飲ませてね?」

「はぁ?」

 怒りが半分混じった声を上げたのは、ひまりでもくるみでもなく、すずめだった。

「青山、何でくるみにそんな事頼んでるの? くるみには彼氏がいるって前も言ったじゃん!」

 理月は、すずめの怒りに少し戸惑いながら答えた。

「べ、別に彼氏がいたって関係無くない? 部屋に夜乗り込んで、ちょっと血を飲ませてもらうだけなんだから。二人で一緒に食事に行くようなもんでしょ?」

 すずめは、理月の言葉を遮るようにして言った。

「いや、無理だから。無理無理無理無理。自分の彼女が他の男と食事に行くなんて、そんなの無理でしょ。ましてや、夜に他の男が彼女の部屋に入ってくるなんて、だめに決まってる。絶対無理!」

 すずめが怒気を含んだ、ドスの効いた声でそう言うと、理月はちょっと不服そうに言った。

「え、じゃあ俺、一生五十嵐以外の女子の血を飲んじゃいけないってわけ?」

「いやいやいや、無理無理無理! だめでしょ。ひまりの血だって飲んじゃだめだよ」

 すずめにそこまで言われて、理月もちょっとムッとして言った。

「え? じゃあ、代わりに吉野ヶ里さんが血を飲ませてくれるっていうの?」

「わたしはもっと無理」

「じゃあ、死ぬほど喉が渇いたら、俺はどうすればいいって言うの?」

 理月のその言葉に、吉野ヶ里すずめは言い放った。

「一生喉が渇かない体にしてあげるよ」

「やだよ!」

 理月が言った。

「それってつまり、俺を殺すってことでしょ?」

「まぁ、そうとも言う」

 吉野ヶ里すずめはあっさりと認めた。

「五十嵐、吉野ヶ里に何か言ってくれよ。俺、いじめられてるんだけど?」

「甘えた声を出すな!」

 理月の言葉に、ひまりではなく、すずめが答えた。

「キモいんだよ!」

 その時、左手で首元の咬み跡を隠し、顔を赤くしてうつむいていたひまりが、ぽつりと言った。

「いいよ。わたしが飲ませてあげる。青山に、これからもずっと、わたしの血を飲ませてあげるから。だから青山は、心配しないで」

 途端にすずめは不機嫌になり、理月は「やった」と小さな声を上げた。

 理月は身を屈め、ひまりの耳元に囁いた。

「すごく嬉しいよ。ありがとう」

 ひまりの肩が、小さくびくん、と震えた。

 理月は更に唇をひばりの耳に近付けて、他の誰にも聞こえないように囁いた。

「本当に嬉しい。俺、すごく嬉しいよ。幼稚園の時からずっと、五十嵐の血の味が好きなんだ。また五十嵐の部屋に行くから、体を綺麗にして、俺のこと待ってて?」

「青山、お前、ひまりに近付き過ぎなんだよ!」

 すずめが文句を言うと、理月はさっと体をかわして、ひまりから離れた。

「じゃあね、吉野ヶ里さん。里中さんも、また今度ね!」

 それだけ言うと、理月は自分の席に戻って行った。

 うつむいたままのひまりの頭に、里中くるみはそっと手を伸ばし、優しくその髪を撫でて言った。

「つらかったね。頑張ったね」

 ひまりはうつむいたままぽつりと言った。

「わたし時々、青山の気持ちが分からなくなる時がある……。今が、その時かも……」

 くるみは黙って、ひまりの頭を撫で続けた。

「ひまりがさ」

 くるみが言った。

「ひまりが青山くんの事を大切に思ってるっていう気持ちは、絶対青山くんに伝わってるよ? だからひまりのその気持ちを疑ったりするような事はしないで?」

 ひまりはこくん、とうなずいた。

「ひまり」

 すずめがひまりに声を掛けた。

「もしも辛いことがあったら、わたしに言うんだぞ? わたしが杭一本で全てを解決してやるからな!」

「――それ、解決じゃないと思うんだけどな……」

 くるみは言った。

「そう言えばさ」

 思い出したようにすずめが言った。

「今日、転校生来るんでしょ? 職員室で先生が話してるのを聞いたんだ。女の子で、すごいモデルみたいな子なんだって言ってた!」

「へー」

 里中くるみが言った。

「――それって、何て言うか……嫌な予感しかしないね」


   ***


 今朝のホームルームは、始まる前からクラスの中にそわそわとどこか浮ついた空気が充満していた。

