3.4
教室の空気が、少しだけざわついていた。
「……え、また?」
「さつき、今週ずっと休んでない?」
「体調不良って言ってたけど……ちょっと前にほのかちゃんと話してなかった?」
「関係あるの、それ……?」
ざわつく会話の断片が耳に届くたび、俺の指先が無意識に机の端をトントンと叩いていた。
南雲さつきが学校に来ていない。今日で三日目だ。
体調不良だと担任は言っていたけど、どこか腑に落ちない。
考えたくない。
でも、ふとよぎる。
──あの日、ほのかとさつきが“話していた”こと。
──その後、ほのかが言った「心配しないでね」という言葉。
──そして今、このタイミング。
まさか、な。
「ハルくん」
そんな不安を払うように顔を上げると、目の前にはいつもの笑顔。
七瀬ほのかが、俺の机に身体を預けて覗き込んでくる。
「ちょっと、いい?」
「……あ、ああ」
断れるはずがない。
席を立ち、ほのかと一緒に廊下へ出る。
他の生徒の視線を少しだけ感じながら、俺たちは空き教室へと足を運んだ。
⸻
「ねえ、ハルくん」
誰もいない教室の中、彼女はぽつりと呟いた。
「最近、元気ないよね」
「……そうか?」
「うん。わかるよ。……だって、ずっと見てるもん」
視線を合わせたその瞳に、一瞬だけ“熱”が宿ったように見えた。
「もしかして、さつきさんのこと……気にしてる?」
「……いや、別に。何で急に……」
「ふふっ。そっか、ならよかった」
彼女は胸に手を当て、ホッとしたように微笑む。
その仕草は完璧に可愛らしくて、違和感なんてなかった——はず、だった。
「ねえ、お願いがあるの。これから、放課後の帰り道……遠回りしてもいい?」
「遠回り?」
「うん。川沿いの道、混んでて嫌なんだよね。できれば、もうちょっと……人が少ない方がいいなって」
「……別に構わないけど」
「やった」
嬉しそうに笑う彼女の横顔に、なぜか小さなひっかかりが残った。
“あの道”が嫌なのは、前にさつきと話していた場所だったからじゃないか。
いや、考えすぎだ。
たまたまだ。偶然。きっと。
⸻
その夜、帰宅してスマホを開いた。
《七瀬ほのか・感情パラメータ更新》
【独占欲:83 → 86】
【嫉妬:21 → 25】
【依存:81 → 84】
操作していないのに、数値が微妙に上がっている。
「……マジで?」
さつきが姿を見せなくなってから、何もしていない。
むしろ、ほのかとは“普通に”会話してるだけのはず。
それなのに、この上昇。
いや、違う。
数値じゃない。感情だ。
彼女が俺に依存し、嫉妬し、縛りつけようとしてる。
それはつまり、俺の“操作”が効いているということじゃないか?
「よし……いい感じだ」
思わず独り言が漏れた。
明日は、【愛情】を+1、【嫉妬】を据え置きにしよう。
あまり急激に動かして壊れたら困る。
あくまで、ゆっくり。自然に。
彼女が“自分から俺に依存するように”。
そう、これは恋愛じゃない。
これは調教だ。
⸻
翌朝。
教室に入ると、隣の席のほのかがこちらを見上げた。
「……おはよう、ハルくん」
「お、おう」
いつも通りの笑顔。
なのに、なぜか“何か”が足りないような気がした。
──それが、“感情”なのか、“理性”なのか、はっきりとはわからなかったけど。
「昨日さ、家に帰ってからね、アルバム見てたの」
「アルバム?」
「うん。小学校の頃の。懐かしかったよ」
懐かしそうに話すその声に、ほんの少しの湿度が混ざっていた。
「ハルくんって、昔から変わらないね。真面目で、ちょっと照れ屋で、人に優しくて……」
「……そんなことないけど」
「でも、私にはわかるよ。だって、ずっと見てたから」
その言葉に、またぞくりと背筋が震えた。
ずっと見てた。
どこまで? いつから? どこまで知ってる?
