第12話「ふれてる きみ」
「現実」って、なにでできてるんだろう?
夢のなかでは、ふつうに歩けるし、だれかと話せる。 でも目が覚めたら、それは「なかったこと」になる。
じゃあ、起きている今は「ほんとう」?
きみと手をつないだ、この感覚が、ほんとうじゃなかったとしたら?
ふれる、ということ。
それが、現実のすべてなのかもしれない。
夏休みの終わりごろ。
タケルは、昼寝から目をさましたとき、こんなことを思った。
——あれ? 夢でアスと遊んでた気がする。
でも、ふと横を見ると、ほんとうにアスがそこにいた。
「……え? いたの?」 「いたよ。さっきからきみ、寝ながら笑ってた」
夢と現実のつづき目みたいな不思議な気持ち。
「ねえアス、夢の中のぼくと、起きてるぼくって、ふたりいるのかな」
アスは少し考えて、うなずいた。
「うん。夢のきみは、夢の中で“ほんとう”に生きてる。だから、そのとききみは、ふたりいる」
「でも、夢ってほんとうじゃないよね?」
「それは、“起きてるぼく”がそう思ってるだけじゃない?」
タケルは、ちょっと黙った。
「……でも、夢の中って、走っても疲れないし、なにか食べてもおなかふくれないし。だから夢だってわかる」
「それ、逆じゃないかな」
「逆?」
「現実だと、走ったら疲れる。だから“現実”って感じる。 誰かにひどいこと言われたら、心が痛い。だから“現実”だって思う。 つまり、“つらい”っていう感覚が、現実のしるしかも」
「つらさが、現実……?」
そのとき、廊下の向こうから、兄ちゃんの声が聞こえた。
「おーいタケル、昼ごはんのカレー残ってるぞー」
いつもの声。 いつものにおい。 いつもの味。
でも、それって“ほんとう”に触れてるんだろうか?
タケルは、ふと弟のことを思い出した。
——あの子は、言葉を使わないけど、ちゃんとふれていた。 声じゃなく、目じゃなく、感覚で世界とつながってた。
そしてもうひとつ。
——ぼくが寝ているあいだ、寝ているぼくは、だれかが見てないと“いない”のかもしれない。
でもアスは、そんなときでも、そっとそばにいてくれる。
「……ねえアス。ぼくが夢の中にいるときも、アスはぼくを見ててくれる?」
アスは笑ってうなずいた。
「ぼくが見てなくても、きみは“そこにいる”って、ちゃんとわかるよ」
タケルは、目を閉じた。
さっきまで見ていた夢のなかのアスと、となりにいるアス。
ふたりは、どちらも“ふれている”気がした。
それが、たしかな“ほんとう”に思えた。
ふれる、ということ。それは、見たり聞いたりよりも先にある、大切な感覚なのかもしれません。夢の中の自分も、現実の自分も、どちらも“感じて”いるのなら、そこにはちゃんと命がある。タケルの問いは、もしかしたら仏教や宗教の「存在とは何か」への入り口だったのかもしれません。