 というのも、今日このクラスに転校生が来るという話が、どこからともなく広まっていたからだ。

 ホームルームの時間が近付くにつれ、教室のあちこちで転校生に関する噂と、希望的観測を囁き合う声が漏れ聞こえてきた。

 その時、そんな浮ついたそわそわとした空気を破るように、教室入り口のドアががらららっ、と勢いよく開かれた。

「おはようございます!」

 張りのある挨拶の声と共にクラス担任の石井先生が入ってきただけで、生徒たちは「おおおおぉ……」とざわめいた。

「はい、おはよう!」

 ざわめきを制するように、石井先生はもう一度はきはきと挨拶をした。

「はい、静かに! 静かにしてくれないと、話を次に進められないからね?」

「――――」

「――――」

 教室内の誰もが、きゅっと口をつぐんで担任の次の言葉を待った。

 それから、笑みを浮かべた石井先生は、少しだけもったいぶって席に座っている生徒達をぐるりと見回した。

「いいね」

 まだ二十代後半の体育教師である石井先生は、ちょっと背が低い事もあって、女子大生のような見た目をしていて、実際にノリがちょっと学生っぽいところがあった。

「じゃあ、話を進めようかな」

 クラスの生徒の何人かが、こくこくと大きくうなずいた。

 白いワイシャツの袖を肘までまくり上げ、両腕を広げて教卓に手をついた姿勢で、彼女はとうとう大きな声で言った。

「今日から、このクラスに新しい仲間が一人、加わります」

 再びクラスのそこかしこから「おおぉー」というざわめきの波が湧き立った。

 石井先生は右手を伸ばし、「落ち着け」という手振りをしてみせた。

 数秒、生徒達が黙るのを待ってから、石井先生は廊下の方へと声を掛けた。

「入ってきて」

 石井先生の一言の後、教室の前の入り口から一人の女子が教室に入ってきた。

 すらりと細い体を真新しいチャコールグレーのブレザーに包んでいる。

 ぱっちりと大きな茶色い瞳を、好奇心たっぷりの猫みたいにくりくりと動かして教室の中をくるっと見回すと、その女の子は教室に一歩、踏み入れた。

 そしてその女子は胸元まである長い栗色の髪をたなびかせ、石井先生の横まで真っ直ぐ歩いてくると、くるりと生徒たちの方に向き直り、明るい声で挨拶をした。

「初めまして。結城夜未よるみって言います!」

 そしてまた、結城夜未はくるりと体を回して黒板に向かうと、大きな字で「結城夜未」と自分の名前を書いた。

 夜未は、くるりっと生徒達の方へ体を回す。

 制服のスカートがふわりと浮かび、白い脚が膝の上まで見えた。

「え、きれい」

 男子よりも女子達の方が、その引き締まった脚に見とれてしまった。

 結城夜未が再び口を開く。

「わたし、転校って初めてで! めちゃめちゃ緊張してます! 友達を早く作りたいなって思ってます! よろしくお願いします!」

 結城夜未は、ふぅ! と大きく息を吐くと、大きな声で独り言を言った。

「……うん、練習通り」

 結城夜未の隣で、石井先生が「はははは」と笑った。

 結城夜未は明るい笑顔で挨拶を終えると、長い髪をさらりと流してぺこりとお辞儀をした。

 クラスのあちこちから自然と、ぱちぱちぱちぱち、という拍手の音が沸き起こった。

「じゃあ、早速あそこの空いている席に座って」

 石井先生が指差したのは、昨日の内に準備されていた新しい席だった。

 五十嵐ひまりの隣に置かれた席を見た結城夜未と、ひまりの目が合った。

 結城夜未は、深い琥珀色の大きな瞳にすっと通った小さく可愛らしい鼻で、その下には桜色のぷっくりと柔らかそうな唇を軽く結んでいた。幼さと大人っぽさが同居するどこか不思議な表情で、ひまりは何故か理月と同じ雰囲気を感じた。

 特に、思わず見入ってしまう瞳の色の深さが同じだった。

「――きれいな人……」

 ぽつりと呟いたひまりの声に、前の席に座っていた吉野ヶ里すずめが振り返って小さな声で答えた。

「うん、分かる。わたしでも血を飲みたいって思っちゃうくらい」

 すずめの隣にいた里中くるみが、無言ですずめの頭を軽く叩いた。

(き、来ちゃう来ちゃう……!)

