第82話 「もうひとり、いたんだ」
人から見られることで、自分は「ここにいる」と思う。
でも、もしその「見られた自分」が、自分の知らないところに現れたとしたら……?
これは、“見られたぼく”の話。
「なあ、昨日、うち来た?」
と、ヨウスケが言ったのは、月曜の朝だった。
「行ってないよ。なんで?」
「おれの母ちゃんが、タケルが階段あがってくの見たって。昼くらい」
「……行ってないってば」
ぼくは笑ったけど、少し、背中がぞわっとした。
午後には、先生に呼ばれた。
「昨日の午後、学校の裏の林、誰と歩いてたの?」
「え?行ってません」
本当に知らない。図書館にいたはずだ。
「そう……でも先生、見かけた気がして」
ぼくの中で、何かが静かに揺れた。
“ぼくじゃない誰か”が、ぼくの顔をして歩いている――
その日の放課後、アスに話すと、目をきらきらさせながら言った。
「ウィグナーって人がさ、面白い話しててさ」
「え?ウィグナーが…それだれ?」
「科学者。ある人が誰かを見たとする。そのとき“そこにいた”ってことが確定する。でも本人がそれを知らなかったら……その確定した“誰か”は、本人とは別かもしれない」
「え……?」
「つまり、人に見られた“タケル”は、タケルじゃないかもしれない。でも、“見た人”の中では、本物として残る」
「ぼくの顔して、勝手に現れてるってこと?」
「うん。で、記憶の中に住みつくの。だってその人にとって、それは“本当”だから」
ぼくは言葉が出なかった。
その夜、夢を見た。
知らない街の道を、制服を着た“ぼく”が歩いていた。
近くの窓から、大人が見ていた。
「あら、タケルくん……」
“ぼく”は、気づいてにっこり笑った。
その笑顔が、ぼくのものじゃない気がして、目が覚めた。
次の日、学校の裏の林にひとりで行ってみた。
午後の光。鳥の声。風。誰もいない。けれど、ふと感じた。
足音。
自分のとは別の。少し前を歩いてる。
そいつは、ぼくの背中を見ている気がした。
振り返っても、誰もいない。
でも、確かにいた気がする。
“もうひとりのぼく”が。
人の目の中に生まれて、どこかを、ひとりで歩いてる。
――そして今も、
誰かに思い出されるたびに、どこかで歩き出すんだ。
「……アス」
「うん?」
「それって、勝手に増えてくのかな。“ぼく”が」
アスは小さく笑って言った。
「うん。かもね。ぜんぶ、人の記憶の中でね」
ぼくは空を見た。
その中で、誰かがこっちを見てる気がした。
“ぼく”なのに、ぼくじゃないやつが。
――ぼくは、本当に、いまここにいるんだろうか。
誰かの目が、“ぼく”を見たとき――
そこにいたのは、ほんとうに「ぼく」だったんだろうか。
存在は、いつも確かなようで、
記憶や視線のなかで、じわりとゆらいでいる。
この世界には、
「ぼくの顔をした、ぼくじゃない何か」が、
静かに歩いているのかもしれない。
そしてそれは今日も、
誰かのまなざしのなかで、生まれている。