けれど、口には出せない。
「……ありがとな」
「ううん。……こっちこそ、ありがとう」
彼女は静かに笑う。その目が、優しく、どこまでも深かった。
まるで、底の見えない湖のように——。
廊下を歩いていると、誰かの視線を感じた。
ちら、と横目で見やる。
階段の踊り場に立っていたのは、二組の男子、生島。
俺と目が合うと、彼はふっと視線を逸らし、誰かと何かを話していた。
その隣には、もう一人の男子。確か、さつきと同じクラスだったはずだ。
──なんだよ。別に悪いことしてねえけど。
目を逸らした瞬間の、妙な“気まずさ”だけが喉に引っかかる。
「ハルくん、どこ見てるの?」
背後から、ふわりと香る甘い匂い。
七瀬ほのかが、何もなかったように微笑んでいた。
「……いや、別に」
「ふーん? 最近、よく周りを見るね。私より、気になる?」
「そんなわけないだろ」
「そっか。……よかった」
彼女の指先が、俺のシャツの袖をつまむ。
教室の中ならまだしも、ここは廊下だ。周りに人もいる。
「おい、やめ──」
「……嫌?」
小さく囁かれたその声に、言葉が詰まった。
甘くて、でも、妙にひやりとした響き。
優しいはずの笑顔が、まるで“境界を確かめる”ように感じられた。
⸻
その日の放課後。
帰り道は、彼女の希望通り、人通りの少ないルートを通った。
住宅街を抜け、工事途中の空き地の横を歩く。
ちょっと人気がなさすぎて、内心落ち着かない。
「この道、静かでいいね」
「……そうか? ちょっと寂しくないか」
「でも、ハルくんと二人ならいいの。誰にも邪魔されないから」
「……」
「ねえ、誰にも邪魔されたくないって思わない? 大事なものが、自分だけのものでいてくれたら、って」
彼女の声は静かで、いつも通りだった。
なのに、その言葉は、喉の奥にねっとりと絡みついた。
“邪魔されたくない”。
その言葉を、今このタイミングで使う意味を、考えたくなかった。
⸻
帰宅後、アプリを開く。
《七瀬ほのか・感情パラメータ更新》
【独占欲:86 → 88】
【嫉妬:25 → 30】
【依存:84 → 86】
……また上がっている。
しかも、俺が操作していないのに。
「……何が……?」
自動反応なのか? それとも、バグか?
今までと違って、明らかに数値が“俺の意図しない方向”に進んでいる。
でも、怖さよりも、まず感じたのは、変な安心感だった。
ほのかは、俺に執着してくれている。
それが“自然発生的”なものなら、なおさら理想じゃないか。
自分から、俺に染まってくれる。
自分の意思で、俺を欲しがってくれる。
そう思うと、背中がぞくりと震えるような陶酔感に包まれる。
もっと、深く。
もっと、強く。
彼女を“俺だけのもの”に——
⸻
次の日。
教室に入ると、数人の女子が俺の方を見て、ひそひそと話しているのが見えた。
「え、マジで?」
「……ほのかちゃんって、ちょっと変わったよね」
「前は誰にでも優しかったのに……」
聞こえるか聞こえないかの距離で、明らかに俺の方を意識して話している。
俺は、何も言わず席に座った。
と、その隣で、ほのかが笑った。
「……何か言われた?」
「別に」
「ふーん……気にしないで。どうでもいい人たちの話なんて」
その言い方が、ひどく冷たくて。
俺は、目の前の彼女をまじまじと見つめてしまった。
「……ほのか」
「なに?」
「……いや、なんでもない」
口にしかけた言葉を飲み込む。
“お前、前はもっとみんなに優しかったよな”
そんなこと、言えるわけがなかった。
なぜなら、今の彼女は——
俺の望んだ“理想の彼女”そのものだったから。
誰よりも優しくて、誰よりも俺を見ていて、誰よりも俺を大事にしてくれる。
だからこそ、怖いくらいに美しく、どこまでも手放せない。
⸻
放課後、アプリの挙動が一瞬だけ乱れた。
画面の更新時、【嫉妬】の数値が「■■」という表示になり、強制的にリロードされた。
すぐに正常な画面に戻ったけど、気になることが一つ。
そのとき、一瞬だけ“別のアバターアイコン”が表示された。
見覚えのない、黒髪のシルエット。
「……?」
誰かの設定画面が混線した?
まさか、別のユーザーが存在してるとか?
いや、そんなはずはない。
俺だけの、俺だけのアプリで……。
考えたくなかった。
だから、すぐに画面を閉じた。
⸻
その夜。
彼女からメッセージが届いた。
【七瀬ほのか:ねえ、明日って、空いてる?】
【七瀬ほのか:ふたりきりで、どこか行きたいな】
【七瀬ほのか:……ダメ、かな?】
まるで、誰かに取られる前に、自分だけのものにしたいかのような誘い。
俺は、すぐに返信した。
【行こう。どこでもいい。君と一緒なら】
そのときの俺には、まだ自分がどちらの手の中にいるのかなんて、考える余地もなかった。