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雪鰭

作者: 理乃碧王

 冬の海は厳しい。

 冷たい風が吹き荒れ皮膚を刺し、波は激しく鋭い刃のように砕け散る。

 そんな海に一匹の大きな魚が住んでいた。

 名は『雪鰭(ゆきひれ)』と呼ばれ、それはそれは大きな化け魚であった。

 この雪鰭は元は冬を代表する魚である(ぶり)とも、あるいは(たら)であったと言い伝えられている。

 ともあれ、この雪鰭は生まれ出てから百年も経ち変化となった妖魚の一種。

 極寒の寒い季節になると海に不意に現れ、漁をする船を何隻も沈めてきた。

 そう幾人も――否、何十人もの人間の命を奪ってきたために人々に恐れられた。


「……雪鰭はこの辺りのはずじゃ」


 季節は師走、荒れ狂う海に船が一隻浮かんでいた。

 そこには捕鯨用の長く巨大な銛を携えた若者が乗っていた。

 名は弥太郎と申す漁師で、海岸近くの漁村に住んでおり、齢は二十歳を過ぎたばかり。

 弥太郎の狙いはこの雪鰭であり、たった一人で仕留めようとする危険かつ無謀な賭けに出ている。


「仕留める、儂が絶対に仕留めるんじゃ」


 弥太郎は自分の唇と手足は震えるのを感じた。

 そこで藍染めの上衣から袋を取り出し、何かを口に含んだ。

 口に含んだのは唐辛子を粉にしたもの。

 体を暖める効果があり、口にすると頭を突き抜けるような痛みと熱さが広がる。

 本来であれば濁酒を飲みたいところだが、海の上でそんな馬鹿なことをするものはいない。


「落ち着け、落ち着け、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」


 念仏を唱える弥太郎。

 唐辛子で体を暖めたはいいが体は震え続ける。

 おそらくは緊張と恐怖、興奮で自然とそうさせたのだろう。


「来い……早う出て来い!」


 弥太郎が雪鰭を追う理由は単なる好奇心ではない。

 村では、数年前に雪鰭の襲撃によって何隻もの漁船が沈められ、大勢の仲間が命を落とした。

 その中には、当然として弥太郎の父親も含まれていた。


「儂がおっとうやみんなの仇を討つんじゃ、絶対に討つんじゃ」


 あの日、父は漁に出たまま帰らなかった。

 次の日、海岸には無残に砕かれた船の残骸と雪のように白く染まった魚の鱗がいくつも散らばっていた。

 それ以来、弥太郎の胸には復讐の念が燃え続けていたのである。


「誰もやれないなら、儂がやるしかない。お釈迦様、お釈迦様、どうか儂を見守ってくんろ」


 弥太郎は祈りながら銛を握りしめた。

 これまで何人も雪鰭を仕留めようと海に出た。

 村で一番の漁師も、力自慢も――中には噂を聞きつけた怪しげな水軍崩れ、宮本武蔵のように名を上げようとした剣客もいた。


 しかし、誰一人として海から戻るものはいなかった。

 やがて村の者達は雪鰭を恐れ海に出るものはおらず、その日を暮らすために他所からの援助や、わずかな畑作物に頼るしかなくなった。

 漁師村としての誇りを失い、かつての活気は消え、荒廃が進むばかりであった。弥太郎はそんな村の惨状を見るたびに胸を掻きむしられるような思いをしていた。


「おっとう達の仇を討ちたい、おっとうが生きていた頃の村を取り戻したい」


 その一心でこの賭けに出た。

 村の者達は誰もが止めたが、弥太郎の決心は固く止めようもなかった。

 海に出る前、弥太郎は願掛けに村近くの寂れた古寺に何日も籠った。

 そこで弥太郎はどこで手に入れたか捕鯨用の銛を磨ぎ、仏像に向かい祈り続け、今日という日を迎えたのである。


「風も……波も……止んだ……」


 これまで荒れ狂っていた海の風も波を止んだ。