 ひまりは、夜未と目を合わせたまま、段々と彼女が自分の方に近付いてくるのをずっと見ていた。

(わわ……っ)

 しかし更に夜未が近付いてきた時、何故か恥ずかしくなってしまったひまりは、思わず目をそらし顔を伏せてしまった。

 ひまりが顔を伏せたその横で、かたたっ、と椅子を引く音が聞こえ、静かに結城夜未が座る気配がした。

 顔を伏せてたひまりは、ちらっと横目に結城夜未の方を見ると、夜未はじっとひまりのことを見詰めていた。

「初めまして、よろしくお願いします」

「は、初めまして……」

 結城夜未の言葉に、五十嵐ひまりは小さな声で答えた。

 近くで見る結城夜未は、やはりとてもきれいだった。

「きれいな髪……」

 思わず漏らしたひまりの言葉に、夜未がぷっと吹き出した。

「ありがとう!」

「い、いえ、ちがくて……」

 ひまりは本当はもっと違うことを言いたかったのだが、急に髪を褒める変な子になってしまった。

 赤くなって再びうつむいてしまった五十嵐ひまりに、結城夜未が話し掛けた。

「名前なんていうの?」

「わたし? わたしは五十嵐ひまり」

「五十嵐さんも、髪を伸ばしたらいいのに」

 結城夜未が五十嵐ひまりを見詰めながら言った。

「五十嵐さんもきれいな髪なんだから」

「そうそう!」

斜め前の席の吉野ヶ里すずめが急に二人を振り返って言った。

「ひまりは髪がすごいきれいだったんだ! ちっちゃい頃、ひまりはロングでめちゃくちゃ可愛かった。結城さんなんかに負けないんだから!」

 急にライバル関係に祭り上げられてしまったひまりが、慌てて言った。

「や、やめて! 張り合わないで!」

 ひまりは、すずめの方にあわあわと両手を突き出して言った。

「みんな見てる! やめて!」

 三人はこそこそと話していたのだが、しかし元々注目されていた転校生とのやり取りは、クラスのほとんどからの視線を集めてしまった。


 このクラスでも他のクラスと同じように、可愛い・美人系の女の子たちのグループというのがあって、男女を問わずそのグループは人気だった。

 だけどひまりたちのグループも、実は密かに男子たちの間ではまあまあの人気があったのだ。

 男の子みたいに気軽に声を掛けてくれる、彼氏持ちだけどちょっとギャルっぽさもある里中くるみと、元気で気さくで妹っぽい感じもある吉野ヶ里すずめ。それとハーフヴァンパイアに血を飲ませているっていう噂の、ちょっと大人しめの五十嵐ひまりも、どことなくエッチな雰囲気があって、男子たちの間では密かな人気があったのだ。

 特に五十嵐ひまりは女子たち間でもちょっと気になる存在で、クラスのカーストトップの女子たちも、時々ひまりに話し掛けていた。


そこに転校生が加わったものだから、四人はショートホームルーム(朝の読書時間)中もずっとクラスメイトの秘かな耳目を集めていた。

 そんな空気を余り自覚出来ていなかった四人は、席が教室の後ろの方だったこともあって、先生に隠れてこそこそとおしゃべりを続けていた。

「――結城さんって、男子にモテそうだよね」

 里中くるみの言葉に、結城夜未は首をひねった。

「……うーん、そうかな? 中学校の時は私立の女子校だったから、よく分かんない」

「え、中学受験したんだ」

「うん。すごいいい学校だった。学力がっていうより、雰囲気が大好きで。女子みんな仲良かったし。楽しかった」

 里中くるみが聞いた。

「高校は? 女子校には行かなかったの?」

「えっとねぇ……」

 結城夜未は、ちょっと上を向いて、何かを思い出しながら言った。

「周りに男子は一人もいなくて、めちゃめちゃ女の子同士で好き勝手やってたら、親からここの高校に入れさせられた」

「なんだそれ」

 首をひねった吉野ヶ里すずめが聞いた。

「体育の時、っていうか着替えの時とか、下着のまま気になってた女の子といちゃいちゃしてたり、下着の上からとか中に手を入れたりしておっぱい触り合ったりしてたら、親に怒られた」

「え?」

 ひまりが戸惑って、思わず声を漏らしてしまった。

「いちゃいちゃするの、めっちゃ楽しかったんだ。めちゃめちゃ楽しかったから、普通に家でその話したら、親からめっちゃ怒られた」

「えー! でもめっちゃ楽しそう! わたしもその学校、入りたかったな」

 話を聞いていた里中くるみが言った。

「うん」

 結城夜未は、にこにこと嬉しそうに笑って言った。

「めっちゃ頑張って、めっちゃ勉強して入ったから羽目を外しすぎた。みんな羽目を外しまくってたから、怒られちゃったんだ」


 SHRが終わると、ひまりが結城夜未に小さな声で聞いた。

「ね、体操服は持ってきてある?」

 ひまりの言葉に、結城夜未が答えた。

「うん。一通り持ってきてある」

「今日は一時間目から体育なんだ」

「いきなり?」

 結城夜未が、可笑しそうに笑った。

 ひまりもつられて笑顔になりながら、更に追い打ちを掛けるような事を言った。

「しかも今日は、ぐるぐる校庭を走るだけ!」

「何それ! やばい!」

 横で聞いていた里中くるみは、くすくすと笑って言った。

「うん、やばいよ。――体育の授業を無しにすることは出来ないけど……」

 くるみは夜未に言った。

「何か困ったことがあったら何でも言って?」

 くるみの言葉にほっとした結城夜未は、突然ひまりの小さな体の陰に隠れた。

「気のせいだと思うし、こんなこと言うの自意識過剰過ぎて恥ずかしいんだけど……さっきから一人の男子がめっちゃ私のこと見てる気がする……」

「え?」

 そして結城夜未は、ひまりの目を見詰めて言った。

「――正直ちょっと怖いんだけど……」

 夜未の言葉にひまりが振り返ると、ずっとこっちを見詰めている理月の赤い瞳と目が合った。

(あ……)

