第98話「ぼくの中にいるのは、だれ?」
ある日突然、自分じゃない“だれか”が、自分の体を動かしていたら――。
「意識の乗っ取り」なんて現実じゃ起こらないと思っていたけれど、
ぼくはあの夜、アスと話していて、ぞっとしたんだ。
もしかしたら、自分のなかの“ぼく”は、ただの借り物かもしれないって。
アスの家の仏間で、ふたりで座っていた。
静かに雨が降っていた夜。
「アス。ねえ、もしさ――ぼくの中身が、べつの人になってたら、アスは気づく?」
タケルの声に、アスはちょっと目を細めて言った。
「どうしたの急に。入れ替わりネタ?」
「ううん…違う。“ぼく”がそのまま残ってるように見えて、でも、なかみは知らない人になってるって話」
アスは、ちょっと黙ってから言った。
「それ、“脳移植”の話だよね。『ゲット・アウト』って映画、観た?」
「YouTubeで解説だけ見た。こわい話だった…人の中に入っちゃうやつでしょ?」
「そう。脳だけじゃなく、“意識そのもの”を乗っ取る。見た目はその人のまま。でも中身はべつの誰か。本人は深い意識のなかで見てるだけ。」
「ねえ、アス。もしそうなったら…ぼくって、どこ行くの?」
アスは、畳の上で手を組んで、静かに答えた。
「難しいけど、“ぼく”ってのは、脳と体のセットでできてるものかもしれない。でも、意識だけを抜き出して入れ替えたら、それは…**“すり替え”**。」
「“すり替え”?」
「うん。自分の体に、他人が入って、そいつが“ぼくだ”ってふるまう。でも、もとの“ぼく”は、奥の奥に沈んでいって――」
タケルは思わず、自分の手をじっと見た。
「もしそうなってても、ぼくは気づかないのかな…?」
アスは、雨の音を聞きながら言った。
「ある哲学者が言ってた。“コウモリの気持ちは、コウモリにしかわからない”。
だから“他人の意識が入った自分”って、気づけない。だって、それが自分だって、信じこまされてるから。」
「……こわ。」
しばらく、ふたりとも黙った。
「ねえアス。そういうのって、ほんとに起きるの?」
「技術的には無理。でも…精神的には、似たことはあるかも。
洗脳とか、支配とか。あるいは、人が人を支配したいって欲望が、ああいう話を生んだんだよ。」
タケルは、深く息を吐いて言った。
「……自分の中に、べつのだれかが入るの、ほんとうに怖い。
でももっと怖いのは、それに気づけなくなることかも」
アスはうなずいた。
「だからこそ、“自分ってなんだろう”って問い続けることが大事なんだよ。
身体じゃなくて、心の奥の、自分自身の声を忘れないこと。」
タケルは、心の中でそっとつぶやいた。
「……ぼくの中にいるのは、ちゃんと“ぼく”だよね?」
「自分の中の“自分”って、ほんとうに自分なの?」
そんな問いにぶつかった夜の会話でした。
脳や意識が入れ替わる…そんなことが現実に起きるとは思えないけれど、
でもふと、自分の中にある“考え方”や“感じ方”が、
ほんとうに自分だけのものかどうか、不安になる瞬間があります。
他人に支配される恐怖だけでなく、
自分が自分でいられなくなる怖さ。
それはたぶん、どこかに本当に存在する恐怖なんです。




