第78話「みずを あげたのは だれ?」
このお話は、ぼくたちが「なんで今つらいの?」と思ったとき、もしかしたらずっと前の“なにか”が関係してるのかもしれない、そんなふしぎな話です。
でも、それは「運命だからしかたない」ってことじゃなくて、「今、どうするか」で、新しい芽を出せるかもしれないってことでもあります。
春の放課後。タケルとアスは、校門の前で並んで歩いていた。空には、まだ明るい夕方の月が出ている。
「アスって、花とか育てるの好きなの?」とタケルが聞く。
「うーん……タネのほうが好き」とアス。「まだ、なにも見えてないってとこが、いい」
「やっぱよくわかんないな……」
次の日、アスはポケットから小さな紙袋を出してきた。中には黒くて小さいタネがいくつか入っている。
「このタネね、前に拾ったんだけど……もしかしたら、前のぼくが落としたタネかもしれない」
「また、むずかしいこと言ってるなー」
教室の隅で、ふたりはタネを見ながら話を続けた。
「ねえ、タケル。ライフが終わっても、次のステージがあるゲームって、楽しい?」
「うん。なんかトクした気分」
「でも、人生だったら? 全部忘れて、生まれ変わったら?」
「うーん……それ、もうオレじゃないよ」
「でも、もしその“忘れたオレ”が、すっごく苦しかったら?」
「……それって、気の毒だけど……オレにはわかんないよ」
アスは笑った。「たぶん、みんな、そう思ってる」
放課後、ふたりは校庭のすみにある、空き花だんにやってきた。アスはしゃがんで、タネを土に入れる。
「たとえば、このタネが“前のぼく”の行いだったとしたら」
「うん」
「それに水をあげるのは、“今のぼく”だよね」
タケルは少し考えてから言った。
「……じゃあ、芽が出てきたら、その花は、前と今、両方のぼくが育てたってことか」
「そういうこと」
その夜、タケルは不思議な夢を見た。
見知らぬ町。見知らぬ人たちが泣いている。だれも、なにがつらいのかわからない。
その中で、ひとりの女の子がタケルに言った。
「あなたが、水をあげたからよ」
タケルは、はっと目をさました。心のなかに、もやもやした気持ちがのこっていた。
次の日、学校の花だんを見ると、小さな芽が出ていた。
「アス……なんか変な夢見た」
「うん。ぼくも」
「アス……もし、今つらいことがあるとしたら、それって“前の自分”がやったことのせいなのかな?」
「そうかもしれない。でもね、ぼくたちには、“今は水をあげない”って選ぶ自由もある」
タケルは小さくうなずいた。
「……つまりさ、記憶がなくても、タネはタネなんだね」
「うん。でも、そのタネが咲くかどうかは、“今のぼく”がきめられる」
「……だったら、ぼく、ちゃんと生きなきゃな」
アスはふっと笑って言った。
「そう思った時点で、もう水をあげなかったってことかもね」
このお話は、仏教の「因果」の考えと「輪廻」の苦しみ、そして“今”という瞬間の自由について描いたものです。
仏教では、過去の行いが未来に芽を出すとされます。それは目に見える結果だけでなく、心の傾向や無意識の反応、日常の小さな「なぜかうまくいかない」にもつながっていると考えられています。
子どもたちは「なんで苦しいのか」「なぜこうなったのか」と感じることがあっても、それが前世からの影響かどうかなど、証明するすべはありません。けれども――
「いま、このタネに水をあげるかどうか」は、今ここにいる私たちにゆだねられています。
過去に起きたことすらも、新しい選択で塗り替えられる。仏教はその希望を同時に語っているともいえるでしょう。
この物語をきっかけに、「見えない原因」「知らないうちに自分が育てているもの」にも、やさしいまなざしを向けられると素敵ですね。