「あぁ、あれ?」

 吉野ヶ里すずめが夜未を振り返って言った。

「そんなに気にする必要は無いよ? この後わたしに狩られる予定のただのヴァンパイアだから」

「ヴァンパイア? 狩るの?」

 転校生が戸惑って言った。

「情報量が多めなんだよ」

 里中くるみが苦笑して言った。

「うちのクラスにはハーフヴァンパイアの男子が一人いるんだ。青山は絶対結城さんの血を飲みたがってくるけど、全然断っていいから」

 結城夜未は、ひまりの肩からそっと理月の方を覗き込んだ。

 理月は結城夜未と目が合うと、にこっと瞳だけで微笑んだ。

 今度は結城夜未は理月から視線を外さず、その深紅の瞳を見詰めた。

「初めて見た……」

 結城夜未が呟いた。

「本当にいるんだ……」


 一限目が始まるまで、まだ少しだけ時間があった。

「着替えはどこでするの?」

 結城夜未の質問に、里中くるみが答えた。

「体育館横に女子更衣室があるから。そこに行こう。今から案内してあげるよ」

「あ……あの男子が来た……」

 結城夜未の言葉にひまりが振り返ると、理月が四人の方に向かって歩いてきていた。

 すずめが「ちっ」と舌打ちをする。

 結城夜未は思わずひまりの背後に隠れたが、ひまりはひまりで理月と視線が合った途端に顔を伏せ、黙り込んでしまった。

 そんな二人を、里中くるみは自分の背後に庇った。

「ね、今、俺の話してた?」

 理月がそう聞くと、すずめが言った。

「してない」

 すずめの言葉と同時に、里中くるみが言った。

「うーん、……ちょっとだけしたかも」

 くるみの背後のひまりの背後の結城夜未が、顔を半分だけ出して理月に聞いた。

「ね、本当に本物のヴァンパイアなの?」

 理月はにこっと笑って答えた。

「うん、そう。――結城さんって髪の毛すごいきれいだね」

「……ん? そう? 別に普通だと思うけど……」

 結城夜未は、素っ気なく答えた。

「すごい似合ってる。俺、ロングヘアが好きなんだ。髪の毛がきれいな女の子って、すごく可愛いから」

「……はぁ、ぐいぐい来るなぁ」

 里中くるみが、感心したように言った。

 吉野ヶ里すずめが言う。

「そんなに女子の血が飲みたいのか。卑しく、厚かましく、恥知らずな上にせこくて卑猥なヴァンパイアめ」

「普通にひどくない?」

 すずめの余りの言葉に、理月が戸惑って言った。

 そして理月は、三人の女子にすっと近付き、くるみの背中に隠れているひまりの顔を覗き込んだ。

「――ひぁ」

 驚いたひまりが、悲鳴の出来損ないみたいな声を上げる。

「五十嵐だって小学生の頃は髪を長く伸ばしてて、きれいな黒髪がすごく似合ってて、すごい可愛かったのに」

 ひまりはくるみの背中に額をくっ付けて、真っ赤になってぎゅっと彼女に抱き付いた。

「体育の時とか、長い髪を後ろに結んでポニーテールにしたりして、長いポニーテールが揺れてるのとか、とても可愛かったのに。ある日突然、ばっさりショートにしちゃったんだよな。俺、めちゃくちゃショックだった」

「そうそう、そうなの!」

 吉野ヶ里すずめが理月とひまりの間に割り込んで言った。

「あの時わたしもすごいびっくりした! すごいショックだった!」

 理月はすずめを避けて、ひまりの横顔に再び囁いた。

「小学六年生の夏休み最後の夜に五十嵐の血を飲みに行ったら、血を飲まれた五十嵐が、ぼぉっとしながら俺が好きな女の子ってどんな子なの、って聞いてきたから、俺は五十嵐みたいに髪の長い女の子が好きだよ、可愛いよ、って言って、その時五十嵐はむにゃむにゃ言いながらすごい嬉しそうな笑顔になってたのに、夏休みが明けた日にばっさり髪を切って学校に来たから、俺、すごいびっくりした。何で? って思った」