 嵐の前の静けさとはこのことだろう、弥太郎は息を飲み込むと銛を構えた。

 弥太郎は気持ちを集中させ、ある僧侶との出会いを思い出していた。


「若者よ――そこまで真剣になる必要があろうか」


 いつものように仏像に祈り続ける弥太郎。

 気づくと後ろに僧侶が立っていた。


「命は一つぞ、粗末にするな」


 気配を全く感じさせなかった。

 その僧侶はみすぼらしい黒い袈裟を着ており、顔に刻まれた皺が示すような老い方をしていた。

 かといって、皺で顔がくしゃくしゃでもなく僅かばかり。年齢的には四十半ばくらいであろうか。

 手には錫杖が握られ、静かに老木のように立ち続けていた。


「お、お坊様は誰じゃ? どこから来たのじゃ?」


 弥太郎の問に僧侶は静かに答えた。


「儂は諸国を巡り仏道を極めようとしてるもの。それよりもお主から並々ならぬものを感じる――全てを申してみよ」


 弥太郎はこの僧侶の存在に怪しみながらも、全てを打ち明けることにした。

 どうにも、この僧侶を見るだけ、話すだけで心が落ち着くような感じがしたからである。


「なるほど雪鰭か……お主はその妖魚を倒したいと……その銛で仕留めたいと……」


 僧侶は暫く考え込みながら、弥太郎にこう述べた。


「その決意はわかった。しかし弥太郎よ、ただの銛では妖魚には立ち向かえぬぞ」

「そ、それはどういうことじゃ?」

「妖魚とはこの世ならざるもの。生き物と同じ理では倒せぬ。心と祈りを込めねば、それはただの鉄の棒に過ぎぬ」


 弥太郎は「はて」という顔をする。

 すると僧侶は己の額を指差した。


「雪鰭なる妖魚の額を狙え。他の部分は決して狙ってはいかん」

「額?」

「左様、そこが雪鰭の急所だ」

「急所……」

「一意専心の気持ちを込めて投げ込め。さすればお主の願いは叶う」


 僧侶は目を細め、しばらく弥太郎を見つめた後、手にしていた錫杖を軽く振った。

 どこからともなく鈴の音が響き、周囲の空気が変わるのを弥太郎は感じた。


「この錫杖の音を聞くがいい、そして心を澄ませるのだ。己を信じるのだ弥太郎よ」


 弥太郎は言われるがまま目を閉じる。

 鈴の音は静かでありながら、不思議と胸の奥を揺さぶる響きがあった。


「お、お坊様?」


 音色が終わり、弥太郎が目を開けると僧侶はいなくなっていた。


(来る……何かが来る……)


 海の上では、弥太郎が何かが迫るのを感じとっていた。

 おそらくは念願の彼奴――。


(雪鰭!)


 巨大な妖魚が現れる気配を感じる。

 すると海面が突然、冷たく静まり返った。

 嵐の中で荒れ狂っていた波が嘘のように収まり、鈴のような音が遠くから微かに聞こえる。

 弥太郎は息を飲み、銛を構える手に力を込めた。船の下から異様な気配が漂ってくる。

 それは重く、冷たく、魂を凍らせるようなものだった。

 突然、水面に巨大な白いヒレが現れた。

 それはまるで雪の結晶が舞い上がるように輝き、海を照らすかのようだった。


「来たな……化け物め……!」


 弥太郎はその目で見据える。

 次の瞬間、水しぶきを上げながら、雪鰭がその全貌を現した。


(……大きい……なんという大きさじゃ)


 雪鰭は想像を超えた大きさだった。

 全身が雪のように白銀に輝き、ヒレはまるで氷の刃のように鋭い。

 特に額の中央には、一際目立つ深い青い模様が浮かび上がっていた。

 それは僧侶が教えた『妖魚の急所』であると弥太郎は直感的に理解した。


「くっ……」


 雪鰭の瞳が弥太郎を捉える。

 その目には哀しみと怒りが混ざり合い、深海の底を覗き込むような不気味さを秘めていた。


「雪鰭……お前……」


 銛は一本しかない、外れば終わる。


(心を澄ませよ――祈りを込めよ――)


