第74話「時のないところへ」
もし、時間が「どこかで始まった」ものだとしたら、その前には何があったのだろう? 宇宙の始まりと終わりをめぐる問いに、ホーキング博士は「時のない場所」という答えを残しました。 今回は、そんな“はじまり”の不思議に、タケルとアスが静かにふれていきます。
その日、タケルとアスは放課後に図書館へ寄った。 夏の終わりのような、まだ暑い風が吹いていた。
タケルは科学の棚の前で立ち止まった。 一冊の本に目がとまる。『ホーキング博士の時間論』
「アス、これ……読んだことある?」
アスはとなりに立ち、うなずいた。 「“宇宙には、はじまりがあるけど、“前”はない”って話、知ってる?」
「前がないって、どういうこと?」
アスは本を開き、イラストのページを見せた。 「ほら、宇宙を風船にたとえてる。膨らんでいくと、過去が中心にあって、未来が外に広がる。でも、その中心……“はじまり”は“点”じゃなくて、境界がない“丸み”なんだって」
「……時間に“始まり”があるけど、そこで終わってる? じゃあその前は?」
アスは少し笑って首をふった。 「その“前”が、ない。時間じたいが、そこから生まれたっていう考え方。だから、時間の外には、時間がない」
「……なにそれ、こわい」
ふたりは図書館の奥の冷たい読書机の向こうで、世界の端について考えこんでいた。
タケルがぽつりとつぶやく。 「ねえ、アス。ぼくらが生まれる前も、こうやって“なにか”はあったのかな?」
アスは少し考えてから言った。 「“ぼくら”がいないと、“時間”も始まらないって考え方もあるよ。観測するものがいなければ、“時間”も“世界”も、存在しない……っていう」
「それ、シュレーディンガーの猫みたいだな」
「うん。ホーキング博士も、観測が宇宙を決めるって考えてた。“時間のはじまり”も、誰かが“ある”って決めたときにはじめて存在するって」
タケルはふと、前に兄ちゃんが話していた言葉を思い出す。
「“仏教では、始まりも終わりもない円環の時間を考える。生も死も、同じ円の中のひとつの点にすぎない”……って兄ちゃんが言ってた」
アスは静かに目を細めた。 「円の外には、なにもない。ただ、回ってる。それって、時間がない場所に似てるね」
図書館の外、夕日が窓に差し込んできた。 二人の影が、ページの上に長くのびる。
タケルはそっと言った。 「“時のないところ”って、こわいけど、ちょっと落ち着くかも」
アスもうなずいた。 「うん。なんにも決まってなくて、なにも始まってない場所。そういうとこから、なにかが始まるのかもしれない」
そしてふたりは、またページをめくった。
ホーキング博士が提唱した「無境界仮説」や「時間の始まり」は、宇宙物理学の最前線にして、子どもの好奇心にもぴったりのテーマです。 “時のないところ”は、恐ろしくも静かな場所。でも、そこに耳をすませることで、いま自分が“ここにいる”ことの不思議さが、少し見えてくるのかもしれません。