 理月の言葉を聞いたひまりが、思わず大きな声を上げた。

「な、何でそんなこと覚えてるの!」

「覚えてるよ」

 理月が言った。

「二学期最初の日、五十嵐の後ろ姿を見ても、最初誰だか分からなかった。五十嵐が俺の方を振り返ってもすぐには分からなかった。五十嵐のきれいな髪の毛がばっさり無くなっちゃった事にすごいショックで、今でも時々あの日のことを思い出すよ」

「わ、わたしはもう忘れたし!」

 ひまりが真っ赤になって、顔をそらして言った。

「――青山、邪魔」

 すずめが言った。

「もういいかな? そろそろ更衣室に行かなきゃいけないんだけど。はっきり言って邪魔なんだよね。靴の中の小石くらい不愉快。小石ほどの価値も無いヴァンパイアめ」

 すずめの憎まれ口に、理月は素直に答えた。

「あぁ、ごめんごめん」

 結城夜未とほんの少しだけれど言葉を交わすことが出来て満足したのか、理月は素直に道を譲った。

「さ、行こ」

 里中くるみに促されて、四人は着替えの入ったスポーツバックを手に取って教室を出て行った。

「じゃ、校庭で」

 四人の女子の背中に、理月が声を掛けた。

 ほんの一瞬だけ、ひまりと結城夜未が振り返って理月の赤い瞳を見詰めた。


 新設された体育館の傍らに、女子更衣室はあった。

「転校してきていきなり体育ってだるくない?」

 里中くるみがそう言うと、結城夜未は笑って答えた。

「体を動かすのは好きだから、全然平気かな」

 一年前に出来たばかりの更衣室の中には、まだかすかに新築の匂いが残っていた。

 天井近くにある細い横長の採光用の曇りガラスの向こうには、明るい日差しに照らされた木々の若葉の緑が優しい光を更衣室の中に注いでいた。

 理月のせいで出遅れてしまったひまり達四人は、隅の方の空いているロッカーを開けてその中にスポーツバックを入れた。

 四人はバッグから体操服を引っ張り出して、銘々着替えを始めた。

「ヴァンパイアがクラスにいるなんて、びっくりしたでしょ」

 里中くるみが白いシャツをまくりながら結城夜未に声を掛けると、夜未はその言葉に頷いた。

「ヴァンパイアの人に会うの、生まれて初めて! 普通に日本語が通じてるのが、びっくりしちゃった」

 さっきから黙っていたひまりが、くすりと笑った。

「日本語ぐらい通じるよ」

「言葉が通じるからって、気を許したらだめだよ?」

 すずめが夜未に忠告をした。

「すぐに女子の血を飲もうとしてくるんだから。いつ血を飲まれるか分からないんだからね」

「え? 急に噛み付いてきたりするの?」

 結城夜未は、シャツのボタンを外していた手を止め、まるで今、目の前に理月がいるかのようにシャツの合間から見えていた白い胸元を再び隠した。

「そんな事しない!」

 ひまりは抗議した。

「女の子の許しが無いと部屋の中に入れないし、無理やり血を飲むなんてことは無いから安心して」

「――それならいいんだけど……」

 そう言いながら、結城夜未は再びシャツを脱いだ。

 ネイビーのブラジャーに包まれた結城夜未の張りのある形の良いバストは、汗でしっとりと濡れて、更衣室の中の淡い光を白く反射していた。

 夜未の胸を見たひまりは、自分の頬が少しだけ熱を帯びてくるのを感じた。

「本当に無理なんだよな!」

 さっさと体操着に着替え終えたすずめが顔をしかめ、ぶんぶんと頭を振りながら言った。

「喉に牙を突き立てられて血を飲まれるなんて! 青山が笑うと、時々白い牙がちらっと見えるんだけど、あんなのでぷつっと肌を突き破られるなんて、めちゃめちゃ怖いんだけど!」

 すずめの言葉を聞いて、結城夜未がぽつりと言った。

「そんなに怖いかな」

 そして独り言のように夜未が続けた。

「女の子だったら、もっと太いものを体の中に入れられちゃうんだから、噛まれるくらい全然怖くないんじゃない?」

「ぶっふぅ!」

 盛大に吹き出す音が聞こえて夜未が振り返ると、くるみ(彼氏持ち)だけが盛大にむせていた。

 しかし目の前にいるひまりとすずめは、きょとんとしている。

「――だからさ、首を噛まれるのなんて、別に大したことなくない?」

 結城夜未が、何気なくひまりの首元を見詰めながら言った。

 するとひまりは赤くなり、思わず首元の咬み跡を左手隠してうつむいてしまった。

「あれ? ごめん、わたし、何か聞いちゃいけないことを聞いちゃった?」

 赤くなって黙ってしまったひまりに代わって、傍らにいた里中くるみが言った。

「青山に血を飲ませることがいいのかどうか、ちょっと迷っちゃってるんだよね?」

 くるみは続けた。

「ショートにした後も青山が血を飲みに来たのだって、すごい迷ってたもんね? 次の日教室で会ったら、ひまりが泣きそうな顔で、青山が髪が長くなくなった私のことも好きでいてくれてるのか、それともただ血が飲みたいだけなのか、全然分からないよ、って言ってたもんね」