 僧侶の言葉が弥太郎の脳裏に浮かぶ。

 弥太郎は深呼吸をし、震える手を鎮める。

 迫りくる雪鰭を静かに見据えた弥太郎は意を決して――。


「やあッ!」


 弥太郎は(なげう)った。

 祈りを込め、力の限り放った銛は一直線に雪鰭の額を目指す。

 銛は深々と雪鰭の額に突き刺さった。

 妖魚はその場で動きを止め、一瞬の静寂が訪れる。

 だが次の瞬間、雪鰭は激しく暴れ出し、巨大な波を巻き起こした。


「ぐっ……!」


 弥太郎は波に揉まれながら船にしがみついた。

 雪鰭の目が弥太郎を見つめる。

 その瞳にはただの怒りではない、何か訴えるような感情が宿っていた。


「お前は……人間に怒っているのか……?」


 弥太郎がそう呟いた時、雪鰭の暴れは次第に収まり、ついには海の底へと沈んでいった。

 静まり返った海の上で、弥太郎は船にしがみついたまま呆然としていた。

 雪鰭は波間に沈み、その巨大な影も完全に消え去っていた。

 しかし、弥太郎の胸の中には奇妙な空虚感が広がっていた。


「終わった……」


 弥太郎はしばらくの間、凪いだ海を見つめていた。

 その静寂を破るように、遠くから聞き慣れた鈴の音が聞こえてきた。

 それはいつか聞いた錫杖の音色――。


「見事であったぞ、弥太郎よ」


 僧侶の声であった。

 呆気に取られたものの、弥太郎はその声を聞き続けた。


「だがな弥太郎よ。雪鰭は人間が自然への感謝を忘れ、無闇に魚の命を奪い続けたことで妖魚と化したことも忘れないで欲しい」

「わ、儂らが?」

「そうだ。しかし、そのことでお主の父も、他の者達も命を失ってしまった――それはそれで許されぬことだ」


 僧侶の声は静かに続いた。


「人と自然は共に生きるべきもの。しかし、人は時にその関係を忘れ、奪うだけの存在になることもある。雪鰭は、その歪みが生んだ悲しき存在だったのだ」


 弥太郎は胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。

 復讐のために銛を投じたが、雪鰭の瞳に宿っていた感情が怒りだけではなかったことを思い返した。


「では……儂は間違ったことをしたのか……?」


 弥太郎の問いに、僧侶は答えた。


「否、お主は正しい。雪鰭の命を止めたことで、妖魚としての苦しみを終わらせたのだ。だが、それだけではない。お主の祈りと覚悟が、雪鰭の呪いを解き放った。儂はそれを確信しておる」


 僧侶の言葉に、弥太郎は少しだけ救われた気持ちになった。


「しかし、お坊様は一体……」


 姿なき僧侶に弥太郎は尋ね、


「古寺を立て直し、雪鰭を供養して命の輪を繋ぐ場所とせよ。お主の祈りは村だけでなく、海の生き物全てを救う道となるであろう。それがお前の父親を含め、海で死んだ者の鎮魂となる――」


 と力強く答えた。

 弥太郎は頷くと、僧侶の声は波間に消え去っていく。


「儂は……」


 その瞬間、弥太郎は海の彼方を見つめた。

 不思議と胸に宿った迷いが消えたように感じている。


「全ての命のために祈る寺を……」


 村に戻った弥太郎は、後に古寺を『白鱗(はくりん)寺』と名付けそこの僧侶となった。

 以降、冬の海が静まり返る夜。

 村人達は波音に混じって鈴の音を聞くと言われている。

 それは村と海の命を、お釈迦様が見守っているからだと言い伝えられている――。

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