 ますます真っ赤になったひまりは、くるみに抗議した。

「そんな事までばらさないで!」

 パステルピンクのブラとパンツだけの姿のまま、細くて白い手足をぎゅっと縮めて真っ赤になっているひまりを見詰めて、結城夜未が思わず言葉を漏らした。

「え、わ、わわ、めちゃめちゃ可愛い! わたし、この子にエッチなことしたい!」

「は?」

 里中くるみが驚いている隣で、すずめが抗議した。

「だっ、だめに決まってるじゃん! わたしの方が先に好きだったんだから!」

 五十嵐ひまりは、自分が話題の中心になっているにも関わらず、一人だけまるで話についていけず、きょとんとして結城夜未の顔を見返した。

 何も分かっていないひまりの瞳を見詰めて、結城夜未は言った。

「え、待って待って、五十嵐さんすごい可愛い! 自分が何をされてるのか分からなくて戸惑いながら、体だけめちゃめちゃ気持ちよくしてあげたい……」

「えぇ……」

 何を言っているのか半分も理解出来ないまま、ひまりは結城夜未に引いていた。

 突然の結城夜未の欲望まみれの言葉を聞いた里中くるみが、ぽつりと呟いた。

「結城さんて……なんとなく、青山に似てるかも……ね」


   ***


 まだそんなに暑くはなく、空気に湿っぽさがそれほど感じられない春の終わり。

 しかし肌をじわりと汗ばませる程度の日差しは降り注ぐ校庭で、青山達のクラスの男子と女子は、何かの懲役刑のようにぐるぐるとトラックを走らされていた。

 青山理月は石井先生から課せられた周回を一番に走り切ると、ゴールラインに立っていた石井先生に目配せをして、そのままの勢いで校庭の隅に立つ桜の木陰に駆け込んでいった。

 二、三十分程度の全力疾走ならば造作も無い。

 体力は普通の人間よりも遥かに上なのだ。

 筋肉質の引き締まった手足は、微塵もテンポを乱す事なく、理月の身体をそれこそ飛ぶように運んでいった。

 午前中の明るい日差しから身を隠し、半袖ジャージの裾を掴むと、理月はぱたぱたとジャージをめくって太陽にいじめられた体に風を送った。

 日の光に晒されても焼けないハーフヴァンパイアの白い肌が露わになって、何人かの女子が走りながらその様子を見詰めていた。

 理月が木陰で休んで数分経った頃、ようやく数人の男子が走り終え、続けて木陰の方に避難してきた。

「見たか?」

「見た見た!」

 三、四人の男子が顔を見合わせながら、興奮した様子で話している。

「やばいよな!」

「めっちゃやばい!」

 何か良くない事でもあったのか。少し離れた所に立っていた理月は、何となく聞くとも無しに男子達の会話を聞いていた。

「でかいよな」

「いや、大きさで言ったら、里中さんの方が大きい」

「形がいいんだよ、形が」

「そうそうそう!」

「おっぱいの形が良くて、モデルみたい! 理想形って感じ」

「そんな感じ!」

「そんな感じそんな感じ!」

 興奮している男子達の様子を黙って聞いていた理月が校庭の方を見ると、更に数人の男子がノルマを走り終えてグラウンドの端々の方に散らばっていく中、すらりと長い手足をテンポ良く振って、結城夜未が走っているのが見えた。

(…………)

 確かに、男子が騒ぐのみ無理は無かった。

 白く引き締まった両脚は長くきれいで、胸やお尻もとても魅力的なラインをしていた。

 この年頃の女の子に特有の、まだ色気のようなものはそんなに無いけれど、健康的で魅力的な体を結城夜未は持っていた。

(結構速いな……)

 他の男子達が騒いでいる中、理月は結城夜未の速さに驚いていた。

 男子達に交じって、ゴールラインを走り抜けていた。

 女子の中では三番手でのゴールだ。

 運動部の生徒も混じっている中での三番は、なかなか優秀だと言える。

 そして何故か結城夜未は、額の汗を拭いながら理月の方へと歩いてきていた。

(何か、用でもあるのかな……?)

 汗を吸って張り付いたジャージが、結城夜未の体のラインをはっきりと見せている。

 そうして見えている結城夜未の胸の形は、確かに年頃の男の子達を興奮させる位には豊かで、張りがあって、何よりきれいだった。

「結城さん!」

 辺りに聞こえるくらいの大きな声で、理月は結城夜未に向かって叫んだ。

「結城さんの胸の形、すごいきれいだって! みんな褒めてるよ!」

 驚いていたのは、結城夜未本人よりも理月の周りの男子だった。

「おっ、お前、な、ななな、何言ってんだよ!」

 理月の隣で女の子の胸の形の論評をしていた男子達が、今更慌てている。

 結城夜未は、歩みを止めることなく理月と三、四人の男子の方に近付いてきた。

 やべぇ! と言って、胸の形評論家達はグラウンドの向こうに走って逃げていった。

 結城夜未が乱れた息を整えながら、青山理月の隣に来た。彼女も木陰で涼みたいようだった。

 理月は、結城夜未にさっき叫んだことが聞こえていなかったかも知れない、と考え、夜未に話し掛けた。

「胸、きれいだって」

「聞こえてた」

 今朝の自己紹介の時とは打って変わって、結城夜未は少し不機嫌になって言った。

「? 嬉しくないの?」

「嬉しいわけないじゃん!」

「そうなの? 女の子って、可愛いとかきれいって言われたら嬉しいもんだと思ってた」

「――気持ち悪いとしか思わない」

「ふーん……」

 理月は、何かを思い出したように言った。

「――確かに、俺が五十嵐に『可愛い』って言っても、五十嵐は嬉しくなさそうだったもんな……」

「……そんなこと言うんだ。五十嵐さんに、そんなこと言うんだ」

 未だグラウンドを走っている女子達を見ながら、結城夜未は呟くように言った。

「うん、俺が五十嵐の血を飲み終わった後、よく言ってる」

「なんか……なんか、やだ……」

「え? なんで? 血を飲まれた後の五十嵐って、ぼぉっとほんの少し口を開けて、目もとろんとしてて、顔真っ赤にしてて、体もぐったりと力が抜けてて、それがめっちゃ可愛いんだけど……」

「やだぁ!」

 結城夜未は、耳を両手でふさぎながら、叫ぶように言った。

「今日、仲良くなったばかりのクラスメイトの、そんな話聞きたくない!」

 何故か真っ赤になった結城夜未を見て、理月は心底理解出来ない、という顔で言った。

「なんで?」

 理由はまるで分からなかったが、しかしこれ以上ひまりの話はしない方がいいことだけは理月にも分かった。すると理月は、この隣に立っている女の子とどんな会話を交わしたらいいのか分からなくなってしまい、黙り込んでしまった。

 今日会ったばかりの男子と隣同士で沈黙していたら、相当気まずい様な気がするのだが、それでも結城夜未は立ち去らなかった。

(まぁ、ここの木陰は涼しいし……)

 近くを流れる川面を渡ってきた風が吹き込む絶妙な位置に思いを馳せながら、青山理月が黙っていると、結城夜未が小さな声で話し掛けてきた。

「……ヴァンパイアなのに太陽の光は大丈夫なの?」

「うん」

 理月は頷いた。

「純血種じゃないからね」

「へー」

「もちろん、日光は苦手だけど。ハーフだからか、絶対にだめってわけじゃない」

「ふぅん……だけど、血は飲むんだね」

 理月は、何かを思い出して、言った。

「我慢出来ないくらいの渇きに襲われる」

 理月は更に続けた。

「死んでしまう――かどうかは分からない。けど、血を飲まないと焼けるような渇きに襲われるんだ」

「ねぇ、血を飲まれるって、どんな感じなの?」

「俺は飲む方だから分からないかな……」

 それから理月は、傍らに立つ夜未の方に向き直って言った。

「結城さんの家はどこ? 今夜行くよ」

「なんで?」

 夜未は何故か両腕で自分の胸を隠しながら聞いた。

「――どうして私の住所を教えないといけないの?」

「血を飲まれる感覚がどんな風か、感じたいのかなって思って。――だったら実際に飲まれるのが一番早いと思う」

 理月の言葉に、夜未が言った。

「私、血を飲まれたいなんて、一言も言ってない」

「でも、興味あるでしょ?」

「別に」

 夜未は否定した。

「そう言うなら、そういうことにしておいてあげる」

「青山くんこそ、私に興味あるんじゃない? さっきからちらちら私の胸の方を見てるけど」

 理月は、あっさりと認めた。

「うん。さっきの男子らが言った通り、結城さんの胸って、きれいな形をしてるかも、と思ってた。そんなこと言われるの、嫌かも知れないけど」

 結城夜未は言った。

「まぁ、でも、わたしのおっぱいって実際にきれいな形してると思うよ? ……自分で言うのもなんだけど」

「自信たっぷりだね」

 理月が言うと、夜未が答えた。

「中学の修学旅行の時、一緒にお風呂に入った女子たちからもすごい褒められたし!」

「――女子から言われるのは嫌じゃないんだ」

「それはそう」

 理月が言った。

「ブラとかで形作ってるんじゃなくて?」

「作ってなんかないから」

 理月が言った。

「じゃあさ、今度、服を脱いだ裸の胸を俺に見せてよ」

 唐突な言葉に、夜未は思わず理月に振り返った。

「はぁ? な、何でわたしがそんなことしなくちゃいけないの?」

 理月は、自分を見詰める結城夜未に一歩近寄り、顔を近付けるとその耳元に囁いた。

「だって、自信のある、すごくきれいな胸なんでしょ? そういうきれいなもの、単純に見てみたいって思うから」

「ち、近い! それと、おっぱい見せるなんて絶対に、やだ!」

「嘘だね」

 理月は即答した。

「結城さん、初めて会ったヴァンパイアに興味あるよね? 裸を見られたらどれくらいどきどきするんだろう、血を飲まれたらどんな気分になるんだろう――って、今、すごい気になってるって顔をしてる」

「最悪。最低」

 嫌そうな顔をして、夜未が答えた。

「でも、その最悪だったり最低なことに興味あるでしょ? 結城さんって、最悪最低なものにも触れてみたいって思うタイプだよね?」

「……」

 結城夜未は、そのまま黙ってしまった。

 夜未は青山理月から目をそらし、グラウンドでまだ走っている、今日から出来た新しいクラスメイト達をただじっと見詰めた。

 理月は、その結城夜未の横顔をずっと見ていた。

「――どっちか片方だけだったら、考えてあげてもいいかも」

 夜未は、再び理月の瞳を見て、言った。

「青山くんは、私のおっぱいを見るのと血を飲むのと、どっちか一つだけしか選べないとしたら、どっちを選ぶ?」

「血を飲むこと」

 理月は即答した。

「そうなの? 男子って、エッチなことに一番興味があると思ってた」

「人間だったらね」

 理月が答える。

「それに、結城さんの胸は確かにきれいだけれど、きれいなものだったら俺だって持っているから」

「何?」

「今、見てるもの」

 理月が再び結城夜未に近付いて、言った。

「ほら、覗き込んでみて。俺の赤い瞳って、ものすごくきれいじゃない? 見てて全然飽きないと思うよ?」

「ち、近いって……」

 しかし何故か理月から視線を外せなくなった夜未は、理月の赤い瞳を覗き込む。

 透明な深い赤を湛えた理月の瞳は、見てるだけで心が吸い込まれそうになるほど美しかった。

 グラウンドの白い土や、頭上の若葉の間から漏れてくる緑色の木漏れ日や、青い空や白い雲や、そしてキス出来そうなくらいすぐ近くにある結城夜未の白い肌や――世界のあらゆるところから反射して瞳の中に飛び込んでくる様々な光が、その中で複雑に反射して、まるで赤い宇宙の天の川のようにきらきらと輝いていた。

 結城夜未と青山理月、二人のどちらから近付いたのか分からなかったが、いつの間にか二人はほとんどキスをするくらいの距離までお互いの顔を近付けて、見詰め合っていた。

「あっ、ごめん!」

 急に理月が声を上げて結城夜未から体を離した。

「え?」

 ぽかんと呆気に取られて結城夜未が自分から離れていった理月を見ていると、理月は何かを見付けたようにグラウンドの方へ二、三歩踏み出して、じっと誰かのことを見詰めていた。

「五十嵐っていつも一生懸命なんだ。なかなか手を抜くってことをしてくれない」

 理月が言った。

「昨日俺が血を飲んで、今日は体が少し辛いはずなんだ。なのに最初すごい飛ばしてて、注意したのにそのまま走り続けて」

 理月は夜未を振り返って言った。

「だから今もうふらふらになってる。五十嵐のところに行かなきゃ」

 そう言うと理月は、苦手なはずの明るい日差しの中に飛び出していった。

「じゃあまたね、結城さん! 今度血を飲ませてね!」

 明るく手を振りながら理月は言ったが、そんなに理月に向かって、結城夜未は叫び返した。

「絶対に、嫌だから! ばーか!」

 夜未のそんな叫び声が聞こえたのか聞こえていないのか、青山・コンスタン・理月はなおも夜未に向かって手を振りながら、まぶしい日の光の中に駆けていった。

(なんだよ、あいつ……)

 グラウンドを走り終え、肩で息をしながら自分に向かって歩いてくる吉野ヶ里すずめと里中くるみを見詰めながら、結城夜未は不満げに呟いた。



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